「結局一対三プラスアルハーにて秋田勢の功名を為すに至れり」。1915年、大正4年の8月、初めて開かれた「全国中等学校野球大会」の準決勝で、早稲田実が秋田中に敗れたことを伝える東京朝日新聞の記事だ。それから回を重ねて88回、ついに夏の大会での優勝をなしとげた。
4連投となったエースの斎藤君は、昨日の再試合でもほとんど乱れなかった。本塁打2本を浴びたが、踏みとどまった。小憎らしいほどの落ち着きぶりだったが、優勝を決めた後には目をしばたたいた。
栄冠涙あり。この言葉そのままの姿だった。試合後には、王貞治氏ら歴代の先輩ができなかったことを成し遂げた喜びを口にしつつ、試合に出られなかった部員や支えてくれた多くの人々への感謝を述べた。
「都のいぬゐ早稲田なる 常磐の森のけだかさを わが品性の姿とし……」。相馬御風作詞の校歌が流れる。夏の大会への出場27回目にして手にした優勝の喜びはどれほどか。あきらめずに力を尽くして、念願の座に到達した。
準優勝となった駒大苫小牧チームも、ほぼ互角に戦った。打者に立ちはだかるエースの田中君を中心に、高校野球の頂点を早稲田実と二度までも競い合い、多くの人の胸を熱くしたことを誇りにしてほしい。
「晴れたり この空 この我が駒澤 漲(みなぎ)る緑は光と渦巻く……」。テレビでは、北原白秋作詞の校歌は流れなかった。しかし、昨日の甲子園に敗者は居なかったという思いから、一節を掲げた。斎藤・牛若丸と田中・仁王。そんな伝説を残して甲子園の夏は終わった。
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