新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-14 20:28:52 | インポート

         69年前の夏の記憶 

      予科練に憧れ、陸軍幼年学校に

 1931年、日中戦争発端となった盧溝橋事件の年に生まれました。1941年、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は小学6年生、すっかり軍国少年が出来上がっていました。音楽の時間にオルガンを弾く若い女性教師に、「軍歌を教えて・・・」と、強く迫ったことを、不思議なくらい、はっきり覚えています。教師は、民謡や小学唱歌を続けるだけで、最後まで軍歌を弾いてはくれませんでした。

 旧制中学1年になると、海軍軍人だった体操の教師に、実戦の話を強要しましたが、彼は実戦の経験はありませんでした。 

 ある日の朝礼で、海軍飛行予科練修生(通称・予科練)になった先輩が、七つボタンの白い軍装で、壇上に立って勇ましい話をしました。もう頭の中は一時も早く軍人になることしかありませんでした。

 たまたま、ある教員から、陸軍幼年兵学校の入学試験があると聞いて、躊躇なく前橋市の試験場に向かいました。

 しかも、早朝からの空襲警報発令で、試験開始が1時間も遅れました。第1次試験合格、しかし、第2次試験は、激しい空爆、そして終戦の末、ついに行われることはありませんでした。 


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-10 16:03:08 | 日記・エッセイ・コラム

Photo     69年前の夏の記憶 ⑥

 八百屋のコーちゃんに召集令状

  戦線は、いよいよ拡大し、従弟に召集令状、そして5軒隣の八百屋のコーちゃん(20歳)にも、町役場の吏員が、召集令状を届けにきました。所謂”赤紙”と云われた「徴兵令」で町内中の人々が、彼の家の前で「万歳」を繰り返し叫ぶ中、二人の幼い妹は泣き叫び、母親は何が起こったのか、おろおろすばかりで、それは悲壮なものでした。

 渋川駅に動員された学童等大勢が整列して、数名の出征兵士とともに、日の丸の旗を振るなか送り出されていきました。

 少し離れたところで、凛とした赤十字看護婦の正装をした若い女性が、1人佇んでいる姿にみとれていましたが、見送る人は1人もいませんでした。 

 ”従軍看護婦だ“と思いました。おそらく野戦病院に赴くのだろうと、この姿は今も目に焼きつき、想いだしては胸を熱くし、生涯忘れることはありません。

 あとで、赤十字看護婦に「戦時召集」というのがあることを知りました。しかし、 どの辞典にも「従軍記者」はあっても「従軍看護婦」は記載されていませんでした。

 


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-07 09:11:48 | インポート

      69年前の夏の記憶 ⑤

     1945年夏 8月5日の空爆 

 5日夜半から6日未明まで続いた、県都・前橋市街中心部への空爆は、B29爆撃機92機の大編隊で、さらに凄惨なものでした。投下されたM69焼夷弾の量は729トン。2万9000戸のうち、1万1000戸以上が焼失、市街の80%が焼失し壊滅しました。

  死者532人。負傷者600人。

 木と紙でできた日本家屋を標的にするには、M69焼夷弾は、どのような爆弾より効果的でしょう。

 6日の朝になると、前橋の被災者が、なかには焼け焦げた衣服の男性が、手に荒縄で縛った釜の木の蓋をぶら下げて前橋から10数キロを、放心状態で歩いてきました。

 そしてこの日、テニアン島基地を飛び立ったB29爆撃機は、広島に原爆を投下しました。

 大本営発表は「敵は広島に新型爆弾を投下した模様・・・」と真空管ラジオで聞きました。この時ばかりは、さすがに「わが方の損害は軽微なり」とは言いませんでした。

 8月7日朝の青い空を、爆撃効果を確認するかのように、1機の爆撃機が悠々と偵察飛行をしていました。


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-06 08:30:20 | 日記・エッセイ・コラム

   69年前の夏の記憶 ④ 

    サブちゃんの69年忌Photo_3

  8月5日夜半の空爆で、渋川(町)に投下されたM69焼夷弾は48発、6角形の筒に、ねっとりした爆薬が充填され、垂直に落下するように、1.5メートルほどの帯が、何枚かついていました。

 このM69は、通常19の隔壁に38発が収納されています。

 ほとんどは 柔かな水田に突き刺さって不発でしたが、不幸にも民家5軒が全焼、死者1名、その1名が親友サブちゃん。経師屋の倅で、前橋の盲学校に通って、あんま針灸師を目指していました。 

 知らせを聞いたサブちゃんの姉のコトちゃんが、「サブローッ、サブローッ」と叫びつつ、着物の裾をひるがえしながら、裸足で走って行った声とその姿は、何年たっても耳に脳裏に焼きついています。

 投下された焼夷弾は、不発弾をはじめ警察官らによって集められ、警察署の庭に、小山のように積まれました。        


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-05 10:32:19 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_2    69年前の夏の記憶 ③

8月5日の空爆 サブちゃんの命日

 この日の夜半からマリアナ群島を飛び立った米軍B29爆撃機92機の大編隊が、1時間15分にわたって、M69焼夷弾を投下しつつ前橋市を空爆しました。

 南東の前橋市の方向には、大火災で真っ赤に焼けた空がみえました。

 そのうちの何機かが、ついでに渋川(町)を目標に飛来、50ポンド収束(親子)爆弾が300メートル上空で炸裂、M69焼夷弾48発が、ばらばらになって降り注ぎました。

  リヤカーに乗せた病気の母親と、幼い弟と3人で避難した里山から、それは花火大会のような光の尾を引いて落下するのを、ただただ呆然と眺めていました。いまでも生々しく目に焼き付いています。

 幸か不幸か、徹底した灯火管制によって、焼夷弾は、標的とした軍需工場や住宅地をそれて、そのほとんどが町外れの水田に落下し、突き刺さりました。

 その時、三つ年上の盲目の友人、サブちゃんは、町なかから離れた水田近くの親戚の家に避難していたのでした。