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心意気
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「只管打坐」「即心是仏」「生活禅」

2024年04月09日 | 宗教
🌸曹洞宗教えー只管打坐(しかんたざ)

 ☆何も考えず坐禅を組み作務を尊ぶことが仏の姿

道元は、修行と悟りはまったく同じと説いている
 ☆臨済宗と曹洞宗は同じ坐禅でも方法が全く異なる
 *臨済宗が坐禅と公案を組み合わせた「公案禅」「看話禅」
 *曹洞宗は只管打坐を勧める「黙照禅」
 ☆只管打坐とは、
 *何の意義も考えず、何の目的も求めず、悟りすら求めず、無条件で
 *ひたすら坐禅することを意味する
 ☆道元は、修行と本証(悟り)は一つのものとした
 *悟りを目的、修行を手段と考えるのは間違とした
 *本証妙修とは、仏道にひたすら打ち込むこと
 *仏のはからいのなかにある自己を自覚すること
 *自己という束縛から解き放たれたところに仏性があらわれる
 *つまり、即心是仏である
 ☆只管打坐を実践すると
 *自己の束縛から解き放たれ、身体の痛みも心の苦しみも抜け落ち
 *身心脱落の状態になる
 *身心脱落の状態では、何のこだわりもなく、自己も存在せず
 *意識も流れるままにまかせきっているので
 *自らの仏性(仏の心)がおのずとあらわれてくる
 ☆道元の大著『正法眼蔵』には、釈尊の教えを信じて実践すれば
 *貴賤、賢愚、男女の区別なくそれは誰でも極められる
 *焼香、礼拝、念仏、看経などではなく
 *一心に坐禅に打ち込むだけで
 *釈尊の教えを学びとれる と記している
 ☆釈尊の教えを学びとる唯一の方法だと、道元は説いている
 *曹洞宗の坐禅は悟りのための手段ではなく、悟りそのものと見なされる

日常生活も修行の一環
 ☆道元はまた、禅の修行は坐禅だけに限らず
 *日常生活のすべてが修行だとも説いている
 *日々の生活におけるすべてが仏道修行に通じている
 ☆この教えも道元の実体験に由来する
 *老いた禅寺の典座(炊事係)が干ししいたけを買いにやってきた
 *道元が「老人なのに修行せずに典座をしているのか」と尋ねると
 *「お主は修行というものが何なのかわかっていない」と大笑いした
 *道元はこの言葉の意味がわからなかった
 ☆後日、その典座が道元の寺を訪ねてきて
 *「日常生活のすべてが尊く、世界をありのままに見ることが修行だ」
 *というのを聞いたとき、道元の目は開かれた
 ☆即ち「生活禅」である
 *曹洞宗では洗面や食事の仕方、睡眠などひとつ一つの行為に
 *細かく修行の作法を定めている
 *それらの行為すべてが仏の教えであり、尊いものとされている
 ☆仏の教えにのっとり、仏のような正しい修行
 *浄らかに生活をしていること自体が、そのまますでに仏なのである
                          (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『比べてわかる!日本の仏教宗派』


「只管打坐」「即心是仏」「生活禅」
(「比べて分かる日本の仏教宗派」記事より画像引用)

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