goo blog サービス終了のお知らせ 

和色ムーブメント

シニアになって、今一度「ムーブメント」を感じる旅に出てみようか

16年前の手紙

2009年01月19日 | こんたく堵




「16年前の手紙」

前職場のK女史が会社に残っていた私宛の郵便物を持って来てくれました。
年賀状や暑中見舞に混じって、私の前に事業部長をしていたM氏からの手紙が
ありました。ずっと、家にあるものだと思っていたのですが ・・・ 実はその手紙、
16年前にマレーシアのクランタン州コタ・バルから届いたエアメールでした。


「話せば長いM氏との関係」

前職場(飲食店運営)には、約24年ほど前、一般社員の募集に応募して採用され、
店舗のオープニング厨房スタッフとして勤務したのが最初でした。その頃の私には
飲食業に対して理想の姿があり、その目指していたものと現場にギャップを感じて
1ヶ月余りで早々に退職しました。ただ、その開店時、ヘルプに来られていた業界
A社事業部のM氏と初めて出会いました。

その頃の私は、カラダ一つであちこち飲食店を渡り歩いていたのですが、
その現場を辞めた後に、M氏の事業部が居酒屋をプロデュースするということで、
お話を頂いて立ち上げにも携わりました。その後もお世話になっていたのですが、
丁度その年、実家の仕事が忙しく(人手が足りなく)なり、1年間という期限付きの
約束で、家業を手伝う為に地元へ一時帰ることに ・・・ そして、約束の1年が経過
して家業も落ち着いたので、私はまた大阪に戻ることにしました。

ただ流石に、その時にはもう子どもが二人に増えていましたので、そろそろ腰を
据えて取り組める仕事(職場)を探そうかと ・・・ まず、昔の同僚や友人に声を
掛けました。そこそこの仕事はあったのですが、やはり、1年前に戻るような内容が
多かったので少し悩み(凹み)ました。自分自身、これから何をすべきなのか ・・・
M氏に相談を兼ねて電話をしてみました。

“Mさん、何かええ仕事ないですか?” と私は尋ねました。“ええ仕事があるねん。
こっち(大阪)にまた出ておいでや!” とM氏は言いました。待ち合わせした場所は、
奇しくも私が1ヶ月で辞めた店舗でした。会って事情を聞くと、M氏はA社を退社して、
今はこの会社で事業部長をしているとのことでした。“それで、自分(私)に振って
もらえる仕事ってどこですか?” と聞くと、“ここ!” とM氏はほくそ笑みました。

一度辞めた会社なので、また ・・・ という不安が私にはありました。いきなり家族で
動くことに戸惑いもあり、とりあえず、単身で大阪に戻ることになりました。そして、
M氏(事業部長)に誘われるまま現場への初日 ・・・ 私はM部長に尋ねました。
“(私の仕事は)厨房ですか?” M部長は “店長やってや!” と軽く言うのです。
“店長なんかやったことないですよ!・・・” と私は困惑した表情になっていました。
“イケるよ。やってみて!” と、またM部長はほくそ笑むのです。

“(今までの)店長はどうしたんですか?” と聞くと、“自分(君)が今日から来るから
もう一つの店舗に異動させた” と平然と言い放ちました。私は唖然とするしかあり
ません。その後、私を呼び寄せた理由は、次の展開で惣菜店(デリカテッセン)を
M部長が開店させる計画があり、居酒屋部門(2店舗)の面倒を見れる人材を探して
いたということを知ったわけです。

ただ、何の実績もない私を店長にすることは、やはり無謀です。何せ、マネジメント
云々以前に、それまで、ほとんどの店舗で厨房担当でしたので、まともに接客を
したことがなかったのです。と言いつつ、計画を打ち明けられて期待された以上、
そして、何度もお世話になっているM部長と、以前、1ヶ月で辞めてしまい、結果、
ご迷惑をお掛けした社長や企画室長にも恩がありましたので引き受けました。

ビジネスホテルと店舗を行き来する生活が始まりました。当たり前ですが、全てが
一からです。店長業務をM部長が書き出してくれます。数日はホテルにも帰らず、
店舗で寝泊まりしながら自分なりに業務を消化し、1週間後、ようやく店舗全体と
店長業務の基本的な部分は把握できました。その間、M部長は揚げ場や洗い場に
入りながら、新米店長である私のサポートをしてくれました。

お客様やスタッフとの信頼関係に戸惑いながらも、何とか私の店長職も落ち着き、
もう1店舗の面倒も徐々に見れるようになってきました。そして、いよいよ、M部長が
惣菜屋(デリカテッセン)の立ち上げに着手する段階になったのです。実は、惣菜屋
を開店し、軌道に乗って数店舗を展開できる目途が立てば、採算ベースに達して
いなかった居酒屋部門を閉鎖する予定でした。私の仕事はそれまでの繋ぎであり、
落ち着けば次の職場へまた動くつもりでした。

開店の数日前、明らかにM部長の顔色が悪くなっていました。思ったような人材が
集まらず、全てをひとりで抱え込んで開店準備を進めていました。私と料理長は
その日から居酒屋の閉店後に手伝いに行くようになったのですが、その頃から
居酒屋の方は業績が上向いてきていましたので、惣菜屋の方に十分な支援が
できないまま開店の日を迎えました。M部長の疲労はピークに達していました。
料理長と私は早朝から入り、(居酒屋の仕込等の)時間の許す限り手伝いました。

惣菜屋を甘く見ていたわけではありませんが、予定(予測)と違うことの連続です。
売上の結果より、一つ一つの作業工程や仕込みのボリューム、タイミング、そして
商品やスタッフ管理などなど、今までの 「飲食」 のノウハウでは到底まかなえない
ような事例の連続です。その結果、居酒屋の何倍もの労力が要求される割りに、
収益性は非常に低く、運営状態は日に日に後退していきました。店舗撤退の判断
に時間は掛かりませんでした。ただ、私から提案する訳にはいきませんでした。

M部長は一人、責任をとる形で退社(退職)することを決めていました。私は毎日
のように、M部長と飲みに出掛けていました。そして、今後のことも話したのですが、
“俺のことは心配せんでええから、居酒屋の方とスタッフのこと頼むわ!” と残る
私たちのことばかり心配していました。そして、M部長は惣菜屋が成功した暁の
夢であったはずの海外移住(余生を過ごす)へ少しフライングで出発することに ・・・

数ヶ月後、マレーシアから私宛に手紙が届きました。その内容は、惣菜屋の件で、
私やスタッフに迷惑を掛けたことの謝罪、会社関係の方々にはまだ連絡ができて
いないでいること、そして、今の近況が綴られていました。当時のM氏とほぼ同じ
状態にある今の私が、この16年前に届いた手紙を16年ぶりに読み返しています。

当時には無かった感情が私の中に芽生えています。もちろん、当時も一生懸命に
仕事に打ち込んでおられた方で、確かに結果は出なかったのですが、私はM部長が
一人で責任を負う必要はないと個人的に感じ発言していました。しかし、そのものの
見方や言い方が如何に客観的で他人事だったことか ・・・ 。

そして、“あの時、居酒屋よりもっと惣菜屋に自分自身も真剣に向き合い、もっと力
を注いでいれば、もう少し、M部長をサポートできたのではないのか ・・・ ” という
自責の念が大きくなっています。確かに私の役割は居酒屋の面倒を見ることだった
かもしれませんが、お世話になった方をここ一番で助けることができなかったという
後悔が今になって膨らんでいます。何のために 「人と関わる仕事」 である飲食業を
選んだのかと ・・・ 。

M氏の手紙の文面を一部抜粋させて頂きます。
「ボンヤリした日々を過ごしながら、当地(マレー)の人々と片言で会話をしていると
本当に自分が何の意味もない存在であり、又、意味づけをする為に言葉や理屈を
駆使して自分を支える必要もない事がよくわかります。本当に問われているのは
自身の本質であり、自我や自尊心がすごくシンプルになっていく感があります。」


裏返せば、日本で、仕事で、生きていく為、仕事で認められる為、に意味づけや
理由づけをしてやり過ごしてきた自分自身がいたということだと思います。もちろん、
私もそうだったと感じます。それが何も無くなった時、大した意味を持たないものだ
と気づくものです。特に、自分の存在意義や存在価値が、日本では社会(仕事)
の中において、立場や地位で知らず知らず本人像が勝手に作られているという
ことです。そして、その立場や地位から退いた途端、周りは皆、今までその存在
自体が無かったかのような対応 ・・・ 冷たく薄っぺらい社会なのです。

今、自分は早めに直面していますが、たぶん、普通のサラリーマンの場合には、
「定年退職」 の時、初めて味わうのだと思います。いかに、自分を取り囲んでいた
ものが上辺だったかを ・・・ 。だからと言って、私は仕事中心の日本の社会から
出ようとは思いません。M氏が言うように問われているのは 「自身の本質」 です。
その本質さえあれば、どこでも同じだということだと思います。自ら作られていた
立場や地位から離れ、本当の自分の位置をしっかりと作ってみたいものです。

M氏に何とか連絡を取って話したい ・・・ 空振りに終わるかもしれませんが、
16年前の所在地に手紙を出してみようと思います。まず、私は謝らなければ ・・・
そして、出会ったことを感謝。


「こんたく堵」

この16年という時間で
私が無くしたものは大きい
そして、この16年前の手紙が
私に与えたものはもっと大きい
ありがとうございます!

第五大成丸