福音書記者ヨハネは“折られなかった骨”に注目している。
旧約に記されている預言の成就。
旧約聖書に書かれてある事が、イエスによって実現されたと。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。
(詩篇34;20~21)
…兵士たちが来て、
イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、
もう一人の男との足を折った。
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、
その足は折らなかった。
(ヨハネ19;33)
これらのことが起こったのは、
「その骨は一つも砕かれない」
という聖書の言葉が実現するためであった。
(ヨハネ19;36)
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。
すると、すぐ血と水とが流れ出た。
(ヨハネ19;34)
…また、聖書の別の所に、
「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
(ヨハネ19;37)
彼らは、彼ら自らが刺した者であるわたしを見つめ、
独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
(ゼカリヤ12;10)
ヨハネは強調する。
イエスの死が早過ぎた埋葬による仮死状態からの蘇生ではなく、
本当に死んで変質した肉体が甦った事を強調する。
分離した血液がその証拠であり、ヨハネ自身が目撃したと。
それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。
(ヨハネ19;34~35)
十字架刑が一番残虐な処刑の仕方であると言われるのは
すぐには死に切れないからだと聞いた。
じわじわと何時間もかけて、
囚人の体力によっては半日からまる一日もの長い時間、
炎天下に晒して脱水で絶命させる。
金曜日は、夜になると安息日が始まってしまうので
囚人の屍は十字架の上に残しておけなかった。
もしそのまま放置したら
死に切れない死刑囚が家族や仲間の手を借りて逃走するという
珍事もあり得たらしい。
見張りの兵士達にとっては責任問題であり、
万一囚人に逃げられたら自分が身代わりとして処刑される。
そんな不測の事態を避けるために、
十字架から引き降ろした囚人にまだ息があれば
逃走出来ないようにわざわざ足の骨を折ってから
安息日入りする念の入れようだったという事だ。
ひどい話だ。
しかしイエスは既に死んでいたので足の骨を折る必要が無かった。
人間の足の骨を素手や原始的な道具で単純に折るというのは
それだけで相当な労力と時間が要るであろう。
兵士達は少しでも手間隙を省きたかった筈であり、
イエスの足の骨は折られなかった。
既に死んでいたイエスに逃走の心配は無かったが、
兵士はさらに念を押して槍で脇腹を刺した。
血と水が流れ出たというのは、炎天下で脱水によって絶命したために
既に血液が凝集し固まった血球などのタンパク質と水分とに
完全に分離していた事が視覚的に書き記されている。
血液の分離はイエスの肉体の完全な死を意味している。
この時点でイエスが生存していた可能性は100%無い。
仮死状態ですらない。
血液が分離した状態で生存していられる人間は、
いや人間に限らず、
血液が変質してまでも生きていられる生き物はいない。
しかも死んでから血液が血餅と血漿とに完全に分離するまで、
それなりに時間も要る。
イエスの肉体は確実に、完全に死亡していたという事だ。
イエスの復活は仮死状態の人体の蘇生ではなかった。
分離し変質した血液が物語っている。
イエスの復活は、
確実に、完全に死んだ肉体からの復活を意味している。
私達が日々唱える使徒信条の中の「体のよみがえり」は
この事を指している。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白は
完全に死んだ肉体からの復活を信じると告白し宣言している。
ヨハネは常にイエスによる預言の成就を意識して福音書を書いている。
ヨハネを開く時、参照文献として旧約聖書がどうしても必要になる。
“折られなかった骨”と“槍で突き刺した者”は
詩篇に詠われている記事とゼカリヤの預言とに確かに一致するが、
詩篇やゼカリヤ以外の他の記事にも、
イエスの事を言っているとしか思えない箇所がたくさんある。
気がつくと
救い主の記事を探して旧約の頁を捲りながら
いつの間にかイエスの姿を追い求めている。
かつて「雷の子」とイエスに呼ばれた漁師兄弟の弟ヨハネは、
師も兄も弟子仲間達も皆世を去った晩年、
一人迫害の時代を生き延び、福音書記者となって
旧約聖書を紐解いたに違いない。
激しい弾圧と仲間達が続々殉教していく日々、
ヨハネは信仰者達を励ましながら、
自分が若かった日々師と共に歩いた道程を回想しただろうか。
師の教えを反芻して涙しただろうか。
詩篇や預言書の中に見え隠れする主イエスの姿を探し求めただろうか。
旧約に記されている預言の成就。
旧約聖書に書かれてある事が、イエスによって実現されたと。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。
(詩篇34;20~21)
…兵士たちが来て、
イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、
もう一人の男との足を折った。
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、
その足は折らなかった。
(ヨハネ19;33)
これらのことが起こったのは、
「その骨は一つも砕かれない」
という聖書の言葉が実現するためであった。
(ヨハネ19;36)
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。
すると、すぐ血と水とが流れ出た。
(ヨハネ19;34)
…また、聖書の別の所に、
「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
(ヨハネ19;37)
彼らは、彼ら自らが刺した者であるわたしを見つめ、
独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
(ゼカリヤ12;10)
ヨハネは強調する。
イエスの死が早過ぎた埋葬による仮死状態からの蘇生ではなく、
本当に死んで変質した肉体が甦った事を強調する。
分離した血液がその証拠であり、ヨハネ自身が目撃したと。
それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。
(ヨハネ19;34~35)
十字架刑が一番残虐な処刑の仕方であると言われるのは
すぐには死に切れないからだと聞いた。
じわじわと何時間もかけて、
囚人の体力によっては半日からまる一日もの長い時間、
炎天下に晒して脱水で絶命させる。
金曜日は、夜になると安息日が始まってしまうので
囚人の屍は十字架の上に残しておけなかった。
もしそのまま放置したら
死に切れない死刑囚が家族や仲間の手を借りて逃走するという
珍事もあり得たらしい。
見張りの兵士達にとっては責任問題であり、
万一囚人に逃げられたら自分が身代わりとして処刑される。
そんな不測の事態を避けるために、
十字架から引き降ろした囚人にまだ息があれば
逃走出来ないようにわざわざ足の骨を折ってから
安息日入りする念の入れようだったという事だ。
ひどい話だ。
しかしイエスは既に死んでいたので足の骨を折る必要が無かった。
人間の足の骨を素手や原始的な道具で単純に折るというのは
それだけで相当な労力と時間が要るであろう。
兵士達は少しでも手間隙を省きたかった筈であり、
イエスの足の骨は折られなかった。
既に死んでいたイエスに逃走の心配は無かったが、
兵士はさらに念を押して槍で脇腹を刺した。
血と水が流れ出たというのは、炎天下で脱水によって絶命したために
既に血液が凝集し固まった血球などのタンパク質と水分とに
完全に分離していた事が視覚的に書き記されている。
血液の分離はイエスの肉体の完全な死を意味している。
この時点でイエスが生存していた可能性は100%無い。
仮死状態ですらない。
血液が分離した状態で生存していられる人間は、
いや人間に限らず、
血液が変質してまでも生きていられる生き物はいない。
しかも死んでから血液が血餅と血漿とに完全に分離するまで、
それなりに時間も要る。
イエスの肉体は確実に、完全に死亡していたという事だ。
イエスの復活は仮死状態の人体の蘇生ではなかった。
分離し変質した血液が物語っている。
イエスの復活は、
確実に、完全に死んだ肉体からの復活を意味している。
私達が日々唱える使徒信条の中の「体のよみがえり」は
この事を指している。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白は
完全に死んだ肉体からの復活を信じると告白し宣言している。
ヨハネは常にイエスによる預言の成就を意識して福音書を書いている。
ヨハネを開く時、参照文献として旧約聖書がどうしても必要になる。
“折られなかった骨”と“槍で突き刺した者”は
詩篇に詠われている記事とゼカリヤの預言とに確かに一致するが、
詩篇やゼカリヤ以外の他の記事にも、
イエスの事を言っているとしか思えない箇所がたくさんある。
気がつくと
救い主の記事を探して旧約の頁を捲りながら
いつの間にかイエスの姿を追い求めている。
かつて「雷の子」とイエスに呼ばれた漁師兄弟の弟ヨハネは、
師も兄も弟子仲間達も皆世を去った晩年、
一人迫害の時代を生き延び、福音書記者となって
旧約聖書を紐解いたに違いない。
激しい弾圧と仲間達が続々殉教していく日々、
ヨハネは信仰者達を励ましながら、
自分が若かった日々師と共に歩いた道程を回想しただろうか。
師の教えを反芻して涙しただろうか。
詩篇や預言書の中に見え隠れする主イエスの姿を探し求めただろうか。