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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

感謝する心(ヨブ1;21)

2007-05-27 09:06:56 | ヨブ
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。(ヨブ1;21)


朝早くから目が覚めたので
FEBCの英神父様の放送を聴いた。


『感謝する心』という話の中で英神父様の言われる、


 「ゼロから出発したらいいんじゃないか」


という言葉が響く。
以下、
耳で聞いて一部書き取った。


 ・・・
 私達はゼロから出発したらいいんじゃないか。
 私達は元々ゼロなんだってこと。
 元々何もない薄っぺらのぺらぺらの人間なんで、
 それほどに人間は貧しい存在、
 神様なしに私達は如何ほどのものでもない。
 私達は何かちょっと豊かな暮らしをすると
 人間が貧しい存在だという事を忘れて
 欲望をどんどん膨らませて
 どこまで行っても満足出来なくなって
 自分や他人を責めてしまう。
 何もないところから出発する、
 そして
 与えられた恵みを感謝出来たらいい。


自分にはあれが足りない、
これも足りない、
これじゃダメだ、
今のままではダメだ、
一生懸命やりましたという言い訳は通用しない、
結果が出てなんぼだ、
結果が出ないのは何もしなかったのと同じ、
時間が足りない、
金が足りない、
体力が足りない、
気力が足りない、
知識が足りない、
努力が足りない、
足りない足りない足りない・・・


私という者は
いつも足りないものだらけで
自分自身も
自分の置かれた環境も
自分を取り巻く人々も
何もかも足りないと思い込んで
足りないからどうにかしなければという
ある種の呪縛に陥っている。


職業で言えば
就いた仕事に徹底的に刷り込まれてきた。


営業職だった時には
 『結果が全て。
  結果が出なければ
  どんな努力をしようと犠牲を払おうと
  無駄。』


今の仕事で言えば
 『一生懸命やりましたとか
  努力しましたとか
  そんなのは当たり前。
  結果的に患者さんが苦しい思いをしたり
  助からなかったりしたら
  そんな言い訳が通用するか?』


呪縛でもあり
一種の強迫観念ともいえる。
自分にも周りにも
あれ足りないこれ足りない、
これじゃダメだ
もっともっと・・・

暗示をかけている。


ずっと
長い間そうしていると
与えられたもので満足する心のあり方とは
かけ離れた状態になってくる。
自分にも周りにも
何もかも全てに不満足で
何やっても中途半端にしか評価出来なくなり
何か小さな良い事が起こっても


 「当たり前だ。
  だから何だ。」


とか思うようになって
くたびれて
生きている事自体が
いや
生まれてきた事自体が災難みたいなもので
途中で死ななかった事が不幸で
今生きている事は何かの懲罰のように思って
仕方なく生かされて生きている。
これが今の自分の現実。


洗礼受けてキリスト者になって
何もかも万々歳でアーメンとかハレルヤとか
有難くなれるかと言えば
現実はそんなにお手軽に自己完結出来ない。


与えられた恵みに感謝する心とは
大きくかけ離れていく自分を見て、
いつもそれを軌道修正しようとして
四苦八苦する。


随分久しぶりではあるけど
今日は仕事が休みの日曜日で
早朝に緑茶の色を眺めて
友達から頂いたお菓子を味わって
一体何が不満なのかこの自分は。

願い求める事(マタイ7;7~12)

2007-05-07 04:43:00 | 山上の垂訓
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


今、朝の4:43。


仕事が忙しかったおかげで
中途半端に眠ってしまって
こんな時間に起き出して、
自分の心理的機能障害について考えている。


英隆一朗神父様のFEBC放送で
少し前に『願う』事について
取り上げていた。
この『願う』事が引き金になっている。
この『願う』ことについて
ずっと引っ掛かったままになっていた。


『願い求める』ことについて、
表現は違っても
英神父様だけでなく、
昨年FEBCの放送に出演されていた晴佐久昌英神父様も、
実は
私に洗礼を授けてくれた牧師先生も
私が今所属する教会の牧師先生も
朝祷会で出会った他の教派の司祭様達や牧師先生達も
過去に出会っていろいろ教えてくれた教会の先輩達も
全員一致して同じ事を言っている。
そして私は
それを受け付けない自分自身を自覚している。
受付けないこちら側に心理的な機能障害がある。


願う
願い求める


おそらく
算数の苦手な小学生が計算や幾何を嫌うように
願い求めることが苦手である。


だからと言って
私と言う者が何一つ願わず求めずに
日々を暮らしてきたかと言うと
それは違う。
必要なものは全て整えられ与えられてきた。


例えば
私は小学生の頃に聖書を読んでみたかった。
年月が経った今、私は聖書を読んでいる。
読むための視力と能力と聖書そのものを与えられた。


生活するに必要な仕事を探した。
仕事と働くための能力と職場と
私を受け入れて共に働いてくれる人々が与えられた。


病気に罹った。
その度に必要な治療の道が与えられ
治療に携わる人々が与えられた。


必要なものは全て与えられてきた。
しかし、
自分がどれだけ真剣に
それらを願い求めたかを考えると
むしろ
求める前から先に備えられ
良い時期を選んで与えられた。
与えて下さる御手はこちらに向かって
絶えず伸ばされているのに
自分の方から手を伸ばせない自分がここにある。


昨年の夏に
ブログ『ぱんくず日記』を書き始めた私は、
同じ頃にある人が
晴佐久昌英神父様の説教に受けた感銘を書いた文章を読み、
自分の心理的な機能障害を自覚した。
それを見直し理解しようとして
その時の『ぱんくず日記』に書いた。


 『七夕の短冊』


  ・・・私という人間は
  一昔前の流行語になったいびつな心理構造を持っている。
  自分の信仰を見直すうちに
  引っ掛かるキーワードを見つけた。
  『福音の森』という
  晴佐久昌英司祭の説教サイトによく登場する、
  神様と自分との関係を、
  親子の関係に例えて表現する言葉。


  『神の親心(=神の愛)』
  『親に甘えるように、神に甘える(=神を信頼する)』



  きっと多くの人には身近でわかり易い、
  神の愛と憐れみを理解し易いたとえなのかも知れない。
  もし私も神の愛と神への信頼を説明しろと言われたら、
  言葉を探して選んで、結局同じ表現をするだろう。
  多分これが
  わかりやすい表現なのだろうなと思いながら。
  多くの人にとってきっと
  一番適切で受け入れ易い表現だと思う。
  そのように頭で半分納得しながら
  私は自分でそれがわからない。
  晴佐久司祭の言っている事は正しい。
  おそらく別の司祭も牧師も皆、
  表現こそ異なっても考え方は同じだ。
  しかし私は固まって、
  そこから一歩も前に進めなくなる。


  晴佐久司祭の講和を聞いて感動した人のブログに
  書き留められていた言葉。


  「7月7日の七夕に短冊が
   1枚だけあったら何をお願いしますか?
   ・・・
   何をどう祈るのかどう願うのかという以前に、
   こんなことお願いしちゃっていいのかとか、
   これお願いしても無理だとか、
   自主規制したり諦めちゃってる人。
   ・・・
   聞いてくれているのかいないのかってことじゃなくて、
   聞いてくださっている天の父を信じて、
   信じきっているかってこと。
   親と子の関係ってそう言う事でしょ。
   ・・・
   駄々をこねる、それは相手を信頼しているから。
   子供が親に甘えるみたいに
   わがまま言うところがなければ、
   先に進めないし、
   『霊的成長』が望めないんですよ。」



  この言葉を聞いてブログに書いた人は
  涙が出そうになったという。
  許される喜びとはそういうことかも知れない。
  一緒に聞いていた多くの人も
  同じ気持ちだったのではないだろうか。
  もっと神様に甘えていいんだ、
  もっと信じきって甘えていいんだ・・・


  しかし
  私は自分が奈落の底に落ちたと感じた。
  皆はたった1枚しかない短冊に何を書くのだろう。
  神様を「親」に例えたら
  私には短冊に書く願いが何もない。


  「親心」
  「親に甘えるように甘える」
  「親を信頼するように信頼する」
  どれ一つとっても自分のものではない他人のもの。
  「親」に例えると神様がわからなくなる。
  「甘える」「信頼する」という心理からしてわからない。


  「甘える」という言葉は日本語にしかない言葉だという。
  「甘える」は「頼む」「依頼する」に近い。
  「頼む」とか「依頼する」という言葉は
  私の場合、
  「相手が多分こちらを無視する可能性と
   拒絶する可能性とを踏まえた上でお願いしてみる」
  という意味で使っていた。
  「甘える」という言葉を
  家族間や学校や職場、社会で
  忌み嫌われる行為の名称として
  私は使っていた。
  「甘える」という言葉の意味は
  人を犠牲にして重荷を負わせ、
  その人の重荷の上に当然のつもりで胡坐をかく事。


  「信頼する」は「信用する」「期待する」に近い。
  「信用する」とか「期待する」という言葉は
  私の場合、
  「相手が多分こちらを裏切る可能性と
   絶望させる可能性とを踏まえた上で待ってみる」
  という意味のつもりで使っていた。
  「信頼する」が文字通り「信じて頼る」だと
  ますますわからない。


  数年前、信仰歴20年以上の教会員が突然、
  「私はキリストの十字架がわからない」と言って
  教会を去ったのを見た事がある。
  当時は牧師も私達教会員も動揺しうろたえた。
  あれは今の私のような事だったのかも知れない。


  洗礼を受けて10数年の歳月が経っていて、
  自分も周囲も当然わかっているつもりでいた事が
  実はわかっていなかったと気づく。
  神がわからないというよりも
  自分で自分の信仰が一体何なのかわからなくなった。
  わかっていなくてもわかったつもりになっていて
  それで幸せなつもりでいて
  突然キーワードという地雷を踏んでしまった。


  私が書き込みをしたブログの主から質問された。
  「それではあなたの『親』に代わる
   希望のキーワードは?」


  親の代わりになる対象。
  駄々をこねたり、甘えたりする対象・・・。
  希望のキーワード。
  希望って何だろう。
  手に入らなければ駄々をこねるほどの望みって
  何だろう?
  駄々をこねて甘えて手に入るものって
  あるんだろうか。


  質問を投げかけて下さった方は
  司祭や牧師に肩を押されたという。
  「そんなに難しく考えるなよ」
  「いいからその方の腕、胸の中に飛び込んでみろよ。
   ゆだねてみろよ。」
  自主規制や諦めになってしまっていると、
  最も簡単で最も深くて
  最も真理に近い本当に大切なものが
  見えなくなってしまうのではないかと、
  その方は言った。


  本当に大切なもの。
  ああ、それはTさんが私に言い残した事だ。


   「ともちゃん
    そんなに勉強するんじゃねぇ
    神様は人を救うけど
    学問は人を救わねぇ
    余計な事考えないで
    迷子のちびっ子が
    親にむしゃぶりついてくみたいにさ
    イエスさまーって行きな
    大切なのはそれだけだ」
 

  そう。
  Tさんも同じ事言っていたのだ。


  でもTさん、
  私はその
  「親にむしゃぶりついてくみたいに」
  がわからない。
  親が自分よりも
  子供らしい子供で
  人に甘えるのが上手で
  ねだるのが上手で
  利用価値だけで人を評価し、
  思い通りにならないとだだをこねて
  言い分が通るまで病気のふりでも
  死んだふりでも何でもする、
  5歳の子供の自分よりももっともっと
  子供らしい子供が親だったら
  どうすればいい?
  大人になった今になって
  仕返ししてやろうと思っても、
  彼らも年をとって頭が壊れて
  今では本物の子供になってしまった。
  私は誰にむしゃぶりついて何をねだればいい?
  そういう行為を誰からどうやって学べばいい?
  代わりになるものはどこにある?
  Tさん、晴佐久司祭もあなたと同じ事を言ったよ。


  子供が親に甘えるみたいに
  わがまま言うところがなければ、
  先に進めないし、
  『霊的成長』が望めないんですよ。


  年齢だけは超えたけどね、
  霊的には5歳から成長してないんだよ私は。
  その通り。
  一歩も先に進めない。
  望みがないんだから。


  『霊的成長』
  私達の教会でも、前にいた母教会でもよく聞く言葉。
  神様に何か願っても聞き入れられないのは、
  利己的な動機で願うから聞き入れられないのだと
  教えられた。
  或いは、
  神様がその人に小さな願いよりももっと
  それ以上に大きなものを与えたいのだと
  教えられてきた。
  それが神の望みであり、
  神が自分に何を望んでおられるかを考えろと。
  神が望んでおられる事。
  たった1枚の短冊にはこう書けばいいのだ。


  「私の望みはありません。
   神様のお望みのようになりますように。」


  駄々をこねて甘える事とは対極だ。
  これでは『霊的成長』は望めないのだ。
  どうすれぱいい?(2006.7.25『ぱんくず日記』)



この文章を書いてから1年近く経とうとしている。
ここで言う『七夕の短冊に何を書くか』は
まだ分からないままになっている。
私だったら書いたであろう短冊、


 「私の望みはありません。
  神様のお望みのようになりますように。」


これは一見模範解答のように見えるが
実はこういう意味である。


 「私の望みなんか、
  どうせ神様がしたい通りになさるんだから
  何願っても無駄。」


英神父様はFEBCの放送の中で
「神様にお願いしたけど聞き入れられない、
 だから神を信じられない」
という人に向けて『願う祈り』を語っておられる。


英神父様によると、
『願う』とはもっと真剣な、
全身全霊で神に向かう事だ。
自分の無力さをどれだけ認めているか。
無力である、それは大事な事だ。
打ちひしがれて自分の力では何も出来ない時に、
私達は本当に『願う祈り』が出来る。
必死で、他に何も頼る事が出来ない、
そんな絶体絶命の時に、
私達は本当に願い求める祈りが出来る。
自分を超えた存在に委ね切った時に、
本当に心の底から願った時に、私達の生活は変わっていく。
神様に本当に願い求めた時に、何かが変わってくる。
自分の出来ること全て100%尽くして
24時間自分の存在を懸けていく、
それが本当の意味で願っているという事。
自分の存在かけて願わなければ、
自分の全力、自分の全てをかけてやらなければ
願っているとは言えない。
それだけの真剣さが私達にあるかという事。
祈るという事は信仰と一つ。
でも、
多くの人が最初から諦めている、
ハナから信じてない。
それでは何も変わらない。


お願いして聞き入れられないどころか
願う前から諦める、
また、
自分が何を願っているのかもわからない、
真剣に神と向き合おうとさえしない。


与えて下さる御手はこちらに向かって
絶えず伸ばされているのに
自分の方から手を伸ばせない自分がここにある。