FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)
私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。(ヨブ1;21)
朝早くから目が覚めたので
FEBCの英神父様の放送を聴いた。
『感謝する心』という話の中で英神父様の言われる、
「ゼロから出発したらいいんじゃないか」
という言葉が響く。
以下、
耳で聞いて一部書き取った。
・・・
私達はゼロから出発したらいいんじゃないか。
私達は元々ゼロなんだってこと。
元々何もない薄っぺらのぺらぺらの人間なんで、
それほどに人間は貧しい存在、
神様なしに私達は如何ほどのものでもない。
私達は何かちょっと豊かな暮らしをすると
人間が貧しい存在だという事を忘れて
欲望をどんどん膨らませて
どこまで行っても満足出来なくなって
自分や他人を責めてしまう。
何もないところから出発する、
そして
与えられた恵みを感謝出来たらいい。
自分にはあれが足りない、
これも足りない、
これじゃダメだ、
今のままではダメだ、
一生懸命やりましたという言い訳は通用しない、
結果が出てなんぼだ、
結果が出ないのは何もしなかったのと同じ、
時間が足りない、
金が足りない、
体力が足りない、
気力が足りない、
知識が足りない、
努力が足りない、
足りない足りない足りない・・・
私という者は
いつも足りないものだらけで
自分自身も
自分の置かれた環境も
自分を取り巻く人々も
何もかも足りないと思い込んで
足りないからどうにかしなければという
ある種の呪縛に陥っている。
職業で言えば
就いた仕事に徹底的に刷り込まれてきた。
営業職だった時には
『結果が全て。
結果が出なければ
どんな努力をしようと犠牲を払おうと
無駄。』
今の仕事で言えば
『一生懸命やりましたとか
努力しましたとか
そんなのは当たり前。
結果的に患者さんが苦しい思いをしたり
助からなかったりしたら
そんな言い訳が通用するか?』
呪縛でもあり
一種の強迫観念ともいえる。
自分にも周りにも
あれ足りないこれ足りない、
これじゃダメだ
もっともっと・・・
と
暗示をかけている。
ずっと
長い間そうしていると
与えられたもので満足する心のあり方とは
かけ離れた状態になってくる。
自分にも周りにも
何もかも全てに不満足で
何やっても中途半端にしか評価出来なくなり
何か小さな良い事が起こっても
「当たり前だ。
だから何だ。」
とか思うようになって
くたびれて
生きている事自体が
いや
生まれてきた事自体が災難みたいなもので
途中で死ななかった事が不幸で
今生きている事は何かの懲罰のように思って
仕方なく生かされて生きている。
これが今の自分の現実。
洗礼受けてキリスト者になって
何もかも万々歳でアーメンとかハレルヤとか
有難くなれるかと言えば
現実はそんなにお手軽に自己完結出来ない。
与えられた恵みに感謝する心とは
大きくかけ離れていく自分を見て、
いつもそれを軌道修正しようとして
四苦八苦する。
随分久しぶりではあるけど
今日は仕事が休みの日曜日で
早朝に緑茶の色を眺めて
友達から頂いたお菓子を味わって
一体何が不満なのかこの自分は。
『神との親しみを深めるために
―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)
私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。(ヨブ1;21)
朝早くから目が覚めたので
FEBCの英神父様の放送を聴いた。
『感謝する心』という話の中で英神父様の言われる、
「ゼロから出発したらいいんじゃないか」
という言葉が響く。
以下、
耳で聞いて一部書き取った。
・・・
私達はゼロから出発したらいいんじゃないか。
私達は元々ゼロなんだってこと。
元々何もない薄っぺらのぺらぺらの人間なんで、
それほどに人間は貧しい存在、
神様なしに私達は如何ほどのものでもない。
私達は何かちょっと豊かな暮らしをすると
人間が貧しい存在だという事を忘れて
欲望をどんどん膨らませて
どこまで行っても満足出来なくなって
自分や他人を責めてしまう。
何もないところから出発する、
そして
与えられた恵みを感謝出来たらいい。
自分にはあれが足りない、
これも足りない、
これじゃダメだ、
今のままではダメだ、
一生懸命やりましたという言い訳は通用しない、
結果が出てなんぼだ、
結果が出ないのは何もしなかったのと同じ、
時間が足りない、
金が足りない、
体力が足りない、
気力が足りない、
知識が足りない、
努力が足りない、
足りない足りない足りない・・・
私という者は
いつも足りないものだらけで
自分自身も
自分の置かれた環境も
自分を取り巻く人々も
何もかも足りないと思い込んで
足りないからどうにかしなければという
ある種の呪縛に陥っている。
職業で言えば
就いた仕事に徹底的に刷り込まれてきた。
営業職だった時には
『結果が全て。
結果が出なければ
どんな努力をしようと犠牲を払おうと
無駄。』
今の仕事で言えば
『一生懸命やりましたとか
努力しましたとか
そんなのは当たり前。
結果的に患者さんが苦しい思いをしたり
助からなかったりしたら
そんな言い訳が通用するか?』
呪縛でもあり
一種の強迫観念ともいえる。
自分にも周りにも
あれ足りないこれ足りない、
これじゃダメだ
もっともっと・・・
と
暗示をかけている。
ずっと
長い間そうしていると
与えられたもので満足する心のあり方とは
かけ離れた状態になってくる。
自分にも周りにも
何もかも全てに不満足で
何やっても中途半端にしか評価出来なくなり
何か小さな良い事が起こっても
「当たり前だ。
だから何だ。」
とか思うようになって
くたびれて
生きている事自体が
いや
生まれてきた事自体が災難みたいなもので
途中で死ななかった事が不幸で
今生きている事は何かの懲罰のように思って
仕方なく生かされて生きている。
これが今の自分の現実。
洗礼受けてキリスト者になって
何もかも万々歳でアーメンとかハレルヤとか
有難くなれるかと言えば
現実はそんなにお手軽に自己完結出来ない。
与えられた恵みに感謝する心とは
大きくかけ離れていく自分を見て、
いつもそれを軌道修正しようとして
四苦八苦する。
随分久しぶりではあるけど
今日は仕事が休みの日曜日で
早朝に緑茶の色を眺めて
友達から頂いたお菓子を味わって
一体何が不満なのかこの自分は。