goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

七の七十倍

2010-04-03 18:12:00 | ヨハネ
今日はこれから夕方じじ宅に行って、
福音書の復活の箇所を朗読するつもりでいるのであるが。


前日のルカ22;31~32のイエスの言葉を
鶏の鳴いた後で回想し涙したであろうペトロに
どうしても感情移入してしまう。
その余韻をまだ引き摺っていて、
今日読むヨハネ21章の箇所に来ると泣けてくる。
これではじじもびっくり仰天だ。


復活されたイエスは岸辺で炭火を起こし、
夜通しの漁から疲れて戻ってきた弟子達のためにパンを用意し、
魚を焼いている。
その魚を焼くイエスを、ヨハネの眼を通して私は
弟子達の一人一人に感情移入しながら読んでいる。


イスカリオテのユダは自分の罪を認めて言い表し、
後悔して首を吊って自殺した。


シモン・ペトロは自分がイエスの見聞きしている所で
三度知らないと言った。


他の弟子達も、土壇場でイエスを見捨てて逃げ、
物陰に隠れて息を潜めていた。
12人いた弟子達は誰一人イエスの傍に居残る事無く
一人残らずイエスを見捨てて逃亡した。


復活して目の前に現れたイエスに対峙する弟子達の
ばつの悪い気まずい思い、自責、自己嫌悪、
言葉で表現しようの無い惨めさはどれほどだった事だろう。


弟子達の、文字に描かれていない苦しい思い、
喉元につかえたまま言葉に言い表せない感情が伝わってくる。


「主よ、私はあなたが一番辛い時にあなたを見捨てました。
 あなたを敵の手に渡されるまま見放し、
 あなたが足蹴にされ鞭打たれ十字架を背負わされ歩かされ、
 十字架の重さに耐え切れず下敷きになって倒れた時も、
 あなたの手と足に釘が打ち込まれ、
 あなたが十字架に磔けられて何時間も太陽に焼かれ晒されて
 渇きに苦しんでいるのを、
 私は人々に混じって遠巻きに傍観し、物陰に隠れていました。

 主よ、私は侮辱と暴行の苦しみの中にあなたを置き去りにしました。
 私はあなたに対して罪を犯しました。
 もうあなたの弟子と呼ばれる資格はありません。
 この弱く愚かな、惨めな私を憐れんで下さい。
 主よどうか卑怯者の私をお赦し下さい。」


復活したイエスは弟子達の裏切りを責めない。
夜通し漁に出ても何も獲れなかった弟子達の疲れと空腹を労い、
何処に網を打てば魚が獲れるかを告げ、岸辺で朝食の用意をしていた。
弟子達のために。
裏切りを責める事無く、
ただ「おいで、朝の食事をしなさい。」と言って
パンと魚を取って弟子達に与えられた。
イエスから与えられたパンと魚はどんな味がしただろう。
この箇所を読むと胸が詰まる。


福音記者ヨハネは
息遣いを感じるほど間近で接した者だけが描き得るイエスであり、
細部まで克明に、見たまま触って感じたままのイエスの姿を
生き生きと浮かび上がらせる。
まるで魚を焼くイエスの息遣いや体温がこちらに伝わるような、
横顔が眼に見えるような克明な描き方をしている。


イエスは弟子達を責める事無く、
無条件で赦しておられた事が読者に伝わってくる。
弟子達が後悔したから赦すのではなく
弟子達が謝罪したから赦すのではなく
弟子達が償いをしたから赦すのではなく
ただ、無条件でご自分を裏切った弟子達を赦している。


ルカ福音書の放蕩息子の譬えや七の七十倍までも赦せという訓戒を通して
教えの中で一貫してイエスが語り続けられた無条件の赦しが、
火を起こし、魚を焼き、食事を勧めて与える行為に込められている。


それに気づいてからこの箇所を読むと、
泣けてきてダメだ。
ペトロや他の弟子達にどうしても感情移入してしまう。






個人的な解釈であるが、
もしユダが自殺せずにその時まだ生きていたら。
もしイスカリオテのユダが自殺せずに
失意と自己嫌悪に打ちひしがれて生き残り、弟子達の群れの隅で
小さくなっていたとしたら、イエスはユダを赦しただろうか。
私は赦したであろうと思う。
ペトロと同様に。
裏切りも後悔も、ユダと他の弟子達との間に差は無い。
イエスの赦しは無条件の赦しだから。


ユダは自殺さえしなければ
悔い改めと和解の機会が無条件に与えられ、
イエスの方から手を差し伸べ
迎えに来てくれたかも知れないのに
自ら死ぬ事でその道を封じてしまった。






主の祈りの祈りの中で、
私達が自らしなければならない唯一の事は、人を赦す事である。
イエスは福音書の中で七の七十倍までも赦せと私達に教えられた。
イエスがご自分を裏切った弟子達を無条件で赦されたように、
私達も同じように無条件で人を赦しなさいと教えている。
それが主の祈りの中で私達に神から要求されている唯一の事。
それが出来なくて私達はいつも苦しんでいる。