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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

ちょっと黙示録を読む

2009-05-16 15:10:00 | ヨハネ黙示録
携帯からミクシイを見たら
ある方の記事に黙示録の一語が取り上げられていた。
黙示録の中で
呼びかけを受ける7つの教会の中の
一つの教会、地名だった。


どれ。
携帯の充電が切れて充電する間に
じじの聖書を開き、
黙示録を読んでみる。


7つの教会それぞれに向けて
褒められたりダメ出しの呼びかけがされている。
褒められてもダメ出しされても
どっちにせよ呼び掛けの内容は厳しい。
何故なら黙示録の時代は迫害の真っ只中だから。


教会は外側から厳しく迫害され攻撃を受けていた。
信徒達が続々と摘発され引き摺り回され
投獄され、拷問を受け、
十字架に架けられて炎天下に晒され、
車裂きや猛獣の餌食にされ、
斬首され、目をえぐられて血を流し、
残虐に処刑されていった時代。
物陰や地下に隠れ、息を潜めて
仲間が次々と惨殺されこの世から姿を消して行くのを
目の前で見ながら信仰を守らなければならなかった時代。


教会は外側から迫害を受けるだけでなく、
仲間同士の密告、裏切り、猜疑心で内部に亀裂が生じ、
異端の発生によって内側から腐食し始めた。
7つの教会が受ける呼び掛けに
それぞれの教会の置かれた状況を感じ取る事が出来る。
教会への呼び掛けに含まれる激励と賞賛と警告と叱責、
全ての言葉に切迫した危機を感じる。


スミルナの教会への呼び掛けの箇所を読んだ時
突然涙腺が緩んできた。


  「・・・あなたは、
   受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
   見よ、悪魔が試みるために、
   あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
   あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
   死に至るまで忠実であれ。
   そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」
                  (黙示録2;10新共同訳)


会った事も無い、
もうこの世で会う事すら不可能になった
一人の牧師の説教集の中に引用されていた、
スミルナの教会に向けられた
この箇所の一文に胸が詰まる。


その牧師の一生涯の上に
神なる主は確かにいて、働いていた。
一人の人間の一生に現れ働きかけた、
唯一人のお方が間違いなくおられる。


辻牧師が中学生だった第二次大戦末期に
官憲に弾圧された教会の牧師だった父が逮捕された。
教会は散り散りになった。
涙を流し鼻水を啜って福音を語っていた
熱心で敬虔な信徒達は何処へとも無く姿を消し、
投獄された牧師の妻である母は
中学生から乳飲み子まで
何人もの子供達を抱えて路頭に迷った。
学校では同級生と教師から国賊呼ばわりされ
ボコボコに殴られた日々。
食べる物が無くてかぼちゃを分けて貰おうと
教会役員だった敬虔で熱心な教会員の農家を訪ねたが、
門前払いされた。
母は軍隊の払い下げた残飯を貰うために街路に並び、
その残飯を皆で食いつないで生き延びた。
父は獄中で骨と皮だけになって死んだ。
遺体を引き取り火葬場に向かう道で、
馬橇の振動に揺れる座棺の内側から音が聞こえてきた。
獄死した父の頭が
棺桶の内壁にゴツンゴツンとぶつかっていた。
火葬場までの道程で
その音にじっと耐えなければならなかった時、
キリスト教なんかもうごめんだ、
キリスト教徒でさえなければ
こんな目に遭わなかった筈だと神を呪った。
その少年時代を回想して辻牧師が説教の中で話し、
著作に記した言葉を私は何度も反芻した。


「・・10日の間、苦難にあう、
 しかし11日目はないのです。
 苦難は必ず区切られる。
 無限に続くと思い込んではなりません。
 まさに信仰者とは
 11日目をめざして歩む者です。」
 (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局より)


辻牧師はうちのじじと同い年だった。


黙示録を読むと
どうしても
無性に悲しくなって胸が詰まる。