goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

中断していた。

2010-05-06 00:19:34 | 未分類
ここしばらく、聖書は普段以上に読んでいたが
通読そのものは中断していた。


聖書通読と平行し、黙想の副読本として
『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
の読書メモを書いてきたが、
ただでさえ私にとってハードルの高いこの本は、
ちょうど四旬節の時期に「第十話(続)ゆるしについて」の章に当たり、
ハードルどころか高い塀に変わってしまった。
“ゆるし”の章は
高圧電流を仕込んだ有刺鉄線が張られた塀のようなものだ。
何度か中断し、いろいろ考え込んで立ち止まり、
なかなかそこから先に進めずにいた。


“ゆるし”の章で滞ったまま、
四旬節から復活節の後に至るまで約1ヶ月の間、
聖書はルカ22;31~32とヨハネ21;1~19を、
同じ箇所ばかり何度も繰り返し読んだ。


読みながら、
十字架の死と三日目の復活の後で
ご自分を裏切った弟子達のために朝食の魚を焼く主イエスの横顔を
何度か思い浮かべた。


教会の土台が
弟子達のような欠点だらけな弱い人間の、
その弱さの上に据えられた事の意味を考えさせられる。

日々の糧

2010-03-13 09:46:00 | 未分類
「たとえ、
 女たちが忘れようとも、
 わたしがあなたを忘れることは決してない」
                   (イザヤ49;1~16)


起きてパンを焼いた。


このパンは先日、仕事帰りに寄った時に
珈琲店の店主が分けてくれたフランスパンである。
店のメニューとして出しているパンを、
私が好んで食べるというだけの理由で
売り物なのに分けてくれた。


パンを焼いて、
パンにつけるオリーブ油とパルメザンチーズを混ぜ、
牛乳を注いで食卓に着いた時、思い出した。


黙想の手引きとして使っている『道しるべ』(英隆一朗著/新世社)の中で、
神の愛を忘れそうな時、
自分が神に愛されている事を見失いそうな時に、
自分が受けている神の愛を思い出し、感じるための
訓練というか練習と言える黙想の仕方があった。


毎日の何でもない事を
人からの愛として、神からの愛として、記録し、味わい直す。
自分が今日一日にどれだけ愛されたか。


  例えば、朝の洗顔で水を使うとき、
  この水は誰かが自分を愛しているからこに来ているのだと思います。
  ・・・・・このように毎日の何でもないことを人からの愛として、
  そして神からの愛として、ゆっくりと味わい直すのです。
                        (本文より)


珈琲店の店主夫妻からの愛によって
人との出会いを備え、整えて下さった神の愛によって、
このパンは私の所に来ている。
咀嚼し、飲み込んで味わう事の出来る心身の機能と健康を
鎮まって食卓に着く事の出来る場所と時間を
与えて下さった神の愛によって、
私はこのパンを食べる事が出来、味わう事が出来る。


食べながらその事を思った。
パンは軽く焼いて、裂くとパリパリと軽快な音をたてた。


自分はこれまでに
与えられたあらゆるものをどれほど粗末に、
どれほど無駄に捨ててきたか
考える。

聖書通読日記

2009-11-17 21:30:00 | 未分類
このブログ『ぱんくず通読帳』の文章は、
殆ど全部に聖書の中の一節が付いている。


文章の下地は、
受洗以来ちまちま書き続けてきたノート
『聖書通読日記』を
今現在の自分の目で読み直し書き改めたもので、
相当の年月の間に溜まった「心の垢」みたいなものだ。
深刻ぶったり気負ったりしていて
読むとちゃんちゃら可笑しい文章もあるが、
一つ一つがその日読んだ聖書の箇所から感じ取り、
思ったり、考えた事だ。


2006年6月末に始めたブログ『ぱんくず日記』の記事として
公開する段階で敢えて聖句を外した。
付けたままの方が同じ聖書箇所を読んだ人と
分かち合う事も出来るかなとも思ったが、
読んだ人にとって次に聖書を読んだ時の
固定観念になっては迷惑だと思った。


メノナイトでは基本的に聖書を読んだ感想の分かち合いは
教会の場で皆でする事になっている。
個人が自分の感想や解釈に凝り固まって
聖書を読み誤る危険を避けるためだ。
だから各自自由に読んで味わって、
そして出来れば皆で読んで
分かち合いも皆で
というのがこの教派のモットーだ。


一人で聖書を読んで何か考えても、
次に読む時は違う事を考える。
人間は変わっていく。
自分も変わっていく。
書いた自分と読む自分は違う人間だ。
「書く」という第3の排泄によってそれが分かる。


最初のブログ『ぱんくず日記』を開始して3年経った。
何でもかんでも書き殴り、ごった煮状態で
書いている自分でさえも
記事を読み返したり検索するのに苦労するほど
『ぱんくず日記』は膨れ上がってしまった。
それで、
『ぱんくず日記』のカテゴリーの中の“聖書”を
一つのブログとして独立させる事にした。
一度は伏せた記事ごとの聖書箇所も復帰させ、
一冊の聖書から
今読んで自分が考える事と以前自分が考えた事とを
照らし合わせて考え直したり
新たな発見を得たりする事もある。

イサクの犠牲から連想するもの

2009-07-03 00:04:00 | 未分類
某所で取り上げられていた聖書の箇所。


創世記22;1~19


旧約の有名な『イサクの犠牲』の場面。


アブラハムが
老齢になってからやっと授かった一人息子を
生贄として捧げよと主に言われて
息子に薪を背負わせ自分は火起こしの道具を持って
山に入って行く場面。
アブラハムはこれからたった一人の息子を
自らの手で屠り、
燔祭の生贄として火で焼いて主に捧げなければならない。


この箇所を最初に読んた時、
何を連想したかと言うと、
私は『かちかち山』の狸どんを思い浮かべた。


変ですかね?


日記ブログの信仰ネタにも
聖書通読ノートにも
黙想ノートにも
そう言えば書いた事無かったし
人前で話した事無かった。
あんまり珍しい事ではない気がして
わざわざ取り上げなかっただけであるが
薪背負って山に行って・・・それだけで


「兎どん、
 かちかち言うのは何だべな?」


「狸どん、
 かちかちいうのはかちかち山のかっちん鳥さぁ。」


を私は連想していたよ。


『かちかち山』に直結しませんかね?
かちかち山を連想しますよね?
皆、誰でもそうだと思ってたんですが。
変ですか?

旅の道程(創世記28;15)

2008-10-26 13:29:00 | 未分類
先日の
教会仲間の親族の葬儀で
牧師先生が引用した聖書の箇所。


見よ、
わたしはあなたとともにあり、
あなたがどこへ行ってもあなたを守り、
あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。
                 (創世記28;15 新改訳)


この聖書の箇所は
ヘブライ13;5に引用されている。
私にとって
受洗直後の思い出のある箇所だ。


神御自身、
「わたしは、決してあなたから離れず、
 決してあなたを置き去りにはしない」
と言われました。
            (ヘブライ13;5)


私達の人生は旅だと牧師先生が言った。
私達は旅をしている。
神に向かう旅を。


私達はこの世では旅をする者。
寄留者。


わたしは御もとに身を寄せる者
先祖と同じ宿り人。
         (詩篇39;13)


この地では宿り人に過ぎないわたしに
あなたの戒めを隠さないでください。
                (詩篇119;19)


この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。
約束されたものを手に入れませんでしたが、
はるかにそれを見て喜びの声をあげ、
自分たちが地上ではよそ者であり、
仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
                  (ヘブライ11;13)


愛する人たち、あなたがたに勧めます。
いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、
魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
                (ペトロⅠ2;11)


先日の夜勤の朝に亡くなった方と
教会仲間の親族の方と
これらの人々の死の現実に
立て続けに私を直面させて
天の御父が私に示した事がある。
私はこれまでずっと
御旨を知りながら目を逸らしてきた。
つながりの切れた家族の現実から。


しかし
見ないようにしても
切れたものを切れたままに放置しても
見えない御手は私に
見るべきものを見せ、
追い立てて行くべき所に行かせ、
するべき事をさせてきた。


絶縁していた私達家族を
神が再び家族として集め復活させようとしている、
私は父が倒れた時にそれを感じた。
その時から10年かかって
父は私と同じ教会に行くようになり
洗礼を受けて同じ神の家族となった。
敵対状態にあった母とも年に数回くらいは
連絡を取るようになって
一緒に物を食べる事も出来るようになった。
妹とはまだ。
修復出来ない敵対感情がある。


まだ途上で中途半端。
欠損だらけで不完全。
全然足りない。
声の無い声に叱責された気がした。


何故なら


あの夜勤の朝に、
病室で苦しみ果てて息絶えた無残な遺体に
突然対面し立ち尽くす人がこの自分で
目の前に横たわる人が自分の親や妹であっても
何ら不思議は無いのだ。


あの告別式の朝に、
棺の傍らに立ち尽くす人がこの自分で
目の前に横たわる人が自分の親や妹であっても
全く不思議は無い。


これがつながりの切れた私達家族の現実。


つながりを絶ってしまったのは私達だ。
それでも天の御父が私達を再び集めようとされる。
いろいろな試練や病気や互いの死を通して
御自分の意図する事を知らせようとされる。
主なる神の御旨を否応無しに
現実で思い知らされた。


私達は寄留者であるが
旅の道程の続く時間のうちに
御旨の通りには、
切れたつながりを回復する事を
果たせないかも知れない。
それでも主なる神は私達を集めようとされる。


雌鶏が雛を羽の下に集めるように・・・
                (マタイ23;37)

聞く(サムエル上3;1~11)

2008-10-04 08:18:43 | 未分類
サムエル上3;1~11


FEBC『神との親しみを深めるために
     ―祈りを身につける―』英隆一朗


もし自分の願いが
全て聞き入れられたら
私達は幸せになれるだろうか。


主が自分に何を伝えたいか
主が自分に何を悟らせたいか
主が自分に何を学ばせたいか


問題や困難の原因が何か。
問題を解決するためにどんな道があるのか。
問題を解決するために何をしなければならないか。


自分の思いを置いて
空っぽの心で主なる神に聞く。


主の語りかけは
人を通して
聖書を通して
礼拝説教を通して
日常のあらゆる出来事を通して
必ず与えられる。


自分の思いを置く事が出来ず
自分の思いに囚われているから
主なる神の声が聞こえない。


主の語られる事は
厳しいかも知れない
聞きたくない事かも知れない。
しかし
主の語りかけに耳を塞がず
耳を開き心を空にして
主に聞く勇気が自分にあるかどうか。

今日一日(箴言30;7~9)

2008-08-05 09:56:01 | 未分類
主よ、憐れみたまえ。
キリスト、憐れみたまえ。
主よ、憐れみたまえ。


今日一日、
生きることを努力します。
生きるために、
生き延びるために、
望みを探します。
生きることを喜ぶ努力をします。
だから、どうかお願いします。


 二つのことを
 あなたにお願いします。
 私が死なないうちに、
 それをかなえてください。
 不信実と偽りとを
 私から遠ざけてください。
 貧しさも富みも与えず、
 ただ、私に定められた分の食物で
 私を養ってください。
 私が食べ飽きて、あなたを否み、
 「主とは誰だ。」と言わないために。
 また、私が貧しくて、盗みをし、
 私の神の御名を汚すことのないために。
              (箴言30;7~9)

夢の意味

2008-03-31 22:38:14 | 未分類
夕方見た変な夢の事を考える。


大きな穴を掘って
地中深く聖書を埋めていた知人。


夢の中で私は
その人の行為を何か禍々しく
危機感を持って見ていた。


「こうすれば願った事が叶えられる」


その人が土を掘り返して
どんどん穴を大きくして
何かを願い求めながら全く逆の事をしている、
どんなに一生懸命穴を掘っても
決して願いは叶わないのに
それを伝えようとする自分に声がなかった。


さて、
これは何の意味だろう。

誕生日(箴言16;31)

2008-02-13 12:25:12 | 未分類
白髪は輝く冠、
神に従う道に見出される。(箴言16;31)


今、昼休み。
出勤して来る時に、
今日のじじの誕生日の事を考えていたが
今日の勤務に就くと、
今日分担した私の患者さんの一人も
じじと同じく今日が誕生日だった。
99歳。
白寿だよ。
体は寝たきりだけど
じじよりも全然しっかりしてる。
99年前の日本は一体どんな様子だったんだろ?
今日誕生日のじじが生まれた時、
このお方は21歳の誕生日を迎えていた。
99年の歳月を思うと気が遠くなるであるよ。
しみじみ、
人生いろいろあったろうなぁ。

灰の水曜日(創世記3;19)

2008-02-06 21:16:17 | 未分類
今日は灰の水曜日。
四旬節が始まった。


日勤の後、
会議が終わってすぐバスに乗り、
近所のカトリック教会の聖堂を訪ねた。
灰の水曜日の夕ミサがある筈だと思ったので。
バスの窓から聖堂に灯りが点いているのが見えた。
間に合ってよかった。


私の所属するメノナイト教会では
特にこの日は行事をしないが
教会暦を意識して
個人的に黙想する人はいるかも知れない。


灰の式に出たのは9年ぶりだ。
ここに引っ越して来た翌年の年明けに
その聖堂に度々一人で黙想するうちに
留守番を勤める女性信徒の方と仲良くなった。
その方から灰の水曜日というのがあると誘われて、
初めて参加した。
それ以来9年。


前年の枝の主日に頂いた棕櫚の枝を
教会員達が持ち寄って来て、
集めた枝を燃やして灰を作る。
司祭がその灰を祝福し、
「回心して福音を信じなさい」という言葉を唱えながら
一人ひとりの頭に灰をかける。
回心と償いのわざを促すしるしとして。


その祝別された灰の塊を見る。
自分もいずれこの灰のようになる。
自分はこの灰のように消えて無くなる儚い存在である。
ただ神の慈しみと憐れみによって、
生かされて辛うじて生きている。


ああ
それは本当だ。現実のものだ。
私がこの地上で出会って話したり聞いたり
一緒に食べたり飲んだり歌ったり笑ったりしていた
あの人もこの人も
この世の時を全うした時、
こんな風に灰になって
火葬場の窯の中から出て来た。
私もいつか必ずこのような灰になるのだ。


回心。
自分の弱さと貧しさを認め、
神を仰ぎ見て生きる事。
自分に頼るのではなく
他者に頼るのでもなく
神に信頼して生き始める時、
私達は新しくされる。


「回心して福音を信じなさい」


頭に灰をかけられた後、
しばらく司祭の話した言葉を反芻した。


私達は塵から造られ、塵に帰る。
私達には死んでも帰るべき所がある。
私達を造られたお方の元へ帰る。
私達は罪によって死ぬのであって、
私達が罪を悔い改めて、立ち返って生きる事を
主が望んでおられる。


  悔い改めて福音を信じなさい。
               (マルコ1;15)


  塵にすぎないお前は塵に返る。
               (創世記3;19)


  生きとし生けるものは直ちに息絶え
  人間も塵に返るだろう。
               (ヨブ34;15)


  あなたは人を塵に返し「人の子よ帰れ」と
  仰せになります。
               (詩篇90;3)


  すべてはひとつのところに行く。
  すべては塵から成った。
  すべては塵に返る。
               (コヘレト3;20)


回心。立ち返る。


  主は言われる。
 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。
  断食し、泣き悲しんで。
  衣を裂くのではなく
  お前たちの心を引き裂け。」


  あなたたちの神、主に立ち帰れ。
  主は恵みに満ち、憐れみ深く
  忍耐強く、慈しみに富み
  くだした災いを悔いられるからだ。
  あるいは、主が思い直され
  その後に祝福を残し
  あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を
  残してくださるかも知れない。
                (ヨエル2;12~14)


思うところあって
今日の灰の水曜日に
塵に過ぎない自分と向き合おうと思った。
主なる神の前で。

聖書を読む視点

2007-04-11 06:53:24 | 未分類
自分が聖書を読む時の視点について、
全くその通りに共感し実行しようとする、
3人の人の言葉を見つけた。
私自身聖書を読んで、
読みながら脱線したり迷ったりする時でも
この視点に立ち戻って軌道修正を図りたいと思う。


3人とも同じ本の同じページに載っていた。
『祈りの泉 365のことば』
     (ジーン・ヒントン/編著 光原百合/訳
             女子パウロ会1998年より)


  福音書の中で起こったことを、
  今ここで起こっているつもりで読みなさい。
  主イエス・キリストを通じて語られ、なされたことに、
  全身全霊をこめてあずかりなさい。
  ・・・・・・つづられている出来事を、
  自分の耳で聞き、
  自分の目で見ているかのように味わいなさい。
                (サクソニーのルドルフ)


  知性を用いて考えることができなかったころ、
  心の中にキリストを思い描いてみました。
  私はよくこういった単純なことをやっていました。
  これは私の魂を
  ずいぶん豊かにしてくれたと思います。
  祈りとは何かを知らないまま
  祈りを始めていたからです。
                (アヴィラの聖テレジア)


  福音書を読むたびごとに、
  キリストおん自らがあなたに語りかけておられる。
  あなたは読みながらキリストに向かって祈り、
  話しかけている。
                (ザドンスクのティコン)


これらの3人の人が何処の誰か
私は知らない。
しかし聖書を読む時に
私は同じ気持ちで読もうとするし、
同じ気持ちで読んでいる人は
実は結構たくさんいるのではないか。


彼らの視点は、
聖書を読む事で人間の感性を豊かに活発にする。
たとえ心が萎えていても息を吹き返させる。


そしてその姿勢は
書かれている事を味わうことなく
字義通り丸呑みにしたり、
読んで感じた事や疑問を封じようとしたり、
日常会話の端々に強迫的にいちいち引用したり、
何かのまじないや呪文のように
聖句を暗誦したりするような、
読む人間の魂を窒息させて殺すような読み方とは
対極にあると思う。

魔がさす?(創世記3;4)

2006-11-30 03:56:26 | 未分類
あんとに庵様の『備忘録』で紹介されてた本、


『心にナイフをしのばせて』
     (奥野修司 著 文藝春秋)


私はまだ手に入れてない。


30年近く昔に起こった酒鬼薔薇と同様の事件は
全然私の記憶にない。
当時私は中学生くらいだったと思うが、
どうして忘れ去っていたのかな。


某キリスト教の全寮制の学校で
同級生の首を切り落として殺害した加害者少年は
少年保護法に守られて社会復帰を果たし、
今現在は弁護士として立派に活躍し成功しているという。


一方、被害者の遺族は心を病み、
ずたずたになったまま
加害者を赦そうとして長い年月を苦しんできた。
(被害者の父はカトリックに帰依したという。)


何かおかしくないか?と誰もが思うだろう。
被害者の家族の立場を描いたというこの本を
まだ手に入れてないので、
先に当時の加害者少年の精神鑑定書の方を
先に開いて読んでみた。


気になるところがあった。
鑑定人が加害者少年に
「どうしてやったのか」と動機を求める時に、


〈「魔がさす」という言葉があるだろう、
  悪魔がとりついたように
  とんでもないことをした感じか〉


と、加害少年に問い掛けている。
加害少年がキリスト教の学校の生徒だから
「魔が」「悪魔が」という表現を使って
問い掛けてみたのだろうか。


「魔がさす」とは何か。


聞く鑑定人側にも
漠然と言葉を濁す加害少年側にも
犯罪の動機を「魔がさす」とか
「悪魔がとりつく」と表現する、
ある種の責任転嫁の心理が読み取れる。


罪を犯すことに対して「魔がさす」という解釈は
聖書の何処に出て来るだろう。
私はまだ見つけていない。
この「魔がさす」という考え方について、
聖書ではどう捉えているのか。


先週聞いた、
標茶の牧師先生の説教を思い出した。
その日の聖書は創世記の3章だった。


 蛇は女に言った。
 「決して死ぬことはない。
  それを食べると、目が開け、
  神のように善悪を知る者となることを
  神はご存知なのだ。」
          (創世記3;4新共同訳)


女は蛇の言葉を聞いて、
取るなと神に言われていたその実を取って食べ、
男にも渡し、男も食べた。
それがばれた時、
男は女が自分にくれたからと、
女は蛇が自分をだましたからと、
それぞれに言い逃れする。
ここで、
「他人のせいにするんじゃありませんっ!」
と神は言われず、
二人を追い出してしまわれた。
親が小さい子を叱るのと同じ状況は展開せず、
二人は楽園を追放される。
何故か。
それは二人共、
自らの意志で神との約束を破ったからだ。


牧師先生は私達に言った。
「蛇の言った言葉をよく読んで下さい。
 取ってはならない実を
 取って食べろとか、
 神の命令に背きなさいとは
 蛇は一言も言っていない。
 魔がさしたとか、
 悪魔にそそのかされたとか
 私達は自分の罪をそう言い表さないだろうか。
 女は蛇の言葉に誘惑された。
 男は女の行為に誘惑された。
 しかし神の命令に背く事を選択したのは
 女も男も、
 それぞれ本人自身の意志で選んでした事です。
 どんな誘惑があるにせよ、
 私達が罪を犯す時は、
 自分の意志で選択し、決定し、
 実行して犯すのです。
 してはならないとわかっていて犯す罪は
 全てそうです。
 他の誰かのせいではない、
 蛇でも悪魔でもない。
 本人の意志で選択して行なった事です。
 神の御旨を知る以上、
 私達は神に対して責任があります。
 自分が、
 自分の意志でしたと自覚しなければ
 悔い改める事は出来ません。」


あの時の説教の中の、
この部分だけが閃いて記憶に残っている。
ここの部分を取り違えると、
ただ少年だからという理由で
した事の責任に目を向ける事なく法律で保護してみたり、
女子児童を猥褻目的で誘拐し殺害した犯人が
「悪魔にそそのかされた」と無罪を主張したり、
不条理が起こるのではないか。
魔も悪魔も誰もやれなどと言ってない。
犯罪は加害者が自分の意志で選んで決めてした事だ。
そしてそれは誰よりも本人が一番良く知っているはず。


私の個人的な意見。
年齢が何歳だろうと無関係だ。
加害少年を
年齢を理由に法律で保護する根拠がどこにあるか。
まだ若いから加害少年にも将来があるからと聞く。
しかし
他人の将来を踏みにじって潰し、
自分自身の将来をも握り潰したのは
他ならぬ加害少年ではないか。
自分の意志で自らした事だ。
少年保護法を犯罪加害者に適応して保護する事自体が
不条理だと私は思う。

危機感(箴言30;15)

2006-08-16 17:32:47 | 未分類
蛭にはふたりの娘がいて、
「くれろ、くれろ。」と言う。(箴言30;15)


私が母教会で洗礼を受けたばかりの頃、
教会で人に躓く経験は大切だと、
洗礼を授けてくれた牧師先生が言った。
初めは宣教師や牧師、指導者のカリスマ性とか
教会で出会った素晴らしい先輩に憧れていても、
やがて
素晴らしいと思ってた人の中に
自分と同じ人間的な弱さや醜さがある現実を見て
幻滅する。
それは大切な経験だと牧師先生は私に言った。
その経験を通して
自分にもある弱さや罪を認めて謙虚になる事が出来、
人を許す事を学ぶ事が出来ると。
しかしそれ以上に、
立派な信仰者という一人の人間を
美化し偶像化して神を見失ってしまう危険から
自分と相手を守るために
どうしても必要な経験だと牧師先生は教えてくれた。
そのように考えると、
教会の中での意見の相違や
個別の人間関係で躓いて味わう痛みは
むしろ大切な事なのだろうか。
教会の中で信徒が牧師や指導者に対して
神を見るように依存的だったり
身勝手に美化した理想像を重ねて追い求めると
始めのうちは笑い話、
でもやがて教会を揺るがす危機に変わる。


今だから冷静に考え回想出来る事だが、
札幌から移って来た時、
教会が散らされるかも知れない危機を感じた。
主なる神が怒って
牧師をこの教会から取り他の無牧の教会に与える、
教会は散らされて
そこにいた者は行き場を失う、
移って来たばかりの私はそんな危機感を抱いた。


牧師一人を孤軍奮闘させて手は貸さない耳も貸さない、
それでいて
牧師があれもしてくれないこれもしてくれないと
不平不満をぶちまけ、
同時に牧師がワンマンで自分達を無視していると
矛盾した批判する人達がいた。
牧師一人に何もかも喋らせ書かせ決めさせておいて、
遠巻きにして肘をつき批判する。
教会員名簿を見ると信仰歴の長い信者ばかりだった。
耳に残る彼らの言葉。
牧師夫妻の面前で吐き出されたその教会員達の言葉。


「毎年人集めてコンサートやって
 何の意味があるんですか?
 一体それで結果的に何人教会につながってます?
 やる意味あるんですか?」

「こんな小冊子にまでいちいち教会から献金するのは
 一体何の意味があるんですか?
 どうせ誰も読まないのに無駄です。」

「最近牧師先生は
 教会員の家を訪問してくれないですよね。
 教会員の家族の救いに興味ないんですか?
 家族伝道の方にもっと力入れて下さい。」

「地域伝道にももっと力を入れてくれないと。
 でも牧師先生はお忙しくて
 伝道どころではないご様子ですね。
 学問にはご熱心ですけど。」

「伝道なんて牧師の仕事でしょ。
 私達のする事じゃないわ。」

「私みたいな未熟者が伝道なんてできません。
 牧師がいるだけでも有難いと思わなきゃ。」

「もし無牧になったら
 私は牧師のいる他の教会に移るからいい。」

「私達の献金が少ないから牧師先生は
 家庭訪問もして下さらないし、
 充分働いて下さらないんですね。
 他所のもっと待遇のいい教会に行かれてしまっても
 仕方ないですね。」

「献金を海外援助だの平和運動だの勉強会だの、
 お遊びみたいな事に使ってるじゃないですか。」


だらだら不平不満を垂れ流すのは
牧師へのあてこすりが目的だと読み取れた。
正直、何て所に来てしまったのだと思った。
元いた母教会に戻りたかった。
しかし戻る道が閉ざされている事も知っていた。
教会が牧師一人だけで運営できると思っているのか。
牧師一人で礼拝を準備し、会堂を管理し、
地域住民や市内の他教派と関わって
行事や牧師会、市民クリスマス、ラリー、
そして地区の教派の連絡窓口となり、
役員や総会の運営、代議員の役割、
修養会の取りまとめその他の様々な雑事を請け負って、
牧師は人一人の働ける仕事量以上に働いていた。
牧師を批判する人々は
牧師の仕事のほんの一部すら分担しない。
「私のような信仰的に未熟な者にはとてもとても、
 出来ません。」
さらに説教に感動できない、
教会員の家庭に出向いて家族に伝道しろ、
要求するばかりで指一本貸さず動きもしない。
そして牧師個人の人格だけでなく家族の人間性までも
中傷のネタにする。
教会が立っている事自体が不思議なほど、
建物の中に入ってみるまで考えもしなかった惨状だった。


牧師とはこれほどまでに理不尽な扱いを受け、
針のむしろで忍耐しなければならないものなのか。
重荷を全部牧師一人に負わせておいて、
身勝手な要求だけはする。
自分達が過去にいろいろな教会を渡り歩き
あちこちで拾い集め自分に都合よく歪めて
仕立て上げた理想の教会像を、
彼らは牧師と他の教会員達を批判する根拠にしていた。
彼らにとって教会とは行けば何かして貰える所、
自分は迷える子羊だという位置づけを、
その言動から読み取る事ができた。


「私達は迷ってるんです、
 困ってるんです、
 悩んでるんです、
 寂しいんです、
 苦しいんです。」


力を合わせて教会を建て上げるとか、
教会を支えるために何かするという考えの
入り込む余地はない。
何十年もその価値観で生きてきて、
意識改革は可能なのだろうか。
それで苦しんでいたのも彼ら自身だった。


牧師を厳しく批判し暴言を吐く。
「メノナイトは万人祭司と言っているが
 そんなメノナイトの牧師に牧師の資格はない。」
「牧師は世の中を知らない。
 私達教会員の事なんて何も考えてくれてない。」
だったら牧師なんて要らないだろうと言いたくなる。
牧師への批判を弁舌巧みにしておきながら、
あれして欲しいこれして欲しいと
要求だけはしっかりやって諦めない、
教会員に牧師への不信感を植え付けるような讒言をし、
教会員同士の人間関係をも裂こうとする、
弱者のふりをして牧者を潰そうとする狡猾な羊。
信仰を告白し洗礼を受けて何十年経っても
なお迷うふりをする羊。
その羊は羊ではなくて蛭。
箴言に登場する蛭。


聖書の中から気に入った字づらだけを引き出してきて、
自分に都合よく作り上げた理想の教会像。
その偶像に何を期待するのだろう。
テモテへの手紙Ⅰの3章を引用して
彼らは牧師にも教会奉仕に加わろうとする人にも
完璧な人間像と高いハードルを設けて裁こうとした。
ハードルを高くされると他の教会員達は萎縮して
誰も奉仕に参加できなくなってしまう。
立派な信仰者でなければ
奉仕に参加する資格がないかのような強迫観念が生じ
悪循環を教会の中に生み出していた。


しかし牧師や教会員達を批判していた人々を
私は笑えない。
彼らには躓いた傷の痛みがあった。
過去に渡り歩いて来たあちこちの教会で彼らが
教会観の違いや聖書の読み方の違いに悩み、
人間関係に傷つけられて躓いた事を私は知っている。
何度も傷つく経験をするうち痛みに耐えかねて
理想の牧師像、理想の教会像を抱くに至った心理に、
その追い詰められた心理に、
私は共感する事が出来なくても理解は出来る。
現に彼らの一人は私に言った。
「この教会で躓いたら、
 私にはもう他に行く教会がない。」
そして
イエス・キリストを見るのと同じ角度で、
いやそれ以上の角度で牧師を見ていた。
そう、牧師を批判し排斥しようとした彼らは
教会の中の他の誰よりも強い熱意を以て
牧師を愛し慕っていた。
その角度のずれが本人も牧師も、
教会員達をも裁き追い詰めていたと思う。
これを他人事と笑う資格が誰にあるだろう?
彼らの受けてきた痛みを思うと胸が痛くなる。
しかし引き摺られてはならないとも思った。
結局彼らは理想の教会を求めて立ち去った。
彼らがどこかで理想の教会に出会って
居場所を見つけたならそれは幸いだ。
しかし私達はどうすればいいのだろう?
一体教会とは何だろう。
何よりも、教会で自分は何をすればいいのか。


今、教会に一番足りなくて必要とされているのは
学識や指導力のあるリーダーなどではないと私は思う。
今教会にとって切実に足りないもの。
足りなくて教会が存亡の危機に瀕するもの。
それは生身の人間である牧師の重荷を思いやり、
牧師と共に生きた祈りを捧げる教会員ではないかと
私は思う。
牧師は教会員同様に弱さも悩みも欠点も持ちながら
自分の人生を捧げたのだ。
献身するとはそういう事ではないだろうか。


来た早々自分はここでやっていけるのかと考え込んだ。
しかし神が牧師を教会に留まらせておられるのだから、
忠実な祈りの信徒が教会のどこかに誰か、
隠れているはずだ、その人を探そうと思った。
そして私はある人から声をかけられた。
夜の集会の後、
普段あまり話した事のなかったKさんが
私に声をかけてきた。
「ともちゃん、
 祈りの友になってくれない?
 今、うちの教会には私と一緒に祈ってくれる人が
 誰もいない。
 皆、重荷や問題を抱えてて余裕がないみたい。
 心が飢え渇いているというか、
 私自身心が干乾びてる。」
願ってもないこちらこそ、
私で良ければ私の方から喜んで!
しばらくすると夜の集会にもう一人、
Fさんが加わった。
ずっと仕事や家庭の事で教会から遠退いているうちに
自分自身が疲れてダメになる気がした、
今日ほんの少し時間が作れたのでチャンスだと思って
夜の集会に来た、とFさんは言った。


Kさん、Fさん、私。
お互い教会につながっていながら初対面同然だった。
お互いに信仰歴、キリスト観、教会観、家族の事などを
何日も掛けて語り合った。
この不況の過疎地で働きながら教会生活を送る事の
辛さと喜びの大きさを共感し合える友達が与えられた。
そして現在教会から離れている、
離れようとしている教会員のために何ができるか、
牧師を批判する教会員のために何ができるか、
私達のすべき事が示されるよう祈り合った。


私達の意見が一致した事。
祈り合う事でお互いに支え合っていく。
仕事で会えなくても電話などで連絡しあう。
自分達が教会内の分派にならないように
風通しのよい凝り固まらない信頼関係を維持する。
私達それぞれが各自牧師との信頼関係をしっかり作り、
自分にできる仕事がないか
常に牧師との意思疎通を密にして協力する。
可能な限り時間を工面して
主日礼拝と水曜夜の聖書研究祈祷会に出席し、
牧師と共に福音と祈りの時を分かち合う。
他の教会員達ともっと人間関係を作って祈りの輪を広げ、
共に教会を支えていくための理解と協力を得る。
お互い相談しながら、
批判的な教会員とのつながりを持つようにして
信頼を回復出来るようにとりなしの働きに努める。


水曜の夜はいつも日勤の後職場から教会に直行し
夜の集会に参加したので私は空腹だった。
たまにFさんが付き合ってくれた。
モスを2個とサラダも平らげながら話した時の事を
憶えている。
「今は教会もしんどい時期だけどさ、
 出来る時に出来るだけのことをがんばってやってさ、
 笑って今の事を思い出す時がいつか来るよきっと。
 お互いそれを信じていこうね。」


私は話しながら、
自分の知らない所で牧師が重荷を背負い
Kさんがずっと祈り続けてきた事を思った。
主なる神がKさんの祈りを聞かれていたのだと思った。
今でも私はそう思っている。
この世に理想の教会などない。
完璧な信仰の指導者も存在しない。
教会は盛り上がって賑やかな時もあれば
荒れて沈み込む時もある。
しかし
素直な生きた祈りを神に捧げる人が一人でもいれば、
主が教会に人を運んで下さる事を教えられた。
同時に神を見ずに人を見る事が
どれほど危険かを学ばされた。
私はあの時、
自分が御手に運ばれてここに来た事を痛感した。
牧師先生は一時期身体が故障したり辛い事もあったが、
常に私達を励まし支えてきて下さった。
Fさんが加えられてから、
Mちゃん夫妻が奉仕に加わり、
新たに移転して加わったAちゃんが、
自分の母を説得して母娘で教会の力になってくれた。
その後あの人が加わりこの人も加わって、
祈りの輪の中にどんどん人が加えられて
教会に人が増えた。
単に出席者の頭数が増えたという意味ではない。
教会の土台となる祈りで結束した兄弟姉妹が定着し、
少しずつ着実に加えられてきた。
その間も万事順調だった訳でなく、
牧師も教会員各自一人一人も、
それぞれが健康や家庭や仕事の事情を抱えていて
思うように動く事の出来ないジレンマと闘っていた。
しかし誰かが奉仕に参加出来なくなっても、
教会に来る事が出来なくなっても、
励まし合って協力し補い合ううちに
精神的な結束は強くなった。
これでいいという事は決してないし、
何も問題がない時もない。
私自身、あの時お互いに話し合ったうちの
どれだけの働きを自分が果たせたかを考えると
恥ずかしい限りだ。
むしろおんぶに抱っこされっぱなしで
辛うじて枝の先にぶら下がっている。
キリストの体は現実に枝を広げている。
今日現在も。