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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

“書いてある”(追記あり)

2010-08-28 22:52:14 | マタイ
先日、診察待ちが長くて耐えられず、
頭が痛いくせに手持ちの新約聖書を読んで
思い浮かんだ事を書こうとしたが
今月発売の月刊モーニング・ツー『聖☆おにいさん』を読むうちに
忘れてしまってがっかりしていた。
しかし、唐突に思い出したので書く。


(マタイ4;1~11)


荒野で40日断食して空腹のイエスに悪魔が誘惑の囁きをする。


ψ(`∀´)ψ「腹へってんだろ。
       お前が神の子なら石をパンに変えてみな。」


┐( - 。-)r=3 「パンに変えたからって石なんか食ってどーする。
       人間、パンだけじゃ世の中生きていけねーんだよ。」


ψ(`∀´)ψ「お前が神の子ならここから飛び降りてみな。
       神が天使達に命令して助けるって書いてあるから、
       飛び降りても死なないんじゃね?」


o( -"-)o-3 「ちゃんと読まんかいアホ。
       書いてあるからって飛び降りてどうする。
       飛び降りるちゅー事は神を試すっちゅーこっちゃ。
       ええ度胸や、よっしゃお前が飛び降りろ。」


ψ(`∀´)ψ「土下座してわしを拝みな。
       そしたら金も地位も権力もやるよ。」


ε-o( Д) ゜ ゜ 「いらんわ!
        お前に土下座してどーする。」



という会話だ。


第一の誘惑は、
「空腹なら、石をパンに変えてみろ。」
悪魔は生理的欲求によって神に向かう心を挫こうとする。
イエスは人間を生かしているのは食い物ではない事を指摘する。


第三の誘惑は、
「権力と富の総てをやるから私を拝め。」
悪魔は支配欲と所有欲によって神に向かう心を脱線させようとする。
イエスは神以外の何者にもひれ伏さないと宣言し、突っぱねる。




私は第二の誘惑に注目する。
三つの誘惑の中で、第二の誘惑は信仰者にとって罠だ。
巧妙な罠。


「飛び降りても天使が助けると聖書に書いてあるから
 ここから飛び降りてみろ」


実際に高い場所から飛び降りれば
当然人間は地面に叩きつけられて木っ端微塵、
砕けたスイカ同然になる事はわかりきっている。
信仰の無い人にとってこんな馬鹿げた誘惑は誘惑にならない。
しかし信仰者にとってはそうではない。


“聖書に・・・・・・と書いてある”という罠。


信仰者にとって、この第二の誘惑は、
「聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにする」
という悪魔の巧妙な罠だ。
高慢と盲信の二重構造の罠で、
表向きは敬虔な模範的信仰者の仮面が被せてある。


「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
信者同士で意見が対立し議論になった時に聞く事がある。
「俺の方がお前よりも聖書わかってんだぞ」と相手を見下す、
恥ずかしい知識自慢の意味を含んでいたり、
議論の席の自己防衛の盾として、或いは相手を言い負かす武器として
聖書の文言を自分に都合良く切り貼りして持ち出し利用する、
自称知識人の歪んだ自尊心を悪魔は巧妙にくすぐる。
読んで優等生か何かのように得意げになるなら
聖書など読まない方がましだ。


しかし、
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
幼稚な知識自慢ではなくもっと盲目的に、
鵜呑みとしか言いようの無い自己完結の仕方で
“書いてある”“書いてある”と連発する類の人達もいたりする。
熱心に聖書を読む真面目な信者なのに
感想を話し合い分かち合う事が全く出来ない。
共感するものが何も無い。
何故なら彼らは
どの人も共通して聖書に書かれた事に疑問を持たない。
聖書の文言に疑問を持つ事自体を罪深い事、禁忌として避けたがるので
お互いに同じ聖書を読んでいるのに対話が成立しない。
自分の行動や意見の根拠に聖句を引用して理由付けする。
何か言ったり何かする度にいちいち聖句を引用するので
日常会話がどえらく長い話になる。


「私は・・・を・・・・します。
 聖書の***の**章**節に・・・・と書いてあります。」


「聖書は考えたりしないで、幼子のようにただ素直に読むべきです。
 天国は幼子のような者達のものであると書いてあります。」


「聖書を自分で読んで解釈したりすると
 学者のように高慢になるから、難しい事は考えずに信じます。」


確かに、神学は人を救わない、人を救うのは神だけだ。
しかし、本当に一つも何も疑問を持たずに聖書を読めるものだろうか?
聖書に書かれた教えと現実の日常生活の出来事との間で生じる矛盾に
葛藤や苦痛を感じて神に向き合おうと祈ったり、意味を考えたり、
本当にしないのか?


「・・・『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4;6)


聖書にそう書いてあるから考えずに信じる、信じて飛び降りるのか?
書いてあるからって、いいのか飛び降りても?


悪魔の第二の誘惑はこういう罠ではないかと思う。
聖書を読んで自分の心の奥底に起こる思いを正視せず、
聖句の意味を吟味せずただ鵜呑みにする事は
生きた生身の人間の信仰だろうか。


聖書を読んで生まれた疑問は大切にするべきだ。
封じるべきではないと思う。
その疑問から祈りが生まれる。
神に祈る事、神と向き合って神に聞く、
祈りは疑問から始まるものではないのだろうか。
到底信じられない事柄も、納得いかない事も、
どうしてそうなるのか神に聞いて答えが示されるのを日常で待つ。
私の場合、祈りはいつもそうやって生まれる。
心の奥底の疑問を認めないで聖書を読んでも
それは死んだもの同然、
呼吸をせずに飯を食おうとするようなものではないか。


よく気をつけないと、
真面目に熱心に聖書を読めば読むほど第二の罠に引っ掛かる。


聖書に書かれた事柄を字義通りに丸呑みする読み方は
真面目で熱心なようでいて実は怠惰な読み方ではないか。


字面だけを追って、
前後の文脈を把握して適切に理解する努力をしない。
書かれてある事柄を自分自身に置き換えたり
教えと現実との落差に気付いて苦悩する事を回避する。
書かれた事柄を通して神から自分に与えられた課題に向き合わず
無い物として目を逸らす。


自分の頭と心を惜しんで感性の鈍磨した、
疑問を認めず神に「何でですか」と問う事もせず、
自分自身で咀嚼する事すら放棄した、
ただ丸呑みし嚥下するだけの、死人のような怠惰な読み方。


怠惰だから聖書に疑問を持たない。
怠惰だから信者同士でしか通用しないクリスチャン用語を
会話の中で連発する。
怠惰だから、
人間を二分化して理解しようとする。
救われた自分達と救われていない未信者との二分化。


「私達は救われたクリスチャン、
 クリスチャンは救われて天国に行くと聖書に書いてあります。
 クリスチャン以外は救われていないノンクリ。
 ノンクリの人達のために祈ります。
 早く私達と同じように救われて天国に行けますように。」


この怠惰で短絡的な思考回路こそが悪魔の第二の誘惑。


ああ。
やはり悪魔はあくまで悪魔だな。
書いていて吐きそうになってきた。
アレルギーだ。
この辺でやめとこ。

受容

2010-07-10 17:28:41 | マタイ
「なぜ、あなたたちの先生は
 徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。
 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
 とはどういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
 罪人を招くためである。」
                       (マタイ9;10~13)


福音書記者マタイは
自分がイエスと出会った感動や喜びの感情を言葉で書き残していない。
マタイは自分の目で見たイエスがどんな人となりであったか、
自分がイエスと接してどう感じたかを、
ヨハネのように直接的な表現では描写していない。
マタイはイエスの語った事柄を読者が整理して受け止めやすいように
的確に整理し、まとめ、編集している。


マタイの福音書のイエスの教えを通して見えてくるのは、
当時のユダヤ社会における宗教的指導者達の傲慢さ、驕りと堕落である。
ここには社会の底辺で辛うじて生き延びる人々を
神への信仰という名を借りて心理的に縛り、抑圧し、搾取する
傲慢な宗教的指導者達の姿と、
抑圧されて救いを見失い、迷走、脱線してしまった人々が大勢登場する。
神の本当の御心は罪を犯す人間を裁いて抑圧する事ではなく、
赦し、憐れみ、悔い改めに導いて癒し、救う事にあるのに、
宗教的指導者達はそれを歪めてしまった。
歪められてしまった神への信仰に焦点を当て、本来のあり方に
軌道修正させようとするイエスの憤りと奮闘の姿が
マタイの福音書では克明に描かれている。


マタイ自身が抑圧され、蔑みを受ける立場にあった。
直接的には書かれていないが
マタイが生き延びるための生活の支えとして営んでいた徴税の仕事が
当時のユダヤ社会で同じユダヤ人の同胞から「ローマの手先」として
いかに敵対され忌み嫌われていたかが伺える。


職業によって、或いはその生活の営み方によって軽蔑される、
そんな立場に立たされた者にしか理解出来ないには違いないが、
今現在の社会に当てはめてマタイと同様の立場に自分を置き、
文字に書き残されていないマタイの味わった屈辱と痛みを黙想し、
共感する事を試みる事は可能だと思う。
例えば今の社会でいうなら
マスコミを通じて非難されバッシングに遭う立場、
犯罪加害者の家族、住所不定無職のホームレス、精神疾患を抱える人、
周囲から疎んじられ家庭にも職場や学校にも居場所を見出せない大人や子供。
自分が彼らの立場に立たされた事を黙想してみる。
肩身の狭い立場で生きなければならない苦しみを自分に当てはめて想像すると、
マタイがイエスに遭うまでどれほどの悩みと葛藤の中で生きていたか、
微かに読み取れる気がする。


マタイの福音書の中のイエスは終始憤っている。
神への信仰はこれではダメだ、今のままではダメだと告発する、
まるで不機嫌な宗教改革者の姿のように描かれている。
そんなイエスを見つめるマタイの視点に
期待と喜びが込められている。


喜び。
マタイの福音書には喜びがある。
蔑みと葛藤の中で混沌に落ちて神を見失った者が光を見出した喜び。


福音書に登場する食事の光景はとても重要だ。


イエスが誰かと一緒に食事をする。
福音書の中で、食事は相手を仲間として認め、分かち合う行為である。
世の中で蔑みを受け忌み嫌われていた自分を呼び、
人として認め、同じ食卓に招いて一緒に食事してくれた。
虐げられた者の目に、イエスがどんなお方であったか、
マタイの目を通したイエスがここにはっきり描かれている。
イエスに受容された喜びの体験、それがマタイの信仰の原点に違いない。


では、私自身はどうだろう。
私の信仰の原点は。

マタイ

2010-07-06 00:15:12 | マタイ
イエスはそこをたち、通りがかりに、
マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。
                    (マタイ9;9)




定期受診しに行った病院で診察待ちする間、
黙想の本を読んで考えていた。


イエスが人の心の中に入って来られる事について。


福音書の登場人物で、
主イエスに人生を変えられた人々の
その劇的に変えられた生涯を思い浮かべると、
ペトロやパウロにばかり注目してしまうが、
マタイこそまさにそれだと思う。


マタイがもしイエスに出会わなかったら卑しい職業の者として
差別される徴税人のまま一生涯を終えたに違いない。
マタイがもしイエスに出会わなかったら
福音書記者マタイは誕生しなかった。
主の祈りや山上の垂訓は書き残されず、
イエスの説教が一つの福音書に整理される事もなく、
後の時代の我々が読んで神に向き直る事もなかったに違いない。


マタイに収入源である徴税の仕事を捨てさせ、
それまでの生活そのもの全てを捨てさせたイエスは
どんな言葉で彼に話しかけ、どんな表情で笑い、
どんな声で福音を語ったのだろう。
どんな風にしてマタイの心の中に入って来られたのだろう。


徴税人マタイに自分の生活を捨てさせただけでなく、
教えを書き留め宣べ伝えるため残りの全生涯を捧げさせた、
イエスの人柄を思い浮かべてみる。


分け隔てない言葉、どんな相手にも気さくに話しかけてくる態度、
世間一般の人々から差別され、軽蔑される者に距離を置かず、
親しく近づいて来るイエスの人間に対する受容の仕方、
人から軽蔑される者であったマタイの気持ちになって
イエスの姿を思い浮かべてみる。


思い浮かべてみる。
徴税人マタイを福音書記者マタイに変える原動力となったイエスを。
一人の人間の生き方を根底から覆し、
その人だけでなく後の時代の無数の人々までも
神に向き直らせて生かす、イエスの無限の力を。

ゆるす

2010-02-14 19:32:54 | マタイ
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
                    (マタイ18;21~35)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第九話 ゆるしについて


人をゆるす。
主の祈りの中に唯一記されている、人間がするべき事。


  神が私たちに望まれているのは、たったこれだけです。
  しかしながら、
  これがとても難しいということは誰でもうなずけるでしょう。
                          (本文より)


何がゆるしではないか。
ゆるしでないもの。


我慢する事。
いつか怒りや恨みが爆発する。


水に流す事。
流したつもりでも腹の中に溜まったまま、いつか出て来る。


見ないようにする事。
結局は目に付いて我慢出来なくなる。


  では何がゆるしなのでしょうか。
  イエスがこの世に来られたひとつの目的は、
  私たちの罪をゆるすことでした。
  私たちが人をゆるせるとしたら、
  まず私自身がイエスからゆるされているという事実を
  しっかりと認識することが必要です。
  イエスのゆるしとは、私たちがどんなに罪深くとも、
  そのだめな私たちをいつも
  変わらず愛し続けてくださっているということです。
  ゆるしとは
  イエスの全く自由で変わることのない愛の態度そのものです。
  それは感情に左右される、はかなく変わりやすい愛ではなく、
  好き嫌いの感情を乗り越えた自由意思の決断による愛です。
                         (本文より)


そう。
簡単ではない。
しかしイエスがこの世に来られたのは私たちを赦すためだった。
私たちも、誰かを赦すためにこの世に生まれ、生かされていると
近所の教会の司祭がいつか説教で話していた。


  私達は誰かを許すために、誰かを愛するために、
  この世に生まれて来ました。
  私達は人を許すために、愛するために、
  生命を与えられ、生かされています。
                   (ロンデロ神父)


ゆるしの愛の実現。
著者によると三段階あるらしい。


1.相手に対する嫌な気持ち、怒り、恨み、自分のありのままを直接伝える。
 陰口ではなく素直に。
 攻撃的に批判するのではなく辛い気持ちを分かち合う。


  イエスは決して言いたいことを我慢しませんでした。
  ファリサイ派がおかしいことをしたときは、直接にはっきりと
  何が悪いかを指摘しました。
              (本文より)


2.話し合いの後で、相手を完全に自由にする。
 相手を自分の物差しに合うようにその人を変えようとしない。


  ゆるしの愛とは、その人を百パーセント自由にすることです。
  イエスは敵対する人やユダに対して、
  いくらその人たちの行為がおかしくても、
  その人たちの自由を最後まで心から尊重し、
  決して強制的に何か強いたことはありませんでした。
                      (本文より)


3.自分の好き嫌いや相手の態度に関わらず、
 自分は自由に相手を愛し続ける決断をする。


  相手の態度、自分の感情に振り回されることなく、
  それでもその人を自由に愛し続けていくことこそ、
  ゆるしの極致だと言えるでしょう。
  ユダがイエスを裏切って彼を捕らえようとしたとき、
  イエスはユダに向かって、「友よ」と呼びかけます。(マタイ26;50)
  イエスがユダを最後まで友として愛し続けていた証拠だと思います。
                           (本文より)


「友よ」という言葉はユダにとって突き刺さる言葉だ。
イエスのユダに対する「友よ」という言葉は
ユダには刺し通される痛い言葉だったに違いない。




人をゆるすのが難しいと感じたこと。


 数え切れないほどある。


その気持ちの裏にある自分の態度は。


 相手を既に死んでこの世にいない者として黙殺する。


イエスが自分の罪をゆるしてくれたと実感する事があるかないか。

 ない。
 何故なら私はあの人をゆるしていないから。
 何度もゆるす事に失敗しているから。


本文中のゆるしの三つのステップをみて、自分に必要な事は今、何か。


 ゆるせない相手の心理に僅かでも共感出来る何かを探す事。
 それを見つける事が出来れば
 自分の相手を見る角度が完全に変わる。

2009-07-03 17:30:00 | マタイ
映画『奇跡の丘』受難の場面。


ゴルゴタの丘で
十字架に架けられた我が子を見る母マリア。


その映像を見てから
ルカによる福音書の中の
天使ガブリエルの祝福とマリアの賛歌を読むと
泣けてくる。


「おめでとう、恵まれた方。
 主があなたと共におられる。
 ・・・マリア、おそれることはない。
 あなたは神から恵みをいただいた。」(ルカ1;28~30)


「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう・・・」(ルカ1;47~48)


何度見ても胸を抉られる。


「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」(ルカ2;35)


イエスが幼子だった時に
神殿でシメオンがマリアに告げた「剣」が
どんなものであったか
この画面の中のマリアから伝わってくる。

笑顔

2009-07-03 16:55:00 | マタイ
映画『奇跡の丘』の中で私の一番好きな場面。


イエスがエルサレムの神殿で
両替商や生贄用の動物の売人達の露店を蹴散らした後、
大勢のちびっ子達や貧しい怪我人や病人達が
突然大勢雪崩れ込んで来る。


ちびっ子達はイエスに向かって
めいめい手に持つ枝を振りながら
わあわあ大声で賛美の言葉を叫ぶ。
カメラの動きはイエスの眼差しと重なって
子供達一人一人にゆっくりと視線を向けて行く。
皆煤けたばばっちい身なりの貧しい子供ばかり、
犇めき合ってイエスに叫んでいる。


幼稚園に行く年に
テレビの白黒画面でこのシーンを見ていた時の事を
よく覚えている。
あの時私は自分も
イエスに何か叫ぶ子供達の一人になりきっていた。
映画の内容は全く理解出来なかったが、
完全に画面の中の世界に入り込んだ気で見ていた。


このシーンでだけ唯一、
映画全編中ずっと不機嫌で気難しいイエスが
はっきりと笑う。
話も聞こえないほどに歓声をあげる子供達を
いとおしそうに見つめていたイエスは
一瞬だけ、愉快そうに歯を見せて笑う。


今にして思う。
5歳の自分はこの時イエスに惚れていた。


ちびっ子達は
嬉しそうに笑っている子もいるし
照れくさそうに枝を控えめに振る子もいるし
真剣な顔つきで大きく口を開いて叫ぶ子もいる。
乳歯が抜けて歯が欠けた子もいる。
わあわあ叫ぶばばっちい子供達の中に
この映画を見た時の5歳の自分がいる。

サロメの踊り

2009-07-03 16:08:00 | マタイ
福音書を題材にした他の映画では
踊るサロメのシーンは大昔のストリップで
ケバい厚化粧の粉っぽい女が如何にも淫乱そうに
挑発的な振りで毒々しく踊り狂うイメージで表現されていたが
『奇跡の丘』は全く違う。


思春期になるかならないかの年頃の少女が
王と客人を前に優雅な衣装を纏い
花の咲いた木の枝を手に緊張した面持ちで踊る。


踊り終えた少女は息を切らし母親に抱き付く。
王は望みのままに褒美をやると言う。


「バプテスマのヨハネの首を。」


毒々しく雌の匂いを放つ女ではなく
可憐で清楚な少女の口からその言葉が出て来るからこそ
次のシーンの凄惨さが際立つ。

4人の漁師達

2009-07-03 15:42:00 | マタイ
パゾリーニの映画『奇跡の丘』の
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが
網を置き、船と親を残してイエスに付いて行く光景。


空と荒れ野、空と畑、空と湖。
この映画の画面は終始天地二分割されている。
イエスはその広大な画面の中を大股でずんずん歩く。


胡麻粒のように小さい人間達が
無限に広い天と地の画面の中でイエスと出会う。
というよりも、
イエスは初めから的を絞ったように
彼らの方へ急ぎ足で進んで行く。
そして彼らを呼ぶ。
4人の漁師達は言われるままに
稼業と親を後にしてイエスに付いて行く。


偶然出会ったのではなく、
漁師達の方から願い出たのではなく、
イエスの方から呼びに来た。
急ぎ足で。

ベツレヘムの子供達

2009-07-03 15:18:00 | マタイ
ようつべを漁ってとうとう見つけた。
パゾリーニの『奇跡の丘』。
私の記憶に残る一番古いキリストの映画。


イエス・キリストの生涯を描いた他の映画とは別格の、
ドキュメンタリーのような臨場感と説得力を感じるのは何でだろう?
この映画の登場人物に小奇麗な顔つきの俳優や
いわゆるプロの芸能人が使われていないからだろうか。


この映画の台詞は全てマタイの福音書本文だけ。
だから字幕があろうと無かろうと見れば意味はわかる。


しかし、
この映画を見て
聖書という書物の上の福音を追っていただけでは
見落としていたものに気づく事もある。



ベツレヘムで生まれた幼子イエスと
ヨセフ、マリアの傍らにはごく自然に
同じような貧しい人々とその子供達がいた。
生まれたばかりの弟か妹を抱っこして
親の代わりに子守する子供や
マリアの腕の中の赤ん坊イエスを
無邪気に目を輝かせて見ている、
貧しい小さない子供達。


福音書の中には特に描写も無く
映画の中で台詞も与えられていないこの子供達は
幼子イエスを取り巻くほんの一時の
ほのぼのした空間を生み出している。


この後、
ヨセフがマリアとイエスを連れてベツレヘムを去る。
福音書を読んだ時には気づかなかったが
このシーンは胸が痛む。


バッハのマタイ受難曲の中の終曲が流れ
ヨセフとマリアが幼子を連れて
ベツレヘムを立ち去る。
幼子を抱え振り向いたマリアの
ロバの背に揺られる視線の先には
イエスの傍らにいたあの子供達が
取り残されたようにぽつんと立って見送っている。
胸が痛くなる。


あの子供達は
次のシーンでヘロデ王の兵達に惨殺される。
福音書を読んだ私はそれを知っているが
彼らは何も知らない。

5つのパンと2匹の魚

2009-01-29 14:54:00 | マタイ
マタ14;13~21
ルカ9;10~17
ヨハネ6;1~14


昨夜は焼き柳葉魚。
今日は乾燥柳葉魚。


5個のパンと2匹の魚が


5個の乾パンと2匹の柳葉魚だったら


5粒のパンくずと2匹の白魚だったら


5斤の食パンと2匹のまぐろだったら





・・・・・・・・・・σ(・"・)・・・どうよ。



まぐろだったら・・・・
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人、
漁師出身者総出で
まぐろ解体ショーが始まっちゃうかな。

神のものは神に(マタイ22;15-21)

2008-11-06 11:23:21 | マタイ
マタイ22;15-21


『福音の味わい』英隆一朗


皇帝のものは皇帝に
神のものは神に返す


この世界は全て神のもの。


神のものを神に返す、
神との関係の中で私達がものを見なければ
私達の生活は虚しい。


全てを神様にお返ししなければ
私達の生活は成り立たない。


税金を払うのは義務。
神との関係は義務ではない。


神のものは神に返す。
神からの恵みによって生かされている私達は
その恵みに愛をもって応えていく。


神との関係。


では
神のものをどのように神に返していくか。


神がどれだけ私達に
恵みと憐れみを注いで下さっているか
それに対して私たちはどのようにお返ししていくか。


神に対して。
人々に対して。

祈る時の態度(マタイ7;7~11)

2008-10-04 07:59:38 | マタイ
マタイ7;7~11


FEBC『神との親しみを深めるために
     ―祈りを身につける―』英隆一朗


どうすればいいかわからない苦しみ。
どうすればいいかわかっていても出来ない苦しみ。


どうすればいいかわからないなら
主なる神に聞く。


主よ
どうすればいいか教えて下さい。
どうすればいいか道をお示し下さい。


どうすればいいかわかっていても出来ないなら
主なる神に依り頼む。


主よ
出来るように力を与えて下さい。


問題にぶつかった時
あらゆる解決手段を模索する前に、
まず
主なる神に依り頼み、聞く。
主なる神がその問題に
光を当てて下さるように乞い願う。


悩む時間を祈りの時間に置き換える。
悩む時こそ神に触れるチャンス。

探す(マタイ13;44~52)

2008-10-01 07:08:56 | マタイ
マタイ13;44~52


『福音の味わい』英隆一朗


隠された宝を掘り出す喜び。


自分の人生の中に隠された宝を探す。
自分の人生に宝を見出す事が出来るかどうか。


私は
自分の人生に宝を見出して来ただろうか。
宝を見出す以前に
宝を探して来ただろうか。


自分の宝を探し、発見しながら
苦しんでいる人々の宝探しを手伝う事。


一人一人、
自分に与えられた宝探しの喜びと
他者の宝探しの手助けをする。


神の国。

信仰告白(マタイ16;13~23)

2008-10-01 06:54:50 | マタイ
マタイ16;13~23


『福音の味わい』英隆一朗


イエスが自分にとって誰なのか。


では、自分は一体誰なのか。


私達は一人一人が
主に招かれ、
主から名前を与えられている。


私達は主に呼ばれて
自分に与えられた使命を生きる。


魂の奥底で
主と深く交わり
主と共に歩む事で
主の望まれる自分自身になる事が出来る。

主の変容(マタイ17;1~9)

2008-10-01 05:53:18 | マタイ
マタイ17;1~9


『福音の味わい』英隆一朗


生きた神と
どのように日々交わっていくか。
生きた神との交わりに
常に招かれている事を意識して生きる。


主の変容は今も起こっている。


裂かれたパンに。


貧しい人に。


苦しんでいる人に。


キリストの体である教会に。


変容されたイエスに
私達は何処でも会う事が出来る。



イエスに聞き
イエスに従って行く時、
私達も変容される。


イエスの中の
脈々と流れる御父の愛に触れる事によって
自分が変えられていく。


変容されたイエスに出会って
私達も変容されていく。