先日、診察待ちが長くて耐えられず、
頭が痛いくせに手持ちの新約聖書を読んで
思い浮かんだ事を書こうとしたが
今月発売の月刊モーニング・ツー『聖☆おにいさん』を読むうちに
忘れてしまってがっかりしていた。
しかし、唐突に思い出したので書く。
(マタイ4;1~11)
荒野で40日断食して空腹のイエスに悪魔が誘惑の囁きをする。
ψ(`∀´)ψ「腹へってんだろ。
お前が神の子なら石をパンに変えてみな。」
┐( - 。-)r=3 「パンに変えたからって石なんか食ってどーする。
人間、パンだけじゃ世の中生きていけねーんだよ。」
ψ(`∀´)ψ「お前が神の子ならここから飛び降りてみな。
神が天使達に命令して助けるって書いてあるから、
飛び降りても死なないんじゃね?」
o( -"-)o-3 「ちゃんと読まんかいアホ。
書いてあるからって飛び降りてどうする。
飛び降りるちゅー事は神を試すっちゅーこっちゃ。
ええ度胸や、よっしゃお前が飛び降りろ。」
ψ(`∀´)ψ「土下座してわしを拝みな。
そしたら金も地位も権力もやるよ。」
ε-o( Д) ゜ ゜ 「いらんわ!
お前に土下座してどーする。」
という会話だ。
第一の誘惑は、
「空腹なら、石をパンに変えてみろ。」
悪魔は生理的欲求によって神に向かう心を挫こうとする。
イエスは人間を生かしているのは食い物ではない事を指摘する。
第三の誘惑は、
「権力と富の総てをやるから私を拝め。」
悪魔は支配欲と所有欲によって神に向かう心を脱線させようとする。
イエスは神以外の何者にもひれ伏さないと宣言し、突っぱねる。
私は第二の誘惑に注目する。
三つの誘惑の中で、第二の誘惑は信仰者にとって罠だ。
巧妙な罠。
「飛び降りても天使が助けると聖書に書いてあるから
ここから飛び降りてみろ」
実際に高い場所から飛び降りれば
当然人間は地面に叩きつけられて木っ端微塵、
砕けたスイカ同然になる事はわかりきっている。
信仰の無い人にとってこんな馬鹿げた誘惑は誘惑にならない。
しかし信仰者にとってはそうではない。
“聖書に・・・・・・と書いてある”という罠。
信仰者にとって、この第二の誘惑は、
「聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにする」
という悪魔の巧妙な罠だ。
高慢と盲信の二重構造の罠で、
表向きは敬虔な模範的信仰者の仮面が被せてある。
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
信者同士で意見が対立し議論になった時に聞く事がある。
「俺の方がお前よりも聖書わかってんだぞ」と相手を見下す、
恥ずかしい知識自慢の意味を含んでいたり、
議論の席の自己防衛の盾として、或いは相手を言い負かす武器として
聖書の文言を自分に都合良く切り貼りして持ち出し利用する、
自称知識人の歪んだ自尊心を悪魔は巧妙にくすぐる。
読んで優等生か何かのように得意げになるなら
聖書など読まない方がましだ。
しかし、
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
幼稚な知識自慢ではなくもっと盲目的に、
鵜呑みとしか言いようの無い自己完結の仕方で
“書いてある”“書いてある”と連発する類の人達もいたりする。
熱心に聖書を読む真面目な信者なのに
感想を話し合い分かち合う事が全く出来ない。
共感するものが何も無い。
何故なら彼らは
どの人も共通して聖書に書かれた事に疑問を持たない。
聖書の文言に疑問を持つ事自体を罪深い事、禁忌として避けたがるので
お互いに同じ聖書を読んでいるのに対話が成立しない。
自分の行動や意見の根拠に聖句を引用して理由付けする。
何か言ったり何かする度にいちいち聖句を引用するので
日常会話がどえらく長い話になる。
「私は・・・を・・・・します。
聖書の***の**章**節に・・・・と書いてあります。」
「聖書は考えたりしないで、幼子のようにただ素直に読むべきです。
天国は幼子のような者達のものであると書いてあります。」
「聖書を自分で読んで解釈したりすると
学者のように高慢になるから、難しい事は考えずに信じます。」
確かに、神学は人を救わない、人を救うのは神だけだ。
しかし、本当に一つも何も疑問を持たずに聖書を読めるものだろうか?
聖書に書かれた教えと現実の日常生活の出来事との間で生じる矛盾に
葛藤や苦痛を感じて神に向き合おうと祈ったり、意味を考えたり、
本当にしないのか?
「・・・『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4;6)
聖書にそう書いてあるから考えずに信じる、信じて飛び降りるのか?
書いてあるからって、いいのか飛び降りても?
悪魔の第二の誘惑はこういう罠ではないかと思う。
聖書を読んで自分の心の奥底に起こる思いを正視せず、
聖句の意味を吟味せずただ鵜呑みにする事は
生きた生身の人間の信仰だろうか。
聖書を読んで生まれた疑問は大切にするべきだ。
封じるべきではないと思う。
その疑問から祈りが生まれる。
神に祈る事、神と向き合って神に聞く、
祈りは疑問から始まるものではないのだろうか。
到底信じられない事柄も、納得いかない事も、
どうしてそうなるのか神に聞いて答えが示されるのを日常で待つ。
私の場合、祈りはいつもそうやって生まれる。
心の奥底の疑問を認めないで聖書を読んでも
それは死んだもの同然、
呼吸をせずに飯を食おうとするようなものではないか。
よく気をつけないと、
真面目に熱心に聖書を読めば読むほど第二の罠に引っ掛かる。
聖書に書かれた事柄を字義通りに丸呑みする読み方は
真面目で熱心なようでいて実は怠惰な読み方ではないか。
字面だけを追って、
前後の文脈を把握して適切に理解する努力をしない。
書かれてある事柄を自分自身に置き換えたり
教えと現実との落差に気付いて苦悩する事を回避する。
書かれた事柄を通して神から自分に与えられた課題に向き合わず
無い物として目を逸らす。
自分の頭と心を惜しんで感性の鈍磨した、
疑問を認めず神に「何でですか」と問う事もせず、
自分自身で咀嚼する事すら放棄した、
ただ丸呑みし嚥下するだけの、死人のような怠惰な読み方。
怠惰だから聖書に疑問を持たない。
怠惰だから信者同士でしか通用しないクリスチャン用語を
会話の中で連発する。
怠惰だから、
人間を二分化して理解しようとする。
救われた自分達と救われていない未信者との二分化。
「私達は救われたクリスチャン、
クリスチャンは救われて天国に行くと聖書に書いてあります。
クリスチャン以外は救われていないノンクリ。
ノンクリの人達のために祈ります。
早く私達と同じように救われて天国に行けますように。」
この怠惰で短絡的な思考回路こそが悪魔の第二の誘惑。
ああ。
やはり悪魔はあくまで悪魔だな。
書いていて吐きそうになってきた。
アレルギーだ。
この辺でやめとこ。
頭が痛いくせに手持ちの新約聖書を読んで
思い浮かんだ事を書こうとしたが
今月発売の月刊モーニング・ツー『聖☆おにいさん』を読むうちに
忘れてしまってがっかりしていた。
しかし、唐突に思い出したので書く。
(マタイ4;1~11)
荒野で40日断食して空腹のイエスに悪魔が誘惑の囁きをする。
ψ(`∀´)ψ「腹へってんだろ。
お前が神の子なら石をパンに変えてみな。」
┐( - 。-)r=3 「パンに変えたからって石なんか食ってどーする。
人間、パンだけじゃ世の中生きていけねーんだよ。」
ψ(`∀´)ψ「お前が神の子ならここから飛び降りてみな。
神が天使達に命令して助けるって書いてあるから、
飛び降りても死なないんじゃね?」
o( -"-)o-3 「ちゃんと読まんかいアホ。
書いてあるからって飛び降りてどうする。
飛び降りるちゅー事は神を試すっちゅーこっちゃ。
ええ度胸や、よっしゃお前が飛び降りろ。」
ψ(`∀´)ψ「土下座してわしを拝みな。
そしたら金も地位も権力もやるよ。」
ε-o( Д) ゜ ゜ 「いらんわ!
お前に土下座してどーする。」
という会話だ。
第一の誘惑は、
「空腹なら、石をパンに変えてみろ。」
悪魔は生理的欲求によって神に向かう心を挫こうとする。
イエスは人間を生かしているのは食い物ではない事を指摘する。
第三の誘惑は、
「権力と富の総てをやるから私を拝め。」
悪魔は支配欲と所有欲によって神に向かう心を脱線させようとする。
イエスは神以外の何者にもひれ伏さないと宣言し、突っぱねる。
私は第二の誘惑に注目する。
三つの誘惑の中で、第二の誘惑は信仰者にとって罠だ。
巧妙な罠。
「飛び降りても天使が助けると聖書に書いてあるから
ここから飛び降りてみろ」
実際に高い場所から飛び降りれば
当然人間は地面に叩きつけられて木っ端微塵、
砕けたスイカ同然になる事はわかりきっている。
信仰の無い人にとってこんな馬鹿げた誘惑は誘惑にならない。
しかし信仰者にとってはそうではない。
“聖書に・・・・・・と書いてある”という罠。
信仰者にとって、この第二の誘惑は、
「聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにする」
という悪魔の巧妙な罠だ。
高慢と盲信の二重構造の罠で、
表向きは敬虔な模範的信仰者の仮面が被せてある。
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
信者同士で意見が対立し議論になった時に聞く事がある。
「俺の方がお前よりも聖書わかってんだぞ」と相手を見下す、
恥ずかしい知識自慢の意味を含んでいたり、
議論の席の自己防衛の盾として、或いは相手を言い負かす武器として
聖書の文言を自分に都合良く切り貼りして持ち出し利用する、
自称知識人の歪んだ自尊心を悪魔は巧妙にくすぐる。
読んで優等生か何かのように得意げになるなら
聖書など読まない方がましだ。
しかし、
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
幼稚な知識自慢ではなくもっと盲目的に、
鵜呑みとしか言いようの無い自己完結の仕方で
“書いてある”“書いてある”と連発する類の人達もいたりする。
熱心に聖書を読む真面目な信者なのに
感想を話し合い分かち合う事が全く出来ない。
共感するものが何も無い。
何故なら彼らは
どの人も共通して聖書に書かれた事に疑問を持たない。
聖書の文言に疑問を持つ事自体を罪深い事、禁忌として避けたがるので
お互いに同じ聖書を読んでいるのに対話が成立しない。
自分の行動や意見の根拠に聖句を引用して理由付けする。
何か言ったり何かする度にいちいち聖句を引用するので
日常会話がどえらく長い話になる。
「私は・・・を・・・・します。
聖書の***の**章**節に・・・・と書いてあります。」
「聖書は考えたりしないで、幼子のようにただ素直に読むべきです。
天国は幼子のような者達のものであると書いてあります。」
「聖書を自分で読んで解釈したりすると
学者のように高慢になるから、難しい事は考えずに信じます。」
確かに、神学は人を救わない、人を救うのは神だけだ。
しかし、本当に一つも何も疑問を持たずに聖書を読めるものだろうか?
聖書に書かれた教えと現実の日常生活の出来事との間で生じる矛盾に
葛藤や苦痛を感じて神に向き合おうと祈ったり、意味を考えたり、
本当にしないのか?
「・・・『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4;6)
聖書にそう書いてあるから考えずに信じる、信じて飛び降りるのか?
書いてあるからって、いいのか飛び降りても?
悪魔の第二の誘惑はこういう罠ではないかと思う。
聖書を読んで自分の心の奥底に起こる思いを正視せず、
聖句の意味を吟味せずただ鵜呑みにする事は
生きた生身の人間の信仰だろうか。
聖書を読んで生まれた疑問は大切にするべきだ。
封じるべきではないと思う。
その疑問から祈りが生まれる。
神に祈る事、神と向き合って神に聞く、
祈りは疑問から始まるものではないのだろうか。
到底信じられない事柄も、納得いかない事も、
どうしてそうなるのか神に聞いて答えが示されるのを日常で待つ。
私の場合、祈りはいつもそうやって生まれる。
心の奥底の疑問を認めないで聖書を読んでも
それは死んだもの同然、
呼吸をせずに飯を食おうとするようなものではないか。
よく気をつけないと、
真面目に熱心に聖書を読めば読むほど第二の罠に引っ掛かる。
聖書に書かれた事柄を字義通りに丸呑みする読み方は
真面目で熱心なようでいて実は怠惰な読み方ではないか。
字面だけを追って、
前後の文脈を把握して適切に理解する努力をしない。
書かれてある事柄を自分自身に置き換えたり
教えと現実との落差に気付いて苦悩する事を回避する。
書かれた事柄を通して神から自分に与えられた課題に向き合わず
無い物として目を逸らす。
自分の頭と心を惜しんで感性の鈍磨した、
疑問を認めず神に「何でですか」と問う事もせず、
自分自身で咀嚼する事すら放棄した、
ただ丸呑みし嚥下するだけの、死人のような怠惰な読み方。
怠惰だから聖書に疑問を持たない。
怠惰だから信者同士でしか通用しないクリスチャン用語を
会話の中で連発する。
怠惰だから、
人間を二分化して理解しようとする。
救われた自分達と救われていない未信者との二分化。
「私達は救われたクリスチャン、
クリスチャンは救われて天国に行くと聖書に書いてあります。
クリスチャン以外は救われていないノンクリ。
ノンクリの人達のために祈ります。
早く私達と同じように救われて天国に行けますように。」
この怠惰で短絡的な思考回路こそが悪魔の第二の誘惑。
ああ。
やはり悪魔はあくまで悪魔だな。
書いていて吐きそうになってきた。
アレルギーだ。
この辺でやめとこ。