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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

生きよ

2010-11-08 00:19:56 | ヨハネ黙示録
福音書、手紙、黙示録。
新約の、ヨハネの書いた箇所を読むと息苦しく、辛くなってくる。


洗練された、美しく整った文章でありながら、
言葉の一言一言に血が滲んでいる気がする。
迫害の真っ只中で書かれたからだろうか。
ヨハネが同胞達に向かって必死に「生きよ、生き延びよ」
と絶叫している気がしてならない。
こんな受け止め方は私だけだろうか。


ヨハネの書いた手紙や黙示録を、同胞達は読む事が出来ただろうか。
手紙は皆で回し読みしたり仲間で集まって読み上げたりしていただろう。
読む前に捉えられ殺された人も大勢いただろう。
密告者や内部告発者、異端者らの手を逃れて手紙は様々な人間の手を渡り、
本来の宛先として想定された人は既に迫害でこの世を去っていたかも知れない。
行き先を失った手紙は別の誰かの手に渡り、
さらに色々な人間の手から手へ廻り廻ったかも知れない。
パウロの手紙も同様だ。


迫害に負けず何としても生きよ。
異端の策略に負けずに生きよ。
主の教えを逸脱せずに生きよ。
迫害や苦難に絶望せず生きよ。



生きよ!生きよ!生きよ!

濁流の中の苗木

2010-10-05 02:29:11 | ヨハネ黙示録
ヨハネの福音書、三つの書簡、黙示録と読み進む。


 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
 神を知っているからです。
                       (Ⅰヨハネ4;7)


愛を説くヨハネの言葉“愛”は
浮かれのぼせたピンク色の安っぽいハートとは無縁だ。
福音書も、手紙も、黙示録も、読んでいて息苦しくなるほど
生々しい血みどろの苦痛に満ちている。
まるで筆者が血を流しながら書いたような文章だ。
この人が全身に付けられた無数の傷口から
どくどく血を噴き出させながら
福音書や手紙や黙示録を書いたのではないかと思わされるほどだ。


ヨハネはイエスの弟子達の中で
唯一人殉教せず長寿を全うしたと言われるが、本当だろうか。
だとしたら
拷問で肉体を痛めつけられて殺されるだけが
殉教ではないのかも知れない。
心が血を流す事も、人間にはあるからだ。


ヨハネは日々目撃していたに違いない。
外で大迫害に晒され、内は異端に蝕まれる教会の姿を。


互いに愛し合えと勧め、
間近で見て聞いて手で触れたイエス・キリストの愛を説き、
信仰者達を励まし力づけながら、
昨夜共に祈った主にある兄弟姉妹が今日は何人、今日は何人と
目の前から次々に消えていく日々。
誰も彼も逮捕され、引き摺り回され、十字架につけられ、火炙りにされ、
首を刎ねられ、車咲きにされ、獣の餌食にされていく。
仲間達が続々と処刑される中で生き延びた、
気の遠くなるほど長いヨハネの苦難の年月を思い浮かべる。


先に殺された者の方が幸せだったかも知れない。
仲間の断末魔の叫びを聞き、拷問と処刑を毎日目に見て、
教会の内側に巣食った異端と戦って、
生き残った信仰者を励まし続けたヨハネの苦難。
まさに風前の灯のような、小さな苗だった教会を
嵐と濁流から守り育てようとしたヨハネの
90歳まで生きたといわれる歳月。
この世の生涯を完走し切った最後の瞬間まで、
ヨハネはその心の中でどれほどの血を流し続けた事だろう。


 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
 見よ、悪魔が試みるために、
 あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
 あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
 死に至るまで忠実であれ。
 そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
                    (ヨハネ黙示録2;10)


10日間。
苦難は10日の間だけ。
11日目が来る、必ず来る。
ヨハネにとって苦難の10日間は
90歳まで続いたのだろうか。



  「絶望してはいけない。
   どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
   ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
   ・・・これは慰めの言葉です。
   10日の間、苦難にあう、
   しかし11日目はないのです。
   苦難は必ず区切られる。
   無限に続くと思い込んではなりません。
   まさに信仰者とは
   11日目をめざして歩む者です。」
        (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局)


20世紀に辻牧師が講壇から説いた11日目の希望は、
2000年の昔、ヨハネが目指し信じて
信仰者達を励ました希望に違いない。
夥しい傷を心に負い、血を流しながら。

ちょっと黙示録を読む

2009-05-16 15:10:00 | ヨハネ黙示録
携帯からミクシイを見たら
ある方の記事に黙示録の一語が取り上げられていた。
黙示録の中で
呼びかけを受ける7つの教会の中の
一つの教会、地名だった。


どれ。
携帯の充電が切れて充電する間に
じじの聖書を開き、
黙示録を読んでみる。


7つの教会それぞれに向けて
褒められたりダメ出しの呼びかけがされている。
褒められてもダメ出しされても
どっちにせよ呼び掛けの内容は厳しい。
何故なら黙示録の時代は迫害の真っ只中だから。


教会は外側から厳しく迫害され攻撃を受けていた。
信徒達が続々と摘発され引き摺り回され
投獄され、拷問を受け、
十字架に架けられて炎天下に晒され、
車裂きや猛獣の餌食にされ、
斬首され、目をえぐられて血を流し、
残虐に処刑されていった時代。
物陰や地下に隠れ、息を潜めて
仲間が次々と惨殺されこの世から姿を消して行くのを
目の前で見ながら信仰を守らなければならなかった時代。


教会は外側から迫害を受けるだけでなく、
仲間同士の密告、裏切り、猜疑心で内部に亀裂が生じ、
異端の発生によって内側から腐食し始めた。
7つの教会が受ける呼び掛けに
それぞれの教会の置かれた状況を感じ取る事が出来る。
教会への呼び掛けに含まれる激励と賞賛と警告と叱責、
全ての言葉に切迫した危機を感じる。


スミルナの教会への呼び掛けの箇所を読んだ時
突然涙腺が緩んできた。


  「・・・あなたは、
   受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
   見よ、悪魔が試みるために、
   あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
   あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
   死に至るまで忠実であれ。
   そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」
                  (黙示録2;10新共同訳)


会った事も無い、
もうこの世で会う事すら不可能になった
一人の牧師の説教集の中に引用されていた、
スミルナの教会に向けられた
この箇所の一文に胸が詰まる。


その牧師の一生涯の上に
神なる主は確かにいて、働いていた。
一人の人間の一生に現れ働きかけた、
唯一人のお方が間違いなくおられる。


辻牧師が中学生だった第二次大戦末期に
官憲に弾圧された教会の牧師だった父が逮捕された。
教会は散り散りになった。
涙を流し鼻水を啜って福音を語っていた
熱心で敬虔な信徒達は何処へとも無く姿を消し、
投獄された牧師の妻である母は
中学生から乳飲み子まで
何人もの子供達を抱えて路頭に迷った。
学校では同級生と教師から国賊呼ばわりされ
ボコボコに殴られた日々。
食べる物が無くてかぼちゃを分けて貰おうと
教会役員だった敬虔で熱心な教会員の農家を訪ねたが、
門前払いされた。
母は軍隊の払い下げた残飯を貰うために街路に並び、
その残飯を皆で食いつないで生き延びた。
父は獄中で骨と皮だけになって死んだ。
遺体を引き取り火葬場に向かう道で、
馬橇の振動に揺れる座棺の内側から音が聞こえてきた。
獄死した父の頭が
棺桶の内壁にゴツンゴツンとぶつかっていた。
火葬場までの道程で
その音にじっと耐えなければならなかった時、
キリスト教なんかもうごめんだ、
キリスト教徒でさえなければ
こんな目に遭わなかった筈だと神を呪った。
その少年時代を回想して辻牧師が説教の中で話し、
著作に記した言葉を私は何度も反芻した。


「・・10日の間、苦難にあう、
 しかし11日目はないのです。
 苦難は必ず区切られる。
 無限に続くと思い込んではなりません。
 まさに信仰者とは
 11日目をめざして歩む者です。」
 (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局より)


辻牧師はうちのじじと同い年だった。


黙示録を読むと
どうしても
無性に悲しくなって胸が詰まる。

ヨハネの黙示録読了

2007-03-30 00:13:00 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録は
迫害で苦しい状況に置かれた信徒達を
励まし勇気付けるために書かれた。
7つの教会に宛てた警告と激励に、
外でも中でも苦悩する信徒達の息遣いを感じる。


エフェソの教会は
群れの中の偽使徒を見抜く事は出来たが
初めの頃の愛から離れてしまった。


スミルナの教会は
ユダヤ人からの厳しい迫害を受けている。


ペルガモンの教会は
迫害に遭っても信仰を捨てなかったが
群れの中に偶像崇拝する者がいる。


ティアティラの教会は
信仰の成長を遂げてはいるが
群れの中に自称預言者の偶像崇拝を黙認する者がいる。


サルディスの教会は
弱体化していたのだろうか。
「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」


フィラデルフィアの教会は
忠実に信仰を守り、
迫害の下で忍耐している。


ラオディキアの教会は
生ぬるい中途半端な信仰のあり方だったのだろうか。


7つの教会のあり方は
教会のあり方とも取れるし
信仰者の信仰態度とも読み取る事が出来る。


これらの警告と激励を受けた7つの教会は
どれ程過酷な迫害の日々を送り、
どれ程の迷いと絶望の淵で苦悩していただろう。
どれ程血を流しながら主の再臨を待ち望み、
祈っただろう。


主イエス・キリスト、早く来て下さい。


初めてヨハネの黙示録を読んだ時、
あまりにも意味不明だったので退屈して
ここに書かれてある象徴や暗喩から
オカルトめいた予言や
将来起こるであろう天変地異を意味する暗号に
空想を飛躍させ膨らませ、
面白半分に脱線して楽しみ、
挙句には放り出してしまった自分を恥じる。


受洗して間もなく読んだ故・辻宣道牧師の
説教集『教会生活の四季』の中に引用されていた、
スミルナの教会への激励の一節を目にした時から
私にとってヨハネの黙示録は
涙無しに読めないものと変わった。


私は辻宣道牧師の説教集を何度も読み返した。
このブログ2006年7月8日の日記にも書いてまとめた。
自分が読むために。
(http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/66529cabfa89781771006f6315c757a4)


ヨハネの黙示録を読むと、
2000年前の迫害の下にあったキリスト者達と
第二次世界大戦中に
「天皇とキリスト、どちらが上か」と詰め寄られて
他の多くのキリスト教諸派の教会のように
要領よく妥協できなかったキリスト者達とが
どうしても重なる。


官憲に弾圧された教会の牧師だった父を殺され、
路頭に迷い、
同級生と教師から国賊呼ばわりされ
ボコボコに殴られ、
橇に揺れる座棺の中で
獄死した父の頭がゴツンゴツンとぶつかる音に
耐えなければならなかった日々、
キリスト者でさえなければ
こんな目に遭わなかった筈だと神を呪った、
少年時代を回想して、
説教の中で辻牧師が話した言葉だ。


辻牧師の説教集を読んで以来、
私はずっと反芻している。


「・・10日の間、苦難にあう、
しかし11日目はないのです。
苦難は必ず区切られる。
無限に続くと思い込んではなりません。
まさに信仰者とは
11日目をめざして歩む者です。」
(辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局より)

復活の朝の光 (ヨハネ黙示録1;8)

2006-08-19 05:31:47 | ヨハネ黙示録
札幌から移転して以来、
私は時間を作っては近所のカトリック教会に足を運び、
留守番のOさんや神父様がどうぞと
言って下さるのをいい事に、
週日しばしば誰もいない御聖堂でボーっとしていた。
Oさんが私に声をかけてくれた。
「今週は木曜日から聖週間の御ミサがあります。
夜の7時からですが、
よかったらいらっしゃいませんか。」
私は3日間の聖週間の夜ミサに
お邪魔させて頂く事にした。


聖木曜日。最後の晩餐の日。
洗足式では司祭が数人の男性信徒の足を洗い、
聖体安置式で祭壇から聖体パンが別の部屋に移される。


この「御聖体」に対する考え方が
カトリックと私達メノナイトとの
決定的な相違点の一つである。
私達メノナイトにとって聖餐のパンは
私達のために裂かれたキリストの体を記念するパン。
アナバプテストの開祖コンラッド・グレーベルによれば
パンはあくまでパン。
パンはパン以外の何物でもない。
キリストによる私達の罪の贖いを記念するためのパン。


カトリックでは
聖体パンは聖なるキリストの体そのものであり
聖なる物だと聞いた。
司祭が祝別すると聖体パンはキリストの肉に変わる。
それを食べた信徒達のうちにキリストが働かれる。
御ミサが終わって信徒が一歩外に出ると、
行く先々でキリストがその信徒の中で働かれる
という考え方。
私は自分がカトリックの御ミサに参列しても
聖体を拝領する事はない。
しかしその考え方を理解する事は出来る。
日々の生活の中で、
御聖体を頂いた自分のうちに
キリストがいらして働いておられると思えば、
それは信仰の大きな支えであり
生きるための励ましに違いない。
近所のカトリックの教会員達の中には
浦上出身の人もいる。
それを支えに長い弾圧の時代を乗り越えてきたのだ。
現実に。


「始めていらしたんですか?」
教会員の一人が入り口で私に声をかけてきた。
Kさんは簡単に自己紹介をして私の隣に座り、
聖歌のページを一つ一つ開いて教えてくれた。
式の途中で立ったり座ったり跪いたりする事や、
聖体拝領しなくても列には加わって
司祭から祝福を受けるようにと細かく教えてくれた。
ベールを被っているので教会員には違いないが、
私はKさんが他の教派からカトリックに
改宗して来た人なのではないかと直感した。
なぜならKさん以外に、
他所から来た見慣れない井上という者に
関心を示す人はなく
全員が前を向いて司祭を見ていたからだ。
Kさんは聖堂の中に見慣れない余所者を見つけると
即座に自分から隣に座り、
聖歌のページやリーフレットを開いて誘導した。
その行為と態度は
Kさんが受洗し信仰者として育てられた環境そのものを
表わしていた。


私はその夜歌われたラテン語の聖歌『天使ミサ』を
すっかり気に入ってしまった。
この聖歌を覚えたいので楽譜をコピーしたいと言うと、
Kさんは手製のカバーをかけた自分の聖歌集を
初対面の私に貸してくれた。
「私は教会のを使うからあなたは私のを使ってて。
 明日の晩もまた来てね。」


聖金曜日は受難の日。
司祭と会衆が福音書の受難の場面を輪読し、
一同で十字架を崇敬する。
その夜はKさんの夫、Pさんが来ていた。
脊髄損傷だろうか。
Pさんは首から下が麻痺していて
電動車椅子に座っていた。
Kさんが付きっ切りでPさんの顔の前に
聖歌やリーフレットを開いて
見えるようにしてやっていた。
Pさんは親しげに話しかけてきた。
「オレ達、どこの教派にいても同じだよ。
 キリストは一人。
 人間は教派や教会を幾つも作るけどさ、
 神様は一人だからね。」
確かにその通りだ。
「井上さん、またここに来なよ。
 家にも遊びにおいでよ。」


聖土曜日は復活前夜式。光の祭儀。
会堂の入り口で役員の人が炭火を起こしていた。
会衆はそれぞれ小さな蝋燭を手に持って集まった。
司祭が大きな蝋燭に十字を切って祈りを捧げた。
炭火から大きな蝋燭に火を点し、
そこから一人ずつ蝋燭に火を移して
キャンドルサービスする。
大きな蝋燭には十字と花とΑ、Ωの文字が書かれていた。
私はその文字を見た事があると思った。


“Εγω ειμι το Αλφα  και Ω,”
(パソコン操作がいまいちだ。ギリシャ文字の記号と
 句読点の付け方がわからない。)
「わたしはアルファであり、オメガである。」
        (ヨハネの黙示録1;8 新共同訳)


その日の司祭の説教は今でも忘れられない。
その場ではノートも取らなかったのに
一字一句私の心に残って消えなかった。
帰り際、私が感動した素晴らしい説教だったと言うと、
PさんもKさんも他の教会員達もきょとんとしていた。
「えー?感動した?そんなにいい話してたっけ?」
「うちの司祭はいつもそういう話をするんだよ。
 別に珍しくないよ。」
「それは他の人にではなく、神様があなたに
 特別なプレゼントを下さったのよきっと。」
そっ・・そんな・・・
聞き慣れてしまうとそういうものなのだろうか。
私は急いで帰宅し、
忘れないうちに司祭の説教をノートに書き留め、
何度も読み返した。
そして受洗からその時までの
自分の信仰生活を振り返り、
与えられた日々の生活と出会いとを回想するうちに
夜が明けた。


復活の主日。
市内の諸教派が集まる早天祈祷会に出席するため
私は所属するメノナイト教会の牧師夫妻と共に
朝6時からアッセンブリー教会に行った。
イースター早天祈祷会には
市内の朝祷会にいつも参加している各教会の
牧師夫妻や教会員達が早々と来ていた。
アッセンブリー、キリスト福音館、聖公会、
日本キリスト教会、日本基督教団、
バプテスト連盟、メノナイト。
賛美歌が響き、朝日が眩しかった。
前夜は殆ど眠らなかったのに、
変に目が冴えてぎんぎんしていた。


私達の教会のイースター礼拝までまだ時間があり、
牧師夫妻が一緒に食事をさせて下さった。
礼拝堂に白いテッポウユリが生けられて
香りを放っていた。
私は前夜までの出会いと
自分の信仰を吟味し反省する機会が与えられた恵みを
牧師夫妻に話した。
牧師先生は終始にこにこ笑って私の話を聞いていた。
その後しばらく水野源三の詩の話をした。
私はその詩の一部分だけを知っていた。


こんな美しい朝に
こんな美しい朝に
主イエス様は
墓の中から
出てこられたのだろう
      (水野源三「こんな美しい朝に」より)


そういえば、
朝をしみじみ美しいと思ったのは
その時が初めてだったかも知れない。
私は前夜与えられた奨励の言葉をまた反芻していた。


 主イエスは十字架に架けられて
 私達にご自分の全てをお与えになりました。
 私達も人々に自分を与えなければなりません。
 与えるものを何も持っていないと言う人もいますが、
 私達は誰一人、何も持たない者はいないのです。
 私達は誰でも、必ず何か持っています。
 人々に与える事の出来る何かを。
 よく考えて下さい。
 何か持っている筈です。
 物やお金がなくても
 労力、時間、微笑み、他にもたくさんあるでしょう。
 主イエスが惜しまずに
 ご自分の全てを私達にお与えになったように、
 私達も惜しまずに自分を人々に与えましょう。
                (ボナヴィゴ神父)


この奨励は私にとって重要だ。
しかもそれから後の7年間の間に何度も、
別の場所で別の機会に、
別の人の言葉をも通して、
主なる神から一貫して同じ事を
自分が言われている気がする。


 私達の中で、
 人に与えるべきものを
 何も持っていない者はいません。
 自分の人生を振り返る事はよい。
 数え切れないほどいい事や恵みを受けている。
 その殆どは人の手から貰った。
 神様は人の手を通して恵みを下さいます。
 この意味で、私達は神の手足というのです。
  私は神の手足です。
  今日、人に何をあげようか。
              (ペテロ神父)


 私達は誰かを許すために、誰かを愛するために、
 この世に生まれて来ました。
 私達は人を許すために、愛するために、
 生命を与えられ、生かされています。
                 (ロンデロ神父)


おそらくどんな教派のどの教会でも語られ、
聞く事の出来る奨励だろう。
それが私自身の心の中で
今もって特別に強い光を放っているのは、
私がたくさん受け、たくさん与えられながら、
まだ誰にも何も与える事をしていないからだと思う。

11日目をめざして歩む者(ヨハネ黙示録2;10)

2006-07-08 14:26:22 | ヨハネ黙示録
あなたの受けようとする苦しみを
恐れてはならない。
見よ、悪魔が、
あなたがたのうちのある者をためすために、
獄に入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦難にあうであろう。
死に至るまで忠実であれ。
そうすれば
いのちの冠を与えよう。
         (ヨハネの黙示録2;10 口語訳)



『嵐の中の牧師たち ホーリネス弾圧と私たち』
               辻宣道著 新教出版社1992年



洗礼を受けた直後、
私は辻宣道牧師の著作『嵐の中の牧師たち』に出会った。
以来ずっと辻宣道牧師の著作と
数冊の説教集、随筆集を読み続けてきた。
手元にある辻宣道牧師の本は
書き込みと付箋と手垢でよれよれになっている。
私が一番読みたかったのは、辻宣道牧師の自伝だったが、
自伝としての著作は残されていない。
それで私はこれら何冊かの著作の中から
断片的に語られている戦時下の迫害の体験を
抜き出してノートを作り、自分自身が読むためにまとめた。


私が洗礼を受けた日本のメノナイト教会は
戦時中の迫害の痛みを知らない。
何故なら私達の教会は終戦後、
日本への福音宣教のため
キリストに生命を捧げた宣教師達の手で
福音の種が撒かれ、育てられたからだ。
だから私自身は、
戦前から日本にあるキリスト教諸教会の戦争責任について、
血を流した事のない自分は
ものを言える立場にないと思っている。
私が辻宣道牧師に惹きつけられたのは、
戦時下のキリスト者の戦責などではなく、
辻宣道という一人の人間の生涯に現れた
主イエス・キリストの働きである。
自分で読むためにノートにまとめたものを、
また何度も何度も読み返して、
一人の信仰者の歩みの中に現れた
同行者イエス・キリストの姿を私自身の眼でとらえたかった。
そして辻宣道牧師の証しを通して、私は確信している。
主イエス・キリストは生きておられる。


静岡草深教会を育てた辻宣道牧師。
その信仰の歩み。
「絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。」
           (辻宣道著『教会生活の四季』より)


1942年6月26日、少年辻宣道が12歳の時に
日本キリスト教団弘前住吉教会牧師である父、
辻啓蔵が治安維持法違反容疑で検挙された。
そして1945年1月18日、青森刑務所で死亡した。
享年50歳。
父が獄死した時、少年辻宣道は15歳だった。
父の教会の信条である「新生・聖化・神癒・再臨」のうち
「再臨」が当時の国体否定と解釈された。
来たるべき終わりの日、
キリストが再び地上に現れ、
万物を支配し、神の国が完成する。
では再臨のキリストは天皇より上か下か。
聖書の無謬を確信し、自らをキリスト者と自認する者には
キリスト以外の何ものをも神と崇めることは許されない。
神以外のものを神と崇めることは魂の死を意味する。
しかし天皇以外のものを神とすれば
自分のみならず家族までが生活の全てを剥奪される。
ほとんどのキリスト教会が
「再臨」から目を逸らして生き延びようとした。
その時日本キリスト教団統理であった富田満は
率先して伊勢神宮を参拝し、教会献金で軍用機が献納され、
礼拝では熱心な戦勝祈願がなされた。


日本キリスト教団統理から辻啓蔵に
牧師を辞任するよう手続きを取る事を勧め、
家族に謹慎を命ずる通牒が送られてきた。
辻啓蔵は教会籍を剥奪されたのである。
約1年の拘留の後、啓蔵は懲役2年の刑を宣告された。
拘置所を出て、父は自宅で上告趣意書を下書きしていた。
宣道は父の書いたその上告趣意書の下書きを、
密かに読んでしまった。
絶対に書かれてはならないはずの言葉がそこにあった。
 「聖書絶対無謬ニ立ツ信仰ヲ改メマス」
 「キリスト再臨ニ対シテ疑イヲモチマス」
 「狂信的信仰ヲ白紙ニ清算シマス」
間もなく啓蔵は刑務所に収監された。
親子が言葉をかわす間もなかった。
「清算」の二文字は宣道の脳裏に焼きついたまま残った。


教会は解散させられた。
鼻を啜り、涙を流して祈っていた信徒たちは
どこへともなく散って行った。
宣道たちに近寄る者はなく、一家は生計を絶たれた。
育ち盛りから乳飲み子まで
5人の子供を抱えて母は途方に暮れた。
宣道はカボチャを分けて貰うため、元教会員の農家を訪ねた。
門前払いされた。
「おたくに分けてやるカボチャはないねえ。」
ほんの少し前まで真っ先に証しを語り、
信徒全体から尊敬を集めていた熱心な教会役員の言葉だった。
母は軍の残飯を分けて貰うため街路に並んだ。
宣道たち家族は軍の残飯で生き延びたのである。
それが戦時下のキリスト教徒の現実であった。
「ヤソ・ミソ・クソ・スパイ」
学校で教師や同級生から罵られ、よく殴られた。
多勢に無勢のケンカで散々殴られて家に帰った宣道は
鬱憤を母に向けた。
足払いする。母はどうと倒れる。今で言う家庭内暴力の日々。


1945年1月18日、青森刑務所から電報が来た。
「ツジケイゾウキトク
 モシ シボウノサイハ シガイ ヒキトリニクルカ」
末の弟を背負った母と宣道が駆けつけた時、
父啓蔵はすでに息をしていなかった。
かっと目を見開き、唇もうっすらと開いたままだった。
頬からも、腕や太股からも、
身体中の一切の肉という肉が全て削り落とされた姿。
もう肉体とは呼べない、薄皮が貼りついただけの、
骨組みも露わな人体。
それが講壇で聖書を開いて祈り
説教をしていた父の最期の姿だった。
枕の下に宣道の手紙が挟まっていた。指の跡がついていた。
息子からの手紙を何度も繰り返し読んだのだろうか。


父は座棺の中に胡坐をかかされ、
受刑者2人が縄をかけて担いだ。
火葬場に向かって走る馬橇の激しい振動で末の弟は嘔吐した。
座棺の中から鈍い音がした。
前後左右の揺れに耐えかねた父の頭が
座棺の内壁にぶつかってごつんごつんと音をたてている。
宣道はその音に耐えようと必死だった。
もうキリスト教はいやだ。
本当にキリスト教だけはもういやだ。
もし神が本当にいるなら、こんな目にあわなかったはずだ。


父が獄死して間もなく、
宣道は志願して陸軍通信兵学校に入った。
「使い捨て」の下士官を作る場所だった。
獄死した犯罪者の子という息苦しさから逃れようと死を願った。
しかし1945年8月15日、
日本の敗戦で宣道の願いは叶わなかった。


母と叔父中田羽俊は
息を吹き返したように伝道に力を注ぎ始めた。
宣道にとって虚脱状態の年の暮れ、
空襲警報伝達の器械に過ぎなかったラジオから
クリスマスの賛美歌が聞こえてきた。
父が検挙された朝、拘置所に行った母の留守、
泣きじゃくる弟たちの世話で終わった日の感情が
俄かに甦った。
堰を切って溢れるものをぶつける相手は誰もいなかった。
神の他には。
すぐ信ずるには至らなかったが、
それは信仰の芽生えだったと辻宣道牧師は回想している。


ある日、宣道は夕方の礼拝に出た。
オルガンの伴奏が始まった。
父が検挙され、
教会が解散させられて以来聞かなかった聖歌であった。
生まれた時からずっと聞き続けていたオルガンの音色。
自分はこのオルガンの音の中で育ったのだ。
宣道は自分のあるべき道を確信した。
1946年5月、辻宣道は信仰を告白し洗礼を受けた。
ペンテコステの日だった。
神学校を卒業し、結核療養所に住み込みで働いた。
仕事はリネンの洗濯。
貧しい患者たちの穴とほころびだらけのシーツを広げながら、
宣道は初めて「生きる」ことを本気で考えた。


時代が安寧を取り戻すにつれ、
闘わず同胞を権力者に売り渡した戦時下の
キリスト教会の在り方が問われるようになった。
「教会はもっと果敢に闘うべきだった」
「今度こそは断固殉教を覚悟して闘うべきだ」
そんな声を聞く度に、宣道の脳裏には
あの少年の日に見てしまった上告趣意書の下書きの、
父の書いた「清算」の二文字が異様に濃く浮かび上がった。
「狂信的信仰ヲ白紙ニ清算シマス」信仰を清算する。清算。
闘って敗れたのではなく、逃げ切れずに敗れた者の
痛みと恥に満ちた二文字であった。
父は闘って敗れた人間ではなかった。
本当は刑務所などで死にたくなかったのだ。
信徒たちのいつ果てるとも知れない戦責論議の中で、
焦点がいつの間にか「獄死」に移って行った。
その焦点のずれは、
より救いがたい欺瞞を生み出す危険を孕んでいた。
誰かが憧憬を含んで「殉教」という言葉を使うたびに、
宣道は内臓を酢でしめられる思いがした。
同時に、温厚でケンカをしたこともなかった父の、
不本意に塗りたくられた汚辱を拭ってやりたかった。


父はあの時何を考えていたのだろう。
その生涯を終えようとする時、
明瞭な意識の中から母は宣道の問いに答えた。
「お父さんは今度出てきたら、自由に、束縛されずに
伝道したいと言ってたわ。」
父は何を考えていたのだろうか。
何か言い残していなかったか、
それを明確にしておかなければならなかった。
宣道は父を知る人を訪ねて歩いた。
散らされた昔の教会の信徒たちをひとりひとり探し出し、
聞き書きを試みるうちに、宣道はある人を探し当てた。
その信徒は
父が刑務所に収監される前日、会って父と話していた。
「あんたのお父さんはね、今度刑務所を出て来たら、
また伝道を手伝って下さいねって言ってたわ。」
宣道はついに貴重な証言者を見つけた。
官憲に圧殺された父は、
キリストを裏切ったまま獄死したのではなかった。
何とか生き延び、獄を出て再び伝道しようとしていた。
父の上告趣意書の下書きを見た少年の日以来、
父と共に屈辱の道を歩いて来たのだ。
帰り道、溢れてくる涙をどうすることもできなかった。


辻宣道牧師は路傍伝道していた父の姿を回想する。
父、辻啓蔵は大正15年(1926年)、
栃木県足利で開拓伝道を始めた。
自給自足を標榜する派に属していたため、
牧師館や会堂をあてがわれる恩恵に浴する機会はなく、
自前の伝道だった。
まず貸し家を探し、生活の拠点を作って街頭に出かける。
街角に立って胸に抱えた大太鼓を打ち鳴らし、聖歌を歌う。
何事かと集まってくる人々に聖書の話をし、
賛同する者を自宅に招いて詳しい話をする。
すぐに人が集まる訳ではなく、普通は一人も来ない。
しかしひと月ふた月続けるうちに2、3人集まり、
集会らしいものを開くことができるようになった。
街頭の伝道も勢いがつく。
宣道も子供の頃よく路傍伝道に連れて行かれた。
「ただ信ぜよ」と書いたちょうちんを持って街角に来ると
父を囲む半円形ができた。歌う聖歌はいつも同じ。
「信ずる者は誰も、みな救われん」(聖歌424)
父が調子よく大太鼓を叩けば叩くほど宣道の心は沈んだ。
小学校の友達が見に来た時は気が動転した。
翌日学校で同級生らの噂話にプライドを傷つけられた。
中の一人が少しでも冷やかそうものなら
相手をめちゃくちゃに殴りつけた。
父は伝道し、息子はケンカする。
今では路傍伝道など行われなくなった。
しかし刑務所から火葬場へのデコボコ道で神を呪った少年は
父と同じ道に立っていた。


父の教会にはベンチがなかった。
信徒たちは手に座布団を持ち寄って詰め掛け、座る。
靴は脱ぎ捨て。赤ん坊は泣く。喧騒の中の祈りと聖歌。
集会が終わると一同はその場で会食する。
肉の少ないカレーか、あるいは福神漬けにきんぴらごぼう。
父が何も無いところから開拓した教会。
「そんな中で、ぼくらは少年時代を過ごした。
伝道とは整えられたところで何かするのではなく
わが内に燃える思いを叫びとして
表現していくことではないか。
時が良いとか悪いとかいってはいられないのだ。」
         (辻宣道著『もうひとことだけ』より)



辻宣道牧師は語る。
「あてどなく歩く―、まさにそのころの私はそうでした。
しかし神さまはその私に道を用意していたのです。
刑務所から火葬場へのデコボコ道で、
したたかに神を呪った少年がいまこうしてここにある。
しかも父親とおなじ道に立ってここにある。
ふしぎとしかいいようがありません。
神は見えないところで私を導いていたのです。
信仰を持つようになってそれははっきりわかりました。
荒野の中を行くイスラエルの民に、神は昼は雲の柱、
夜は火の柱をもって臨まれたのですが、
神は時に応じて私にも、師を通し、友人を通し、
またさまざまな事件を通して導きの手を与えられました。
だからいまここにこうしてあるのです。
そのことから思います。
絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
  あなたの受けようとする苦しみを
  恐れてはならない。
  見よ、悪魔が、
  あなたがたのうちのある者をためすために、
  獄に入れようとしている。
  あなたがたは十日の間苦難にあうであろう。
  死に至るまで忠実であれ。
  そうすれば
  いのちの冠を与えよう。」
           (ヨハネの黙示録2;10 口語訳)
これは慰めの言葉です。
10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
苦難は必ず区切られる。
無限に続くと思い込んではなりません。
まさに信仰者とは11日目をめざして歩む者です。」
           (辻宣道著『教会生活の四季』より)



1994年7月25日午前4時9分。辻宣道牧師召天。
顎下腺癌の肺転移。享年63歳7ヶ月。
最後の著作となった『もうひとことだけ』の中からのメモ。


このごろよく父を想いだす。
「かわいそうに。
50になったばかりなのに牢獄で生命を終えたりして」
がらにもなく涙がこみあげる。
権力は父に言いたくないことを書かせた。
どんなにくやしかったかよくわかる。

50年間、
父啓蔵をいくじなし、弱い人間として軽蔑していた。
長男としてこんなに愛されてきたのにそれに気づかなかった。

伝道者としてもすばらしかったのに。
もっとそのことをいろいろなところで講演したかった。

昨日から父のことを考えてそのことを話したかった。
父は、ぼくのことを愛していたのだ。
長い間そのことを知らなかった。
父は息子を愛していたのだ。
息子から見た父親がどうしてそこだけ欠落していたのだろう。
それにしても
50歳で刑務所で死んだ父がかわいそうでならない。
しきりに涙がわいてくる。

父の大審院に提出する上告書の中の
「清算」という字を見て以来、
ぼくの父に対する感情は凍結してしまったのだ。
ここにきて50年。
僕は死を目の前にして、感情凍結が解除されるとは。
ありがたい。息が切れる。こんなメモ一枚を書くのに。

子どもの頃、母が骨折して入院したことがあった。
その間、父はぼくらに朝食を作ってくれた。
それはおこげ混じりの不細工な握り飯だった。
しかし、ぼくらには最高の味に思えた。
そういえば、
このごろおこげというものをほとんど見たことがない。
今でも父が作ってくれた軽い塩味のおにぎりを思いだす。

(参考文献)
『嵐の中の牧師たち ホーリネス弾圧と私たち』
              辻宣道著 新教出版社1992年
『教会生活の処方箋』辻宣道著 日本基督教団出版局1981年
『教会生活の四季』辻宣道著 日本基督教団出版局1986年
『もうひとことだけ』辻宣道著 日本基督教団出版局1996年


私が洗礼を受けた教会は、迫害の痛みを知らない。
終戦後日本にやって来たメノナイト派の
アメリカ人宣教師たちの手で育てられた教会である。
彼らは貧しい日本人に毛布や食糧を配り、
病床を見舞って聖書を配布した。
戦後生まれた日本のメノナイト派は、
戦時下のホーリネスのように過酷に
「天皇とキリストと、どっちが偉いか」と問い詰められ、
血を流し路頭に迷って残飯で生き延びる、
そんな命がけで信仰を守った経験はない。
しかしメノナイトの信条は平和主義である。
平和に関する勉強会、集会、討論会、座談会。
それらの席上で念仏のように連発される「平和」、
「平和的」「平和主義」果ては「平和論」「平和学」という
机上論用語の氾濫。
今や学術研究の対象にまでなった「平和」と、
救いの確信を得た信仰者の平和との間に
どんな接点があるのか私は知らない。
私はそれよりも聖歌とオルガンの音色に注目する。


辻宣道牧師がこの世の生涯の最後に、
獄死した父のために泣くことができてよかったと心から思う。
辻宣道牧師は昭和5年生まれ、私の父と同年である。
50年前に流すはずだった凍結された涙を
心に溜め込んだまま辻宣道牧師の生涯が終わってしまわなくて
本当によかった。
神を呪い感情を凍結させた少年辻宣道に、
自分のあるべき場所を示し、
主イエス・キリストと自分との関係を見い出させた、
聖歌とオルガンの音色に私は注目する。
絶望に冷え切った魂を捕まえ、
有無を言わせず生きる道に引き戻し立ち返らせる、
そこに見えない御手の力が働いているのを感じる。
迫害も絶望も及ばない、人の力では決して抗い得ない、
主なる神の御手の力強さ。
そこに目を向けるようにと、
聖歌とオルガンの音色は働きかけてくる。
人が礼拝堂に入ると聖歌とオルガンの音色が聞えた。
それだけの事だ。
しかしたったそれだけの何でもない事こそが
見えない御手が伸ばされた瞬間だったのではないだろうか。
少年辻宣道が
礼拝堂で聖歌とオルガンの音色を耳にした瞬間。
それはキリストが
"Εφφαθα"と言われた瞬間だったのではないだろうか。