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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

和解

2010-02-14 23:30:08 | ルカ
「死んでいたのに生き返った・・・・・楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
                          (ルカ15;11~32)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第十話 (続)ゆるしについて


赦す事。
主の祈りの中の、人間がするべき唯一の事。


主の祈りの中のその部分だけは、出来ない難しいと誰もが言う。
私自身、そう思う。
私はこれまでに出会ったあらゆる人に対して
赦せない思いを持って腹の中で燻ぶらせている。
赦せない事は苦しい。
赦せば楽になれるとわかっていても赦せない。
もう赦したと一度自分の中で完結したつもりでも
何かの拍子に怒りや恨みが甦り、再燃する。


  人をゆるすのが難しいのは、
  ゆるしを人間的なレベルで考えてしまうからです。
  つまり法的な考えから、相手が悔い改めたら、ゆるす。
  または、相手が償いを果たしたらゆるしてやるというように、
  ゆるしに条件をつけてしまう点です。
  それに対して、神のゆるしは無条件です。
  神は私が悔い改めようとなかろうと、私たちの態度に全く関係なく、
  私の罪をゆるしてくださっています。
  神がわたしの罪をゆるしてくださっているからこそ、
  私は悔い改めて、償いのわざを果たすことができるのです。
  イエス・キリストが十字架にかかり、復活したのは
  まさに私たちの罪をゆるすためでした。(ルカ24;47)
  神は私たちにそのような無条件のゆるしを
  求めておられるのです。(マタイ18;21~35)
                           (本文より)


筆者が挙げるゆるしの過程。


 1.自分の否定的な感情を素直に外に出す。
   祈って神に打ち明けるとか、
   信頼出来る指導者か友人に打ち明けるとか。


 2.その出来事を客観的に理解する。
   感情に左右されずに相手がした行為の理由を探す。
   相手の過去、性格、立場、状況、環境から
   相手を理解し、ゆるすための糸口を探す。


 3.新たな生きる姿勢を選び、新たな人間関係を相手と結んでいく。
   蘇って来る過去の傷の痛みや感情に振り回されずに
   断固として新しい態度を選んで実行する。


 4.新たな関係を実行していく事によって、
   いつしかその傷が痛まなくなり、共感と感謝を感じるようになる。
   


  別の角度からいうと、
  人をゆるすというあなたはいったい誰かをふりかえることです。
  聖書において、罪をゆるすことができるのは神だけです。
  神に代わって人をゆるすというあなたはいったい何者ですか。
  あなたこそ、神にゆるしてもらわねばならない人ではないですか。
  自分の方こそゆるしてもらわねばならない者であることを悟った時、
  本当にゆるすことができます。
  というより自分の方こそ本当に悪かったと、
  相手にゆるしを願うことができたとき、
  本当に神のゆるしのわざが働くといえるでしょう。
  これが真の回心です。
  互いにゆるしを与え合うことよりも、むしろ、
  互いに悪かったと謝り合うとき、真の和解が成立するのです。
                           (本文より)

確かにこれは本当だと思う。
教会協議会絡みの問題では特にそう思う。
お互いに、高みから相手を見下して
「相手が反省して悔い改めたならゆるしてやろう」
という意図が見え隠れしているから問題が余計にこじれ、
だらだらと5年も10年も時間を無意味に費やす。


個人レベルにまで掘り下げても同様だろうか。
同様だ。
厳しいけど。


例えば
私の父と、父が子供だった時に虐待した継母、
私と、私が子供だった時に八つ当たりの標的にし続けた父と母、
学校で苛めを苦に自殺した子供の親と、苛めた子供本人とその親や教師達、
犯罪の被害者と加害者。


ゆるす?
簡単ではない。


人を赦し難い経験は私の場合特に父と母に対してあり、
長い間その怨み辛みに囚われてきた。
筆者はそれを全て紙に書けとここで言っているが
私は自己分析と称してブログの中にそれをぶちまけてきた。
冷静に回想し、相手と自分とを
客観的に分析出来るようになったのはごく最近の事だ。
神が意図しておられる事は、
血流の途絶えた手足に温かい生きた血液の流れが再開する事だと
私はわかっている。


  死んでいたのに生き返った・・・・・
  楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか
                   (ルカ15;11~32)


わかっていながらこれほど長い年月を費やし、
今なお試行錯誤を繰り返している。
今でもだ。

ゆるす

2010-02-14 19:32:54 | マタイ
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
                    (マタイ18;21~35)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第九話 ゆるしについて


人をゆるす。
主の祈りの中に唯一記されている、人間がするべき事。


  神が私たちに望まれているのは、たったこれだけです。
  しかしながら、
  これがとても難しいということは誰でもうなずけるでしょう。
                          (本文より)


何がゆるしではないか。
ゆるしでないもの。


我慢する事。
いつか怒りや恨みが爆発する。


水に流す事。
流したつもりでも腹の中に溜まったまま、いつか出て来る。


見ないようにする事。
結局は目に付いて我慢出来なくなる。


  では何がゆるしなのでしょうか。
  イエスがこの世に来られたひとつの目的は、
  私たちの罪をゆるすことでした。
  私たちが人をゆるせるとしたら、
  まず私自身がイエスからゆるされているという事実を
  しっかりと認識することが必要です。
  イエスのゆるしとは、私たちがどんなに罪深くとも、
  そのだめな私たちをいつも
  変わらず愛し続けてくださっているということです。
  ゆるしとは
  イエスの全く自由で変わることのない愛の態度そのものです。
  それは感情に左右される、はかなく変わりやすい愛ではなく、
  好き嫌いの感情を乗り越えた自由意思の決断による愛です。
                         (本文より)


そう。
簡単ではない。
しかしイエスがこの世に来られたのは私たちを赦すためだった。
私たちも、誰かを赦すためにこの世に生まれ、生かされていると
近所の教会の司祭がいつか説教で話していた。


  私達は誰かを許すために、誰かを愛するために、
  この世に生まれて来ました。
  私達は人を許すために、愛するために、
  生命を与えられ、生かされています。
                   (ロンデロ神父)


ゆるしの愛の実現。
著者によると三段階あるらしい。


1.相手に対する嫌な気持ち、怒り、恨み、自分のありのままを直接伝える。
 陰口ではなく素直に。
 攻撃的に批判するのではなく辛い気持ちを分かち合う。


  イエスは決して言いたいことを我慢しませんでした。
  ファリサイ派がおかしいことをしたときは、直接にはっきりと
  何が悪いかを指摘しました。
              (本文より)


2.話し合いの後で、相手を完全に自由にする。
 相手を自分の物差しに合うようにその人を変えようとしない。


  ゆるしの愛とは、その人を百パーセント自由にすることです。
  イエスは敵対する人やユダに対して、
  いくらその人たちの行為がおかしくても、
  その人たちの自由を最後まで心から尊重し、
  決して強制的に何か強いたことはありませんでした。
                      (本文より)


3.自分の好き嫌いや相手の態度に関わらず、
 自分は自由に相手を愛し続ける決断をする。


  相手の態度、自分の感情に振り回されることなく、
  それでもその人を自由に愛し続けていくことこそ、
  ゆるしの極致だと言えるでしょう。
  ユダがイエスを裏切って彼を捕らえようとしたとき、
  イエスはユダに向かって、「友よ」と呼びかけます。(マタイ26;50)
  イエスがユダを最後まで友として愛し続けていた証拠だと思います。
                           (本文より)


「友よ」という言葉はユダにとって突き刺さる言葉だ。
イエスのユダに対する「友よ」という言葉は
ユダには刺し通される痛い言葉だったに違いない。




人をゆるすのが難しいと感じたこと。


 数え切れないほどある。


その気持ちの裏にある自分の態度は。


 相手を既に死んでこの世にいない者として黙殺する。


イエスが自分の罪をゆるしてくれたと実感する事があるかないか。

 ない。
 何故なら私はあの人をゆるしていないから。
 何度もゆるす事に失敗しているから。


本文中のゆるしの三つのステップをみて、自分に必要な事は今、何か。


 ゆるせない相手の心理に僅かでも共感出来る何かを探す事。
 それを見つける事が出来れば
 自分の相手を見る角度が完全に変わる。

従う

2010-02-14 02:05:25 | 使徒言行録
「人間よりも、神に従わなくてはなりません」
                    (使徒5;27~32)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第八話 神に従うこと



神に聴く事が出来たら、神に従う事が出来る。
内的な態度としての従順と外的な選びとしての行為。


  内的な従順は何にもまして大切です。
  私たちが神に従っているのは、単に教会に行ったときとか、
  お祈りをするときだけではありません。
  毎日の日々の活動、食事、仕事、勉強、休憩、運動、おしゃべり、
  その他すべてにおいて、神に従っていなければなりません。
  今のこの一瞬において、神に仕えていくことです。
  部屋を掃除するとき、それを単に自分のため、あるいは
  家族のためにしているだけならば、神に仕えていることになりません。
  それを神さまのために、神さまに従ってするならば、
  その掃除を通して神に仕えることができるのです。
  逆にどんなにたくさんのお金を教会に寄付しても、
  もしそれが自分のためにしているならば、
  神に従っていることにはならないのです。
  問題は外的に何をしているかではなく、
  どのような心の態度でそれを行っているかです。
  方向性はたった二つです。
  自分のためか、神のためか。
                             (本文より)


私は誰のためにしているだろう。
自分の全ての行為、行動を。
そもそも誰ために生きているだろう。
神に対して従順な心の態度を持っているかと言えば
持っていない。
自分がする一つ一つの行動を
自分が生きている事そのものを
喜んでいないからだ。


ああでも、
部屋の掃除を神のためにするというのはいいかも知れない。
自分のためと思ったら面倒臭くてやりたくない。
掃除なんかしなくても死なないとか考えるし。


神のため、というのは何かをする時の行動の動機付けとなる。


  第二に、外的な選びと行為としての従順です。
  すなわち、私たちの人生においてどっちにすれば良いか
  迷うことがたびたびあり、しかもどちらかを選んでいかねばなりません。
  ・・・・・
  ある意味で、私たちの人生は
  そのような選びの連続であると言えるでしょう。
  その際、大切なのは
  神のみ旨だと思えることを、選んで、実行していくことです。
  ある場合は容易でしょうし、ある場合はとても辛いでしょう。
  たとえそれがいかに感情的に辛いことであっても、それがみ旨ならば
  果していかねばなりません。
  人間は残念ながら、ほとんどのことを
  自分の好き嫌いで決めていると言えるでしょう。
  神のためと言いながら、自己満足、面子、他人の思惑に
  従っていることがどれだけ多いでしょうか。
  ・・・・・
  問題は自分の望みを優先させるのではなく、
  いかに神の望みを選ぶかです。
  その決断ができるか否かに、従順はかかっています。
                          (本文より)


神に対して従順な態度であるかどうかというと、
私は全くその逆である。
人間にも従わないが、神にも従順ではない。
神に従順な人は、
順境逆境を問わず自分に与えられた人生を喜ぶ。
私はそうではない。


この10年間、親達それぞれの独居生活を確保し整えるため、
まとまった時間がどうしても必要になって転職する事3回。
その度にせっかく就いた今の仕事を辞めるべきかそれとも
自分にだって仕事も生活もある、出来ないものは出来ないと放棄して
じじもばばも何らかの施設入所をさせて貰うべきか迷った。
自分が仕事を選ぶか親の生活を選ぶかで葛藤が起こり、
その度に結局親の生活を優先するのが神のみ旨に違いないと判断した。


この『道しるべ』の著者が以前説教で語っていた。
もしどっちの道を選ぶべきか迷ったら、
自分の身の回りの一番力の無い、立場の弱い人を中心にして選ぶのが良いと。
私もそれが正しいと思った。
信仰者だからだけではなく人間として。
そのようにしてそれまでの仕事を辞め、通勤時間、立地条件など
在宅介護に都合のいい条件を満たす新し仕事を探した。


自分がやりたい仕事かどうかなど念頭に無い。
採用して貰えるか、使って貰えるかどうかだけで精一杯である。
それでも神は次の職を与えて下さった。


それまでの仕事は神から頂いたもの、
親に対してしなければならない色々な事も
神からやれと示されたもの、
それまでの仕事の雇用条件が好待遇で収入が安定していたとしても
仕事の与え主である神からこれは返せ、こっちの仕事をやれと言われたら
返さねばならないと思った。
与えられても返さねばならない時は返して
やれと言われた事を優先しなければならない。
自分の仕事に対する愛着とか自信とか職業意識とか
そんなものへの執着も捨てて次に行かなければならないと思った。


次の職場もやはり神が与えて下さった仕事であり、
介護と両立すべく均衡を取りながら転職のダメージから立ち直り、
やっと自分の生活が安定した時にじじの急激なADL低下が起こった。
また転職し、同じ事を再び繰り返し、また転職した。
そしてまた次の職場が与えられた。
そこでも3年働いて生活の安定を得た時に、
今度はばばの骨折と手術、じじの関節炎悪化が同時に起こった。
また転職したよ。
神はまた仕事を与えて下さった。
時給幾らのパート労働だけどね。
職が無いよりはずっといい。


ただ、こう何度も同じ事を繰り返すと、
自分が自分の人生をどうしたいかとか
自分が何の仕事をやりたいかとか自分がどんな生き方をしたいかとか
そんな事を考える余地など微塵も無くなる。
将来の希望とか展望とか、「望」という文字を見ると吐き気がする。


神はいつも一度与えたものを取り上げる。
いろいろな事を断念したり諦めたり忍耐したりして
新しく覚えなければならない仕事や順応しなければならない職場に
やっと馴染んで自分が戦力の一人になる事が出来て
やっと課題の山を一つ乗り越えたと思うと、
次のもっとバカでかい課題の山が既に用意されている。


じじやばばのせいではない。
じじやばばだって好き好んで老いたのではなく
好き好んで脳梗塞やDMの発病や骨折をした訳でもない。
病気や怪我で助けを必要とするのは本人のせいではない。
不可抗力ではないか。


私はいつも見えない御手に追い立てられるようにして
選ぶべき選択肢を選ぶ。
それを選ぶ以外に道が無いからだ。
そして今来た道が封鎖されている事にも気づく。
後戻りするという選択肢すら無い。
これも神の御旨なんだから仕方ないという選び方だ。
結果、じじもばばも本人の希望を何とか満たす在宅生活が与えられ、
じじは受洗し喜んで教会に通うようにまでなった。
洗礼式の時に思った。
やっぱり神が望んでおられたんだなと。


よかったよかった結構な事ではないか神の望みが実現して、
じじもばばも望んでいた独居生活が維持出来て。
神も親達も望みが叶って幸せで何より。


私自身もあらゆる物事を与えられている。
必要だと思うものは大抵備えられる。
そして
与えられた生活はどうせまた取り上げられる。
今度はこれをやれ、別の場所に行けと追い立てられる。


神の与え給た訓練だとか霊的成長のためだと解釈すべきかも知れない。
しかしあんまり何度も同じ事を繰り返していると
人生の展望とか将来とか自分が何をしたいかとか
そんなものは無くなる。
ゴミ同然、無に帰す。
自分にとって人生などもう何の価値も無くなった。
考える値すら無い。
そこに望みを捨てるなとかいつも喜んでいなさいとか
神様に祝福を求めて下さいなどと言われると
破壊衝動が起こる。


私が生きている間にあとどれくらいあるんだろう。
神にやれと言われ、追い立てられてしなければならない事は。
まだ終わらないんだろうか。
やれと言われた事をやるし何も望まないからさ、
早く全部終らないかな。


自分の人生で何をしたいとかしたくないとか
何を望むとか望まないかとか
天国に行くとか行かないとか幸せか不幸せかとか
どうでもいい。
薬にも毒にもならない事だ。
それこそ神が神の好きなように決めるんだから。
私には神に従うより他に選べる選択肢が無い。


神に従順な信仰者だったら
こんな時でも自分は幸せ者だと喜べるんだろうな。

聴く

2010-02-13 01:05:36 | ヨハネ
「羊はその声を聞き分ける」
            (ヨハネ10;1~5)



読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第七話 神に聴くこと


  私たちがもっとキリスト教的な祈り、
  キリストに従っていく生き方をしようとするならば、
  神にお願いする前に、もっと大切な態度があるはずです。
  それは、神に聴くことと、従うことです。
  もし私たちにこの態度がなければ、
  いくら私たちが自分の望みに従って
  生きがいのある充実した毎日を生きていたとしても、
  キリスト者にとってほとんど意味もない人生だと言えるでしょう。
  神を信じていない人と、
  キリストを信じている私たちの違いというのは、
  まさに神が自分に何を望んでいるかをよく聴き、
  それに従って生きているという点にあると思います。
                      (本文より) 


10年くらい前、
聖書を読んでいて神に要求ばかりする者ではなく
神に聴き、神の御旨を受け入れ、神に従う者であれたらと思った。
いつだったか忘れた。
この土地に移って来て間もなくの頃だ。
読んでいた聖書の箇所はヨハネ2;23~25だった。


  多くの人がイエスの行なった奇跡を見て信じたが
  イエス御自身は彼らを信用されなかった。
                      (ヨハネ2;24)


イエスを信じたのに、イエスからは信用されなかった人々。
一方通行な虚しい信仰の在り方を、ヨハネは厳しく言い表わしている。


  イエスは
  何が人間の心の中にあるかを
  よく知っておられたのである。
          (ヨハネ2;25)


ヨハネの視線は信仰者に対して厳しい。
信仰の動機、信仰する心の態度を吟味し、評価選別されている気がする。


福音書の時代の一部の人はイエスを担ぎ揚げ、政治的に利用しようとした。
また、
奇跡にばかり注目して自分の願いを盲目的に訴える人も大勢いただろう。
癒されたから信じるとか。
癒されるなら信じるとか。
癒されるように信じるとか。
癒されるまで信じるとか。


彼らのイエスを信じる信仰は不真面目か?デタラメか?
誰もが、彼らだって例外なく癒されたかった筈だ。
病、貧困、抑圧、あらゆる悩み苦しみから癒されたい一心で
イエスを取り巻いて、
ある人はイエスを政治的指導者として、
ある人はイエスを癒し主として、
信じていたのではないだろうか。
彼らなりの信じ方で。
その彼らの信仰のあり方は現世御利益的で自己都合的で一方通行だ。
彼らが熱心であればあるほど、主イエスからは信用されない。
何という悲劇。


批判する資格は私にはない。
何故なら、ヨハネを読んでその事を考えていた10年前、
私は神に要求する者ではなく神に聴く者になりたいと思っていたが
10年経って今この現実の自分はどうだ。
神に聴くどころか要求する事さえ放棄しそうになっている。
一方通行どころか通行止め状態だ。


10年前にも自覚していた。
悩みを抱えたり痛み苦しみがあると
自分の苦痛だけにしか目を向けられない。
苦痛の中で十字架を背負ってよろめきながら
丘を進む御方に目を向ける事が出来なくなる。
イエスを信じたのにイエスからは信用されなかった人々と
私自身とどんな違いがあるだろう。
同じ。
同じじゃないか。
キリストを信じているつもりで
キリストからは信用されない自分がいる。
自己都合的で虚しい、一方通行な信仰の在り方。


 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           (De imitatione Christi)



一方通行ではなく
イエスから頂く慰めのためではなく
イエスをイエスとして愛する信仰を持ちたいと思った。
イエスをイエスとして愛するなら、
優等生の空々しい模範解答のようにではなく
取って付けた不自然な予定調和のようにでもなく
苦行のようにでもなく、
自然に聴きたくて自ら望んで、神に聴けるのではないか。
イエスをイエスとして愛する事は神に聴く祈りの動機だ。


  祈りとは、
  神が何を私に望んでいるかを聴くことだと定義することができます。
  神に聴くことなしに、神に従うことはできないからです。
  問題は神のみ旨をいかに聴くか、いかに知るかです。
  ・・・・・
  実際のところ、
  神はさまざまな形で私たちに語りかけているのですが、
  心の受信機を使わないので、錆びついてしまっているのです。
  自然を通して、聖書のみことばを通して、毎日の些細な出来事を通して、
  神はつねに私たちに語りかけているのです。
  ・・・・・
  毎日の出来事を通して、神は何を私に伝えようとしたのでしょうか。
  ふりかえることによって、
  自然と神に感謝したいこと、逆に神に謝りたいことが出てくるでしょう。
  そのよう感謝や痛悔の心から、神に必要なものを願うことができるのです。
                               (本文より)


そうか。
神に何かを願う願いも、神との応答あっての願いか。
応答が無ければ願いも無意味。
しかし神の声は聴こえない。


  もし神の声が聴こえないなら、直接、神に尋ねてみましょう。
  直接尋ねるのが一番です。
  なぜそのことが私に起こったんですかと。
  良いことにせよ、悪いことにせよ、
  神がそれをあなたの人生に送られたのは、何かの意図があるからです。
  それが分からないなら聞きましょう。
  尋ねれば、必ず何らかの形で教えてくれます。
  また、これから何をすべきなのか、それもまず神に尋ねましょう。
  ・・・・・
  「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7;7)
  という聖書のことばは真実です。
  道に迷ってどちらに行けばよいか分からないとき、まず主に聞きましょう。
  必ず何らかの方法で答えてくださいます。
                             (本文より)


尋ねれば神は必ず何らかの形で教えてくれる。
これは案外本当だ。
私自身何度も体験してきた。
ただ自分が鈍くて気づかず後になって気づかされたりした事も多かった。
神はいる。


  私たちには、神の声も直接聞けないし、その姿も見えません。
  しかしその神に私たちが近づくことができるように、
  イエス・キリストが私たちに与えられたのです。
  まずイエス・キリストが何を語り、
  どのように行動したかを黙想してみましょう。
  その中に必ず神の姿を見いだし、神の声を聴くことができるでしょう。
  その意味で聖書はとても大切です。


神の働きをどのような時に感じるか。


  途絶えていた意思の疎通が回復する時。
  長い時間経って過去を振り返った時。


神が自分に直接話しかけてくるとしたら、今の自分に何を言うと思うか。


  お前にはがっかりだ。


神に教えて貰いたい事は。


  いつまでですか?
  まだ終わりませんか?  

聖書

2010-02-12 21:40:06 | ヘブライ
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
 心の思いや考えを見分けることができる・・・」
                      (ヘブライ4;12)



読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第六話 聖書と祈りについて


  私たちは祈りによって神との関わりを深めていく事が出来ます。
  その中でも、
  聖書に書かれていることばを通して神に近づくことは
  もっとも基本的な方法です。
                        (本文より)


例えば病人の癒しの箇所から今の自分に響く言葉が無いか。
登場人物に共感する思い、苦しみ、悪徳や欠点が自分にも無いか。
イエスに触れようとする病人の態度、熱意、純粋な信頼から
自分が学ぶ事が無いか。
自分が登場人物になったつもりで聖書の箇所を味わう時、
イエスの言葉は今の自分にどんな意味を持ち、
自分の生き方とどう関係するか。


聖書を読む時、
時間、時代を超えて聖書の中の登場人物に共感したり
敵対したり、考えたりする。
聖書に登場する人々は生き生きと今の自分に話しかけ、
問いを投げかけてくる。
時代が何千年も違っても、
私達は生きる戦いの苦しみや喜怒哀楽を同じく共有している。


  イエスは
  「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
                              (ルカ4;21)
  と言われました。
  すべての聖書の言葉はあなたのうちに実現する可能性を秘めているのです、
  もしあなたにそれを聴く耳があれば。
  祈りとは、あなたのうちに実現しようとしている神のことばを、
  自分の全身全霊
  (つまり自分の過去と未来、現在の喜びと悩み、周りの人々の関係すべて)で、
  聴くことです。
                                (本文より)
    

  福音書の中で起こったことを、
  今ここで起こっているつもりで読みなさい。
  主イエス・キリストを通じて語られ、
  なされたことに、全身全霊をこめてあずかりなさい。
  ・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
  自分の目で見ているかのように味わいなさい。
                サクソニーのルドルフ
  

  福音書を読むたびごとに、
  キリストおん自らがあなたに語りかけておられる。
  あなたは読みながらキリストに向かって祈り、
  話しかけている。
                ザドンスクのティコン


           『祈りの泉 365のことば』
            (ジーン・ヒントン編著 光原百合訳
                     1998年女子パウロ会より)


  まず聖書の箇所をゆっくりと読みます。
  その中で何か心に響いてくる箇所、ことば、態度があるでしょうか。
  意味がよく分からないところはあまり考え込む必要はありません。
  自分の生活と照らしながら何か材料を拾ってみます。
  そして、沈黙で目をつぶり、十五分ほど黙想します。
  そのとき、自分が登場人物になったつもりで、
  その場面を想像して、気持ちを味わいます。
  またことばの意味について思いめぐらしてみます。
  大切なのは、
  今ここで自分に必要な真理、心の底で納得する真理を味わうことです。
                             (本文より)


私はこれまでに聖書を何度読んだだろうか。
確かに、たくさんの示唆を与えられ、
共感し、考え込んだり、発見したりして、
与えられたものは随分たくさん、ノートやファイルに納め切れず
整理するだけでも骨が折れるほど、たくさん与えられてきた。


小学生の時、
英語教室に通っていた近所の教会の玄関の左脇に
聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに
小学生だった自分が隠れて物陰で盗み見たほどの執着心は、
一体何処から来たものだったのか、今もわからない。
英語教室の先生をしていた青年が私に言った。
「聖書あげようか。
 小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
今、何十年も経って、私は自分で聖書を読んでいる。
これも神が与えて下さったものに違いない。
私は自分で聖書を開き、
登場人物に共感し、喜怒哀楽を共有しようとする。
福音書の時代の人々の目を通して、主イエスの姿を追い、
後ろ姿を捉えようとしている。


聖書の中で特に好きな箇所は。


 ヨハネ。
 イエスの横顔が見えるような気がする。


その特に好きな箇所をもう一度今黙想し、何か新しい発見は。


 ヨハネ21;5~14
 魚焼くイエス。
 魚を焼いて弟子達に朝飯を用意するイエス。


自分がチャレンジされている、
呼びかけられていると思う聖書の箇所があるか。


 エゼキエル16;6、18;23、18;32
 「生きよ」

望み

2010-02-11 20:51:45 | ヨハネ
「何を求めているのか」
           (ヨハネ1;35~39)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第五話 望みについて


小さなお願いと、大きな望みの区別。


毎日の具体的な小さな願いを、神は聞き入れて下さらない。
(病気を治してほしいとか、頭がよくなりたいとか。)
聞き入れられない理由は、
神がその人に小さな願い以上の、
もっと大切なものをプレゼントしたいからだそうだ。


  そのもっと大切なものが、望みです。
  神はあなたにより深く、より大きなことをいつも望まれています。
  ・・・・
  小さな願いはしばしば自己中心的な満足とか、
  自分だけの狭い幸せに関係していて、
  本当の神の望みとしばしば(あるいは、いつも)ずれているからです。
  小さな願いに縛られていて、
  神の大きな望みが分からないところに私達の不幸があるのでしょう。
  だからこそ、一度自分の小さな願いを置いて、
  本当の神の望みは何かを祈りにおいて省みる事が大切です。
                           (本文より)


ここまで読んで思う。
要するに、
何か願っても神は聞き入れてはくれない。
願った事は聞き入れてはくれないが、
神はご自分が与えたいと思うものを私達に与えられる。
たとえどんなに迷惑なものであっても、
神が与えたいと思われるならそれは与えられるという事だ。
作者不詳のこの詩のように。


  大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった


  より偉大なことができるように健康を求めたのに
  よりよきことができるようにと病弱を与えられた


  幸せになろうとして富を求めたのに
  賢明であるようにと貧困を授かった


  世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
  神の前にひざまづくようにと弱さを授かった


  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
  あらゆることを喜べるようにと生命を授かった


  求めたものは一つとして与えられなかったが
  願いはすべて聞き届けられた
  神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


どうよ。
この詩の作者は幸せか?
力と健康と富と権力と人生を享楽するためのあらゆるものを求めたのに
弱さと病弱と貧困と、何でも喜べと生命を与えられた。
詩の最後は優等生的模範解答、「私は祝福されました」で結んでいる。
この詩の作者は幸せか?
この詩の作者に成り代わりたいと人が思うほどに幸せか?
違うでしょう。
望みが叶って幸せなのはこの詩の作者ではなく、
与えたいものを与え満足する神ご自身である。
この人ではない。


「私は祝福されました」と言えるのか?
この詩の作者が詩人ではなく
例えば癌の末期でぼろぼろの患者だったら?
毎日毎日採血、点滴、注射で静脈はぼろぼろ、皮膚は穴だらけ、
抗癌剤で全身火脹れの激痛、高熱、下痢、呼吸苦、骨転移の激痛、
もう幾ら駆血帯で縛ってもどの静脈も浮かないのに針を刺され、
肉体の苦痛に加えて精神的な苦痛に責め苛まれる。
高額の治療費と検査費と入院費の支払いに追い詰められ、
職を失い、紙オムツや毎日通って来る家族の交通費、生活費、
あらゆるものを剥ぎ取られ、何もかも取り上げられ奪い取られて、
最後に力尽きる。
傍らで為す術無く立ち尽くす疲れ切った家族も同様だ。
どれ程切実に「治して下さい、助けて下さい」と祈る事か。
そしてそんな祈りも蹴散らすほどの苦痛に四転八倒しながら
ずたずたになって誰もが死んでいく。
私は目の前で毎日見ている。
私もいつか同じようにして死ぬだろう。
「病気を治して下さい」という血反吐を吐く願いは聞かれない。
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎない、
本当の神の望みとずれているという事か。


私はこの章について神に言いたい事がたくさんある。


  皆さんは本当に心の底からやりたいことをして生きているでしょうか。
  神様があなたにまず第一に望んでいることは、
  心の底から望んでいることを実現してほしいということだと思います。
  人間が生きているのは、義理とか人情ではなく、
  自分がしたいことをするためです。
  自分の本当の望みに生きていくことです。
  自分の本当の望みに生きている人だけが、
  本当に幸せな人であると言えるでしょう。
                     (本文より)


私には、心の底からやりたい事など無い。
子供の時から今に至るまで、そして将来やりたい事も無い。
自分には望みが無い、と思う。


  望みの特徴は、
  そのためなら自分の命を賭けても惜しくない。
  また、そのことを実現しようと思うと心の底から充実感が湧いてくる。
  たとえどんなに困難であっても、
  それに立ち向かっていく勇気と忍耐が与えられるものです。
                           (本文より)


真の望みの要素。


1.自分が本当に幸せであると言える、
  自分がより謙虚に素直になっていくような喜び。


2.自分のまわりの人々に幸せがもたらされること。


3.確かに神もそれを望んでおられるということ。


  自分が望んだ事をするのではなく神から望まれた事をする。
  モーセ。
  イエス・キリストの母マリア。
  マリアの夫ヨセフ。


  モーセがユダヤの民をエジプトから解放したのは、
  自分が望んだからではなく、燃える柴の中から神に命じられたからです。
  マリアが神の母になったのは、
  自分が希望したのではなく、ガブリエルからお告げがあったからです。
  ヨセフもまた、マリアを妻にしたのは
  主の天使に夢の中で命じられたからです。
  次のように言えるでしょう。
  神の望みこそが本当の自分の望みであると。
  そして、神の望みを自分の望みにできる人こそが本当に幸せな人であると。
                               (本文より)


ちょっと待った。
ここに挙げられている聖書の登場人物モーセ、マリア、ヨセフは
確かに自分のしたい事や望みではなく、神に望まれた事をした。
従順に従う事によって神のご計画が実現した。
神の望みを自分の望みとしたというのも
マリアの言葉(ルカ1;38)からも分かる。


しかし、モーセ、マリア、ヨセフが本当に幸せだったかどうか、
その心の内を誰が知るだろう?


モーセは終始イスラエルの民族の内外に悩みを抱え、
最後までその重圧に苦しんだ。
そして荒野で死んだ。
モーセは幸せだったか?


幾ら行間を読み取っても、
マリアは夫に先立たれ、極貧の寡婦生活、
宣教のために仕事を置いて家を出てしまった息子イエスのために
どれだけ苦労した事か、
それにイエスに対するユダヤ人からの迫害は
息子本人以上に母親であるマリアをも攻撃したと思われる。
そしてわが子が裏切られ逮捕され十字架の上で惨たらしく死んでいくのを
このマリアは間近で黙って見ていなければならなかった。
この人が本当に幸せだったと誰が言えるのだろう?


ヨセフも、
婚前に腹が膨れてしまった女マリアを妻に迎えろと天使に言われ、
言われたままにした後はエジプトに落ち延びて難民生活、
言葉も通じない外国での極貧生活だった事であろう。
そして天使にまたイスラエルに戻れと言われてナザレに戻ったが
間もなく死んでしまった。
ヨセフが幸せであったと誰が言えるだろう。


彼らは神の望まれる事をした。
神の望みを実現するために
信仰者として従順に動き、働いて、貧しく世を去った。
幸せなのは望みを実現した神であって、彼らではないではないか。
彼らは苦難に満ちた人生を全うし満足して死んだかも知れないが
「神の望みを自分の望みとして幸せであった」
という評価は誰がするべきものだろう。




自分自身に対して問う。


今までの人生で何を望んでいたか。


 何も望んでこなかった。
 ただ目の前の課題をやり過ごす事だけ。


今、自分は本当に何を望んでいるのか。


 やらなければならない事を早く終わらせたい。


残りの人生で、死ぬ前に是非しておきたい事は何か。


 何も無い。


自分の人生において、
本当にしたい事、本当に望んでいる事をしているか。


 私はしていない。
 したい事など何も無いからだ。


望みの観点から自分の人生をどのように評価するか。


 ただのゴミ。