「死んでいたのに生き返った・・・・・楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
(ルカ15;11~32)
読書メモ。
『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第十話 (続)ゆるしについて
赦す事。
主の祈りの中の、人間がするべき唯一の事。
主の祈りの中のその部分だけは、出来ない難しいと誰もが言う。
私自身、そう思う。
私はこれまでに出会ったあらゆる人に対して
赦せない思いを持って腹の中で燻ぶらせている。
赦せない事は苦しい。
赦せば楽になれるとわかっていても赦せない。
もう赦したと一度自分の中で完結したつもりでも
何かの拍子に怒りや恨みが甦り、再燃する。
人をゆるすのが難しいのは、
ゆるしを人間的なレベルで考えてしまうからです。
つまり法的な考えから、相手が悔い改めたら、ゆるす。
または、相手が償いを果たしたらゆるしてやるというように、
ゆるしに条件をつけてしまう点です。
それに対して、神のゆるしは無条件です。
神は私が悔い改めようとなかろうと、私たちの態度に全く関係なく、
私の罪をゆるしてくださっています。
神がわたしの罪をゆるしてくださっているからこそ、
私は悔い改めて、償いのわざを果たすことができるのです。
イエス・キリストが十字架にかかり、復活したのは
まさに私たちの罪をゆるすためでした。(ルカ24;47)
神は私たちにそのような無条件のゆるしを
求めておられるのです。(マタイ18;21~35)
(本文より)
筆者が挙げるゆるしの過程。
1.自分の否定的な感情を素直に外に出す。
祈って神に打ち明けるとか、
信頼出来る指導者か友人に打ち明けるとか。
2.その出来事を客観的に理解する。
感情に左右されずに相手がした行為の理由を探す。
相手の過去、性格、立場、状況、環境から
相手を理解し、ゆるすための糸口を探す。
3.新たな生きる姿勢を選び、新たな人間関係を相手と結んでいく。
蘇って来る過去の傷の痛みや感情に振り回されずに
断固として新しい態度を選んで実行する。
4.新たな関係を実行していく事によって、
いつしかその傷が痛まなくなり、共感と感謝を感じるようになる。
別の角度からいうと、
人をゆるすというあなたはいったい誰かをふりかえることです。
聖書において、罪をゆるすことができるのは神だけです。
神に代わって人をゆるすというあなたはいったい何者ですか。
あなたこそ、神にゆるしてもらわねばならない人ではないですか。
自分の方こそゆるしてもらわねばならない者であることを悟った時、
本当にゆるすことができます。
というより自分の方こそ本当に悪かったと、
相手にゆるしを願うことができたとき、
本当に神のゆるしのわざが働くといえるでしょう。
これが真の回心です。
互いにゆるしを与え合うことよりも、むしろ、
互いに悪かったと謝り合うとき、真の和解が成立するのです。
(本文より)
確かにこれは本当だと思う。
教会協議会絡みの問題では特にそう思う。
お互いに、高みから相手を見下して
「相手が反省して悔い改めたならゆるしてやろう」
という意図が見え隠れしているから問題が余計にこじれ、
だらだらと5年も10年も時間を無意味に費やす。
個人レベルにまで掘り下げても同様だろうか。
同様だ。
厳しいけど。
例えば
私の父と、父が子供だった時に虐待した継母、
私と、私が子供だった時に八つ当たりの標的にし続けた父と母、
学校で苛めを苦に自殺した子供の親と、苛めた子供本人とその親や教師達、
犯罪の被害者と加害者。
ゆるす?
簡単ではない。
人を赦し難い経験は私の場合特に父と母に対してあり、
長い間その怨み辛みに囚われてきた。
筆者はそれを全て紙に書けとここで言っているが
私は自己分析と称してブログの中にそれをぶちまけてきた。
冷静に回想し、相手と自分とを
客観的に分析出来るようになったのはごく最近の事だ。
神が意図しておられる事は、
血流の途絶えた手足に温かい生きた血液の流れが再開する事だと
私はわかっている。
死んでいたのに生き返った・・・・・
楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか
(ルカ15;11~32)
わかっていながらこれほど長い年月を費やし、
今なお試行錯誤を繰り返している。
今でもだ。
(ルカ15;11~32)
読書メモ。
『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第十話 (続)ゆるしについて
赦す事。
主の祈りの中の、人間がするべき唯一の事。
主の祈りの中のその部分だけは、出来ない難しいと誰もが言う。
私自身、そう思う。
私はこれまでに出会ったあらゆる人に対して
赦せない思いを持って腹の中で燻ぶらせている。
赦せない事は苦しい。
赦せば楽になれるとわかっていても赦せない。
もう赦したと一度自分の中で完結したつもりでも
何かの拍子に怒りや恨みが甦り、再燃する。
人をゆるすのが難しいのは、
ゆるしを人間的なレベルで考えてしまうからです。
つまり法的な考えから、相手が悔い改めたら、ゆるす。
または、相手が償いを果たしたらゆるしてやるというように、
ゆるしに条件をつけてしまう点です。
それに対して、神のゆるしは無条件です。
神は私が悔い改めようとなかろうと、私たちの態度に全く関係なく、
私の罪をゆるしてくださっています。
神がわたしの罪をゆるしてくださっているからこそ、
私は悔い改めて、償いのわざを果たすことができるのです。
イエス・キリストが十字架にかかり、復活したのは
まさに私たちの罪をゆるすためでした。(ルカ24;47)
神は私たちにそのような無条件のゆるしを
求めておられるのです。(マタイ18;21~35)
(本文より)
筆者が挙げるゆるしの過程。
1.自分の否定的な感情を素直に外に出す。
祈って神に打ち明けるとか、
信頼出来る指導者か友人に打ち明けるとか。
2.その出来事を客観的に理解する。
感情に左右されずに相手がした行為の理由を探す。
相手の過去、性格、立場、状況、環境から
相手を理解し、ゆるすための糸口を探す。
3.新たな生きる姿勢を選び、新たな人間関係を相手と結んでいく。
蘇って来る過去の傷の痛みや感情に振り回されずに
断固として新しい態度を選んで実行する。
4.新たな関係を実行していく事によって、
いつしかその傷が痛まなくなり、共感と感謝を感じるようになる。
別の角度からいうと、
人をゆるすというあなたはいったい誰かをふりかえることです。
聖書において、罪をゆるすことができるのは神だけです。
神に代わって人をゆるすというあなたはいったい何者ですか。
あなたこそ、神にゆるしてもらわねばならない人ではないですか。
自分の方こそゆるしてもらわねばならない者であることを悟った時、
本当にゆるすことができます。
というより自分の方こそ本当に悪かったと、
相手にゆるしを願うことができたとき、
本当に神のゆるしのわざが働くといえるでしょう。
これが真の回心です。
互いにゆるしを与え合うことよりも、むしろ、
互いに悪かったと謝り合うとき、真の和解が成立するのです。
(本文より)
確かにこれは本当だと思う。
教会協議会絡みの問題では特にそう思う。
お互いに、高みから相手を見下して
「相手が反省して悔い改めたならゆるしてやろう」
という意図が見え隠れしているから問題が余計にこじれ、
だらだらと5年も10年も時間を無意味に費やす。
個人レベルにまで掘り下げても同様だろうか。
同様だ。
厳しいけど。
例えば
私の父と、父が子供だった時に虐待した継母、
私と、私が子供だった時に八つ当たりの標的にし続けた父と母、
学校で苛めを苦に自殺した子供の親と、苛めた子供本人とその親や教師達、
犯罪の被害者と加害者。
ゆるす?
簡単ではない。
人を赦し難い経験は私の場合特に父と母に対してあり、
長い間その怨み辛みに囚われてきた。
筆者はそれを全て紙に書けとここで言っているが
私は自己分析と称してブログの中にそれをぶちまけてきた。
冷静に回想し、相手と自分とを
客観的に分析出来るようになったのはごく最近の事だ。
神が意図しておられる事は、
血流の途絶えた手足に温かい生きた血液の流れが再開する事だと
私はわかっている。
死んでいたのに生き返った・・・・・
楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか
(ルカ15;11~32)
わかっていながらこれほど長い年月を費やし、
今なお試行錯誤を繰り返している。
今でもだ。