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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

カインとアベル((ローマ9;18))

2006-08-26 23:27:52 | ローマ
初めて創世記の4章を読んだ時、理不尽だと思った。
二人の子供がいて親が片方しか顧みないならば、
顧みられなかった者はもう一人を妬み、
顧みられた者は相手よりも優位に立って見下すのは
心理的に無理ない、当たり前の事ではないか。
まるで主なる神が
2人の子供のうち片方だけ偏愛する愚かな親のようだ。
この箇所を読んで
私は長い間カインの心理に共感し同情していた。
カインがアベルを殺したのは、
元はと言えば主なる神のエコヒイキが原因ではないか。
本当にこんな解釈でいいのか?


学生だった頃、
大学の聖書研究会で教授に聞いてみた。
教授は面倒臭そうに答えた。


「カインが自分だけ幸せになろうとしたからさ。」


???


たまたま帰省しその場に同席していた神学生は
新約の『贖いの子羊』に関連付けて言った。


「きっと神様は
 野菜よりも羊の方が好きだったんじゃない?
 かわいいし。
 きっとカボチャよりも
 羊の方が好きだったんじゃない?」


???


要するにその場では誰も理解出来なかったのだ。
その時皆が使っていた聖書は口語訳だった。
意味が読み取れなくても
無理はなかったかも知れない。


 ・・・カインは
 地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
 アベルもまた、
 その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
           (創世記4;3~5口語訳)


カインの何が悪いのだ?
何で主なる神はカインを顧みなかったのだろう?
理不尽ではないか。
そんな疑問が湧いてくる。


それから10年経って私は洗礼を受けた。
当時母教会では新改訳聖書を使っていた。
創世記の同じ箇所を
洗礼を授けて下さった牧師先生に聞いてみた。


 ある時期になって、
 カインは地の作物から主への捧げ物を持って来た。
 また、
 アベルは彼の羊の初子の中から、
 それも最良のものを、
 それも自分の手で持って来た。
 主は、アベルとその捧げ物とに目を留められた。
 だが、カインとその捧げ物には
 目を留められなかった。
 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
           (創世記4;3~5新改訳)


私は牧師先生に聞いた。


「カインの何がまずくて
 神様は顧みてくれなかったんでしょうか?」


母教会の牧師先生は詳しく説明して下さった。


「旧約聖書は
 新改訳の方が原文に近いと言われています。
 カインとアベルとの違いは何だったと思いますか。
 カインは作物の中から
 主に捧げたとしか書かれていません。
 アベルについては
 最良のものを選んで、
 自分自身で捧げたと、
 わざわざ説明がなされている。
 ここに大きな違いがあります。
 特に選ぶことなくお供えしたのと、
 最良のものを自分自身で選んで
 自分の手で捧げるのとでは
 開きがあるとは思いませんか。
 捧げ物その物が何であったかは
 問題ではありません。」


なるほど。
祈りも働きも賛美も、主に捧げるならば
最善最良を尽くす事を自らしなくては
捧げる事にならないのか。
捧げる側の心のあり方が問われる訳だ。
そうそう。
捧げる側の心のあり方。


そこで、先日水曜日の聖書研究会。
(ローマ9;1~18)
カインとアベルと同様の図式が、
聖書の中の随所に出て来るのは何故か?
人間が2人いて、神が
片方を一方的に選び、
もう片方を疎んじるという図式が
何度も出て来る。
カインとアベル、
イシマエルとイサク、
(というよりもこれはハガルとサラかな。)
エサウとヤコブ。
うちの教会の牧師先生によると、
偏愛する神の側に問題があるのではない、
選ばれた者と選ばれなかった者との、
或いは
選ばれた者と先に一度選ばれて後に見放された者との、
神に対する心のあり方の違いの問題だという。


「このように、
 神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
 かたくなにしたいと思う者を
 かたくなにされるのです。」
                 (ローマ9;18)


ファラオとモーセ、
サウルとダビデ、
パリサイ人とイエス・キリスト。


私の今現在の所属教会の牧師先生が
先日の聖書研究会で話して下さった。


「神様は救う者と救わない者とを
 初めから選び分け
 前もって決めておられたのではないよ。
 神様は全ての者が救われる事を望んでおられる。
 イエス様がそう言われたからね。(マルコ16;15)
 全ての人が救われるために
 先に選ばれた者は働かなくてはならない。
 先に救われた者には責任がある。
 全ての人が救われるために
 神の救いを述べ伝えるという責任がある。
 カイン、エサウ、ファラオ、サウル、パリサイ人。
 まだ聖書には他にもたくさん登場するけど、
 彼らは初めから選ばなかったのではないし、
 救われないと初めから決められていた訳ではない。
 しかし
 彼らは自分が神様から選ばれた事を重視なかった。
 選ばれた事を自分の特権として
 独占し歪めてしまったり、
 或いは軽んじ、見過ごし、
 または選ばれた事を自分の欲得のために利用した。
 彼らが与えられた責任を果たさないから
 代わりに他の者が選ばれ立てられた。
 僕達クリスチャンはどうだろう。
 僕達クリスチャンは
 まだ神を知らない人達よりも先に
 イエス様と出会って救われた、
 その事を自分でよく知っているよね。
 だけど、
 先に救われたと言う事は責任があるって事だ。
 じゃあ僕達は先に救われた者として
 相応しく責任を果たしているだろうか。
 責任を果たしてますと
 僕達は神様に大手を振って言えるだろうか。
 自分達が救われた事はわかっていながら、
 神様から与えられた使命を、
 僕達は全然果たしていないんじゃないだろうか。
 もし自分は果たしていると思うならそれは驕りだ。
 今のこの世の中を見ればわかる。」


ローマ書はただ難しいのではないんだ。
耳が痛いのだ。
次回、集会の当番は私。
耳も胃も痛くなってくる。

びっくりしたこと(マルコ11;24)

2006-08-23 04:41:37 | マルコ
ある日交通事故で
ハンドルに胸を強打して搬送されて来た人がいた。
一時停止を怠って交差点に突っ込み
横から来た車と衝突した。
スピードもかなりオーバーしていたという。
本人が悪いのだ。
意識はあって話も出来る状態だったが、
外科医達も技師達も胸腹のCTを見て絶句した。
肝臓がずたずたになっていた。
CTで輪切り画像の肝臓は5つか6つに裂けて
ジグソーパズルのようになっていた。
肋骨も数本折れて肺に刺さり血気胸を起こしていた。
手術で何とか修復できないか、
いや、下手に手術して胸と腹を開けば
返って大出血するかも知れない、
かといって何もしないでただ見ている訳にもいかない、
いや、手術した方がむしろ危険だ、
麻酔をかけた時点で死んでしまうかも知れない・・・。
結局リスクの高い手術はしない事になり、
翌日ICUから一般病棟の個室に移す事になった。
ICUは助かる見込みのある人しかいられないのだ。
手の付けようのない絶望的な状態で
手術のリスクも高い状態だと、
医師は親族を呼んで説明した。


「まだ意識があって少し話も出来るから、
 今のうちに会いたい人に会わせてあげて下さい。」


個室に移してその日のうちか、翌日には私達の手で
霊安室にお見送りしなければならないのだと思うと、
その人の死が
自分の勤務帯に当たるかも知れない事を想定して
皆一様に緊張しながら夜勤に入っていた。
私の準夜勤務の時にその人の血圧が下がり始めた。
ああ、もうすぐかも知れない・・・。
親族に連絡を入れて間もなく夫と老母と、
小学1年か2年頃の息子がやって来た。
深夜、暗い病棟の廊下を
父親と祖母に背中を押されて歩いて行く
その小さな男の子の姿を見ると胸が痛くなった。
その場にいた医師も看護師も同じ年頃の娘や息子がいる。
職員達は皆その子の後ろ姿を見て立ち尽くしていた。
事故は母親自身の過失には違いない。
あの大怪我で生命を失ったとしても
ある意味自業自得と言えばそれまでかも知れない。
しかしあの男の子はどうなるのだ。
母親のちょっとした不注意のために
まだこんな幼い年齢で母親を失うのだ。
あの子が悪い訳でもないのに。
まだ10歳にもなっていないのに。
私は明け方帰宅した。
夜勤明けの休みが終わって日勤で出勤する頃には
もうその人はこの世にいないのだと思った。


夜が明けて、
私はまた散歩しながら近所の教会の御聖堂に立ち寄り、
ボーっと考え事をしていた。
今頃、あの子供は母親の遺体の横に
ぽつんと座っているのかも知れない。
そう思うとやり切れなかった。
天の父なる神様、あの子が可哀想ではありませんか。
あの子供を哀れんで下さいませんか。
はっきりと言葉は思い出せないが、
あの日私は主なる神に向かって
そんな意味の事を何度も話しかけた。


休みが終わって日勤に出てみると、
その人はまだ病棟にいた。
医師は毎日同じ事を親族に説明していた。
「いつどうなっても不思議はない状態」
「いつ急変してもおかしくない状態」
「会いたい人には今のうちに会わせてあげて」
いつ急変して死亡しても不思議の無い程、
目の離せない状態が続いていた。
その人を受け持つ度に、今日かも、今夜かもと
緊張し覚悟して勤務についた。
夫や母親の疲労色が濃くなっていった。


今夜かも・・今日かも・・そんな緊張も長く続くと
だんだん慣れてきてしまうから人間は恐ろしい。
日を重ねる毎にその人の事を何とも思わなくなり、
毎日次々入って来る新しい重症患者の方に
主な関心が移ってしまった。


ある時深夜明けの早朝に、
受け持ちだった私はその人に聞かれた。
「看護婦さん、あの、私、暇だし、
 顔パックしてはダメですか?
 毛穴がざらざらしてイヤなんですけど。」
今日亡くなるかも、
明日亡くなるかもと思って見ていた重患の、
この全身チューブだらけの人が顔に毛穴パック!
助かる。この人は助かる。
私は休憩室で同僚と先輩相手に喋った。
夜勤明けの疲労でテンションが変に高かった。
「そうそう、私祈った祈った。
 そういえばあの時祈ったんだったわ。
 本人には同情出来ないけどあの小さい息子ちゃんが
 あまりにも可哀想だから、
 神様どうにかして下さいって、祈ったわ。
 いやーびっくりだわ。祈りは聞かれたよー。
 感謝のお祈りしなきゃ。」
同僚も先輩も笑って聞き流していた。
私も半分冗談交じりに喋っていたが、
それ程奇跡的な回復だった。


しかし確信はそれから現実のものとなった。
貧血が改善されて輸血を中止した。
血気胸だった両肺の持続吸引は
壜に血性の廃液が溜まらなくなり、
片側ずつ閉鎖してみても血中酸素飽和濃度が下がらず
呼吸苦も生じなかった。
深呼吸で洩れも起こらない。


「よし。管を抜こう。」


胸腔ドレーンが抜かれた。
抜いた後も問題は起こらず酸素吸入も中止、点滴も中止、
食事を食べられるようになった。


本人はパックの他に
「ネイルケアしてはダメ?
 色を塗らなきゃいいでしょ?
 磨くだけなら。」
「脱毛は?してもいい?」
「自分でシャンプーしたいんですけどダメですか?」
「雑誌買いたいんですけど売店に行っていいですか?」
「髪切って染めたいんだけど、
 外出許可まだダメですか?」


どんどん行動半径が広がっていった。
やがてお気に入りのシルクのパジャマを着て
バレッタで髪を上げ顔にパックを貼ったまま
サンダルをカポカポ鳴らして
病棟内を歩き回るようになった。


結局その人は自分の足で歩いて退院した。


祈った事は既に聞かれていたのだ。
その時になってやっと気付いた。
あの5つにも6つにも断裂したずたずたの肝臓は
何だったのだ。
バラバラに折れた肋骨が何ヶ所も刺さった肺は
一体何だったのだ。
手の施しようが無い、
後は霊安室にお見送りするだけ、
そう覚悟して
緊張していた夜勤の日々は何だったのだ。
びっくりだ。
こんな事があるのかと思った。


祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、
そのとおりになります。(マルコ11;24)


ほんとだ・・・・・・


しかし何よりも、
自分で祈っておきながら
これほどはっきり現実に示されているのに
祈りが聞き届けられた事にすら気付かなかった、
こんな私自身の信仰とは一体何なのだ。

賛美歌『キリストにはかえられません』(ヨブ1;21、2;10)

2006-08-22 10:21:44 | ヨブ
この土地に来て新しく就職した職場は
救急病院の外科と循環器内科の混合病棟だった。
看護学校を卒業してまだ臨床経験1年では
自分が何の使い物にもならないと思った。
修行のつもりでそこに就職した。
想像通りの凄まじい職場だった。
仕事が終わった後や休みの日には家にいると
父と衝突する事も多く、
仕事の事でどんよりした気持ちでいても
行き場所がなかった。
所属する教会は遠いし、
いちいち牧師先生に愚痴をこぼして身の上相談みたいに
依存的に教会に入り浸るのも間違っていると思った。
それで、日曜日以外の週日には
またあの近所のカトリック教会の御聖堂に行って、
人間相手ではなく神様相手に愚痴と泣き言をこぼし
ボーっとしたりして空き時間を過ごした。
カトリックの教会員の人達と行き会う事もあった。
「あなたいつも熱心にお祈りしに来ていて
 信心深いのね。感心ね。」と
修道女の方に言われて慌てた。
どえらい勘違いをされていたものだ。
たまたま土曜日の午後に行った時には
御聖堂の掃除当番の奉仕をする婦人が入って来た。
掃除の邪魔をして迷惑になるので帰ろうと席を立つと、
「うるさくしてお祈りの邪魔してごめんなさい、
 すぐ済みますから。」と謝られたのでびっくりした。
他所の教派の者が勝手に御聖堂に上がり込んで
掃除の邪魔をしているのに、
お詫びすべきはこちらなのに、
「お祈り中に沈黙を破ってごめんなさい」と。
こちらこそごめんなさい。
身の置き場のない日々、
隠れ家のように度々逃げ込んで助けられておきながら
私は御聖堂の掃除の手伝いもゴミ拾いも
雪掻きもした事がない。
本当にごめんなさい。


ある日、
いつものごとく御聖堂でボーっとしていると、
Pさん・Kさん夫妻が御聖堂に来た。
夫妻は散歩の途中立ち寄ったのだ。
聖週間に聖歌集を貸して貰ったり
初対面だったのに親しく話しかけて貰ったまま
ずっと会っていなかった。
Pさんは頸から下が動かないので顎で電動車椅子を
上手に操作していた。
KさんはPさんの車椅子に合わせてゆっくり歩きながら
道端の草に目を留めていた。
いい天気だった。
しばらく立ち話をして一緒に散歩をするうちに
お宅に招かれた。
「家に来てお茶飲んで行きなよ。
 今日仕事休みなんでしょ?」
お邪魔させて頂いた。
お茶を頂きながら、
自分の所属する教会の事や父親の事などを話した。
Pさんは私の仕事に興味を示して聞いてきた。
「ここに来る前に札幌の病院で働いていたと聞いたけど
 どこの病院?」
つい数ヶ月前まで働いていた勤務先の名前を言った瞬間、
Pさんの顔色が変わった。
「俺の身体をこんなにした奴の病院だよ!」
自分の顔から血の気が引くのを感じた。
私は固まって椅子から立ち上がる事が出来なかった。


Pさんは若い頃腰痛を抱えながら仕事をしていた。
当時通院していた病院の医師から
脳外科で椎間板ヘルニアの手術をして
よくなった症例があるからと勧められた。
Pさんは紹介を受け、
後に某大学病院脳外科教授となったT医師と
私の勤務していた病院の院長とで行う手術を受けた。
手術前には腰痛に悩みながらも歩く事が出来たし
鎮痛剤を飲みながらでも仕事をする事が出来た。
しかしPさんはその手術を受けてから後、
頸から下が完全に麻痺してしまった。
歩くどころか身動きすら全く出来なくなった。


「手術はやり直したんだよ。
 あんたが働いてた病院の先生がさ、
 涙ながらに頭下げてさ、
 頼む、もう一回だけチャンスをくれ、
 手術をさせてくれって言ったんだ。
 俺も望みがあるかも知れないと思って
 また手術受けたんだ。」


しかし再手術でもPさんの機能は戻らなかった。
手術の失敗という現実に、
Pさんは舌を噛んで死のうとした。


「あの時の事は忘れない。
 頭しか動かない俺を皆で寄ってたかって
 押さえつけてさ、
 金属の器械で口を無理矢理こじ開けて、
 マウスピースを口に突っ込んで、
 あの医者が言ったよ。
 どうだ、死ねるものなら死んでみろってね。
 俺は一生忘れない、あの時の事は。」


自殺すら出来ない状態で寝たきりになったPさんは、
背中や仙骨部や身体中のあちこちに褥瘡が出来て
感染症を起こし、何度か全身状態が悪化した。


Pさんは訴訟を起こした。
当時は(いや、今でも)医療過誤の裁判で
被害者が勝訴するケースは稀だった。
それでもPさんは手術を担当した医師と病院を告発し、
長期にわたる裁判を闘った。
身体機能を奪われ、仕事と生活の全てを奪われ、
人生の望みの全てを奪われたのだ。
自殺の道さえ断たれて、
例え勝ち目がないと解っていても
闘わずにはいられなかっただろう。
裁判は長い時間を費やし、
結果的にPさんは勝訴したという。
しかしその内容は、
7000万円の賠償請求に対して300万円だった。
たったの300万円。
その金額の根拠は
Pさんが手術前に『手術承諾書』に署名した事だった。
手術の失敗の可能性をPさんが事前に承諾していたと
医師達と病院側は主張したという。
私は言葉も出なかった。
Pさんの言葉が今でも忘れられない。


「井上さん、俺は負けたんだ。
 俺は裁判には勝った。
 医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
 医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
 でも俺は負けた。」


負けた―。
裁判に至るまでの苦しみ、
裁判を闘っている間の苦しみ。
しかしPさんにとって本物の地獄の苦しみは、
裁判に勝った時から始まった。


「たった300万の賠償金を手にした瞬間、
 それまで力になったり励ましてくれたり
 何かと世話をして支えてくれていた親戚や友達が
 皆ハイエナに変わった。
 まず300万の中から半分は
 裁判の費用や弁護士に支払って消えた。
 残りの金から医療費を支払うと
 親戚や友達が借りた金を返せと言って来る。
 残った金も
 あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと
 親戚や友達がみんな毟り取って行った。
 手元には数万の金しか残らなかった。
 金が無くなったら
 俺の回りには誰も残っていなかったね。
 身内も友達も。誰一人信用できる奴がいなくなった。
 だけどそういう事情でもさ、
 賠償金を貰ったからという理由で
 市からは生活保護費を打ち切られたよ。」


自分が働いていた病院で、
私はたくさんの人との出会いを与えられ、
臨床経験と進学と資格取得のチャンスを与えられ、
生活の必要を満たす全ての物を与えられた。
その同じ病院で何もかも奪われた人がいたのだ。
身体機能も健康も仕事も生活も将来の展望も、
そして信頼できる人間関係も、生活保護までも。
あの時、
主なる神が私にPさんと出会わせて
何を教えようとされたのか、
何を学ばせようとされたのか、
考える事も出来なかった。


「井上さん。
 俺が負けたと言うのはさ、
 裁判には勝ったけど何もかも失った、
 だから負けたんだ。
 俺は負けたんだよ。」


私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。(ヨブ1;21)


私はPさんに聞いた。
「医者も病院も、生涯許せないでしょうね。」
Pさんは私に答えた。
「井上さん、
 俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
 辛い事も頂くんだよ。」


私たちは幸いを神から受けるのだから
わざわいをも受けなければならないではないか。
                (ヨブ2;10)


その後、生活保護再申請に力を貸してくれたのは
某政治団体の人達だったという。
Pさんはその人達に支えられるうちに
団体に関わるようになった。
神への信仰とは無縁な政治的思想に入り込みながら、
何故かPさんはキリストに関心を持つようになった。
関心を持った理由についてPさんは私に語らなかった。
私のような者がズカズカと入り込む事の許されない、
主なる神とPさんとの間だけの
声のない会話があったのだと思う。
私が札幌での生活を置いてここに来た時のように。
人の心には神と自分以外の
第三者が立ち入る事の許されない聖域がある。


知人の紹介でPさんは
キリスト教の教会で行なわれている聖書の集会に
参加するようになった。
Pさんを受け入れてくれたのは
SDA(Seventh Day Adventist)教会で、
身体の動かないPさんのため教会まで送迎してくれた。
私が話を聞く限りでは、
Pさんはかなりの意欲と熱意を持って聖書を読み
集会に参加していたのではないかと感じた。
しかしPさんはその教会に定着する事が出来なかった。


ちょうどその頃、第一次湾岸戦争が勃発した。
Pさんは教会の立場を批判した。
『汝殺すなかれ』の教えに背き戦争を仕掛け
殺人行為をするアメリカに対して、
キリスト教の教会はどうしてちゃんと反対しないのか、
福音書では『殺すな』とか
『平和を実現する者は幸い』などと教えておきながら
アメリカの軍事行為に対して批判しない、
キリスト教の教会は偽善的で矛盾していると主張した。
「だけどさ、あの教会で政治の話はご法度だったんだ。」


Pさんの話を聞いて、
SDA教会の人々の当惑する姿が私の目に浮かんだ。
賛美と祈りと聖書を読み福音を分かち合う集会の、
穏やかで暖かい雰囲気が
Pさんの反戦論議で台無しになってしまった事だろう。
私達のメノナイト教会でさえ、
第二次世界大戦中に宣教師が母国アメリカで
兵役拒否して収容所に入れられたり
ベトナム戦争時代にも兵役拒否した、
そんな反戦主義を標榜する教派に所属する教会でさえ、
戦争を止めさせる事の出来ない教会に苛立ち
欺瞞だ矛盾だと批判して立ち去った若者も
現実にいたのだ。
教会の礼拝や集会の時間の大半を
反戦論議に費やす事に対しては、
議論に明け暮れて信仰そっちのけになるのではないか
という警戒感があったと思われる。


牧師や教会員達と衝突したPさんは
教会に行くのを止めてしまった。
その時Pさんと共に教会を出た人があった。
SDAの教会員だったKさんである。
Kさんは、その時自分がどうしても
そうしなければならないと感じたという。

「私が自分の教会を出てこの人と一緒に行かなければ、
 この人はどこの教会にも行く事が出来なくなる。
 だって頸から下は身体が動かないんだから。
 受け入れてくれる教会を
 あちこち探して歩く事も出来ない。
 車椅子ごと乗り降り出来るリフト車も持っていない。
 介護タクシーを乗り回すお金なんてない。
 家で聖書を手で持って開いて読む事も出来ない。
 福音放送のラジオやテレビの
 スイッチを入れて聴く事も出来ない。
 私が一緒に行かないと
 この人がキリストにつながる道が
 断たれてしまうと思った。」


Kさんは自分の教会を愛していた。
しかしその時はどうしても自分がPさんと一緒に
行かなければならない事を感じたとKさんは言った。
Kさんは神を求めて葛藤するPさんの心を
理解していたのだと思う。
しかしそれ以上にPさんを招く主なる神の御手を、
Kさんは感じていたのではないだろうか。


PさんとKさんはSDA教会から離れて
二人で暮らすようになった。
「教会に行かないと寂しいなあ、
 教会行きたいなあっていつも二人で言ってたよ。」
PさんとKさんは自宅で聖書を読んだりしていた。
ある日曜日の朝、テレビの福音番組に
サックス奏者の岸義紘牧師が出演した。
岸牧師は番組の中で
賛美歌『キリストには換えられません』を演奏した。
その賛美歌のメロディを聴いた途端、
Pさんは無性に教会に行きたくて
たまらなくなったという。


「何と言い表せばいいか言葉が見つからないけど、
 あの賛美歌のサックスは
 心に染み入る音色だったなあ。
 もうとにかく何処のどんな教会でもいいからさ、
 キリストの教会に行きたいと思ったね。
 しかしこんな身体だもの、行けないと思ってた。」


PさんとKさんの住いからゆっくり歩いて5分位の所に
カトリック教会があった。
KさんがPさんに言った。


「あそこの教会は
 いちいち車で搬送して貰わなくても家から近くて、
 散歩がてら車椅子で行ける距離だよ。
 私達のいた教会とは趣きがかなり違うけどさ、
 キリスト教には違いないし
 車椅子に乗った状態でも
 中に入らせてくれるかどうか、
 今度の日曜日に行ってみない?」
「そうだな。雨が降らなかったら行ってみるか。」


次の日曜日、二人が外に出ると、
俄かに空が曇ってパラパラと雨が降り出した。
「ほら、やっぱり俺みたいな者は
 教会に来るなって事だ。やめとこうか。」
「何言ってんの。
 雨なんかにめげないでちゃんと教会に来るかどうか
 神様が見てるんだよ。さ、行こ。」


二人は近所のカトリック教会を初めて訪ねた。
その日は枝の主日だった。
その当時の司祭は事情を聞くと喜んで歓迎してくれた。
二人は翌日から洗礼準備のため毎日その教会に通い、
翌週復活の主日に洗礼を受けた。


二人を教会員として受け入れるに際して、
司祭は二人にそれぞれ一つずつ条件を提示した。
Pさんには
かつて関わっていた政治団体との関係を絶つ事。
Kさんには
改めて未信者同様に信仰入門の学びと洗礼を受け直す事。
Pさんにとっては
一番辛い時に力になってくれた仲間との決別であり、
Kさんにとっては
それまでのキリストに対する信仰の全てを
否定し白紙撤回する事だった。


私は話を聞いて考え込んでしまった。
教会につながる事は
それ程の痛みを伴う代償を要求するものなのか?
Pさんの関わっていた団体は
神を否定する無神論的な思想を持つと言われていたので、
司祭の要求も理解出来なくはない。
しかしKさんは?
洗礼を受けたキリスト者であっても
他の教派からカトリックに受け入れる際には
それまでのキリストへの信仰を白紙撤回して
洗礼を受け直さなければならないものなのか?


司祭は洗礼を受けていないPさんを教会に迎え入れた。
Pさんにはキリスト者として新しく生まれ
信仰者として生きる道が与えられた。
でもそれを支えるためにKさんは
自分が導かれ信仰者として生まれ育った教会を
捨てなければならなかった。
司祭はKさんが受けた元の教派の洗礼とその信仰を
正当なものとして認めなかった。
だからKさんには未信者として
一から公教要理を学ばせ洗礼を受け直させたのだ。
カトリックが他教派から転籍者を受け入れる時には
問題なく受け入れる教派と
そうでない教派があると聞いた。


元いた教会に不平不満を持つ者なら
洗礼を受け直す事に問題意識は少ないかも知れない。
しかしKさんは自分のいた教会を
嫌って飛び出した訳ではないのだ。
それまで自分の歩んで来た信仰生活の全てを
完全に否定される。
元いた所で躓こうとそうでなかろうと、
既に受けた洗礼を無効とし
改めて洗礼を受け直させる事は、
その人の過去のキリストへの信仰そのものを
無かったものとして黙殺し
完全否定する事ではないかと私は思った。
Kさんはどう感じ、どう思い、どう考えたのだろうか。
組織のあり方も、ものの考え方も、
歴史も文化も全く違うのだ。
例えば歌ひとつとっても、
受洗以来ずっと歌ってきて自分自身に染み付いた
賛美歌や聖歌はその教会では歌われていない。
主日礼拝でその歌を歌う事はもうないのだ。
自分が生まれ育ち身に染み付いた教会の匂いを
消して捨て去る事が出来るものだろか。


私がそれを聞きたかった理由は、
私の所属するメノナイトからも
カトリックに移った人がいて、
その人の事が念頭にあったからだった。
その人はカトリック信者の配偶者と礼拝を共にするため
教会を移った。
その時司祭から過去の信仰を白紙撤回する事を求められ
泣きながら一から洗礼を受け直したと聞いた。
部外者として時々お邪魔し仲良くする分には問題ないが、
実際仲間に加わるとなると
カトリックの人々にとってはSDAも私達メノナイトも
異端や新興宗教の一部に過ぎないのだ。
教派を換えて教会を移るとはそういう事だ。
それが現実なのだと私は思っていた。
キリストの教会に入るのにそんな扱いを受けて、
嫌じゃないのだろうか。
寂しくないのだろうか。
私はそれをKさんに聞きたかった。


Kさんは答えた。
「寂しいさ、そりゃ。
 私はゴスペルとか大好きだったし。」
やっぱり。
「でもそんなのは大した事じゃない。
 全然大切じゃない。
 人間は教派や教会を幾つも作るけどさ、
 神様は一人しかいないからね。」


馬鹿な質問をしてしまったと思った。
PさんにとってもKさんにとっても、
それだけの痛みを伴う代償を払っても惜しくない程、
キリストの身体の一部になる事が切実に必要だったのだ。
二人とも他の全てを何もかも手放してでも
キリストにつながりたかったのだ。
信じる者にとってキリストは
他の何かに取って換える事など出来ないのだ。

肩甲骨

2006-08-22 00:33:27 | マタイ
マタイ3;16


背中と肩と頸が凝って痛い。
特に肩甲骨の内側が。
フラ・アンジェリコとかルカ・デラ・ロッピアとか
ルネサンス時代のキリスト教美術に描かれた天使には
肩甲骨から翼羽が生えている。
誰が考えたのか
何でこんな変な場所から
鳥類の翼羽が生えてるんだ?
飛び難そうだ。
こんな場所から鳥の翼羽なんか生えてきたら
どうやってマッサージするのだ?
さぞ不愉快だろうな。


聖霊の絵だって、
神の霊が鳩のように・・・と書いてあるのに
「鳩のように」というからには
鳩ではないじゃんか。
何で聖霊が鳩の絵なんだ?

復活の朝の光 (ヨハネ黙示録1;8)

2006-08-19 05:31:47 | ヨハネ黙示録
札幌から移転して以来、
私は時間を作っては近所のカトリック教会に足を運び、
留守番のOさんや神父様がどうぞと
言って下さるのをいい事に、
週日しばしば誰もいない御聖堂でボーっとしていた。
Oさんが私に声をかけてくれた。
「今週は木曜日から聖週間の御ミサがあります。
夜の7時からですが、
よかったらいらっしゃいませんか。」
私は3日間の聖週間の夜ミサに
お邪魔させて頂く事にした。


聖木曜日。最後の晩餐の日。
洗足式では司祭が数人の男性信徒の足を洗い、
聖体安置式で祭壇から聖体パンが別の部屋に移される。


この「御聖体」に対する考え方が
カトリックと私達メノナイトとの
決定的な相違点の一つである。
私達メノナイトにとって聖餐のパンは
私達のために裂かれたキリストの体を記念するパン。
アナバプテストの開祖コンラッド・グレーベルによれば
パンはあくまでパン。
パンはパン以外の何物でもない。
キリストによる私達の罪の贖いを記念するためのパン。


カトリックでは
聖体パンは聖なるキリストの体そのものであり
聖なる物だと聞いた。
司祭が祝別すると聖体パンはキリストの肉に変わる。
それを食べた信徒達のうちにキリストが働かれる。
御ミサが終わって信徒が一歩外に出ると、
行く先々でキリストがその信徒の中で働かれる
という考え方。
私は自分がカトリックの御ミサに参列しても
聖体を拝領する事はない。
しかしその考え方を理解する事は出来る。
日々の生活の中で、
御聖体を頂いた自分のうちに
キリストがいらして働いておられると思えば、
それは信仰の大きな支えであり
生きるための励ましに違いない。
近所のカトリックの教会員達の中には
浦上出身の人もいる。
それを支えに長い弾圧の時代を乗り越えてきたのだ。
現実に。


「始めていらしたんですか?」
教会員の一人が入り口で私に声をかけてきた。
Kさんは簡単に自己紹介をして私の隣に座り、
聖歌のページを一つ一つ開いて教えてくれた。
式の途中で立ったり座ったり跪いたりする事や、
聖体拝領しなくても列には加わって
司祭から祝福を受けるようにと細かく教えてくれた。
ベールを被っているので教会員には違いないが、
私はKさんが他の教派からカトリックに
改宗して来た人なのではないかと直感した。
なぜならKさん以外に、
他所から来た見慣れない井上という者に
関心を示す人はなく
全員が前を向いて司祭を見ていたからだ。
Kさんは聖堂の中に見慣れない余所者を見つけると
即座に自分から隣に座り、
聖歌のページやリーフレットを開いて誘導した。
その行為と態度は
Kさんが受洗し信仰者として育てられた環境そのものを
表わしていた。


私はその夜歌われたラテン語の聖歌『天使ミサ』を
すっかり気に入ってしまった。
この聖歌を覚えたいので楽譜をコピーしたいと言うと、
Kさんは手製のカバーをかけた自分の聖歌集を
初対面の私に貸してくれた。
「私は教会のを使うからあなたは私のを使ってて。
 明日の晩もまた来てね。」


聖金曜日は受難の日。
司祭と会衆が福音書の受難の場面を輪読し、
一同で十字架を崇敬する。
その夜はKさんの夫、Pさんが来ていた。
脊髄損傷だろうか。
Pさんは首から下が麻痺していて
電動車椅子に座っていた。
Kさんが付きっ切りでPさんの顔の前に
聖歌やリーフレットを開いて
見えるようにしてやっていた。
Pさんは親しげに話しかけてきた。
「オレ達、どこの教派にいても同じだよ。
 キリストは一人。
 人間は教派や教会を幾つも作るけどさ、
 神様は一人だからね。」
確かにその通りだ。
「井上さん、またここに来なよ。
 家にも遊びにおいでよ。」


聖土曜日は復活前夜式。光の祭儀。
会堂の入り口で役員の人が炭火を起こしていた。
会衆はそれぞれ小さな蝋燭を手に持って集まった。
司祭が大きな蝋燭に十字を切って祈りを捧げた。
炭火から大きな蝋燭に火を点し、
そこから一人ずつ蝋燭に火を移して
キャンドルサービスする。
大きな蝋燭には十字と花とΑ、Ωの文字が書かれていた。
私はその文字を見た事があると思った。


“Εγω ειμι το Αλφα  και Ω,”
(パソコン操作がいまいちだ。ギリシャ文字の記号と
 句読点の付け方がわからない。)
「わたしはアルファであり、オメガである。」
        (ヨハネの黙示録1;8 新共同訳)


その日の司祭の説教は今でも忘れられない。
その場ではノートも取らなかったのに
一字一句私の心に残って消えなかった。
帰り際、私が感動した素晴らしい説教だったと言うと、
PさんもKさんも他の教会員達もきょとんとしていた。
「えー?感動した?そんなにいい話してたっけ?」
「うちの司祭はいつもそういう話をするんだよ。
 別に珍しくないよ。」
「それは他の人にではなく、神様があなたに
 特別なプレゼントを下さったのよきっと。」
そっ・・そんな・・・
聞き慣れてしまうとそういうものなのだろうか。
私は急いで帰宅し、
忘れないうちに司祭の説教をノートに書き留め、
何度も読み返した。
そして受洗からその時までの
自分の信仰生活を振り返り、
与えられた日々の生活と出会いとを回想するうちに
夜が明けた。


復活の主日。
市内の諸教派が集まる早天祈祷会に出席するため
私は所属するメノナイト教会の牧師夫妻と共に
朝6時からアッセンブリー教会に行った。
イースター早天祈祷会には
市内の朝祷会にいつも参加している各教会の
牧師夫妻や教会員達が早々と来ていた。
アッセンブリー、キリスト福音館、聖公会、
日本キリスト教会、日本基督教団、
バプテスト連盟、メノナイト。
賛美歌が響き、朝日が眩しかった。
前夜は殆ど眠らなかったのに、
変に目が冴えてぎんぎんしていた。


私達の教会のイースター礼拝までまだ時間があり、
牧師夫妻が一緒に食事をさせて下さった。
礼拝堂に白いテッポウユリが生けられて
香りを放っていた。
私は前夜までの出会いと
自分の信仰を吟味し反省する機会が与えられた恵みを
牧師夫妻に話した。
牧師先生は終始にこにこ笑って私の話を聞いていた。
その後しばらく水野源三の詩の話をした。
私はその詩の一部分だけを知っていた。


こんな美しい朝に
こんな美しい朝に
主イエス様は
墓の中から
出てこられたのだろう
      (水野源三「こんな美しい朝に」より)


そういえば、
朝をしみじみ美しいと思ったのは
その時が初めてだったかも知れない。
私は前夜与えられた奨励の言葉をまた反芻していた。


 主イエスは十字架に架けられて
 私達にご自分の全てをお与えになりました。
 私達も人々に自分を与えなければなりません。
 与えるものを何も持っていないと言う人もいますが、
 私達は誰一人、何も持たない者はいないのです。
 私達は誰でも、必ず何か持っています。
 人々に与える事の出来る何かを。
 よく考えて下さい。
 何か持っている筈です。
 物やお金がなくても
 労力、時間、微笑み、他にもたくさんあるでしょう。
 主イエスが惜しまずに
 ご自分の全てを私達にお与えになったように、
 私達も惜しまずに自分を人々に与えましょう。
                (ボナヴィゴ神父)


この奨励は私にとって重要だ。
しかもそれから後の7年間の間に何度も、
別の場所で別の機会に、
別の人の言葉をも通して、
主なる神から一貫して同じ事を
自分が言われている気がする。


 私達の中で、
 人に与えるべきものを
 何も持っていない者はいません。
 自分の人生を振り返る事はよい。
 数え切れないほどいい事や恵みを受けている。
 その殆どは人の手から貰った。
 神様は人の手を通して恵みを下さいます。
 この意味で、私達は神の手足というのです。
  私は神の手足です。
  今日、人に何をあげようか。
              (ペテロ神父)


 私達は誰かを許すために、誰かを愛するために、
 この世に生まれて来ました。
 私達は人を許すために、愛するために、
 生命を与えられ、生かされています。
                 (ロンデロ神父)


おそらくどんな教派のどの教会でも語られ、
聞く事の出来る奨励だろう。
それが私自身の心の中で
今もって特別に強い光を放っているのは、
私がたくさん受け、たくさん与えられながら、
まだ誰にも何も与える事をしていないからだと思う。

危機感(箴言30;15)

2006-08-16 17:32:47 | 未分類
蛭にはふたりの娘がいて、
「くれろ、くれろ。」と言う。(箴言30;15)


私が母教会で洗礼を受けたばかりの頃、
教会で人に躓く経験は大切だと、
洗礼を授けてくれた牧師先生が言った。
初めは宣教師や牧師、指導者のカリスマ性とか
教会で出会った素晴らしい先輩に憧れていても、
やがて
素晴らしいと思ってた人の中に
自分と同じ人間的な弱さや醜さがある現実を見て
幻滅する。
それは大切な経験だと牧師先生は私に言った。
その経験を通して
自分にもある弱さや罪を認めて謙虚になる事が出来、
人を許す事を学ぶ事が出来ると。
しかしそれ以上に、
立派な信仰者という一人の人間を
美化し偶像化して神を見失ってしまう危険から
自分と相手を守るために
どうしても必要な経験だと牧師先生は教えてくれた。
そのように考えると、
教会の中での意見の相違や
個別の人間関係で躓いて味わう痛みは
むしろ大切な事なのだろうか。
教会の中で信徒が牧師や指導者に対して
神を見るように依存的だったり
身勝手に美化した理想像を重ねて追い求めると
始めのうちは笑い話、
でもやがて教会を揺るがす危機に変わる。


今だから冷静に考え回想出来る事だが、
札幌から移って来た時、
教会が散らされるかも知れない危機を感じた。
主なる神が怒って
牧師をこの教会から取り他の無牧の教会に与える、
教会は散らされて
そこにいた者は行き場を失う、
移って来たばかりの私はそんな危機感を抱いた。


牧師一人を孤軍奮闘させて手は貸さない耳も貸さない、
それでいて
牧師があれもしてくれないこれもしてくれないと
不平不満をぶちまけ、
同時に牧師がワンマンで自分達を無視していると
矛盾した批判する人達がいた。
牧師一人に何もかも喋らせ書かせ決めさせておいて、
遠巻きにして肘をつき批判する。
教会員名簿を見ると信仰歴の長い信者ばかりだった。
耳に残る彼らの言葉。
牧師夫妻の面前で吐き出されたその教会員達の言葉。


「毎年人集めてコンサートやって
 何の意味があるんですか?
 一体それで結果的に何人教会につながってます?
 やる意味あるんですか?」

「こんな小冊子にまでいちいち教会から献金するのは
 一体何の意味があるんですか?
 どうせ誰も読まないのに無駄です。」

「最近牧師先生は
 教会員の家を訪問してくれないですよね。
 教会員の家族の救いに興味ないんですか?
 家族伝道の方にもっと力入れて下さい。」

「地域伝道にももっと力を入れてくれないと。
 でも牧師先生はお忙しくて
 伝道どころではないご様子ですね。
 学問にはご熱心ですけど。」

「伝道なんて牧師の仕事でしょ。
 私達のする事じゃないわ。」

「私みたいな未熟者が伝道なんてできません。
 牧師がいるだけでも有難いと思わなきゃ。」

「もし無牧になったら
 私は牧師のいる他の教会に移るからいい。」

「私達の献金が少ないから牧師先生は
 家庭訪問もして下さらないし、
 充分働いて下さらないんですね。
 他所のもっと待遇のいい教会に行かれてしまっても
 仕方ないですね。」

「献金を海外援助だの平和運動だの勉強会だの、
 お遊びみたいな事に使ってるじゃないですか。」


だらだら不平不満を垂れ流すのは
牧師へのあてこすりが目的だと読み取れた。
正直、何て所に来てしまったのだと思った。
元いた母教会に戻りたかった。
しかし戻る道が閉ざされている事も知っていた。
教会が牧師一人だけで運営できると思っているのか。
牧師一人で礼拝を準備し、会堂を管理し、
地域住民や市内の他教派と関わって
行事や牧師会、市民クリスマス、ラリー、
そして地区の教派の連絡窓口となり、
役員や総会の運営、代議員の役割、
修養会の取りまとめその他の様々な雑事を請け負って、
牧師は人一人の働ける仕事量以上に働いていた。
牧師を批判する人々は
牧師の仕事のほんの一部すら分担しない。
「私のような信仰的に未熟な者にはとてもとても、
 出来ません。」
さらに説教に感動できない、
教会員の家庭に出向いて家族に伝道しろ、
要求するばかりで指一本貸さず動きもしない。
そして牧師個人の人格だけでなく家族の人間性までも
中傷のネタにする。
教会が立っている事自体が不思議なほど、
建物の中に入ってみるまで考えもしなかった惨状だった。


牧師とはこれほどまでに理不尽な扱いを受け、
針のむしろで忍耐しなければならないものなのか。
重荷を全部牧師一人に負わせておいて、
身勝手な要求だけはする。
自分達が過去にいろいろな教会を渡り歩き
あちこちで拾い集め自分に都合よく歪めて
仕立て上げた理想の教会像を、
彼らは牧師と他の教会員達を批判する根拠にしていた。
彼らにとって教会とは行けば何かして貰える所、
自分は迷える子羊だという位置づけを、
その言動から読み取る事ができた。


「私達は迷ってるんです、
 困ってるんです、
 悩んでるんです、
 寂しいんです、
 苦しいんです。」


力を合わせて教会を建て上げるとか、
教会を支えるために何かするという考えの
入り込む余地はない。
何十年もその価値観で生きてきて、
意識改革は可能なのだろうか。
それで苦しんでいたのも彼ら自身だった。


牧師を厳しく批判し暴言を吐く。
「メノナイトは万人祭司と言っているが
 そんなメノナイトの牧師に牧師の資格はない。」
「牧師は世の中を知らない。
 私達教会員の事なんて何も考えてくれてない。」
だったら牧師なんて要らないだろうと言いたくなる。
牧師への批判を弁舌巧みにしておきながら、
あれして欲しいこれして欲しいと
要求だけはしっかりやって諦めない、
教会員に牧師への不信感を植え付けるような讒言をし、
教会員同士の人間関係をも裂こうとする、
弱者のふりをして牧者を潰そうとする狡猾な羊。
信仰を告白し洗礼を受けて何十年経っても
なお迷うふりをする羊。
その羊は羊ではなくて蛭。
箴言に登場する蛭。


聖書の中から気に入った字づらだけを引き出してきて、
自分に都合よく作り上げた理想の教会像。
その偶像に何を期待するのだろう。
テモテへの手紙Ⅰの3章を引用して
彼らは牧師にも教会奉仕に加わろうとする人にも
完璧な人間像と高いハードルを設けて裁こうとした。
ハードルを高くされると他の教会員達は萎縮して
誰も奉仕に参加できなくなってしまう。
立派な信仰者でなければ
奉仕に参加する資格がないかのような強迫観念が生じ
悪循環を教会の中に生み出していた。


しかし牧師や教会員達を批判していた人々を
私は笑えない。
彼らには躓いた傷の痛みがあった。
過去に渡り歩いて来たあちこちの教会で彼らが
教会観の違いや聖書の読み方の違いに悩み、
人間関係に傷つけられて躓いた事を私は知っている。
何度も傷つく経験をするうち痛みに耐えかねて
理想の牧師像、理想の教会像を抱くに至った心理に、
その追い詰められた心理に、
私は共感する事が出来なくても理解は出来る。
現に彼らの一人は私に言った。
「この教会で躓いたら、
 私にはもう他に行く教会がない。」
そして
イエス・キリストを見るのと同じ角度で、
いやそれ以上の角度で牧師を見ていた。
そう、牧師を批判し排斥しようとした彼らは
教会の中の他の誰よりも強い熱意を以て
牧師を愛し慕っていた。
その角度のずれが本人も牧師も、
教会員達をも裁き追い詰めていたと思う。
これを他人事と笑う資格が誰にあるだろう?
彼らの受けてきた痛みを思うと胸が痛くなる。
しかし引き摺られてはならないとも思った。
結局彼らは理想の教会を求めて立ち去った。
彼らがどこかで理想の教会に出会って
居場所を見つけたならそれは幸いだ。
しかし私達はどうすればいいのだろう?
一体教会とは何だろう。
何よりも、教会で自分は何をすればいいのか。


今、教会に一番足りなくて必要とされているのは
学識や指導力のあるリーダーなどではないと私は思う。
今教会にとって切実に足りないもの。
足りなくて教会が存亡の危機に瀕するもの。
それは生身の人間である牧師の重荷を思いやり、
牧師と共に生きた祈りを捧げる教会員ではないかと
私は思う。
牧師は教会員同様に弱さも悩みも欠点も持ちながら
自分の人生を捧げたのだ。
献身するとはそういう事ではないだろうか。


来た早々自分はここでやっていけるのかと考え込んだ。
しかし神が牧師を教会に留まらせておられるのだから、
忠実な祈りの信徒が教会のどこかに誰か、
隠れているはずだ、その人を探そうと思った。
そして私はある人から声をかけられた。
夜の集会の後、
普段あまり話した事のなかったKさんが
私に声をかけてきた。
「ともちゃん、
 祈りの友になってくれない?
 今、うちの教会には私と一緒に祈ってくれる人が
 誰もいない。
 皆、重荷や問題を抱えてて余裕がないみたい。
 心が飢え渇いているというか、
 私自身心が干乾びてる。」
願ってもないこちらこそ、
私で良ければ私の方から喜んで!
しばらくすると夜の集会にもう一人、
Fさんが加わった。
ずっと仕事や家庭の事で教会から遠退いているうちに
自分自身が疲れてダメになる気がした、
今日ほんの少し時間が作れたのでチャンスだと思って
夜の集会に来た、とFさんは言った。


Kさん、Fさん、私。
お互い教会につながっていながら初対面同然だった。
お互いに信仰歴、キリスト観、教会観、家族の事などを
何日も掛けて語り合った。
この不況の過疎地で働きながら教会生活を送る事の
辛さと喜びの大きさを共感し合える友達が与えられた。
そして現在教会から離れている、
離れようとしている教会員のために何ができるか、
牧師を批判する教会員のために何ができるか、
私達のすべき事が示されるよう祈り合った。


私達の意見が一致した事。
祈り合う事でお互いに支え合っていく。
仕事で会えなくても電話などで連絡しあう。
自分達が教会内の分派にならないように
風通しのよい凝り固まらない信頼関係を維持する。
私達それぞれが各自牧師との信頼関係をしっかり作り、
自分にできる仕事がないか
常に牧師との意思疎通を密にして協力する。
可能な限り時間を工面して
主日礼拝と水曜夜の聖書研究祈祷会に出席し、
牧師と共に福音と祈りの時を分かち合う。
他の教会員達ともっと人間関係を作って祈りの輪を広げ、
共に教会を支えていくための理解と協力を得る。
お互い相談しながら、
批判的な教会員とのつながりを持つようにして
信頼を回復出来るようにとりなしの働きに努める。


水曜の夜はいつも日勤の後職場から教会に直行し
夜の集会に参加したので私は空腹だった。
たまにFさんが付き合ってくれた。
モスを2個とサラダも平らげながら話した時の事を
憶えている。
「今は教会もしんどい時期だけどさ、
 出来る時に出来るだけのことをがんばってやってさ、
 笑って今の事を思い出す時がいつか来るよきっと。
 お互いそれを信じていこうね。」


私は話しながら、
自分の知らない所で牧師が重荷を背負い
Kさんがずっと祈り続けてきた事を思った。
主なる神がKさんの祈りを聞かれていたのだと思った。
今でも私はそう思っている。
この世に理想の教会などない。
完璧な信仰の指導者も存在しない。
教会は盛り上がって賑やかな時もあれば
荒れて沈み込む時もある。
しかし
素直な生きた祈りを神に捧げる人が一人でもいれば、
主が教会に人を運んで下さる事を教えられた。
同時に神を見ずに人を見る事が
どれほど危険かを学ばされた。
私はあの時、
自分が御手に運ばれてここに来た事を痛感した。
牧師先生は一時期身体が故障したり辛い事もあったが、
常に私達を励まし支えてきて下さった。
Fさんが加えられてから、
Mちゃん夫妻が奉仕に加わり、
新たに移転して加わったAちゃんが、
自分の母を説得して母娘で教会の力になってくれた。
その後あの人が加わりこの人も加わって、
祈りの輪の中にどんどん人が加えられて
教会に人が増えた。
単に出席者の頭数が増えたという意味ではない。
教会の土台となる祈りで結束した兄弟姉妹が定着し、
少しずつ着実に加えられてきた。
その間も万事順調だった訳でなく、
牧師も教会員各自一人一人も、
それぞれが健康や家庭や仕事の事情を抱えていて
思うように動く事の出来ないジレンマと闘っていた。
しかし誰かが奉仕に参加出来なくなっても、
教会に来る事が出来なくなっても、
励まし合って協力し補い合ううちに
精神的な結束は強くなった。
これでいいという事は決してないし、
何も問題がない時もない。
私自身、あの時お互いに話し合ったうちの
どれだけの働きを自分が果たせたかを考えると
恥ずかしい限りだ。
むしろおんぶに抱っこされっぱなしで
辛うじて枝の先にぶら下がっている。
キリストの体は現実に枝を広げている。
今日現在も。

老母(ヨハネ19;25)

2006-08-16 02:48:32 | ヨハネ
イエスの十字架のそばには、
イエスの母と
母の姉妹と、
クロパの妻マリヤと
マグダラのマリヤが立っていた。(ヨハネ19;25)


映画『バラバ』を見ると、物語の始めに
遺体となった主イエスが十字架から降ろされる。
年老いた聖母が骸になった我が子を無言で抱き締める。
その映画を見る度に、
画面の中で身を屈めた聖母の姿が、
ある腰の曲がった母親の姿と重なって
目を背けたくなる。


小さく老いた母親は息子の病室に毎日やって来た。
面会時間の午後3時になるのを待っていて、
待ち兼ねて病室にやって来た。
そして面会時間が終わる夕方7時までずっと
息子の名前を呼び続けた。
手足を擦ったり握ったり。
顔を摺り寄せて息子の名前を呼び続けていた。


息子は目を開いたり開かなかったり、
話しかけて頷く事も稀にあった。
そんな何日かに1回程度の微細な反応を見る度に、
私達は母親に告げた。
少しでも希望を持って欲しかった。
「昨夜話しかけたら返事してくれましたよ。」
「手を握ったら握り返してくれました。」
私達の報告を聞く度に母親はさらに必死で呼び続け、
帰り際にはしょんぼり呟いた。
「何も返事してくれなかったよ。」
「何も言ってくれなかった。」
「今日も手を握り返してくれなかった。」


その当時は病院でも施設でも、
今よりも比較的簡単に身体拘束の紐が使われていた。
実際、急性期の脳外科では
自分で管を抜いてしまうと生命に関わる危険が多かった。


息子は意識がない訳ではなかった。
目を離すと鼻の管を抜いた。
じっと目で見ていても判らない程ゆっくりと、
抑制帯で縛られた手に僅かずつ顔を近寄せていく。
いつの間にか枕がずれていたり、
手を縛る紐が緩んでいたりすると、
彼は一瞬のうちに鼻の管を抜いた。
あんまり何回も抜くので鼻腔が傷ついて血だらけだった。
気道に痰が溜まったのかゼイゼイ鳴るので吸引すると、
鼻孔から血の塊が出てきた。
DIC。末期的な出血傾向が始まっていた。
鼻血で窒息する事態だけは避けなければならなかった。


深夜、私はその人に話しかけてみた。
「今日、お母さん来た?」
彼は頷いた。
昼間は目を開いていても何も反応しないのに、
夜になると彼は活動的だった。
「お母さんに返事してあげたの?」
彼は首を横に振った。
「どうして?」
首を傾げた。
「明日お母さんが来たら返事してあげなよ。」
彼は頷いた。
言葉が出ないのだろうか。
声が出ないのだろうか。
私は白衣の胸ポケットの名札を指差してみた。
「これ何て書いてある?読んでみて。」
彼はしばらく唇をむずむずと震わせた。
「い…の…う…え」
はっきり答えた。
私はもう一人の夜勤者と顔を見合わせた。
ちゃんと喋る事が出来る!
先輩が自分の顔を指差して言った。
「この顔、見た事ある?」
彼は答えた。
「変な顔。」
「明日お母さんが来たら、
お母さんって呼んであげるんだよ。ね。」
彼は頷いたが、
翌日も、そのまた翌日も、
何日経っても母親はがっかりして帰って行った。


ある日の午後、
私はベッドサイドで彼の手足を洗っていた。
そこに母親が面会に来て、傍らでしきりに言った。
「看護婦さん、ありがとう、ありがとうね。」


どうしてありがとうと言ったのだろう。
目の前で私が洗っていた息子の右手。
彼の浮腫んだ右手首には
紐の痕がくっきり残っていたのに。
あの小さな老母の目にそれが留まらない筈はないのに、
どうしてありがとうと言ったのだろう。
半身麻痺で身動きならない我が子を
こんな目に合わされてどうしてくれると
殴りかかってくれてもよかったのに。


数日後、紐は要らなくなった。
容態が悪化した彼は重患病棟に移され、
器械で強制的に呼吸を維持し、
心拍も乱れてきて除細動も何度か行なった。


彼が逝く前日、
準夜出勤の途中で私は母親と行き会った。
「お世話になったね。ありがとうね。」


その日、
必死で業務を時間内に終わらせて自宅で仮眠を取り、
夜が明けると朝一の電車で父の入院先に向かった。
現地に着くとすぐ、
いつも立ち寄る教会の聖堂に行った。
父の面会時間までしばらくボーっとした。
聖堂の壁には
14枚の古い木製レリーフ『十字架の道行き』が
掛けられている。
第13留。
イエスが十字架から降ろされる場面が
浮き彫りにされている。
十字架から降ろされたイエスの傍らの聖母と
とうとう独りぼっちになったあの小さな老母の姿が
重なった。


どうしてありがとうと言ったのだろう。
ありがとうと言われて、
言いそびれてしまった事が苦しい。
ありがとうと言われる前に言いたかった。


ごめんなさい。
許してください。

木が育つのを見たい(マタイ13;31~32)

2006-08-09 04:06:54 | マタイ
天の御国は、からし種のようなものです。
それをとって、畑に蒔くと、
どんな種よりも小さいのですが、
成長すると、どの野菜よりも大きくなり、
空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。
                   (マタイ13;31~32)


ラルフ・バックウォルター宣教師の詩に、
「木が育つのを見たい」がある。


木が育つのを見たい

木が育ち 空に伸び
 葉を一杯につけた腕を
大きく拡げるのを見たい、
 緑の天蓋の下で
休んでいる人々に
 木陰と涼しい喜びを与えるのを見たい。

木が育つのを見て
 手をたたいて
喜び、父なる神である
 創造主を賛美したい、
森に
 生ける美をまとわせてくれるから。

木が育つのを見たい、
 なぜなら創造主が
木の形を
 私の中に作ってくれるから―
それは緑の天蓋の下で
 休息する人々に
木陰と涼しい喜びを与えるためのもの。
 (ラルフ・バックウォルター著矢口以文訳
    『バイバイ、おじちゃん』1986年響文社より)


昔、小学校の夏休みに
科学館のプラネタリウムを見に行こうとして
バスを降りると、
当時まだ舗装されていなかった道路の奥に
可愛い教会があった。
バックウォルター宣教師が
メノナイトの福音伝道の活動拠点にした、
この地で最初の教会だった。
8年前に私がこの土地に戻って来た時、
その教会はまだそこにあった。
週日だったので扉には鍵が掛かっていた。
会堂は古い写真のままだった。
前庭の木立が大きく育って、
野鳥の群れが敷地を占領していた。
昔は英語教室もしていたという。
子供が大勢集まり過ぎて
教室を2つに分けたという話を
バス道路沿線の喫茶店の店主から聞いた。
彼も昔、そこに集まった少年の一人だった。
街の画家が描いたその教会の絵を、
彼は自分の店に飾っていた。
その絵は今、古い教会員が買い取って大切にしている。
バックさんは30年後の教会にどんな夢を持ち、
どんな想像をしていただろう。
小さな額縁の中の教会は、
画家の目を通して可愛らしく鎮座していた。


時代は変わって、
この街から札幌や東京へ人がどんどん流れ出て行った。
仕事を探して。
かつては天幕伝道や英語教室や
映画の上映会やクリスマスに
大勢の若者や子供達が詰め掛けた。
楽しい賑やかな時代が過ぎ去って、
彼らがこの街から姿を消しても
教会に残った人々は神を賛美し
聖書を開いて会の灯を絶やさず祈りを捧げ、
キリストの体を支え続けていた。
私は知っている。
通りすがりに見かける懐かしいあの教会もこの教会も、
その建物の内側には
生きたまま血を抜かれるような苦しい闘いをしながら
この土地でキリストの体を支え続ける信仰者達がいる。


あの可愛い教会は数年前この地上から消えた。
教会員達が天に帰り、或いは自ら立ち去り、
そして他の土地に仕事と住まいを探して
この地を去って行った。
教会に集まる人が減って
真夜中に若者が侵入して敷地内で悪さをし、
泥棒に灯油を抜かれても無防備なまま、
充分に対策して持ち堪えるだけの
力は残されていなかった。
最後にその扉を閉じた人達の気持ちを思うと
泣きたくなる。
自分が招かれ、祝福され、洗礼を受け、
聖書を分かち合い、賛美歌を歌い、
兄弟姉妹と話し、天幕伝道や街頭の募金活動をし、
大鍋で作ったカレーライスやうどんを共に食べ、
卓球をして遊び、
時に議論や衝突も苦い痛みも味わい、
結婚式をし、子供が生まれ、
たくさんの仲間を迎え、
先輩達を天に見送り、
そうやって苦楽を共にしてきた自分達の帰る家が
この地上から消える。
皆が貧しく物も金も充分なかった時代に
たくさんの仲間の手と熱意で、
まさに自分達の手で土台を据え、
力を合わせて建て上げた会堂の扉を、
最後に残った人達はどんな思いで閉めただろう。
自らの手で扉を閉めたその痛みは想像もつかない。


街に住む人は
あの可愛い教会をよく憶えていて懐かしみ、
何とか残せなかったんだろうかと言う人もいた。
私の職場にいた看護助手のおばさんもその一人だった。


「バックさんの子供達が赤ん坊の頃から知ってるよ。
 あの会堂を建てた時、私は手伝ったんだ。
 寂しいねぇ。何とか残せなかったのかねぇ。」


あの建物を惜しんだ人はたくさんいる。
実際、
遠くから教会を眺めていた人や
かつて教会から自分の意志で立ち去った人や、
教会に足を踏み入れた事すらない人までが
あの会堂を惜しんだと聞いた。
通りすがりの小学生に過ぎなかった私でさえが
気に留めていたのだ。
あの会堂がどれ程人から愛されてきたか理解できる。
しかし
皆に惜しまれたあの建物の内側にいた人達、
キリストの体を支えるためあらゆる犠牲と
時間と祈りを捧げ続けていた人達の存在に
目を留めた人は
建物を惜しむ人々の中にいただろうか。
扉を閉じるもっと前に。


誰か一人でもその祈りと賛美の輪に加わるか、
それが出来なくても
中の人々の背負っていた重荷に心を留めて
励まし力づける事が出来なかったのは何故だろう。
無関係なその辺の人ではなく、
別の教会で信仰生活を営む信者でもなく、
かつてあの教会に直接関わりながら離れ、
会堂の建物を懐かしみ惜しむ人達の中から
再び教会に足を運ぶ者が起こったなら、
教会は今もそこに生き残っていたかも知れない。
何故なら、
本来は彼ら自身が教会だったのだから。
教会は建物ではなく生きたキリストの体だから。
会堂の内側で兄弟姉妹が主なる神に捧げる
生きて血の通った祈りの灯し火こそが教会だからだ。
それこそが教会だったのに、
何故皆、建物だけを惜しがったのだろう。
人が立ち去って灯し火が途絶えた時点で、
既に教会はこの地上から取り去られ、
消えて無くなっていたのに。
後に取り残された抜け殻の建造物を
外側から懐かしがり愛しんで教会と呼んでも、
拝んでいる相手は偶像。


私がまだ洗礼を受けた札幌の教会にいた頃、
青年会に集まっていた学生の一人が
雑談の中で言った言葉を思い出す。
私は思う。
当時やっと20歳になるかならないかだった学生。
彼の言っていた事は正しい。
キリスト教徒になって半世紀も経つ大人達の方が
全然解ってない。


「教会って、
 ボク達に与えられた信仰生活の場、
 帰るべき家として神様がボク達一人一人に
 与えて下さったものだと思う。
 誰でもみんな出会いを通して
 それぞれ自分の居場所を与えられてる。
 だからボク達は感謝して
 神様から与えられた居場所で忠実に働くべきなんだ。
 いつか別の場所に行って新しい仕事をしなさいと
 神様から新しい道を与えられるまで留まるべきだ。
 自分から好き嫌いで教会を選んで
 離れたり移り歩くのは、
 ボクはキリストの弟子の道とは違うと思う。」


(その通りだと思いませんか?)


でも大丈夫。
建物の扉を閉じて、
会堂がこの世から姿を消しても、
一つの仕事を忠実に果たし終えたのなら、
次の新しい家と仕事がまた与えられる。
そしてまた新しい働きをして、
木は枝を伸ばしていく。
私はそう信じる。

星(マタイ2;1~12)

2006-08-05 21:48:22 | マタイ
これを書いている8月5日は
真夏なので、
巨大な十字架の形をした白鳥座は私達の頭上にある。
空のぼんやり明るい街中でも目立つ。
今は天頂の天の川にあるこの十字架は
冬になると
西の地平線に直立する。
地平線に立つ十字架は天頂にあった時よりも
一際大きく見える。
大体11月半ばの午前0時には
デネブを上に、アルビレオを下にして
白鳥座の十字架が西の地平線に直立するのが見られる。


(時期は
 早くて10月半ば午前2時頃から、
 毎日少しずつ見える時刻が早くなっていって、
 遅くても2月半ばの夕方6時頃までは、
 上の絵と同じ光景が
 北西の地平線上に綺麗に見えるよ。)


私は毎年それを見て、
占星術の学者達が救い主の星だと
はるばる東の国から西に向かって
長い旅に出た気持ちを想像する。
あの十字架の所まで行くと救い主がいるかも・・・
そんな空想をさせる光景が
あと3ヶ月もすると毎晩見られる。
そして
西の地平に立った十字架は一度地平線に半分沈んで
3ヶ月間は他の星々と見分けがつかなくなる。
占星術の学者達が途中で目当ての星を見失ったのも
何だかわかる気がする。
この十字架は、
3月半ばには寝そべったまま東の地平線から
再び姿を現す。
その頃にはもう春になっている。
羊が子を産むのため羊飼い達が寝ずの番をしたのも
この季節ではないだろうか。
で、天使が彼らに言うのだ。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、
 どこにおられますか。
 わたしたちは東方でその方の星を見たので、
 拝みに来たのです。」(マタイ2;2)

占星術の学者達は一度見失った目当ての星が
再び東から天頂に昇ったのを見て大喜びしただろう。
そこで幼子とその母に出会った。
幼子は生まれて3ヶ月頃、
まだ抱っこされていただろう。
頭上には
占星術の学者達を遠い旅路に駆り立てた星が
天頂で輝いていた。

パウロの熱

2006-08-03 13:53:51 | ローマ
昨夜、退院後1カ月にしてやっと
わが教会の聖書研究会に出た。
昨夜の箇所はローマ7;14~25。
ローマ書を読むのはこれで何回目になるだろう。
この14年間に何回読んだかもう数える事も出来ない。
洗礼を授けてくださった牧師先生や
母教会の兄弟姉妹達と、
今の教会の牧師先生や兄弟姉妹達と、
何度分かち合って皆で読んで来た事だろう。
もちろん自分でも読んだけど。
いくら読んでもローマ書は難しい。
使徒ペテロでさえが
パウロの手紙には難しく理解し難い箇所があると言う。


ここに昨夜の聖書箇所の解釈は書かない。
それよりも読んで分かち合った事を書こう。


新共同訳ではこの箇所に
『内在する罪の問題』と小題が付けられている。
心で善をなそうと望みながら実行できない自分、
五体のうちにある罪の法則に負けてしまう自分、
望まない悪を行なっている自分、
何という惨めな自分、
キリスト以外に誰がこんな自分を救ってくれるのか。


パウロの赤裸々な内面の葛藤、
その苦悩の告白に私はこれまで共感してきたし、
今も共感する。
新約の大半を占めるパウロの書簡は難しいけれど、
聖書の人物の中で
読者である私にとって一番親しく親身に、
身近に感じられるのもパウロだ。
牧師先生もそう思うと共感して下さった。


言っている事が難しいからとドン引きされ、
教会の内外から誤解されたり
批判を浴びたりしながら
涙目になって必死に
キリストの救いを言い表すパウロの「熱」を
感じないだろうか。
私は感じる。


あなたに聞いて欲しいんだよ
あなたに話したいんだよ
あなたに解って貰いたいんだよ


教会からの援助を受けず、
テント張りなどの労働をして
自前の生活で苦労しながら
パウロは各地を渡り歩き、
諸教会を育て、
殺されるまで伝道し続けたパウロの「熱」。


ここで、牧師先生から質問された。


パウロがここで述べている惨めな自分、つまり
神の律法を心で喜びながら
五体の内にある罪の法則に捉われている自分とは、
どの時点の自分自身を指していると思う?
ダマスコでキリストに出会い改心する以前の
キリスト教徒を迫害していた自分自身を指しているか、
それとも
改心した後、キリストを信じる者となってからの
この手紙を書いていた時点の自分自身を指しているか、
どちらだと思う?


改心以前の、
キリストを信じていなかった頃の
パウロ自身の事だと解釈する立場もあるらしい。


私は改心した後、
キリストを信じてこの手紙を書いていた時点の
パウロ自身の事だと思う。

復活した右手(ヨハネ9;2~3、11;40)

2006-08-02 07:25:54 | ヨハネ
私が病人で無職だった時、
「人に迷惑ばかりかけて、だらしない」と
妹から言われた事があった。


療養中の私のために父が経済的な援助を
一時的にしてくれた時の事を言っている。
確かに妹の言うとおり、
私はそう言われても弁解の余地がない。


大した病気ではないが、
何度も腹を開いているうちに
仕事が出来ないほど体力が落ちた。


好き好んで腹を切った訳ではないし、
そのために妹が何か被害を被った訳でも
妹に何かを負担させた訳でもないが、
「あなたは人に迷惑をかけている。
 わたしは誰にも迷惑かけるような事はしていない。」
と言われたらその通りだなと思い腹も立たなかった。


やがて私は健康を回復し、
働けるようになって社会復帰した。
転職して看護助手から看護学生になった。
学校に合格したと聞いて妹が電話で言った。


「おめでとう。看護婦はいい仕事だ。」


その時になって猛烈に腹が立ち無言で電話を切った。
病気の時にはごくつぶし呼ばわり、
物事うまくいった時だけ身内面して機嫌取り。
これは家族ではない。
これが家族なら要らない。


しかし、私の神に対する態度も似たようなものだ。
調子の良い時は賛美、嫌な事があると
生きるのが嫌になったと文句ばかり言っている。


病気で身体に機能障害が生じると、
生活に支障と経済的な困難が起こり、
看病や介護の問題が出て来る。
私は自分が患者さん達と同じ精神的苦痛を
共有していると思っていた。
「皆に迷惑をかける」と思い悩み、実際に家族から
「あなたのせいでこんなに苦労をしている」と
言われ続けていた人が多かった。
身体的な苦痛に加えて
二重三重の精神的な苦痛を味わわなければならない。
誰だって好き好んで病気や障害を身に負った訳ではない。
そんな苦しい状況に追い込まれた人々のおかげで
私は仕事を得る事が出来、日々の糧を得る事が出来、
医療従事者として必要な技術と経験を得る事が出来た。
私は毎日、治療の見通しが立たない人にも、
病状の悪化した人にも、何食わぬ顔で、
何事もないかのように話しかけていた。
相手も壁に向かって声を殺して泣いていたのに
寝たふりをしたりする。
そんな患者さん達に比べたら、
私などは比較にすらならないお気楽な病人だった。
それでも当時の身の置き場のない気持ちを思い出す。
そんな現実の中では福音書の
「泣く者と共に泣き・・・」は通用しない。
自分の心身に痛み悩みが襲って来る度に
医師や看護師からさめざめ泣かれたい人はいない。
泣いてる暇があるなら何とかしてくれと思うのだ。
誰だって。


脳外科でまだ臨床1年にもならない頃、
右半身麻痺になった高齢の女性が
家族の手で外来に連れて来られた。
麻痺は転移性脳腫瘍から来るものだった。
脳のあちこちに腫瘍の影が点在して、
右だけでなく
どこにどんな麻痺が出ても不思議でない状態だった。
では癌の原発はどこか。
身体を診察しようとして、
衣服を脱がせた医師と看護師は愕然とした。
その人の右胸には
Lサイズのカリフラワー3つ分程の大きさの
癌が花開いていた。
家族に迷惑をかけたくないと
本人がひた隠しにしていたため、
娘さん達は気づかなかったという。
発見は遅過ぎ、既に全身に転移していた。
転移が脳に及んで麻痺が出現したために
初めて家族が異常に気づいて
本人を説得し、ようやく病院に連れて来たのだ。


私は毎日、暑くて寝苦しいでしょうなどと言いながら
その人のガーゼを交換していた。
胸の塊は猛烈な臭気を発していた。
娘さん達が臭い消しのためと言って大輪の百合を
個室に飾っていた。
強い百合の芳香と腫瘍の臭気が混ざって
深呼吸が出来ないほどだった。
ある日、その人が私に言った。


「私が悪いの。
 気持ち悪いでしょう。ごめんね。」


その時私はどんな顔をしただろう。
何故あの人は謝るのだろう。
あの人の体を占領している巨大な塊は誰の罪か。
癌の塊に全身の力を吸い取られ、
どんどん衰弱していくあの人が何故謝るのだろう。
誰よりも一番苦しい、辛い思いを味わっている人が。
深夜、帰りのタクシーの中で、
疲れて眠気の霧のかかった私の頭の中に
主イエスの言葉がぼんやりと浮かんだ。


「本人が罪を犯したからでも、
 両親が罪を犯したからでもない。
 神の業がこの人に現れるためである。」
            (ヨハネ9;3 新共同訳)


神の業とは何ですか。
主よ。どんなことですか。


思いつくままにノートに書いた。


深夜の勤務が開けて準夜で出勤すると、
あの巨大な塊に身体を占領されたその人の右手が
いきなり動き始めた。
左の大脳に比較的大きな転移があって、
右側の手は麻痺していた筈だった。
感覚も殆ど失われ、
ほんの僅かに肘関節を曲げる事が出来る程度で
だらりと下がっていた筈だった。
その人が身体の向きを変えようと動く度に、
麻痺した腕が捻れて身体の下敷きになるのを
注意しなければならない筈だった。
夕食の前にガーゼを交換していると
その人が「あのね、ほら」。
何か秘密を打ち明けるかのように、
右手を私に指し出した。
麻痺して上がらない筈の右手が45度まで上げられていた。
私は四肢のレベルをチェックし直し、記録した。
夕食の時、面会に来た家族が言った。
「ここに入院した時は
口の麻痺側から食べた物が溢れて、
つきっきりで拭いてやらなければならなかったのに、
今は全然必要ない。
よくなってきたんですね。ありがとう。」


そんな筈はない。
あれ程大きくなるまで腫瘍を放置して、
既に他の臓器に何ヶ所も飛び火している。
国立がんセンターに空床を確保出来るまで
点滴をして脳の浮腫を軽減させ、
進んでいた貧血を輸血で改善し、
身体の表面に花開き多量の浸出液が流れる癌の塊には
ガーゼを交換していただけだった。
外来に来た時は既に手遅れだったのだ。
動かない筈の右手が動いて
回復に見えても一時的にしか過ぎない筈だ。
そんな期待をして、
再び症状が悪化した時この人も家族も
どれだけ落胆しなければならないのだろう。


消灯前の検温の時、もう一度右手を挙げてみて貰った。
今度は90度まで上がった。
しかも今度は90度をキープしたまま指も自由に動く。
握って開いて。指を一本ずつ折って数える。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
右手で物を持つ事も出来る。
四肢レベルをまた見直して記録した。
私は先輩に聞いた。
「どういうことなんでしょう。
脳の浮腫が取れて治ってきたって事ですか?
家族はそう言って喜んでたけど。」
「まさか。そんな楽観できる状態じゃないよ。」


転移した癌でその人の脳は侵食され
内側から押し潰されかけていたのに、
何が良くて急激に失われた機能が戻ってきたのか、
実際に目の前でしゃんと自力で起き上がり
右手にブラシを持って髪を整える姿を見ていると
私は不思議で仕方がなかった。
何が効いたんだろう、薬剤だろうか、輸血だろうか、
あと何があるだろう・・・
でも明日になったらまた再び麻痺が戻っていて
がっくり落ち込んでいるかも知れない・・・
その時はどうやって、何と話しかけたらいいのだろう。
私はその人がいる間ずっとそんな事ばかり考えていた。
翌日になっても、翌々日になっても、
復活した右手は復活したままだった。


不思議だ不思議だと驚いていた間、
私は自分で主なる神に何を問いかけたかなど
完全に忘れていた。
“不思議”がどの薬剤によるものなのか、
どの処置によるものなのか、それしか念頭になかった。
その人が国立癌センターに移って行った数日後、
私は当時自分で書き綴っていた聖書通読日記に
新しく何か書き込もうとして読み返した。


「この人が生まれつき目が見えないのは、
 だれが罪を犯したからですか。
 本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、
 両親が罪を犯したからでもない。
 神の業がこの人に現れるためである。」
          (ヨハネ9;2~3 新共同訳)
神の業とは何ですか。
主よ。


ページの最後に自分の手で書き込んだその一文を読んで
耳元で言われた気がした。


「もし信じるなら、
 神の栄光が見られると、
 言っておいたではないか」
            (ヨハネ11;40 新共同訳)


祈ると言っても文句ばかり言い、
散々不満をぶつけて言いたい放題にぶちまけた末、
主なる神が私に言おうとされる事に私は
全く耳を貸していなかった。
(だめだめですな。こういう信仰ってどうなの。)


しばらく経って娘さん達が私達の病棟を訪ねて来た。
癌センターに移ってすぐにあの巨大な塊を切除し、
傷が癒えた頃にその人は呼吸不全で亡くなっていた。
ほんの僅かな時間だったが、
あの癌の塊を家族にひた隠しにして
「迷惑をかけたくない」と思い悩んでいた人が
家族に心を開いて時間を共有する事が出来た、
発見が遅れたのは無念だが最後にいろいろ話が出来た、
親子で僅かでも残りの時間を共にする事が出来たので
悔いはない、と娘さん達は言った。


悔いが残らない筈はない。
どれだけしても悔いは残る。
それでも最後に少しだけ話したり
一緒に時間を過ごす事が出来た。
それは大きな慰めだったのだ。
家族にとっても、本人にとっても。