初めて創世記の4章を読んだ時、理不尽だと思った。
二人の子供がいて親が片方しか顧みないならば、
顧みられなかった者はもう一人を妬み、
顧みられた者は相手よりも優位に立って見下すのは
心理的に無理ない、当たり前の事ではないか。
まるで主なる神が
2人の子供のうち片方だけ偏愛する愚かな親のようだ。
この箇所を読んで
私は長い間カインの心理に共感し同情していた。
カインがアベルを殺したのは、
元はと言えば主なる神のエコヒイキが原因ではないか。
本当にこんな解釈でいいのか?
学生だった頃、
大学の聖書研究会で教授に聞いてみた。
教授は面倒臭そうに答えた。
「カインが自分だけ幸せになろうとしたからさ。」
???
たまたま帰省しその場に同席していた神学生は
新約の『贖いの子羊』に関連付けて言った。
「きっと神様は
野菜よりも羊の方が好きだったんじゃない?
かわいいし。
きっとカボチャよりも
羊の方が好きだったんじゃない?」
???
要するにその場では誰も理解出来なかったのだ。
その時皆が使っていた聖書は口語訳だった。
意味が読み取れなくても
無理はなかったかも知れない。
・・・カインは
地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、
その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
(創世記4;3~5口語訳)
カインの何が悪いのだ?
何で主なる神はカインを顧みなかったのだろう?
理不尽ではないか。
そんな疑問が湧いてくる。
それから10年経って私は洗礼を受けた。
当時母教会では新改訳聖書を使っていた。
創世記の同じ箇所を
洗礼を授けて下さった牧師先生に聞いてみた。
ある時期になって、
カインは地の作物から主への捧げ物を持って来た。
また、
アベルは彼の羊の初子の中から、
それも最良のものを、
それも自分の手で持って来た。
主は、アベルとその捧げ物とに目を留められた。
だが、カインとその捧げ物には
目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
(創世記4;3~5新改訳)
私は牧師先生に聞いた。
「カインの何がまずくて
神様は顧みてくれなかったんでしょうか?」
母教会の牧師先生は詳しく説明して下さった。
「旧約聖書は
新改訳の方が原文に近いと言われています。
カインとアベルとの違いは何だったと思いますか。
カインは作物の中から
主に捧げたとしか書かれていません。
アベルについては
最良のものを選んで、
自分自身で捧げたと、
わざわざ説明がなされている。
ここに大きな違いがあります。
特に選ぶことなくお供えしたのと、
最良のものを自分自身で選んで
自分の手で捧げるのとでは
開きがあるとは思いませんか。
捧げ物その物が何であったかは
問題ではありません。」
なるほど。
祈りも働きも賛美も、主に捧げるならば
最善最良を尽くす事を自らしなくては
捧げる事にならないのか。
捧げる側の心のあり方が問われる訳だ。
そうそう。
捧げる側の心のあり方。
そこで、先日水曜日の聖書研究会。
(ローマ9;1~18)
カインとアベルと同様の図式が、
聖書の中の随所に出て来るのは何故か?
人間が2人いて、神が
片方を一方的に選び、
もう片方を疎んじるという図式が
何度も出て来る。
カインとアベル、
イシマエルとイサク、
(というよりもこれはハガルとサラかな。)
エサウとヤコブ。
うちの教会の牧師先生によると、
偏愛する神の側に問題があるのではない、
選ばれた者と選ばれなかった者との、
或いは
選ばれた者と先に一度選ばれて後に見放された者との、
神に対する心のあり方の違いの問題だという。
「このように、
神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
かたくなにしたいと思う者を
かたくなにされるのです。」
(ローマ9;18)
ファラオとモーセ、
サウルとダビデ、
パリサイ人とイエス・キリスト。
私の今現在の所属教会の牧師先生が
先日の聖書研究会で話して下さった。
「神様は救う者と救わない者とを
初めから選び分け
前もって決めておられたのではないよ。
神様は全ての者が救われる事を望んでおられる。
イエス様がそう言われたからね。(マルコ16;15)
全ての人が救われるために
先に選ばれた者は働かなくてはならない。
先に救われた者には責任がある。
全ての人が救われるために
神の救いを述べ伝えるという責任がある。
カイン、エサウ、ファラオ、サウル、パリサイ人。
まだ聖書には他にもたくさん登場するけど、
彼らは初めから選ばなかったのではないし、
救われないと初めから決められていた訳ではない。
しかし
彼らは自分が神様から選ばれた事を重視なかった。
選ばれた事を自分の特権として
独占し歪めてしまったり、
或いは軽んじ、見過ごし、
または選ばれた事を自分の欲得のために利用した。
彼らが与えられた責任を果たさないから
代わりに他の者が選ばれ立てられた。
僕達クリスチャンはどうだろう。
僕達クリスチャンは
まだ神を知らない人達よりも先に
イエス様と出会って救われた、
その事を自分でよく知っているよね。
だけど、
先に救われたと言う事は責任があるって事だ。
じゃあ僕達は先に救われた者として
相応しく責任を果たしているだろうか。
責任を果たしてますと
僕達は神様に大手を振って言えるだろうか。
自分達が救われた事はわかっていながら、
神様から与えられた使命を、
僕達は全然果たしていないんじゃないだろうか。
もし自分は果たしていると思うならそれは驕りだ。
今のこの世の中を見ればわかる。」
ローマ書はただ難しいのではないんだ。
耳が痛いのだ。
次回、集会の当番は私。
耳も胃も痛くなってくる。
二人の子供がいて親が片方しか顧みないならば、
顧みられなかった者はもう一人を妬み、
顧みられた者は相手よりも優位に立って見下すのは
心理的に無理ない、当たり前の事ではないか。
まるで主なる神が
2人の子供のうち片方だけ偏愛する愚かな親のようだ。
この箇所を読んで
私は長い間カインの心理に共感し同情していた。
カインがアベルを殺したのは、
元はと言えば主なる神のエコヒイキが原因ではないか。
本当にこんな解釈でいいのか?
学生だった頃、
大学の聖書研究会で教授に聞いてみた。
教授は面倒臭そうに答えた。
「カインが自分だけ幸せになろうとしたからさ。」
???
たまたま帰省しその場に同席していた神学生は
新約の『贖いの子羊』に関連付けて言った。
「きっと神様は
野菜よりも羊の方が好きだったんじゃない?
かわいいし。
きっとカボチャよりも
羊の方が好きだったんじゃない?」
???
要するにその場では誰も理解出来なかったのだ。
その時皆が使っていた聖書は口語訳だった。
意味が読み取れなくても
無理はなかったかも知れない。
・・・カインは
地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、
その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
(創世記4;3~5口語訳)
カインの何が悪いのだ?
何で主なる神はカインを顧みなかったのだろう?
理不尽ではないか。
そんな疑問が湧いてくる。
それから10年経って私は洗礼を受けた。
当時母教会では新改訳聖書を使っていた。
創世記の同じ箇所を
洗礼を授けて下さった牧師先生に聞いてみた。
ある時期になって、
カインは地の作物から主への捧げ物を持って来た。
また、
アベルは彼の羊の初子の中から、
それも最良のものを、
それも自分の手で持って来た。
主は、アベルとその捧げ物とに目を留められた。
だが、カインとその捧げ物には
目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
(創世記4;3~5新改訳)
私は牧師先生に聞いた。
「カインの何がまずくて
神様は顧みてくれなかったんでしょうか?」
母教会の牧師先生は詳しく説明して下さった。
「旧約聖書は
新改訳の方が原文に近いと言われています。
カインとアベルとの違いは何だったと思いますか。
カインは作物の中から
主に捧げたとしか書かれていません。
アベルについては
最良のものを選んで、
自分自身で捧げたと、
わざわざ説明がなされている。
ここに大きな違いがあります。
特に選ぶことなくお供えしたのと、
最良のものを自分自身で選んで
自分の手で捧げるのとでは
開きがあるとは思いませんか。
捧げ物その物が何であったかは
問題ではありません。」
なるほど。
祈りも働きも賛美も、主に捧げるならば
最善最良を尽くす事を自らしなくては
捧げる事にならないのか。
捧げる側の心のあり方が問われる訳だ。
そうそう。
捧げる側の心のあり方。
そこで、先日水曜日の聖書研究会。
(ローマ9;1~18)
カインとアベルと同様の図式が、
聖書の中の随所に出て来るのは何故か?
人間が2人いて、神が
片方を一方的に選び、
もう片方を疎んじるという図式が
何度も出て来る。
カインとアベル、
イシマエルとイサク、
(というよりもこれはハガルとサラかな。)
エサウとヤコブ。
うちの教会の牧師先生によると、
偏愛する神の側に問題があるのではない、
選ばれた者と選ばれなかった者との、
或いは
選ばれた者と先に一度選ばれて後に見放された者との、
神に対する心のあり方の違いの問題だという。
「このように、
神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
かたくなにしたいと思う者を
かたくなにされるのです。」
(ローマ9;18)
ファラオとモーセ、
サウルとダビデ、
パリサイ人とイエス・キリスト。
私の今現在の所属教会の牧師先生が
先日の聖書研究会で話して下さった。
「神様は救う者と救わない者とを
初めから選び分け
前もって決めておられたのではないよ。
神様は全ての者が救われる事を望んでおられる。
イエス様がそう言われたからね。(マルコ16;15)
全ての人が救われるために
先に選ばれた者は働かなくてはならない。
先に救われた者には責任がある。
全ての人が救われるために
神の救いを述べ伝えるという責任がある。
カイン、エサウ、ファラオ、サウル、パリサイ人。
まだ聖書には他にもたくさん登場するけど、
彼らは初めから選ばなかったのではないし、
救われないと初めから決められていた訳ではない。
しかし
彼らは自分が神様から選ばれた事を重視なかった。
選ばれた事を自分の特権として
独占し歪めてしまったり、
或いは軽んじ、見過ごし、
または選ばれた事を自分の欲得のために利用した。
彼らが与えられた責任を果たさないから
代わりに他の者が選ばれ立てられた。
僕達クリスチャンはどうだろう。
僕達クリスチャンは
まだ神を知らない人達よりも先に
イエス様と出会って救われた、
その事を自分でよく知っているよね。
だけど、
先に救われたと言う事は責任があるって事だ。
じゃあ僕達は先に救われた者として
相応しく責任を果たしているだろうか。
責任を果たしてますと
僕達は神様に大手を振って言えるだろうか。
自分達が救われた事はわかっていながら、
神様から与えられた使命を、
僕達は全然果たしていないんじゃないだろうか。
もし自分は果たしていると思うならそれは驕りだ。
今のこの世の中を見ればわかる。」
ローマ書はただ難しいのではないんだ。
耳が痛いのだ。
次回、集会の当番は私。
耳も胃も痛くなってくる。