今朝、待合室で読んでいたナウエン『放蕩息子の帰還』の9章で
「祝宴に招き待ち続ける御父」の事を考えた。
他者にも自分にも苦難と喜びとがある。
他者との出会いの中で相手の苦難の方にばかり注目する心理は
より深刻でセンセーショナルな三面記事を求めるのと同様だと
筆者自身が告白している。
他者の苦しみに共感し涙する事は大事な事であり、
相手の直面する問題を深刻に考え人と話し合う事もある。
ナウエンはそこから更に踏み出して、
苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを
共有する事について述べている。
その章を読んで気づいた。
どんな人との出会いにも言えるが、
例えばここに移り住んで私が出会った二人の人達の
言葉で表現し得ない苦しみの生涯を思い出し、
私はこれまで彼らの苦難にばかり注目し泣いたり怒ったりしたが
その先に示されたものがあり、私が彼らと出会わせられ
わざわざ目に見せられた事には意味があった。
二人の人達を、私はこの日記ブログの初めの頃に書いた。
一人は手術の失敗によって頸から下が動かなかった。
医療過誤の裁判で被害者が勝訴するケースは稀だった。
それでもその人は手術を担当した医師と病院を告発し、
長期にわたる裁判を闘った。
↓
ぱんくず日記(2006-08-22 10:21:44)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/s/%A5%AD%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A4%CB%A4%CF
身体機能を奪われ、仕事と生活の全てを奪われ、
人生の望みの全てを奪われた。
自殺の道さえ断たれ、例え勝ち目がないと解っていても
闘わずにはいられなかった裁判は長い時間を費やし、
最終的にその人は勝訴した。
首から下が全部麻痺になった7000万円の賠償請求に対し
たった300万円の勝利だった。
その人が自分自身の境遇を語った時の言葉を私は一字一句忘れない。
「俺は負けたんだ。
俺は裁判には勝った。
医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
でも俺は負けた。
たった300万の賠償金を手にした瞬間、
それまで力になったり励ましてくれたり
何かと世話して支えてくれた親戚や友達が皆ハイエナに変わった。
300万の中から半分は裁判絡みの費用や弁護士に支払って消えた。
残りの金から医療費を支払うと親戚や友達が
貸した金を返せと言って来た。
残った金も、
あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと親戚や友達が
みんな毟り取って行ったから、手元には数万の金しか残らなかった。
金が無くなったら俺の回りには誰も残っていなかったね。
身内も友達も。
誰一人信用できる奴がいなくなった。
だけどそういう事情でもさ、賠償金を貰ったからという理由で
市からは生活保護費を打ち切られたよ。
俺が負けたと言うのはさ、
裁判には勝ったけど何もかも失った、
だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
もう一人の人は行き倒れた母親を線路脇に置いて
たった一人で焼けた線路の上を歩き続けた人だ。
↓
ぱんくず日記(2007-07-18 00:35:54)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/9da868829df9e2beb46f04f9467562a1
どんな家庭の事情で母一人娘一人になったのか
その人自身もわからないという。
母親は結核でずっと療養所で暮らしていたため
その人は親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育った。
ある時、母親は療養所を出て娘を連れて長崎に行こうとした。
その人はまだ10歳になっていなかった。
「今思うとね、
母は死期を悟って
私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」
汽車の長旅で母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかった。
しかしあと少しで長崎に着くと思っていたら汽車が動かなくなった。
どうして汽車が動かないのか何時再び動き出すのか目途が全く立たず
母親はその人を連れて長崎を目指し線路伝いに歩き始めた。
道の途中、母親は何度か喀血した。
力尽きて線路脇に倒れ込みながら、母親はその人に言った。
「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
お母さんは結核だから死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
お母さんはもう一緒に行けないからあなたは一人で長崎に行きなさい。
長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
いい?
必ず教会を訪ねなさい。
お母さんがここで死んでいる事とあなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
そこで言いなさい。
必ず。」
その人の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなった。
その人は言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出し、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結んだ。
「お母さんは死んでしまったし、
私にはもう行く所がない、
ああ、これから私はどうしよう、って思ったわ。」
その人はしばらく母親の遺体の傍でぼーっとしていたが
言われた通り歩き出すより他になかった。
一人で荷物を担いで線路伝いに歩き始めた。
母親に言われた通り、長崎へ。
しかしその時既に長崎は原爆を投下されていた。
一面瓦礫と焼け焦げた死体の山の街を、
その人は途方に暮れ教会を探して歩き続けた。
まだ10歳になっていなかった。
ナウエン『放蕩息子の帰還』の9章を読んで二人の事を思い出した。
私は彼らと出会って、
彼らが潜り抜けて来た過酷な体験に動揺し、怒り、泣いた。
そして彼らが何でそんな目に遭ったのか苦難の意味を主に問う事をした。
しかしナウエンはこの章で
「相手の苦難の方にばかり注目する自己」と言い表し
より深刻でセンセーショナルな三面記事を好む心理について述べている。
この本の9章を読んで自分が指摘された気がする。
私は彼らの苦難にばかり注目して
動揺し怒り泣いてその先にある祝福に目を向けて来なかった。
主が如何に彼らを大切に御手の中に守って運ばれたかを
私は知っているのに注目して来なかった。
首から下を動かなくされ、辛うじて得た賠償金の殆どを
親戚や知人達に取り上げられ、生活保護まで打ち切られたその人に
見かねて援助の手を差し伸べ力を貸したのは某政治団体の人々だった。
無神論的な政治団体にのめり込むほど、
唯一の主キリストを求める気持ちが何故か強くなり
その人は人に頼んである教会に連れて行って貰い、
聖書研究会に参加するようになった。
しかしちょうどその頃湾岸戦争が勃発した。
その人は聖書研究会の席で問題提起した。
キリストの平和を掲げながら逆の事をする者に対して
教会は何故何の抗議行動もせず黙って見ているのかと。
小さな教会の聖書研究会に政治論議を持ち込んだため
穏健な教会の人々から煙たがられ、居られなくなった。
その人が牧師と口論になって絶交宣言の末に教会を去る時、
信者の一人が自分の所属教会を捨ててついて来た。
配偶者となった信仰者は私に言った。
「私が一緒に行かないと自分では動けないこの人が
キリストとつながる道が永久に絶たれてしまうと思った。
人間は教派や教会をなんぼでも作るけど、神はたった一人だけ。
この人を連れて行ける他の教会を探そうと思った。」
そして、ある日近所のカトリック教会にその人を連れて行った。
司祭は諸手を挙げて歓迎し、二人に公教要理の勉強の場を設け、
洗礼を授けた。
たまたま私と出会ったのは私もその御聖堂の近所に住んでいて
顔見知りになったのが切っ掛けだった。
私は知っている。
主が動けないその人のために道を用意し、
祝宴の食卓を整えて待っておられた事を。
御手の中で絶望からその人を守り、大切に運ばれた事を。
医者も病院も生涯許せないでしょうねと問う私に
頸から下を動かなくされた人は答えた。
「井上さん、
俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
辛い事も頂くんだよ。」
原爆で焼けた線路を辿って歩いた小さな子供だったその人も、
主が御手の中に守って、瓦礫の中で行き倒れないように運ばれた。
10歳にもならない子供がたった一人で原爆投下直後の焼野原を
行き倒れもせず長崎市内に入る事が出来た。
彷徨ううちに浦上の教会を知る人と出会い、
生き残った司祭と出会う事が出来た。
そして行き倒れて命を落とす事無く保護された。
焼けた線路を辿って歩いた小さな子供たったその人は私に言った。
「毎朝、お祈りをするのよ。
今日一日、
私に出会わせて下さる人、
擦れ違う人、
全員が天国に迎えられますように。」
この人の背景を何も知らなければ、
如何にも優等生的な、如何にも経験で信心深い、
模範的信仰者の台詞のようにむしろ空々しく聞こえるかも知れない。
しかし私は知っている。
この人のこの祈りが
小さな子供だった時に目にした惨い光景の只中の祈りである事を。
線路脇に行き倒れた母親や、
道の途中の至る所で目撃した無残に焼け焦げた人々の
無数の屍を前にして祈った幼い子供の祈りである事を。
焼かれて死にきれず息絶え絶えの人々や、
真っ黒に焼け焦げて死んで行った人々を目にした幼い魂を主が守り、
瓦礫となった教会で司祭と出会うまでの道程を御手で運ばれた事を。
二人の人のあまりにも酷い体験の、酷い部分にばかり気を取られ、
彼らが自分に向けて語ってくれた祝福に、私は注目していなかった。
しかし今、ナウエンのこの本を読んだのがきっかけで
彼らが主から受けた光を対話を通して私は垣間見た。
その事自体が御父の祝福、御父の喜びの食卓だったと今思う。
彼らが天に凱旋して行ってからもう10年にもなる。
10年経っても彼らの語った言葉は鮮明に残り
私は彼らが語った事を一字一句忘れていない。
忘れようとして忘れられるものでもなくむしろ
記憶の中で燦然と輝いている。
御父の宴の食卓とはそのようなものかも知れない。
「祝宴に招き待ち続ける御父」の事を考えた。
他者にも自分にも苦難と喜びとがある。
他者との出会いの中で相手の苦難の方にばかり注目する心理は
より深刻でセンセーショナルな三面記事を求めるのと同様だと
筆者自身が告白している。
他者の苦しみに共感し涙する事は大事な事であり、
相手の直面する問題を深刻に考え人と話し合う事もある。
ナウエンはそこから更に踏み出して、
苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを
共有する事について述べている。
その章を読んで気づいた。
どんな人との出会いにも言えるが、
例えばここに移り住んで私が出会った二人の人達の
言葉で表現し得ない苦しみの生涯を思い出し、
私はこれまで彼らの苦難にばかり注目し泣いたり怒ったりしたが
その先に示されたものがあり、私が彼らと出会わせられ
わざわざ目に見せられた事には意味があった。
二人の人達を、私はこの日記ブログの初めの頃に書いた。
一人は手術の失敗によって頸から下が動かなかった。
医療過誤の裁判で被害者が勝訴するケースは稀だった。
それでもその人は手術を担当した医師と病院を告発し、
長期にわたる裁判を闘った。
↓
ぱんくず日記(2006-08-22 10:21:44)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/s/%A5%AD%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A4%CB%A4%CF
身体機能を奪われ、仕事と生活の全てを奪われ、
人生の望みの全てを奪われた。
自殺の道さえ断たれ、例え勝ち目がないと解っていても
闘わずにはいられなかった裁判は長い時間を費やし、
最終的にその人は勝訴した。
首から下が全部麻痺になった7000万円の賠償請求に対し
たった300万円の勝利だった。
その人が自分自身の境遇を語った時の言葉を私は一字一句忘れない。
「俺は負けたんだ。
俺は裁判には勝った。
医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
でも俺は負けた。
たった300万の賠償金を手にした瞬間、
それまで力になったり励ましてくれたり
何かと世話して支えてくれた親戚や友達が皆ハイエナに変わった。
300万の中から半分は裁判絡みの費用や弁護士に支払って消えた。
残りの金から医療費を支払うと親戚や友達が
貸した金を返せと言って来た。
残った金も、
あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと親戚や友達が
みんな毟り取って行ったから、手元には数万の金しか残らなかった。
金が無くなったら俺の回りには誰も残っていなかったね。
身内も友達も。
誰一人信用できる奴がいなくなった。
だけどそういう事情でもさ、賠償金を貰ったからという理由で
市からは生活保護費を打ち切られたよ。
俺が負けたと言うのはさ、
裁判には勝ったけど何もかも失った、
だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
もう一人の人は行き倒れた母親を線路脇に置いて
たった一人で焼けた線路の上を歩き続けた人だ。
↓
ぱんくず日記(2007-07-18 00:35:54)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/9da868829df9e2beb46f04f9467562a1
どんな家庭の事情で母一人娘一人になったのか
その人自身もわからないという。
母親は結核でずっと療養所で暮らしていたため
その人は親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育った。
ある時、母親は療養所を出て娘を連れて長崎に行こうとした。
その人はまだ10歳になっていなかった。
「今思うとね、
母は死期を悟って
私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」
汽車の長旅で母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかった。
しかしあと少しで長崎に着くと思っていたら汽車が動かなくなった。
どうして汽車が動かないのか何時再び動き出すのか目途が全く立たず
母親はその人を連れて長崎を目指し線路伝いに歩き始めた。
道の途中、母親は何度か喀血した。
力尽きて線路脇に倒れ込みながら、母親はその人に言った。
「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
お母さんは結核だから死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
お母さんはもう一緒に行けないからあなたは一人で長崎に行きなさい。
長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
いい?
必ず教会を訪ねなさい。
お母さんがここで死んでいる事とあなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
そこで言いなさい。
必ず。」
その人の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなった。
その人は言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出し、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結んだ。
「お母さんは死んでしまったし、
私にはもう行く所がない、
ああ、これから私はどうしよう、って思ったわ。」
その人はしばらく母親の遺体の傍でぼーっとしていたが
言われた通り歩き出すより他になかった。
一人で荷物を担いで線路伝いに歩き始めた。
母親に言われた通り、長崎へ。
しかしその時既に長崎は原爆を投下されていた。
一面瓦礫と焼け焦げた死体の山の街を、
その人は途方に暮れ教会を探して歩き続けた。
まだ10歳になっていなかった。
ナウエン『放蕩息子の帰還』の9章を読んで二人の事を思い出した。
私は彼らと出会って、
彼らが潜り抜けて来た過酷な体験に動揺し、怒り、泣いた。
そして彼らが何でそんな目に遭ったのか苦難の意味を主に問う事をした。
しかしナウエンはこの章で
「相手の苦難の方にばかり注目する自己」と言い表し
より深刻でセンセーショナルな三面記事を好む心理について述べている。
この本の9章を読んで自分が指摘された気がする。
私は彼らの苦難にばかり注目して
動揺し怒り泣いてその先にある祝福に目を向けて来なかった。
主が如何に彼らを大切に御手の中に守って運ばれたかを
私は知っているのに注目して来なかった。
首から下を動かなくされ、辛うじて得た賠償金の殆どを
親戚や知人達に取り上げられ、生活保護まで打ち切られたその人に
見かねて援助の手を差し伸べ力を貸したのは某政治団体の人々だった。
無神論的な政治団体にのめり込むほど、
唯一の主キリストを求める気持ちが何故か強くなり
その人は人に頼んである教会に連れて行って貰い、
聖書研究会に参加するようになった。
しかしちょうどその頃湾岸戦争が勃発した。
その人は聖書研究会の席で問題提起した。
キリストの平和を掲げながら逆の事をする者に対して
教会は何故何の抗議行動もせず黙って見ているのかと。
小さな教会の聖書研究会に政治論議を持ち込んだため
穏健な教会の人々から煙たがられ、居られなくなった。
その人が牧師と口論になって絶交宣言の末に教会を去る時、
信者の一人が自分の所属教会を捨ててついて来た。
配偶者となった信仰者は私に言った。
「私が一緒に行かないと自分では動けないこの人が
キリストとつながる道が永久に絶たれてしまうと思った。
人間は教派や教会をなんぼでも作るけど、神はたった一人だけ。
この人を連れて行ける他の教会を探そうと思った。」
そして、ある日近所のカトリック教会にその人を連れて行った。
司祭は諸手を挙げて歓迎し、二人に公教要理の勉強の場を設け、
洗礼を授けた。
たまたま私と出会ったのは私もその御聖堂の近所に住んでいて
顔見知りになったのが切っ掛けだった。
私は知っている。
主が動けないその人のために道を用意し、
祝宴の食卓を整えて待っておられた事を。
御手の中で絶望からその人を守り、大切に運ばれた事を。
医者も病院も生涯許せないでしょうねと問う私に
頸から下を動かなくされた人は答えた。
「井上さん、
俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
辛い事も頂くんだよ。」
原爆で焼けた線路を辿って歩いた小さな子供だったその人も、
主が御手の中に守って、瓦礫の中で行き倒れないように運ばれた。
10歳にもならない子供がたった一人で原爆投下直後の焼野原を
行き倒れもせず長崎市内に入る事が出来た。
彷徨ううちに浦上の教会を知る人と出会い、
生き残った司祭と出会う事が出来た。
そして行き倒れて命を落とす事無く保護された。
焼けた線路を辿って歩いた小さな子供たったその人は私に言った。
「毎朝、お祈りをするのよ。
今日一日、
私に出会わせて下さる人、
擦れ違う人、
全員が天国に迎えられますように。」
この人の背景を何も知らなければ、
如何にも優等生的な、如何にも経験で信心深い、
模範的信仰者の台詞のようにむしろ空々しく聞こえるかも知れない。
しかし私は知っている。
この人のこの祈りが
小さな子供だった時に目にした惨い光景の只中の祈りである事を。
線路脇に行き倒れた母親や、
道の途中の至る所で目撃した無残に焼け焦げた人々の
無数の屍を前にして祈った幼い子供の祈りである事を。
焼かれて死にきれず息絶え絶えの人々や、
真っ黒に焼け焦げて死んで行った人々を目にした幼い魂を主が守り、
瓦礫となった教会で司祭と出会うまでの道程を御手で運ばれた事を。
二人の人のあまりにも酷い体験の、酷い部分にばかり気を取られ、
彼らが自分に向けて語ってくれた祝福に、私は注目していなかった。
しかし今、ナウエンのこの本を読んだのがきっかけで
彼らが主から受けた光を対話を通して私は垣間見た。
その事自体が御父の祝福、御父の喜びの食卓だったと今思う。
彼らが天に凱旋して行ってからもう10年にもなる。
10年経っても彼らの語った言葉は鮮明に残り
私は彼らが語った事を一字一句忘れていない。
忘れようとして忘れられるものでもなくむしろ
記憶の中で燦然と輝いている。
御父の宴の食卓とはそのようなものかも知れない。