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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

何のために

2010-11-08 00:48:30 | ヨハネ手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
神を知っているからです。
                      (Ⅰヨハネ4;7)




もう何年も前に
近所の教会の神父様が言っていた。


 私達は誰かを赦すために、誰かを愛するために、
 この世に生まれて来ました。
 私達は人を赦すために、愛するために、
 生命を与えられ、生かされています。
                 (L神父)


人間が
何故この世に生み出され
何故生かされているのか
何故生きなければならないか
“何のために”という問いへの明確な答え。


多分、ヨハネはこの事を言っている。

昨日、8月9日(ヨハネⅠ3;16)

2007-08-10 17:29:59 | ヨハネ手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
イエスは、
わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、
わたしたちは愛を知りました。
だから、
わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
                    (ヨハネⅠ3;16)


夜勤明けの寝起きでへろへろしてたけど
夕方にはじじ宅に行って
いつものように家事をしてきた。
長崎の原爆の日でもあり、
じじがそのニュースを見ていた。


先日(2007.07.18)このブログにも書いた、
原爆投下直後に
長崎の教会を訪ねる途中で母親が行き倒れて絶命し、
子供ながら一人で線路伝いに
長崎の教会を訪ねたという体験談を
私に語ってくれた人がいた。
その話をじじに話したら
じじは泣いた。
(最近じじはよく泣く。)
せっかくだからもっと泣いて頂こう。


「とーさん
 永井隆って覚えてる?」


「知らんなぁ。」


「昔、長崎の鐘の歌になった人。」


「いやーわからん。」


「前にテレビの番組になったのを
 見せた事があったじゃん。」


「どうだったかなぁ。」


「見るか?」


「見る。」


という訳で、
昨夜はじじの食事を作りながら
久しぶりに古いVHSを引っ張り出して来た。
10年くらい前に『知ってるつもり』という番組があって
そこで取り上げられた永井隆と遠藤周作の放送を
当時録画して今も手元にあったのだ。


永井隆さんの頃は
まだ確立されていなかった放射線医療が
今では広く普及している。
永井さんだったらどう思うのかな。
今の時代の日本の被爆者の戦いを
今の時代の放射線医療、核医学のあり方を
今の時代の原発事故の問題を
今の時代の核の脅威を。


原爆で焼け出された永井さん達が
どんなに望んでも手に入らなかった
医療機器や設備、薬剤が今では広く普及している。
永井さんの頃には
医療従事者が放射線から身を守る為の
鉛のプロテクターすら普及してなかった。
永井さんはその為に原爆投下以前に白血病に罹っていた。


タリウムとかテクネシウムとかガリウムとか
私が核医学検査室で勤務していた時に
患者さんに注射する為の
放射性同位元素を含んだ薬品をシリンジに詰めて
タングステンシールドを被せて
技師から手渡された時、ふと思った事がある。


永井さん達の犠牲で得られた恩恵を
今の時代に生きる私達は受けている。
永井さん達が望んでも受けられなかった恩恵を
私達が今、受けている。


自宅の焼け跡で
焼け焦げた妻の骨と
熱線で溶けたロザリオを手に取った時
どんな気持ちがしただろう。
仕事の放射線被爆で白血病を発病して
原爆で焼け出されて
二人の幼い子を持ちながら
自分の余命が残り僅かだと知った時
どんな気持ちがしただろう。
どんな気持ちで主なる神と向き合い
祈りを捧げたのだろう。


まもなくじじは
三浦綾子の小説を読み終わる。
じじは小説好きで随筆は苦手らしいが
『ロザリオの鎖』と『この子を残して』を
置いてきた。

ヨハネの手紙三読了

2007-03-29 01:25:00 | ヨハネ手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
ガイオという信徒宛ての手紙。
群れの中に自ら指導者になりたがる者がおり、
教会が荒らされようとしている、
危機感を
読み取る事ができる。
いや、緊迫感している。
「荒らす者」が教会を
支配しようとしている危機感。


でも、
この手紙だけの時代の話ではないよ。
以後ずっと
何時の時代も
今現在でも
何処の教会にも「荒らす者」はいる。

ヨハネの手紙二読了

2007-03-29 00:49:00 | ヨハネ手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
この手紙が書かれた背景には迫害もあるが
同胞の中に教えを歪める者が現れて
教会を内側から蝕む危機をもたらしていた。


「反キリスト」と呼ばれるのは仮現説だろうか。
イエスは肉体のない霊だったと
まことしやかに言い広める一派が起った。


教会は戦わなければならなかっただろう。
今のように情報手段の豊かな時代ではないから
いろんな説を各自が吟味する機会もなく
教会は苦しい戦いを強いられ
惑わされる人はたくさんいただろう。


使徒言行録(20;29,30)で
パウロが言った事は
この手紙が書かれた頃には
現実のものだったのだ。


イエス・キリストには肉体あったでしょ。
だって肉体がないなら
空腹の時いちじくの実を探したり
魚を食べる必要ないでしょ。
霊だけなら槍で刺した時に
コアグラと血漿に分離した血液が
流れ出る事もなかっただろう。


キリストが死んで甦った事を
浅はかな人間の貧しい知恵で都合良く
強引に辻褄を合わせようとするから
変な解釈が生まれるんだよ。


新約聖書がまだ誕生していなかった時代には
信徒達はどうやって異端との議論をしたのだろう。
想像もつかない。
戦いは壮絶だっただろうな。

ヨハネの手紙一読了

2007-03-28 20:09:00 | ヨハネ手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
神は愛。
互いに愛し合うべき。
ヨハネが強く勧める、
我々人間が一番守れない掟。


 イエスは、
 わたしたちのために、
 命を捨てて下さいました。
 そのことによって、
 わたしたちは愛を知りました。
 だから、わたしたちも兄弟たちのために
 命を捨てるべきです。
             (ヨハネ1-3;16)


無理・・・。


しかし近所のイタリア人神父様は断言した。


 「私達は
  誰かを許すために
  誰かを愛するために
  この世に生まれて来ました。
  私達は
  人を許すために
  愛するために
  命を与えられ、生かされています。」(ロンデロ司祭)


どうよ。
人を許すために
愛するために
生かされて
生きてるかい?自分。


生きてないね。
死んでる。