「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができる・・・」
(ヘブライ4;12)
読書メモ。
『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第六話 聖書と祈りについて
私たちは祈りによって神との関わりを深めていく事が出来ます。
その中でも、
聖書に書かれていることばを通して神に近づくことは
もっとも基本的な方法です。
(本文より)
例えば病人の癒しの箇所から今の自分に響く言葉が無いか。
登場人物に共感する思い、苦しみ、悪徳や欠点が自分にも無いか。
イエスに触れようとする病人の態度、熱意、純粋な信頼から
自分が学ぶ事が無いか。
自分が登場人物になったつもりで聖書の箇所を味わう時、
イエスの言葉は今の自分にどんな意味を持ち、
自分の生き方とどう関係するか。
聖書を読む時、
時間、時代を超えて聖書の中の登場人物に共感したり
敵対したり、考えたりする。
聖書に登場する人々は生き生きと今の自分に話しかけ、
問いを投げかけてくる。
時代が何千年も違っても、
私達は生きる戦いの苦しみや喜怒哀楽を同じく共有している。
イエスは
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
(ルカ4;21)
と言われました。
すべての聖書の言葉はあなたのうちに実現する可能性を秘めているのです、
もしあなたにそれを聴く耳があれば。
祈りとは、あなたのうちに実現しようとしている神のことばを、
自分の全身全霊
(つまり自分の過去と未来、現在の喜びと悩み、周りの人々の関係すべて)で、
聴くことです。
(本文より)
福音書の中で起こったことを、
今ここで起こっているつもりで読みなさい。
主イエス・キリストを通じて語られ、
なされたことに、全身全霊をこめてあずかりなさい。
・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
自分の目で見ているかのように味わいなさい。
サクソニーのルドルフ
福音書を読むたびごとに、
キリストおん自らがあなたに語りかけておられる。
あなたは読みながらキリストに向かって祈り、
話しかけている。
ザドンスクのティコン
『祈りの泉 365のことば』
(ジーン・ヒントン編著 光原百合訳
1998年女子パウロ会より)
まず聖書の箇所をゆっくりと読みます。
その中で何か心に響いてくる箇所、ことば、態度があるでしょうか。
意味がよく分からないところはあまり考え込む必要はありません。
自分の生活と照らしながら何か材料を拾ってみます。
そして、沈黙で目をつぶり、十五分ほど黙想します。
そのとき、自分が登場人物になったつもりで、
その場面を想像して、気持ちを味わいます。
またことばの意味について思いめぐらしてみます。
大切なのは、
今ここで自分に必要な真理、心の底で納得する真理を味わうことです。
(本文より)
私はこれまでに聖書を何度読んだだろうか。
確かに、たくさんの示唆を与えられ、
共感し、考え込んだり、発見したりして、
与えられたものは随分たくさん、ノートやファイルに納め切れず
整理するだけでも骨が折れるほど、たくさん与えられてきた。
小学生の時、
英語教室に通っていた近所の教会の玄関の左脇に
聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに
小学生だった自分が隠れて物陰で盗み見たほどの執着心は、
一体何処から来たものだったのか、今もわからない。
英語教室の先生をしていた青年が私に言った。
「聖書あげようか。
小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
今、何十年も経って、私は自分で聖書を読んでいる。
これも神が与えて下さったものに違いない。
私は自分で聖書を開き、
登場人物に共感し、喜怒哀楽を共有しようとする。
福音書の時代の人々の目を通して、主イエスの姿を追い、
後ろ姿を捉えようとしている。
聖書の中で特に好きな箇所は。
ヨハネ。
イエスの横顔が見えるような気がする。
その特に好きな箇所をもう一度今黙想し、何か新しい発見は。
ヨハネ21;5~14
魚焼くイエス。
魚を焼いて弟子達に朝飯を用意するイエス。
自分がチャレンジされている、
呼びかけられていると思う聖書の箇所があるか。
エゼキエル16;6、18;23、18;32
「生きよ」
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができる・・・」
(ヘブライ4;12)
読書メモ。
『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第六話 聖書と祈りについて
私たちは祈りによって神との関わりを深めていく事が出来ます。
その中でも、
聖書に書かれていることばを通して神に近づくことは
もっとも基本的な方法です。
(本文より)
例えば病人の癒しの箇所から今の自分に響く言葉が無いか。
登場人物に共感する思い、苦しみ、悪徳や欠点が自分にも無いか。
イエスに触れようとする病人の態度、熱意、純粋な信頼から
自分が学ぶ事が無いか。
自分が登場人物になったつもりで聖書の箇所を味わう時、
イエスの言葉は今の自分にどんな意味を持ち、
自分の生き方とどう関係するか。
聖書を読む時、
時間、時代を超えて聖書の中の登場人物に共感したり
敵対したり、考えたりする。
聖書に登場する人々は生き生きと今の自分に話しかけ、
問いを投げかけてくる。
時代が何千年も違っても、
私達は生きる戦いの苦しみや喜怒哀楽を同じく共有している。
イエスは
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
(ルカ4;21)
と言われました。
すべての聖書の言葉はあなたのうちに実現する可能性を秘めているのです、
もしあなたにそれを聴く耳があれば。
祈りとは、あなたのうちに実現しようとしている神のことばを、
自分の全身全霊
(つまり自分の過去と未来、現在の喜びと悩み、周りの人々の関係すべて)で、
聴くことです。
(本文より)
福音書の中で起こったことを、
今ここで起こっているつもりで読みなさい。
主イエス・キリストを通じて語られ、
なされたことに、全身全霊をこめてあずかりなさい。
・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
自分の目で見ているかのように味わいなさい。
サクソニーのルドルフ
福音書を読むたびごとに、
キリストおん自らがあなたに語りかけておられる。
あなたは読みながらキリストに向かって祈り、
話しかけている。
ザドンスクのティコン
『祈りの泉 365のことば』
(ジーン・ヒントン編著 光原百合訳
1998年女子パウロ会より)
まず聖書の箇所をゆっくりと読みます。
その中で何か心に響いてくる箇所、ことば、態度があるでしょうか。
意味がよく分からないところはあまり考え込む必要はありません。
自分の生活と照らしながら何か材料を拾ってみます。
そして、沈黙で目をつぶり、十五分ほど黙想します。
そのとき、自分が登場人物になったつもりで、
その場面を想像して、気持ちを味わいます。
またことばの意味について思いめぐらしてみます。
大切なのは、
今ここで自分に必要な真理、心の底で納得する真理を味わうことです。
(本文より)
私はこれまでに聖書を何度読んだだろうか。
確かに、たくさんの示唆を与えられ、
共感し、考え込んだり、発見したりして、
与えられたものは随分たくさん、ノートやファイルに納め切れず
整理するだけでも骨が折れるほど、たくさん与えられてきた。
小学生の時、
英語教室に通っていた近所の教会の玄関の左脇に
聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに
小学生だった自分が隠れて物陰で盗み見たほどの執着心は、
一体何処から来たものだったのか、今もわからない。
英語教室の先生をしていた青年が私に言った。
「聖書あげようか。
小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
今、何十年も経って、私は自分で聖書を読んでいる。
これも神が与えて下さったものに違いない。
私は自分で聖書を開き、
登場人物に共感し、喜怒哀楽を共有しようとする。
福音書の時代の人々の目を通して、主イエスの姿を追い、
後ろ姿を捉えようとしている。
聖書の中で特に好きな箇所は。
ヨハネ。
イエスの横顔が見えるような気がする。
その特に好きな箇所をもう一度今黙想し、何か新しい発見は。
ヨハネ21;5~14
魚焼くイエス。
魚を焼いて弟子達に朝飯を用意するイエス。
自分がチャレンジされている、
呼びかけられていると思う聖書の箇所があるか。
エゼキエル16;6、18;23、18;32
「生きよ」