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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

聖書

2010-02-12 21:40:06 | ヘブライ
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
 心の思いや考えを見分けることができる・・・」
                      (ヘブライ4;12)



読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第六話 聖書と祈りについて


  私たちは祈りによって神との関わりを深めていく事が出来ます。
  その中でも、
  聖書に書かれていることばを通して神に近づくことは
  もっとも基本的な方法です。
                        (本文より)


例えば病人の癒しの箇所から今の自分に響く言葉が無いか。
登場人物に共感する思い、苦しみ、悪徳や欠点が自分にも無いか。
イエスに触れようとする病人の態度、熱意、純粋な信頼から
自分が学ぶ事が無いか。
自分が登場人物になったつもりで聖書の箇所を味わう時、
イエスの言葉は今の自分にどんな意味を持ち、
自分の生き方とどう関係するか。


聖書を読む時、
時間、時代を超えて聖書の中の登場人物に共感したり
敵対したり、考えたりする。
聖書に登場する人々は生き生きと今の自分に話しかけ、
問いを投げかけてくる。
時代が何千年も違っても、
私達は生きる戦いの苦しみや喜怒哀楽を同じく共有している。


  イエスは
  「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
                              (ルカ4;21)
  と言われました。
  すべての聖書の言葉はあなたのうちに実現する可能性を秘めているのです、
  もしあなたにそれを聴く耳があれば。
  祈りとは、あなたのうちに実現しようとしている神のことばを、
  自分の全身全霊
  (つまり自分の過去と未来、現在の喜びと悩み、周りの人々の関係すべて)で、
  聴くことです。
                                (本文より)
    

  福音書の中で起こったことを、
  今ここで起こっているつもりで読みなさい。
  主イエス・キリストを通じて語られ、
  なされたことに、全身全霊をこめてあずかりなさい。
  ・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
  自分の目で見ているかのように味わいなさい。
                サクソニーのルドルフ
  

  福音書を読むたびごとに、
  キリストおん自らがあなたに語りかけておられる。
  あなたは読みながらキリストに向かって祈り、
  話しかけている。
                ザドンスクのティコン


           『祈りの泉 365のことば』
            (ジーン・ヒントン編著 光原百合訳
                     1998年女子パウロ会より)


  まず聖書の箇所をゆっくりと読みます。
  その中で何か心に響いてくる箇所、ことば、態度があるでしょうか。
  意味がよく分からないところはあまり考え込む必要はありません。
  自分の生活と照らしながら何か材料を拾ってみます。
  そして、沈黙で目をつぶり、十五分ほど黙想します。
  そのとき、自分が登場人物になったつもりで、
  その場面を想像して、気持ちを味わいます。
  またことばの意味について思いめぐらしてみます。
  大切なのは、
  今ここで自分に必要な真理、心の底で納得する真理を味わうことです。
                             (本文より)


私はこれまでに聖書を何度読んだだろうか。
確かに、たくさんの示唆を与えられ、
共感し、考え込んだり、発見したりして、
与えられたものは随分たくさん、ノートやファイルに納め切れず
整理するだけでも骨が折れるほど、たくさん与えられてきた。


小学生の時、
英語教室に通っていた近所の教会の玄関の左脇に
聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに
小学生だった自分が隠れて物陰で盗み見たほどの執着心は、
一体何処から来たものだったのか、今もわからない。
英語教室の先生をしていた青年が私に言った。
「聖書あげようか。
 小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
今、何十年も経って、私は自分で聖書を読んでいる。
これも神が与えて下さったものに違いない。
私は自分で聖書を開き、
登場人物に共感し、喜怒哀楽を共有しようとする。
福音書の時代の人々の目を通して、主イエスの姿を追い、
後ろ姿を捉えようとしている。


聖書の中で特に好きな箇所は。


 ヨハネ。
 イエスの横顔が見えるような気がする。


その特に好きな箇所をもう一度今黙想し、何か新しい発見は。


 ヨハネ21;5~14
 魚焼くイエス。
 魚を焼いて弟子達に朝飯を用意するイエス。


自分がチャレンジされている、
呼びかけられていると思う聖書の箇所があるか。


 エゼキエル16;6、18;23、18;32
 「生きよ」

尊厳(ヘブライ12;1)

2008-04-15 13:22:21 | ヘブライ
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競争を
忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ12;1)


しばらく前に
危篤状態だった5人の方々のうち、
3人はそれぞれこの世の人生を完走して
天に帰られた。


残る2人のうち1人は危篤状態を脱出し、
いつもの日常に帰って来た。


最後の1人は。


その方は今現在最も苦しい状態にあって
私はその苦しみの顔を見て
自分だったらこんなに何日も耐えられないと思う。


苦しいと思うよ。
一言で老衰とか言われるけど
本当に苦しそうだ。
心臓が空っぽのポンプになって
全速で走り続けている。
もう何日も。
肺は穴だらけの紙風船になって
息を吸っても吸っても吸えない。
全身のあちこちに水が溜まって
熟れ過ぎた柿のように皮膚が透けてきている。
そんな皮膚も肉も
少し動いただけでみしみし鳴るように痛む。
意識がしっかりしていて目も開いてるけど
眼球がもう乾いてきている。


まだ生きてるのに
こんなに生きてるのに
生きたまま
魚のように目が乾いてしまう。


でも
濡らしたガーゼで目が乾かないように覆ったら
それが嫌なんだね。
どんな光景でもいいから
この世を見ていたいのかな。
視界に何も見えなくなるのが我慢ならないのかな。
素早く手で払い除けてた。
ガーゼも酸素マスクも。
何度も払い除けてたね。


鼻と口と喉がカピカピに乾燥する。
気道に溜まった痰が乾いて
噛んだ後のガムみたいにねっとりこびり付いて
チューブで吸ってもすぐには取れない。


すっと何か話してた。
何話してるのかと思って顔を近づけたら


しぬ、しぬ、
くるしい、
しんじまう、
たすけて、
しにたくない、
しにたくない、


そう言ってた。
昨夜私は、
一晩中この言葉を聞いてた。
一晩中。
でも本当は
私の夜勤の前の日も、
その前の日も、
その前の前の日も、
ずっと言ってたんだね。
酸素マスクの下で。
そうだ。
死にたくないんだ。


そっか。
がんばろう。
ひと息、ひと息、がんばろう。
がんばれ。
がんばるんだよ。


そう言いながら鼻からチューブを差し込んで
気管に通して喀痰吸引する私が
きっと鬼か悪魔に見えただろう。
苦しいだろうな。
水一滴でさえ気管に吸い込んで誤嚥し咳き込んだ時の
あの苦しさ。
その苦しい場所に管なんか差し込んで
痰を吸い上げる。
きっと
そのがんばっている乾いた目には
私が鬼か悪魔に見えただろう。


しぬ、しぬ、
くるしい、
しんじまう、
たすけて、
しにたくない、
しにたくない、


丑三つ時を過ぎた時、
マスクを引っ張る手の動きが鈍くなり
呼吸がしゃっくりのように変わり、
目が半開きのまま動かなくなって、
苦悶で顰めていた顔の表情筋が緩んだ。
この世で最後の時を
がんばって完走する人が表す、
あの顔に変わった。


一瞬、思った。
十字架の主イエス・キリストも
この苦しみを味わわれた。
この同じ苦しみを。


思い出した。
無くした黙想の手帳に書き留めた、
あの言葉。


 「生きることが
  死ぬことよりも辛く苦しい日々を、
  ひたすら生きつづけた人達こそ、
  人間として
  尊厳の中で死ぬことができる。」
   (寺本松野著『きょう一日を』日本看護協会出版会)


心臓の走りが歩を緩やかに伸ばし始め、
呼吸は顎だけで辛うじてしていた。
私の夜勤はそこで時間切れになった。


私の倍もの年月を生き抜いて
輝かしい尊厳の中で
地上の最後の日々を完走しようとする人。


ありがとう。
どうもありがとう。

大ショック・・・(ヘブライ11;13~14)

2007-10-31 06:08:34 | ヘブライ
牧師先生からの資料に
来月の賛美歌の解説の原稿が入ってない。
入れ忘れたんだなきっと。
牧師先生は超多忙であるよ。
早急に
朝一で連絡してメール貰わなきゃ・・・


と思ったら、
あ゛っ
携帯チェックしてなかった!


・・・・・かっ固まった。。。


電動鉛筆削りの写真なんか
撮ってる場合ではなかった。
富良野の牧師先生が一昨日の夜に急逝されたと。
うちの教会の牧師先生は
葬儀の説教をする為に今朝から富良野行き。


ショックだ・・・


好きだったなあ。
あの牧師先生。
頑固一徹キリスト一筋で
しかも冗談好きな楽しいお方だったであるよ。
お年ではあったけど突然の事で
教会は大変だろうな。


富良野のメノナイト教会のために祈ろう。

ヘブライ人への手紙読了

2007-03-09 00:19:00 | ヘブライ
マタイに表現された新しい契約の中身。
それを
当時のユダヤ人キリスト者達は
どう受け止めたのだろう。

彼らから見れば
かつては救いの圏外にいた筈の私達異邦人。
異邦人には想像出来ない葛藤が、
彼らにはある。

しかし
私達は誰も皆、
この世では仮住居の寄留者。

脚が痛い(ヘブライ12;5~7)

2007-02-17 20:53:00 | ヘブライ
いろいろな問題を四苦八苦して乗り越えて、
やっと落ち着きを取り戻すと、
再びこんな風に生活を打ち壊される。
繰り返される。
その度に試練だとか訓練だとかご計画だとか
霊的成長のためだとか
神様がもっと
大きな恵みを下さろうとしてるとか
聖書にも黙想の本にも書いてあり
信仰者や霊的指導者達も
そのように言う。
そしてそれは正しく、
神の御心に叶っている。
自分にそう言い聞かせてきた。


霊的成長も
もっと大きな恵みも
もういい。
神の御手は
生まれた事と生かされている事を
喜ぶ人のためのもの。

へこむんじゃないよ(ヘブライ13;5)

2006-07-03 11:56:23 | ヘブライ
洗礼の直後、私は転職した。
祝福された感激の余韻が残る、
教会が自分にとって一番居心地良く楽しい時が、
試行錯誤の始まりだった。
洗礼式の翌日、臨職の仕事が日曜完全出勤に変わった。
私は後も先も顧みず仕事を辞めてしまった。
向こう見ずな私を知人が心配してくれて、
病院に派遣される看護助手という職業の存在を教えてくれた。

「福利厚生がないからずっと働く事は薦めないけど、
 次の職が決まるまでつなぎとして
 食べて行くくらいの収入にはなるよ。」

私は高齢者ばかりの病院に派遣された。
それまで冷暖房完備、汚物に近寄った事すらなく
安穏と暮らしていた私には、
初めて踏み込んだ老人医療の現場は戦場だった。
人体の様々な所から発生する異臭、
尿、便、吐物、血液、膿。
てきぱきと動き回る他の看護助手達の中で、
私はもたもたと動きが鈍かった。
作業の優先順位が判断出来ていない、
適切な体位や手順が覚えられない、
足手纏いだと怒鳴られ続けた。
誰かが常に私の一挙手一投足を見ていて語気荒く叱責する。


「早くよくなって家に帰るんだよ。皆待ってるからね。」
萎縮し、挫折感を腹に隠しながら
私は言葉で患者さんを慰めようとした。
年寄りが退院して家に戻って来るなど誰も願っていない。
帰宅されては世話が大変だし
最後まで病院にいて貰いたいと家族が願っている。
本人も私もそれを知っていたにも関わらず、
私は毎日口先だけで励まし続けた。
自分のする事なす事全てに自信喪失。
状態の良くない患者さんの部屋を受け持つ夜勤は
身の凍る思いだった。
「私の受け持つ病室の誰かが今夜死ぬかも知れない」
仮眠の時うとうと眠りそうになると、
不意に患者さんの寝息が聞こえなくなった・・・気がして、
「呼吸が止まった!」かと飛び起きた。
自宅で寝ていても、深夜11時、午前3時、5時には
「誰かの呼吸が止まっている!」ような気がして、
何度も飛び起きた。


ある日、私は壊疽の患者さんの処置を手伝った。
その人は重い糖尿病が進行していた。
最初は左足首を切断し、創部が化膿し壊死して大腿を切断し、
さらに創部が開いて化膿し始めたため、
股関節から大腿の付け根ごと切断していた。
今度はその創部がさらに化膿してきて、
もう切り落とせる部分も残っていない。
何度縫合し直してもがばっと口を開く傷口の両側に、
Yシャツと同じ白ボタンが一列ずつ縫い付けられていた。
ボタンを直接皮膚に縫い付け、
タコ糸で肉と肉とを引き寄せる。
スニーカーの紐を締めるのと同じやり方だ。
しかし弱くなった皮膚は弱く、
引き寄せようとする糸の力に負けた。
私の目の前でびちっと肉がちぎれてボタンが飛んだ。
局所麻酔が効かず暴れる人を、満身の力を込めて押さえた時、
私の鼻先10センチには化膿した傷口から臓器がはみ出ていた。
股関節から大腿を取り外した跡が、
外陰、鼠径から腸骨、臀部まで大きく斜めに
裂けて口を開き、黄色い膿が溜まっていた。
生身の人間の肉の腐った臭いを嗅ぎながら、
私は初めて自分から主に祈った。
自発的な最初の祈りだった。
祈ろうなどと意識したわけでもなく、
ものを考える余裕はなかった。
麻酔が切れ始めても
針と糸で縫い続けられている人体の痛みを思うと、
腕から力が抜けそうだった。
激痛で暴れる人をじっと押さえつけながら
処置が終わるのを待つ間、
祈る事の他に私に出来る事は何もなかった。
主が聞いて下さるかどうかなど考えもしなかった。
しかし主の他に訴える相手は誰もいなかった。


深夜その人のベッドの下で仮眠をとる時、
私は一冊の聖書を持ち込んだ。
ギデオン協会が病院伝道のために配布した白い新約聖書だ。
ダンボールに入ったまま封も切らずに捨てられていたのを
持ち帰った中の一冊。
消灯後の暗闇の中、
緑色の非常灯を頼りにヘブル書を開いた。

『わたしは決してあなたを離れず、
 あなたを捨てない』(ヘブル13;5)

耳元でそう囁かれた気がした。
その時まで
これほど神を身近に暖かく感じた事はなかった。
今まで自分が気づかなかっただけだ。
主が隣にいて下さる。
今でずっと一緒に歩いていて下さった。


洗礼受けた2か月めか。
最初の外科体験で、壊疽初対面か。
時間だけはずいぶん経ってるけど、
進歩とか成長とかしてるんだろうか。
今の自分だったら患者さんを暴れさせないように、
可能な限りの良肢位を確保して安楽な体位をとって
医師に創部が見やすい角度で冷静にキープするだろう。
患者さんの不安や恐怖を少しでも取り除くために
思いつく限りの言葉をかけるだろう。
自分がびびってどうする。
あの人が暴れてたのは
押さえ方に無理があって、
不安定な姿勢が苦しかったからだ。
他人の腐った傷口が気持ち悪い、臭い、痛そう、
とかいって
局所麻酔が効かない痛みがどれほどのものか
縫合針が皮膚を貫く痛みがどれほどのものか
生きたまま身体が腐っていく苦しみがどれほどのものか
考えてたか?
他人の痛みに鈍いからへこむんだ。
自分の事ばかり考えてるからへこむんだ。
へこんでる場合じゃないんだよ。
へこむんじゃないよ。
こんなことぐらいで。