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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

自問自答(コリントⅠ8;2~3)

2008-09-29 14:35:13 | コリントⅠ、Ⅱ
自分は何か知っていると思う人がいたら、
その人は、
知らねばならぬことをまだ知らないのです。
しかし、
神を愛する人がいれば、
その人は神に知られているのです。(コリントⅠ8;2~3)


神について


主イエス・キリストについて


聖霊について


聖書の一字一句について


教会について


自分なりの解釈、
自分なりの理解に満足していないか?

教会仲間の証し(コリントⅡ4;18)

2008-04-27 13:18:29 | コリントⅠ、Ⅱ
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、
見えないものは永遠に存続するからです。
                  (コリントⅡ4;18)


じじと初めて一緒に聖餐式に参加した先週の日曜日、
実は、
朝、一歩礼拝堂に入って着席するなり
驚き、胸が熱くなった。


入り口の受付で一枚受け取った月報の裏面に
教会仲間の信仰の証しが載っている。
私はそれを読むうちに目が潤んできた。


私達人間の悩みの大半は人間関係の悩みだ。
しかし中でも親子の間の人間関係は
良くも悪くも簡単に割り切れない複雑なものだ。
現にそのために
じじはじじの親について葛藤し
私は私の親について葛藤して
長い間随分と悩んだり苦しんで来た。
お互いに。


じじと私とが今のような恵みに与り、
一緒に教会に集い共に聖餐に与り、
一緒の食卓に着いて共に福音書を開いて分かち合う、
そんな幸せを頂くなど
全く想像出来ない時期が確かにあった。
じじも私も、
それぞれ子供の頃の家庭、家族の記憶は苦々しいものだ。
一朝一夕で喜びを共にする家族になった訳ではない。
だからこそ、
その精神的氷河期同然だった時代の心象を
私が自分のブログに吐露すると
同様の問題を抱える読者から共感と分かち合いの
応答を頂いたりもした。


その教会仲間も私と同様に
自分の親に対して許せない思いとわだかまりを持って
葛藤して来たという。
私の入院中にも訪ねてくれて、
少しその話を聞いた覚えがある。
その事が月報の裏面に書かれている。
そして昨年のクリスマスの夜の礼拝に
思い切って自分の父親を誘ってみたが断られたと。
父親が教会に来る切っ掛けを模索して
勇気を出して誘ってみたが、
その人の父は
人の大勢集まる場所に行きたくないという。


無理もない事だ。
別の教会仲間も同じ事で悩んでいる。
うちのじじも一時期陥った、
高齢者特有の"人前に出るのが億劫"な精神的落ち込み。
じじがこれを克服するために
どれほどの時間と手間隙と
周囲の協力が必要だった事か。
じじで言うなら
行きつけの珈琲店の店主夫妻、
ケアマネージャー、
ホームヘルパー、
デイケアの職員と利用者仲間達、
じじの旧友達、
牧師先生夫妻、教会の仲間達、
教会行きで利用するタクシーの運転手達、
配食サービスの配達員に至るまで、
あらゆる人々の関わりによって
引き籠り高齢者特有の"人前に出るのが億劫"を
じじは辛うじて克服してきた。


まして子供の頃に
あまりいい思い出のない親子関係ならば
まず親に近寄るだけでも葛藤が起こる。
私はこの教会仲間の苦心と努力を思う。
本当によくやったと思う。
よく勇気を出して声をかけたと思う。
よく話しかけた、
自分の親に自分の口で、
クリスマスに教会に行かないかと。
それだけでも凄い事だ。
どんな反応が返って来てもいいではないか。
断られてもいいではないか。
突っ撥ねられてもいいではないか。


そして、この教会仲間が
一つの壁を乗り越えた時に
今まで私達の目に隠されていた事が明らかになった。


読んでびっくりした。
この教会仲間の父は、
高校生だった頃に教会に通っていた事があった。
既にキリストに出会っていたのだ。
それも、
市の反対側にあった私達の同じ教派の古い教会に。
その教会は数年前に今の私達の教会と合併したが
その教会仲間の父は
私達の教派の指導者の名前を言い、
教会で知り合った人に影響を受けた事、
教会に集まった仲間達とクリスマス会を開くなど
今も教会に思い出を残していた。


牧師先生がその話を聞いて早速訪ね、
懐かしい思い出を分かち合い、語り合ったという。
こんな所に
牧師先生と若き日の思い出を共有する人がいたとは。
教会仲間は電話で祝福の言葉を受けた。
牧師先生から自分の子供が一昨年受洗した事を聞いて、
喜んで電話をくれたのだ。


「おめでとう。
 洗礼の話を聞いてとても嬉しかった。」


私はこれを読んで泣けてきた。
毎月の月報に掲載される教会の仲間達の証しを読んで
よく胸がジーンとなる事があるが
今回は本当に泣いた。


私からもおめでとう。
親子が
共に聖餐の食卓に着き、
共に聖餐のパンと杯の受け渡しをする、
その日が来るように
心から祈ります。

じじ、初の聖餐式

2008-04-20 22:58:01 | コリントⅠ、Ⅱ
主イエスは、渡される夜、
パンを取り、
感謝の祈りをささげて
それを裂き、
「これは、
 あなたがたのためのわたしの体である。
 わたしの記念としてこのように行いなさい。」
と言われました。
また、食事の後で、
杯も同じようにして、
「この杯は、わたしの血によって立てられる
 新しい契約である。
 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」
と言われました。
だから、あなたがたは、
このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られる時まで、
主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;23~26)


日曜日、
しじは受洗後初めて聖餐に与った。
前日、
聖餐式の予行練習をしていて良かった。
下手にまごついたりすると
それが気位の高い年寄りのプライドを傷つけるので
前夜に散々予行練習をして、
じじに聖餐のパンと杯を渡す位置には私が着席し、
じじから聖餐を受ける位置には
友達が座ってくれた。
じじに自己紹介してくれて、ありがたい。
じじは友達の名前を覚えた。


聖餐式が始まって、
私からじじに分餐の言葉を告げて
パンの銀盆を渡すと、
じじは予行演習の通りに
パンを一切れ取って
反対側にいる友達の名前を呼び、
分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;-"-)・・・・


「○○さん、
 これは、
 あなたのために裂かれたキリストの体です。」


・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・・・


次に杯。
私は分餐の言葉を告げて
小さな杯を乗せた銀盆をじじに渡した。


あああ杯が。
盆を落とさないように
揺らしてこぼさないように
じじは受け渡しするのに精一杯だ。
大丈夫かじじ。
じじは自分の杯を一つ取って
隣に座っている友達に分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;="=)・・・・


「○○さん、
 この杯は、
 キリストの血による新しい契約です。」


・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・(;*。*)=3・・・・


じじが分餐の言葉を噛まずに言い終わり、
無事に隣に座る友達に受け渡し出来た時、
私の横でヘルパーさんがほっと胸を撫で下ろした。
ヘルパーさんは信者ではないが
じじの斜め後ろに座って
出来ないところがあれば介助しようと待機していた。
信者でないのにはらはらしながら
じじの聖餐式参加を見守っていてくれた。


もしここで何か失敗したら
私や教会員にとっては何でもない事であっても
じじには精神的なダメージになると
ヘルパーさんは考えたらしい。
プロ意識の強い人だ。
信者でないからと遠巻きにしてもよいところを
あえてじじの傍について見守り、
月一回の聖餐式の時にどんな介助がいるか、
ケア全体の時間配分や介助の要るタイミングを
配慮してくれている。


これからは
私がいてもいなくても、
毎月1回、
じじはこうして聖餐に与る事が出来る。
皆のおかげだ。
皆に支えられて、
じじはこうして聖餐に与る事が出来た。


聖餐式が始まる前、牧師先生が言っていた。


「親子で聖餐式に与る、
 僕もそれをしたかったけど
 母が寝たきりになって
 今ではもうそれも叶わなくなりました。」


そう。
出来るだけの事をしなければ。
出来るうちに。


じじの隣に座ってくれて
じじから聖餐のパンと杯を受けてくれた友達も
父親を教会に連れてきた事があった。
じじがこうして教会に定着した事を
一緒に喜んでくれた。


祈ろう。
お互いの親のために。
お互いの親を兄弟姉妹として
教会に迎え入れるため、
必要な働きを捧げる事が出来るように
お互いのために祈ろう。

2008年復活の主日(コリントⅠ15;19~20)

2008-03-23 10:29:00 | コリントⅠ、Ⅱ
この世の生活で
キリストに望みをかけているだけだとすれば、
わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、
キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初穂となられました。
死が一人の人によって来たのだから、
死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、
アダムによって
すべての人が死ぬことになったように、
キリストによって
すべての人が生かされることになるのです。
                 (コリントⅠ15;19~20)


晴れ上がった。
風が強くて、
どんよりした雲を何処かに吹き飛ばしたらしい。

花火(コリントⅡ5;18)

2007-09-15 01:07:08 | コリントⅠ、Ⅱ
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、
見えないものは永遠に存続するからです。(コリントⅡ5;18)


うちの近所の河川敷で毎年行なわれる
花火大会、
今年は8月16日の予定が雨で
1日順延されて
17日に夜勤だった私はぶうぶう文句を言った。
4月に買ったばかりの携帯で
ばっちり撮ろうと思っていたので。


しかし何でもそうだけど、
順延された花火大会と夜勤がぶつかった事も
神様のご計画だったのだろうか。
今日、しみじみそう思った。
今更だけど。


高齢になると、
毎年恒例の花火大会も
来年には見る事が出来るかどうか、
本人も家族も
今年が最後、
この世で見納めの花火になるかも知れないという思いを
抱いている。


私は去年もそう思って
河川敷の方角の窓に向かって椅子を置いて父を座らせ
お盆に煎茶と和菓子を乗せた。
父は煎茶を啜りながら花火を楽しんだ。


結局8月17日の夜、
父は自宅の窓から一人で今年の花火を眺めたらしい。
夜の担当のヘルパーに
できれば時間があったら
一緒に花火を付き合ってやってほしいと頼んだが
ヘルパーには次の訪問先があって出来なかったという。


私はぶつぶつ文句言いながら恨めしく夜勤入りした。
日が落ちて
遠くで打ち上げ花火の音が響いた。
建物の構造上たまたま
窓から遠くに上がる花火が見える個室があった。
家族が花火を見せてやりたいと私に言ってきた。


「見られるうちに、
 花火を見てわかるうちに
 見せてやりたいんです。
 ベッドを動かして貰えないでしょうか。」


その人は父と同年代で花火が大好きだった。
ベッドの位置を少しずらして
窓の高さまで起こして見えるようにすると
歓声を上げた。


「わあ、
 あがったあがった!
 いいなあ、花火は!」


最近急激に体力落ちてきて
病状思わしくなかったその方の
嬉しそうな顔を見て私は思った。
この方には来年の花火大会ってあるんだろうか。


今日、
その方をより重患の多い別の病棟に送った。
意識が落ちて
呼吸が今にも止まりそうなその方の真っ白な顔。
あの日、
わかるうちに花火を見せてやりたいと願った家族。


自分はあの晩夜勤でよかった。
あの方にとってもう来年の花火大会はないだろう。
8月17日の花火が
おそらくこの世で見た最後の花火。


あの8月17日の夜、
私はあの方の家族と同じ思いを共有していた。


花火を見る事が出来てよかった。
主なる神はきっと
あの方を喜ばせたかったに違いない。
あの方を喜ばせて
子供のような歓声を
上げさせたかったに違いない。
花火を見る事が出来てよかった。


ああ、
あれもこれも全部ご計画だったのだと
今更にして思った。

聖餐式(コリントⅠ11;23~26)

2007-06-10 19:09:00 | コリントⅠ、Ⅱ
今日、礼拝の後は
午後から聖餐式だった。


毎度の事ながら
聖餐式は緊張する。
とにかく緊張する。


私達の教会で行なう聖餐式は
数年前から宣教師の助言を受けて
今の方式に変わった。


以前は
牧師が式の進行役をして
聖餐のパンと杯の葡萄汁は
係りの教会員が銀の盆に乗せて礼拝堂を回り、
一人一人に渡していくか
或いは銀の盆に乗せたまま
順次隣から隣へと手渡す方法だった。
私が洗礼を受けた札幌の母教会も
同じ手順で行なっていた。


数年前、
牧師夫妻が長期の休暇で不在になった時に
留守中のフォローに来てくれた宣教師が
今の方法を提案した。
それを皆で検討し、
聖餐の意味を理解し実感しやすい、
万人祭司の考え方に適っている、
などの理由で
皆の意見が一致して採用した。


実際、
今の手順で聖餐に与るようになって以来、
イエス・キリストがこの私のために
十字架で苦しみを受け
血を流されたという
思いがより鮮烈に脳裏に湧いてきて
緊張する。


牧師先生が帰国した後に
話し合って
本格的に私達の教会の聖餐式として
実行していく事になった。


以来、
何年経っただろう。
している事はそれ以前と同じなのに
形式や手順が一部違うだけなのに
聖餐式は
『自分のために十字架で血を流されたキリスト』の
贖いを実感させられる、
厳粛で緊張感に満ちた典礼へと
自分の中で変わってきた。
そう感じるのは私だけではない。
今日、礼拝の後にその話を教会の仲間達としたら
同じ事を感じると皆口々に言っていた。
緊張する。
とにかく緊張する。
隣の人から『分餐の言葉』を告げられ
自分も口に出して次の人に『分餐の言葉』を告げる、
この上なく厳粛な数秒。


私達の行なっている聖餐式の式次第。


全員が着席する。
(私達の場合、牧師先生が進行役を務める。)


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌)


牧師(進行役)、祈りを捧げる。


聖書を朗読する。
(大抵はコリントⅠ11;23~26か福音書の最後の晩餐の箇所。)


主イエスは、渡される夜、
パンを取り、
感謝の祈りをささげて
それを裂き、
「これは、
 あなたがたのためのわたしの体である。
 わたしの記念としてこのように行いなさい。」
と言われました。
また、食事の後で、
杯も同じようにして、
「この杯は、わたしの血によって立てられる
 新しい契約である。
 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」
と言われました。
だから、あなたがたは、
このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られる時まで、
主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;23~26)


牧師(進行役)が
銀盆のパンを人数分に裂き、
盆ごと隣の人に渡し、
自分の分を取らずに分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分のパン一切れを取り、
同じく分餐の言葉を告げて隣の人に渡す。
盆を渡された人は自分の一切れを取り、
同じように分餐の言葉を告げて
隣の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで
「○○○○さん、・・これは・・・」と呼び、
分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


感謝して、
一同、パンを食べる。


次に、
牧師(進行役)が
銀盆に杯を人数分乗せて
盆ごと隣の席の人に渡し、
分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分の分の杯を一つ取り、
次の人に同じく分餐の言葉を告げて渡す。
盆を渡された人は自分の杯を一つ取り、
同じように分餐の言葉を告げて
次の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで「○○○○さん」と呼び、
「・・この杯は・・・」と分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


感謝して、
一同、葡萄汁を飲む。


牧師(進行役)は
教会員の一人または数人を指名し、
指名された人は聖餐感謝の祈りを捧げる。


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌)


黙祷。


以上が
私達の教会で行なっている聖餐式。


聖餐式をこの手順にして以来私は、
パンと杯とを手にする時、
ドキドキしてやたらと緊張する。
分餐の言葉を告げる時に
どもったり舌を噛みそうになる。
厳粛で身の引き締まる思いがする。
そんな話を
今日仲間達と分かち合った。
この緊張感もドキドキも
私達は同じく分かち合っている。


私達はお互いに
他者に奉仕する責任を担っている。
『万人祭司』とはそういう意味だという。
そして
食べる時、飲む時、
自分のために
裂かれたキリストの体と
流されたキリストの血に
思いを馳せて
日々の生活を生きる。


写真.同じく聖餐の杯。
   飲んだ後のを撮ってたら
   食器洗いしていた教会仲間が
   「せっかく写真撮るなら」と言って
   中身の入ったのを渡してくれた。


   うちの教会の裏話だが
   聖餐の葡萄汁は
   牧師夫人が葡萄の実を絞ったもの。
   大事に取って保存している。


今日、
聖餐式で歌った賛美歌の歌詞に
しみじみ。


  主の糧 共に食し
  杯 共に受けて、
  わが心 潔められ
  深き罪 贖わる

  
  わが罪、わが思いを
  潔めし 主の血潮よ
  主の正義 身に纏い
  恐れなく 進み行かん
   (賛美歌78番『賛美歌21』日本基督教団出版局より)

コリントの信徒への手紙二読了

2007-03-16 20:29:00 | コリントⅠ、Ⅱ
早くも偽使徒が現れて
教えを都合よく歪め始めた。
教会に危機が起こっている。
パウロ達は外には迫害、
内には異端と、
戦わねばならなかった。
苦しい戦いだったろう。パウロ。

『行け。あの者は、
異邦人や王たち、またイスラエルの子らに
私の名を伝えるために、
わたしが選んだ器である。
私の名のために
どんなに苦しまなくてはならないかを、
わたしは彼に示そう。』
    (使徒9;15,16)
パウロは本当にキリストのために
悩み苦しみながら教会を育てた。
使徒言行録で主が言われた事は
こんな形で実現している。

教会の婦人たち

2007-03-16 18:43:00 | コリントⅠ、Ⅱ
『婦人たちは、教会では黙っていなさい。』
  (コリント一14;34)
パウロのこの言葉、
女性差別に聞こえるか?
私個人の見方だけど
コリントの教会の
おっかちゃん連中のけたたましさは
半端じゃなかったのではないか?
ただでさえキリスト教徒は女が多くて
めいめいが餌場のスズメみたいにわいわいと
噛み合ってるのか噛み合ってないのか不明な
マシンガントークで
祈りもへったくれも
なかったのではないか?
だってどこの教会でも
婦人会ほどパワフルな人々はいないでしょ。
女の長生きの秘訣、生きる原動力だよ。
お喋りは。