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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

自分の中の子供(ガラテヤ5;16~18)

2007-10-15 13:56:09 | ガラテヤ
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


今回の放送の中で一番印象深かったのは
ガラテヤ5;17から始まる"十字架につけてしまう"の話だった。


  十字架につけてしまう。
  十字架につけて自由に、神様と共に生きる。


  キリスト・イエスのものとなった人達は
  ”肉”(=神から離れる生き方)を
  欲望、欲情もろとも十字架につけてしまった。


自分は?
十字架につけてしまったかどうか。


  自分を縛るもの、
  自分がとらわれているものを
  十字架に磔けにしてしまった事をイメージする。


  自分が実際に欲望とか苦しみを
  十字架につけてしまった、
  葬り去ってしまった、
  二度とそれとは会わない、それはもうないものとして
  霊の導きに従って生きていく決心をする。


  十字架に架けるという事はただ捨てる事だけではない。
  そこからもっと大切なものが復活してくる。
  新たな恵みや生きる力を与えられる。


  英神父様は、
  ご自分がこの事を黙想していて
  自分自身のある姿に気づいたという。


  小さな男の子を連れた自分がチャンバラをして戦っている。
  子連れ狼の自分。
  その男の子は自分の中の子供。
  子供の時に傷を負った弱い自分である。
  その子供を
  死なせないために抱えながら戦っている自分に気づいた。
  しかし、
  自分の連れている子供を見たら既に死んでいた。
  死んでしまった子供の時の自分を葬って
  土を被せてお墓に入れた。
  その土から木が生えて
  実のなる大きな木が出て来た。
  たくさん実がなって、
  神父様はそれを創世記に登場する生命の木だと思った。


びっくりした。
私とは似ていて全く反対だったから。
自分のブログ『ぱんくず日記』を書き始めたのが
この放送を聴く1年前だった。


1年前私は
文章に書く事で自分の中の子供を磔にしようとしていた。
自分の中の5歳くらいの『子供』を殺そうと思って。
しかし
この子供は攻撃的な怨念の塊でなかなか死んでくれなかった。
死んだと思っても
日常のちょっとした出来事によって
すぐ生き返って毒を吐き、怨みつらみをぶちまける。


この子供は、
私が最初にイエス・キリストと出合った時の自分。
この子供が今現在の自分を乗っ取ろうとした事は
過去に何度もあって
自分も周囲の人々もこの子供によって随分傷ついた。


それでもこの子供が私を支配する事は出来ない。
キリストがこの子供の首根っこをしっかりつかんでいるから。
私はこの子供をはりつけにして殺そうとしたが
今まだ死んでいない。
キリストがこの子供をつかんでいるので
私はこの子供を殺す事が出来ないでいる。


自分の中の子供が死なないので
正直、疲れてきた。
じゃあ自分の方が死ねばいいのだと気がついた。


空や海や樹木など
主なる神がお造りになったこの地上を
ここしばらく眺めて、
眺め続けている間ずっと、
私はこの事を考えていた。


英神父様はご自分の内なる子供を
助けようとして戦ってこられた、
私は自分の内なる子供を
殺そうとして戦ってきた、
自分の内なる子供を見据えるのは共通するが
中身は全く逆。


自分の内にいる子供についてしばらく考えた。
結論は出ない。


時々私は子供の頭を踏み潰す夢を見たり
そんな妄想に捉われたりする事があった。
私の足の下にプリンスメロンくらいの大きさの、
丸いものの感触を覚えてはっと我に返る。
踏み潰してもセトモノのような粉々にはならない。


最近、
カタツムリの殻かピンポン玉のような丸いものが
足の裏でくしゃっと潰れた気がした。
それは自分の内側の子供の頭だと思った。
でも
頭が潰れているのに
子供はなかなか死に切れないでいる。
どうして死なないのだろう。


この子供、
この頃はあまりいろいろな怨み辛みを
主張しなくなった。
もうじき本当に息の根が止まるのかも知れない。
そうあればいいと思う。


キリストがこの子供をどう思っておられるか
私にはわからないが
悪意と怨念の塊のようなこの子供がおとなしくなってから
キリストと自分との間に大きな距離のような
分厚い垂れ幕のようなものが出来たように感じている。


自分の中の子供は
イエス・キリストと同居している。

自由に生きる(ガラテヤ5;1)

2007-10-15 11:57:52 | ガラテヤ
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


この自由を得させるために、
キリストは
わたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。
奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5;1)


自由に生きる事を大切にする。
私自身にとって
自由に生きる事を妨げるものが何であるか。
私自身の中にある律法、
私自身を縛っているくびき
それが何であるか。


英司祭の放送から書き取って
しばらく考え込んだ。
私自身の事を言っていると思った。


  神を信じていながら
  自分の中にある律法から解放されていない。
  既に自由になっているにも関わらず、
  昔の状態に戻ってしまいそうになる。

  ・・・

  深いところで自分を縛っているものは何か。
  とらわれ、執着、子供の頃の傷、
  呪いの言葉、律法、くびき・・・

  「皆と同じくしなければならない」
  「失敗をしてはならない」
  「100点(完璧)を取らなければならない」
  「自分には価値がない、自分はダメな人間だ」
  「自分は愛される資格がない、誰からも愛されない」


  神の前に自分を置いて振り返る。
  自分を自由にする。


  自分が完璧だから神様が愛して下さる訳ではない。
  うまく出来なくても神様は愛して下さる。
  私達の呪いを解いて
  自由にして下さるのはイエス・キリスト。
  そのイエス・キリストを信じましょう。


この世にあって、
私は実のならない枝だと自分を思う。
だから
この放送を聴いた時と同じく
ミニ絵本の最後のページにあった一文を見た時にも
考え込んだ。


  「神は、
   実り豊かな人生を愛されるように、
   何の実も結ばなかった人生をも
   お愛しになる。」
       (文/アントニー・デ・メロ『心の歌』
             女子パウロ会1988年より)


今も考え込んだままだ。

ガラテヤの信徒への手紙読了

2007-03-16 22:43:00 | ガラテヤ
コリントの偽使徒達は
本来とは異なるイエスを宣べ伝えた。
ガラテヤでは
ユダヤ人信徒が異邦人信徒に割礼を強要し、
ペテロ達は彼らに妥協的な態度をとった。
最初からイエスと行動を共にしてきた、
ペテロや他の使徒達に比べて
かつては迫害者だったパウロには
内外に敵がいたのだろうか。
パウロを認めない者もきっといて
批判の的に晒されただろう。
しかしパウロはきっぱりと言い切る。
『割礼の有無は問題ではなく、
 大切なのは、
 新しく創造されることです。』
    (ガラテヤ6;15)
潔い。
かっこいいぞ。パウロ。