聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(マタイ5;3~13 新共同訳)
山上の垂訓。8つの幸い。
イエスは病を癒すと共に説教をしていた。
私達がどのように救われていったらいいのか
言葉を通して表された。
マタイは編集者として天才的だ。
イエスの説教をまとめて編集し、
山上の説教という説教群としている。
英神父様はこの放送の中でこの箇所の8つの幸いを
神の国に向かって救われていく過程と考えていると言う。
囚われている者が解放される、
癒されて神の子となっていく過程。
イエスは群集に向かって語られた。
説教を聞いていたのはどんな人か。
いろいろな病気やあらゆる苦しみに苦しむ人々、
何処に行っても治らない、
見捨てられた病人や罪人達、
金もコネも無くどうする事も出来ない、
心底救いを必要としている人、
イエスの救いが無ければ生きていけない人々。
そんな切羽詰った人々と一緒に、
イエスは座ってこの説教をした。
人生を
幸せに暮らしている人に向かって話しているのではない。
1.心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。(マタイ5;3)
神の御前において砕かれている人々、
金もコネも助けも無く神にすがるしかない人々。
何故幸いか。
他に頼るものが無いから。
他に頼るものが無いので神様だけに頼るしかないから。
神様に頼るしかないから他のものに頼れないから幸いだ。
救いの出発点はここしかあり得ない。
全く行き詰ってイエスに頼るしかない、
自分の力ではどうする事も出来ない、
救いはここから始まる。
例えば
アルコール依存症の立ち直りのプロセスはまさにこれ。
底落ち体験をした人しか依存症からは立ち直れない。
自分は何時でもやめられると思っている人は
決してやめられない。
2.悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
神の前で泣ける人。
自分の罪を本当に心から悔い改められる人。
依存症のど真ん中にいる人は悲しむ事が出来ない。
良心が痛まない、最悪の罪の状態。
しかし、
悟って回復してくると良心が痛み出す。
自分がどれほど皆に迷惑かけたか思い起こして
自分が本当にダメな人間だと悲しめるようになったら
救いは始まっている。
私たちは神の御前で泣くしかない。
自分のダメな事や失敗を、本当に悲しめるかどうか。
自分は自分で何とか出来るとか、
自分をごまかし、まだ自分は良い人間だと
言い逃れをしているうちはまだダメ。
人間は罪から救われてくるから良心が痛む。
神の御前で悲しむならば
神様から慰めを受ける事が出来る。
神様は必ず慰めて下さる。
3.柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
自分、ありのままの小さな自分を
受け入れる事が出来る事が出来るようになると、
人間は柔和になる。
柔和になってやっと地に足を着ける事が出来る。
地を受け継ぐ。
現実の自分を認め、
受け入れてそこから出発する事が出来る。
つまり、
ありのままの自分に戻って現実から出発する事が出来る。
やっと自分の居場所に落ち着いて、
自分の生活の基盤が出来てくると義に飢え渇くようになる。
4.義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
自分が落ち着いて
自分のいるべき所にいたら
神の御旨を行いたい気持ちが沸いて来る。
人間らしい人間として生きていたい、
人を愛したり助け合ったり、人と仲良くしたくなる。
そういう事に飢え渇くようになる。
それまでは酒やいろいろな囚われによって
本当の事に飢え渇く事が出来なかった。
神の御旨、人間として人間らしい生き方への
飢え渇く気持ちが出て来たら人は求め始める。
求めれば
人間として人間らしい生き方をするための
場や出会いが与えられて満たされる。
そうすると人は憐れみ深くなる。
5.憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
義とは何か。愛する事である。
律法を守る事をイエスは一番に置いていない。
神の義は憐れみ深い事、
苦しんでいる人や弱い人に対して憐れみ深い心を起こす事。
人を愛したい、
苦しんでいる人を愛したいという気持ちが自然と湧いて来て、
憐れみ深くなるように私達は方向付けられている。
憐れみ深くなって人を愛すれば愛するほど、
憐れみを受けるようになる。
愛した人は愛しただけ、
憐れみを受けるようになる。
自分が出したものは全部自分に返って来る。
憐れみ深い人ほど憐れみを受ける。
憐れみを受けて、
憐れみ深くなると心が清くなる。
6.心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
心の清さとは何か。
法律を守り真面目な生き方をして心が清くなるか?
あり得ない。
穢れたものに触らないでいて心が清くなるか?
そんな事は絶対にない。
愛以外に心を清めるものは無い。
では心の清さとは?
私達が我(エゴ)を捨てて
本当に純粋な愛を生きる中でこそ心が清められる。
ただ、愛は時に執着に変わり易い。
執着、エゴを捨てた純粋な愛、
愛着を超える心の清さがあってこそ神を見る事が出来る。
7.平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
愛があって心の清い人が平和を実現する人となる。
愛があっても
心の清さが無いから平和平和と言いながら喧嘩する。
口先だけの平和になってしまう。
口先だけではなく、平和を実現する事こそ神の義である。
そして
平和を実現しようとする人は必ず迫害を受ける。
8.義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
全て平和を実現しようとした人は皆、迫害された。
ガンジーも、キング牧師も、マザー・テレサも。
私達は覚悟しなければならない。
良い事をしているからといって
皆から拍手される訳ではない。
(私は思う。
↓ここで英神父様は一番大事な事を言っている。)
"幸い"という言葉は
主観的にも客観的にも受け取ってはならない。
主観的に受け取ってはならない。
幸いとは、幸せな気持ちがする事ではない。
客観的に受け取ってはならない。
幸いとは、他人から見て幸せそうに見える事でもない。
幸いとは、
神様がそれでよしとして下さり、励まして下さる事。
よし、それでいい、その方向で、
今の感じで行ったらいいと神様が励まして下さる。
私達が神の国に向かって進んで行く、
そんな私達を神様が励まし、後押しして下さる。
私達はこの道程を、
行ったり来たり繰り返しながら
だんだんと地の塩になり、世の光となっていく。
(以下、井上の感想。)
凄いなあ。
プロとはいえ、
たった20分足らずでここまで的確に
人の心に入り込む話が出来るなんて。
しかも何てわかり易いのだろう。
福音書をこれほど臨場感を以って語れるなんて。
一度聴いたら忘れない話し方だし、
一度聴いただけでA4の紙に3枚もノート取ってしまった。
考えさせられるなぁ。
自分はこれまで数え切れないほど
この山上の垂訓を読んできたけど
一体私は今まで福音書の何を読んでいたものか。
これまで私の場合、
8つの幸いをただ文字通りに
貧しい人、
悲しむ人、
柔和な人、
義に飢え渇く人、
憐れみ深い人、
心の清い人、
平和を実現する人、
義のために迫害される人、
という特別に幸いな信仰深い8人が
何処か遠くの世界に別々に存在しているかのような
受け留め方をして
「あんたもそうなりなさい」「いいえ絶対無理orz」と
他人事的に一礼してスルーしてきた。
大き過ぎて焦点の合ってない目で見た理想像というか、
遠大な信仰の模範みたいに歪めて受け止めていたから
訳もわからずスルーするしかなかった。
一人の人間が
誰よりも私自身がイエス・キリストに出会って救われた、
まさにその過程を言い表し、
これからどんな方向に進めば良いか
その道程を示している。
だから山上の垂訓と呼ばれているのだろう。
聖書読みの聖書知らずとは恥ずかしい事だけど
まさに私自身の事。
感謝。
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(マタイ5;3~13 新共同訳)
山上の垂訓。8つの幸い。
イエスは病を癒すと共に説教をしていた。
私達がどのように救われていったらいいのか
言葉を通して表された。
マタイは編集者として天才的だ。
イエスの説教をまとめて編集し、
山上の説教という説教群としている。
英神父様はこの放送の中でこの箇所の8つの幸いを
神の国に向かって救われていく過程と考えていると言う。
囚われている者が解放される、
癒されて神の子となっていく過程。
イエスは群集に向かって語られた。
説教を聞いていたのはどんな人か。
いろいろな病気やあらゆる苦しみに苦しむ人々、
何処に行っても治らない、
見捨てられた病人や罪人達、
金もコネも無くどうする事も出来ない、
心底救いを必要としている人、
イエスの救いが無ければ生きていけない人々。
そんな切羽詰った人々と一緒に、
イエスは座ってこの説教をした。
人生を
幸せに暮らしている人に向かって話しているのではない。
1.心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。(マタイ5;3)
神の御前において砕かれている人々、
金もコネも助けも無く神にすがるしかない人々。
何故幸いか。
他に頼るものが無いから。
他に頼るものが無いので神様だけに頼るしかないから。
神様に頼るしかないから他のものに頼れないから幸いだ。
救いの出発点はここしかあり得ない。
全く行き詰ってイエスに頼るしかない、
自分の力ではどうする事も出来ない、
救いはここから始まる。
例えば
アルコール依存症の立ち直りのプロセスはまさにこれ。
底落ち体験をした人しか依存症からは立ち直れない。
自分は何時でもやめられると思っている人は
決してやめられない。
2.悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
神の前で泣ける人。
自分の罪を本当に心から悔い改められる人。
依存症のど真ん中にいる人は悲しむ事が出来ない。
良心が痛まない、最悪の罪の状態。
しかし、
悟って回復してくると良心が痛み出す。
自分がどれほど皆に迷惑かけたか思い起こして
自分が本当にダメな人間だと悲しめるようになったら
救いは始まっている。
私たちは神の御前で泣くしかない。
自分のダメな事や失敗を、本当に悲しめるかどうか。
自分は自分で何とか出来るとか、
自分をごまかし、まだ自分は良い人間だと
言い逃れをしているうちはまだダメ。
人間は罪から救われてくるから良心が痛む。
神の御前で悲しむならば
神様から慰めを受ける事が出来る。
神様は必ず慰めて下さる。
3.柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
自分、ありのままの小さな自分を
受け入れる事が出来る事が出来るようになると、
人間は柔和になる。
柔和になってやっと地に足を着ける事が出来る。
地を受け継ぐ。
現実の自分を認め、
受け入れてそこから出発する事が出来る。
つまり、
ありのままの自分に戻って現実から出発する事が出来る。
やっと自分の居場所に落ち着いて、
自分の生活の基盤が出来てくると義に飢え渇くようになる。
4.義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
自分が落ち着いて
自分のいるべき所にいたら
神の御旨を行いたい気持ちが沸いて来る。
人間らしい人間として生きていたい、
人を愛したり助け合ったり、人と仲良くしたくなる。
そういう事に飢え渇くようになる。
それまでは酒やいろいろな囚われによって
本当の事に飢え渇く事が出来なかった。
神の御旨、人間として人間らしい生き方への
飢え渇く気持ちが出て来たら人は求め始める。
求めれば
人間として人間らしい生き方をするための
場や出会いが与えられて満たされる。
そうすると人は憐れみ深くなる。
5.憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
義とは何か。愛する事である。
律法を守る事をイエスは一番に置いていない。
神の義は憐れみ深い事、
苦しんでいる人や弱い人に対して憐れみ深い心を起こす事。
人を愛したい、
苦しんでいる人を愛したいという気持ちが自然と湧いて来て、
憐れみ深くなるように私達は方向付けられている。
憐れみ深くなって人を愛すれば愛するほど、
憐れみを受けるようになる。
愛した人は愛しただけ、
憐れみを受けるようになる。
自分が出したものは全部自分に返って来る。
憐れみ深い人ほど憐れみを受ける。
憐れみを受けて、
憐れみ深くなると心が清くなる。
6.心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
心の清さとは何か。
法律を守り真面目な生き方をして心が清くなるか?
あり得ない。
穢れたものに触らないでいて心が清くなるか?
そんな事は絶対にない。
愛以外に心を清めるものは無い。
では心の清さとは?
私達が我(エゴ)を捨てて
本当に純粋な愛を生きる中でこそ心が清められる。
ただ、愛は時に執着に変わり易い。
執着、エゴを捨てた純粋な愛、
愛着を超える心の清さがあってこそ神を見る事が出来る。
7.平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
愛があって心の清い人が平和を実現する人となる。
愛があっても
心の清さが無いから平和平和と言いながら喧嘩する。
口先だけの平和になってしまう。
口先だけではなく、平和を実現する事こそ神の義である。
そして
平和を実現しようとする人は必ず迫害を受ける。
8.義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
全て平和を実現しようとした人は皆、迫害された。
ガンジーも、キング牧師も、マザー・テレサも。
私達は覚悟しなければならない。
良い事をしているからといって
皆から拍手される訳ではない。
(私は思う。
↓ここで英神父様は一番大事な事を言っている。)
"幸い"という言葉は
主観的にも客観的にも受け取ってはならない。
主観的に受け取ってはならない。
幸いとは、幸せな気持ちがする事ではない。
客観的に受け取ってはならない。
幸いとは、他人から見て幸せそうに見える事でもない。
幸いとは、
神様がそれでよしとして下さり、励まして下さる事。
よし、それでいい、その方向で、
今の感じで行ったらいいと神様が励まして下さる。
私達が神の国に向かって進んで行く、
そんな私達を神様が励まし、後押しして下さる。
私達はこの道程を、
行ったり来たり繰り返しながら
だんだんと地の塩になり、世の光となっていく。
(以下、井上の感想。)
凄いなあ。
プロとはいえ、
たった20分足らずでここまで的確に
人の心に入り込む話が出来るなんて。
しかも何てわかり易いのだろう。
福音書をこれほど臨場感を以って語れるなんて。
一度聴いたら忘れない話し方だし、
一度聴いただけでA4の紙に3枚もノート取ってしまった。
考えさせられるなぁ。
自分はこれまで数え切れないほど
この山上の垂訓を読んできたけど
一体私は今まで福音書の何を読んでいたものか。
これまで私の場合、
8つの幸いをただ文字通りに
貧しい人、
悲しむ人、
柔和な人、
義に飢え渇く人、
憐れみ深い人、
心の清い人、
平和を実現する人、
義のために迫害される人、
という特別に幸いな信仰深い8人が
何処か遠くの世界に別々に存在しているかのような
受け留め方をして
「あんたもそうなりなさい」「いいえ絶対無理orz」と
他人事的に一礼してスルーしてきた。
大き過ぎて焦点の合ってない目で見た理想像というか、
遠大な信仰の模範みたいに歪めて受け止めていたから
訳もわからずスルーするしかなかった。
一人の人間が
誰よりも私自身がイエス・キリストに出会って救われた、
まさにその過程を言い表し、
これからどんな方向に進めば良いか
その道程を示している。
だから山上の垂訓と呼ばれているのだろう。
聖書読みの聖書知らずとは恥ずかしい事だけど
まさに私自身の事。
感謝。