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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

救いの道程(マタイ5;1~12)

2007-12-15 13:58:04 | 山上の垂訓
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
  その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
  その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
  その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
  その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
            (マタイ5;3~13 新共同訳)


山上の垂訓。8つの幸い。
イエスは病を癒すと共に説教をしていた。
私達がどのように救われていったらいいのか
言葉を通して表された。
マタイは編集者として天才的だ。
イエスの説教をまとめて編集し、
山上の説教という説教群としている。


英神父様はこの放送の中でこの箇所の8つの幸いを
神の国に向かって救われていく過程と考えていると言う。
囚われている者が解放される、
癒されて神の子となっていく過程。


イエスは群集に向かって語られた。
説教を聞いていたのはどんな人か。
いろいろな病気やあらゆる苦しみに苦しむ人々、
何処に行っても治らない、
見捨てられた病人や罪人達、
金もコネも無くどうする事も出来ない、
心底救いを必要としている人、
イエスの救いが無ければ生きていけない人々。
そんな切羽詰った人々と一緒に、
イエスは座ってこの説教をした。


人生を
幸せに暮らしている人に向かって話しているのではない。


1.心の貧しい人々は、幸いである。
    天の国はその人たちのものである。(マタイ5;3)


神の御前において砕かれている人々、
金もコネも助けも無く神にすがるしかない人々。
何故幸いか。
他に頼るものが無いから。
他に頼るものが無いので神様だけに頼るしかないから。
神様に頼るしかないから他のものに頼れないから幸いだ。
救いの出発点はここしかあり得ない。
全く行き詰ってイエスに頼るしかない、
自分の力ではどうする事も出来ない、
救いはここから始まる。


例えば
アルコール依存症の立ち直りのプロセスはまさにこれ。
底落ち体験をした人しか依存症からは立ち直れない。
自分は何時でもやめられると思っている人は
決してやめられない。


2.悲しむ人々は、幸いである。
    その人たちは慰められる。


神の前で泣ける人。
自分の罪を本当に心から悔い改められる人。
依存症のど真ん中にいる人は悲しむ事が出来ない。
良心が痛まない、最悪の罪の状態。
しかし、
悟って回復してくると良心が痛み出す。
自分がどれほど皆に迷惑かけたか思い起こして
自分が本当にダメな人間だと悲しめるようになったら
救いは始まっている。


私たちは神の御前で泣くしかない。
自分のダメな事や失敗を、本当に悲しめるかどうか。
自分は自分で何とか出来るとか、
自分をごまかし、まだ自分は良い人間だと
言い逃れをしているうちはまだダメ。
人間は罪から救われてくるから良心が痛む。


神の御前で悲しむならば
神様から慰めを受ける事が出来る。
神様は必ず慰めて下さる。


3.柔和な人々は、幸いである、
    その人たちは地を受け継ぐ。


自分、ありのままの小さな自分を
受け入れる事が出来る事が出来るようになると、
人間は柔和になる。
柔和になってやっと地に足を着ける事が出来る。
地を受け継ぐ。
現実の自分を認め、
受け入れてそこから出発する事が出来る。
つまり、
ありのままの自分に戻って現実から出発する事が出来る。
やっと自分の居場所に落ち着いて、
自分の生活の基盤が出来てくると義に飢え渇くようになる。


4.義に飢え渇く人々は、幸いである、
    その人たちは満たされる。


自分が落ち着いて
自分のいるべき所にいたら
神の御旨を行いたい気持ちが沸いて来る。
人間らしい人間として生きていたい、
人を愛したり助け合ったり、人と仲良くしたくなる。
そういう事に飢え渇くようになる。
それまでは酒やいろいろな囚われによって
本当の事に飢え渇く事が出来なかった。


神の御旨、人間として人間らしい生き方への
飢え渇く気持ちが出て来たら人は求め始める。
求めれば
人間として人間らしい生き方をするための
場や出会いが与えられて満たされる。
そうすると人は憐れみ深くなる。


5.憐れみ深い人々は、幸いである、
    その人たちは憐れみを受ける。


義とは何か。愛する事である。
律法を守る事をイエスは一番に置いていない。
神の義は憐れみ深い事、
苦しんでいる人や弱い人に対して憐れみ深い心を起こす事。
人を愛したい、
苦しんでいる人を愛したいという気持ちが自然と湧いて来て、
憐れみ深くなるように私達は方向付けられている。


憐れみ深くなって人を愛すれば愛するほど、
憐れみを受けるようになる。
愛した人は愛しただけ、
憐れみを受けるようになる。
自分が出したものは全部自分に返って来る。
憐れみ深い人ほど憐れみを受ける。
憐れみを受けて、
憐れみ深くなると心が清くなる。


6.心の清い人々は、幸いである、
    その人たちは神を見る。


心の清さとは何か。
法律を守り真面目な生き方をして心が清くなるか?
あり得ない。
穢れたものに触らないでいて心が清くなるか?
そんな事は絶対にない。
愛以外に心を清めるものは無い。


では心の清さとは?
私達が我(エゴ)を捨てて
本当に純粋な愛を生きる中でこそ心が清められる。
ただ、愛は時に執着に変わり易い。
執着、エゴを捨てた純粋な愛、
愛着を超える心の清さがあってこそ神を見る事が出来る。


7.平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。


愛があって心の清い人が平和を実現する人となる。
愛があっても
心の清さが無いから平和平和と言いながら喧嘩する。
口先だけの平和になってしまう。
口先だけではなく、平和を実現する事こそ神の義である。


そして
平和を実現しようとする人は必ず迫害を受ける。


8.義のために迫害される人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。


全て平和を実現しようとした人は皆、迫害された。
ガンジーも、キング牧師も、マザー・テレサも。
私達は覚悟しなければならない。
良い事をしているからといって
皆から拍手される訳ではない。


(私は思う。
 ↓ここで英神父様は一番大事な事を言っている。)


"幸い"という言葉は
主観的にも客観的にも受け取ってはならない。
主観的に受け取ってはならない。
幸いとは、幸せな気持ちがする事ではない。
客観的に受け取ってはならない。
幸いとは、他人から見て幸せそうに見える事でもない。


幸いとは、
神様がそれでよしとして下さり、励まして下さる事。
よし、それでいい、その方向で、
今の感じで行ったらいいと神様が励まして下さる。
私達が神の国に向かって進んで行く、
そんな私達を神様が励まし、後押しして下さる。


私達はこの道程を、
行ったり来たり繰り返しながら
だんだんと地の塩になり、世の光となっていく。


(以下、井上の感想。)


凄いなあ。
プロとはいえ、
たった20分足らずでここまで的確に
人の心に入り込む話が出来るなんて。
しかも何てわかり易いのだろう。
福音書をこれほど臨場感を以って語れるなんて。


一度聴いたら忘れない話し方だし、
一度聴いただけでA4の紙に3枚もノート取ってしまった。


考えさせられるなぁ。
自分はこれまで数え切れないほど
この山上の垂訓を読んできたけど
一体私は今まで福音書の何を読んでいたものか。


これまで私の場合、
8つの幸いをただ文字通りに


貧しい人、
悲しむ人、
柔和な人、
義に飢え渇く人、
憐れみ深い人、
心の清い人、
平和を実現する人、
義のために迫害される人、


という特別に幸いな信仰深い8人が
何処か遠くの世界に別々に存在しているかのような
受け留め方をして
「あんたもそうなりなさい」「いいえ絶対無理orz」と
他人事的に一礼してスルーしてきた。
大き過ぎて焦点の合ってない目で見た理想像というか、
遠大な信仰の模範みたいに歪めて受け止めていたから
訳もわからずスルーするしかなかった。


一人の人間が
誰よりも私自身がイエス・キリストに出会って救われた、
まさにその過程を言い表し、
これからどんな方向に進めば良いか
その道程を示している。
だから山上の垂訓と呼ばれているのだろう。


聖書読みの聖書知らずとは恥ずかしい事だけど
まさに私自身の事。


感謝。

山上の垂訓を読み直す(マタイ5;1~12)

2007-12-15 09:42:45 | 山上の垂訓
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


自宅で食事中はいつも
FEBCの放送を聴きながら食べているが、
今日も朝食を食べながらしみじみ思った。


今朝聴いていたのも
FEBC放送の英隆一朗神父様による
「イエスの生涯を黙想する」であるが
先週放送分の「救いの道程-貧しき者の幸い」
と題された山上の垂訓の冒頭、8つの幸いの箇所。


洗礼受ける前の
聖書研究会に参加した学生時代、
家庭集会に通っていた時代の頃から、
母教会で受洗した後聖書通読にはまった頃、
以後今日現在に至るまで
このマタイの山上の垂訓を何度読んだか数え切れない。


大学の研究室で
教授や学友達と一緒に読んだ事もあったし
家庭集会の主催者の家で
求道者仲間達と一緒に読んだ事もあったし
母教会で
牧師先生や教会の兄弟姉妹達と一緒に読んだ事もあった。
もちろん自分一人でも
これまでに何度となく繰り返し読んできた。


基本的に私の所属するメノナイト教会では
個人が聖書を独自の解釈で脱線した読み方をしないように
皆で聖書を分かち合って読む事をモットーとしているが
皆で集まらなければ読めないというのでもない。
当然個人的にもどんどん読んで
集まった時に感想や疑問を分かち合う訳であり、
この「分かち合い」が重要。
いずれの場合も
読んでてわからない所は
何種類かある日本語訳聖書の同じ箇所の表現を比較したり
ギリシャ語原典というのを
参加者の誰か彼かが大抵は持っているのでそれを参照して、
神学書や註解書の解釈を出来るだけ使わない。
どうしてもわからない所は一礼してスルー。


でも、
私は個人的にw.バークレーが好きで長年親しんできた。
札幌の脳外科の看護助手だった時にボーナスはたいて
バークレーの赤本(新約の註解シリーズ)を1セット買って
今も大事にしている。
バークレーさんは聖書が大好きで
読むのが楽しくて仕方ないんだなと思ったりする。


そんなこんなで
今までさんざんこの山上の垂訓を読んできたけど
今朝、朝食しながら英神父様の話を聴いて
しみじみ思ったであるよ。
8つの「幸いな人」を
8人の個別な人々のように
遠くの第3、4世界の住人達の事みたいに考えて
よそよそしく他人事にしか読んでこなかった。


読んでいながら
自分のものになっていなかったって事。
一体私は今まで
聖書の何を読んだつもりになっていたのかってね。

願い求める事(マタイ7;7~12)

2007-05-07 04:43:00 | 山上の垂訓
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


今、朝の4:43。


仕事が忙しかったおかげで
中途半端に眠ってしまって
こんな時間に起き出して、
自分の心理的機能障害について考えている。


英隆一朗神父様のFEBC放送で
少し前に『願う』事について
取り上げていた。
この『願う』事が引き金になっている。
この『願う』ことについて
ずっと引っ掛かったままになっていた。


『願い求める』ことについて、
表現は違っても
英神父様だけでなく、
昨年FEBCの放送に出演されていた晴佐久昌英神父様も、
実は
私に洗礼を授けてくれた牧師先生も
私が今所属する教会の牧師先生も
朝祷会で出会った他の教派の司祭様達や牧師先生達も
過去に出会っていろいろ教えてくれた教会の先輩達も
全員一致して同じ事を言っている。
そして私は
それを受け付けない自分自身を自覚している。
受付けないこちら側に心理的な機能障害がある。


願う
願い求める


おそらく
算数の苦手な小学生が計算や幾何を嫌うように
願い求めることが苦手である。


だからと言って
私と言う者が何一つ願わず求めずに
日々を暮らしてきたかと言うと
それは違う。
必要なものは全て整えられ与えられてきた。


例えば
私は小学生の頃に聖書を読んでみたかった。
年月が経った今、私は聖書を読んでいる。
読むための視力と能力と聖書そのものを与えられた。


生活するに必要な仕事を探した。
仕事と働くための能力と職場と
私を受け入れて共に働いてくれる人々が与えられた。


病気に罹った。
その度に必要な治療の道が与えられ
治療に携わる人々が与えられた。


必要なものは全て与えられてきた。
しかし、
自分がどれだけ真剣に
それらを願い求めたかを考えると
むしろ
求める前から先に備えられ
良い時期を選んで与えられた。
与えて下さる御手はこちらに向かって
絶えず伸ばされているのに
自分の方から手を伸ばせない自分がここにある。


昨年の夏に
ブログ『ぱんくず日記』を書き始めた私は、
同じ頃にある人が
晴佐久昌英神父様の説教に受けた感銘を書いた文章を読み、
自分の心理的な機能障害を自覚した。
それを見直し理解しようとして
その時の『ぱんくず日記』に書いた。


 『七夕の短冊』


  ・・・私という人間は
  一昔前の流行語になったいびつな心理構造を持っている。
  自分の信仰を見直すうちに
  引っ掛かるキーワードを見つけた。
  『福音の森』という
  晴佐久昌英司祭の説教サイトによく登場する、
  神様と自分との関係を、
  親子の関係に例えて表現する言葉。


  『神の親心(=神の愛)』
  『親に甘えるように、神に甘える(=神を信頼する)』



  きっと多くの人には身近でわかり易い、
  神の愛と憐れみを理解し易いたとえなのかも知れない。
  もし私も神の愛と神への信頼を説明しろと言われたら、
  言葉を探して選んで、結局同じ表現をするだろう。
  多分これが
  わかりやすい表現なのだろうなと思いながら。
  多くの人にとってきっと
  一番適切で受け入れ易い表現だと思う。
  そのように頭で半分納得しながら
  私は自分でそれがわからない。
  晴佐久司祭の言っている事は正しい。
  おそらく別の司祭も牧師も皆、
  表現こそ異なっても考え方は同じだ。
  しかし私は固まって、
  そこから一歩も前に進めなくなる。


  晴佐久司祭の講和を聞いて感動した人のブログに
  書き留められていた言葉。


  「7月7日の七夕に短冊が
   1枚だけあったら何をお願いしますか?
   ・・・
   何をどう祈るのかどう願うのかという以前に、
   こんなことお願いしちゃっていいのかとか、
   これお願いしても無理だとか、
   自主規制したり諦めちゃってる人。
   ・・・
   聞いてくれているのかいないのかってことじゃなくて、
   聞いてくださっている天の父を信じて、
   信じきっているかってこと。
   親と子の関係ってそう言う事でしょ。
   ・・・
   駄々をこねる、それは相手を信頼しているから。
   子供が親に甘えるみたいに
   わがまま言うところがなければ、
   先に進めないし、
   『霊的成長』が望めないんですよ。」



  この言葉を聞いてブログに書いた人は
  涙が出そうになったという。
  許される喜びとはそういうことかも知れない。
  一緒に聞いていた多くの人も
  同じ気持ちだったのではないだろうか。
  もっと神様に甘えていいんだ、
  もっと信じきって甘えていいんだ・・・


  しかし
  私は自分が奈落の底に落ちたと感じた。
  皆はたった1枚しかない短冊に何を書くのだろう。
  神様を「親」に例えたら
  私には短冊に書く願いが何もない。


  「親心」
  「親に甘えるように甘える」
  「親を信頼するように信頼する」
  どれ一つとっても自分のものではない他人のもの。
  「親」に例えると神様がわからなくなる。
  「甘える」「信頼する」という心理からしてわからない。


  「甘える」という言葉は日本語にしかない言葉だという。
  「甘える」は「頼む」「依頼する」に近い。
  「頼む」とか「依頼する」という言葉は
  私の場合、
  「相手が多分こちらを無視する可能性と
   拒絶する可能性とを踏まえた上でお願いしてみる」
  という意味で使っていた。
  「甘える」という言葉を
  家族間や学校や職場、社会で
  忌み嫌われる行為の名称として
  私は使っていた。
  「甘える」という言葉の意味は
  人を犠牲にして重荷を負わせ、
  その人の重荷の上に当然のつもりで胡坐をかく事。


  「信頼する」は「信用する」「期待する」に近い。
  「信用する」とか「期待する」という言葉は
  私の場合、
  「相手が多分こちらを裏切る可能性と
   絶望させる可能性とを踏まえた上で待ってみる」
  という意味のつもりで使っていた。
  「信頼する」が文字通り「信じて頼る」だと
  ますますわからない。


  数年前、信仰歴20年以上の教会員が突然、
  「私はキリストの十字架がわからない」と言って
  教会を去ったのを見た事がある。
  当時は牧師も私達教会員も動揺しうろたえた。
  あれは今の私のような事だったのかも知れない。


  洗礼を受けて10数年の歳月が経っていて、
  自分も周囲も当然わかっているつもりでいた事が
  実はわかっていなかったと気づく。
  神がわからないというよりも
  自分で自分の信仰が一体何なのかわからなくなった。
  わかっていなくてもわかったつもりになっていて
  それで幸せなつもりでいて
  突然キーワードという地雷を踏んでしまった。


  私が書き込みをしたブログの主から質問された。
  「それではあなたの『親』に代わる
   希望のキーワードは?」


  親の代わりになる対象。
  駄々をこねたり、甘えたりする対象・・・。
  希望のキーワード。
  希望って何だろう。
  手に入らなければ駄々をこねるほどの望みって
  何だろう?
  駄々をこねて甘えて手に入るものって
  あるんだろうか。


  質問を投げかけて下さった方は
  司祭や牧師に肩を押されたという。
  「そんなに難しく考えるなよ」
  「いいからその方の腕、胸の中に飛び込んでみろよ。
   ゆだねてみろよ。」
  自主規制や諦めになってしまっていると、
  最も簡単で最も深くて
  最も真理に近い本当に大切なものが
  見えなくなってしまうのではないかと、
  その方は言った。


  本当に大切なもの。
  ああ、それはTさんが私に言い残した事だ。


   「ともちゃん
    そんなに勉強するんじゃねぇ
    神様は人を救うけど
    学問は人を救わねぇ
    余計な事考えないで
    迷子のちびっ子が
    親にむしゃぶりついてくみたいにさ
    イエスさまーって行きな
    大切なのはそれだけだ」
 

  そう。
  Tさんも同じ事言っていたのだ。


  でもTさん、
  私はその
  「親にむしゃぶりついてくみたいに」
  がわからない。
  親が自分よりも
  子供らしい子供で
  人に甘えるのが上手で
  ねだるのが上手で
  利用価値だけで人を評価し、
  思い通りにならないとだだをこねて
  言い分が通るまで病気のふりでも
  死んだふりでも何でもする、
  5歳の子供の自分よりももっともっと
  子供らしい子供が親だったら
  どうすればいい?
  大人になった今になって
  仕返ししてやろうと思っても、
  彼らも年をとって頭が壊れて
  今では本物の子供になってしまった。
  私は誰にむしゃぶりついて何をねだればいい?
  そういう行為を誰からどうやって学べばいい?
  代わりになるものはどこにある?
  Tさん、晴佐久司祭もあなたと同じ事を言ったよ。


  子供が親に甘えるみたいに
  わがまま言うところがなければ、
  先に進めないし、
  『霊的成長』が望めないんですよ。


  年齢だけは超えたけどね、
  霊的には5歳から成長してないんだよ私は。
  その通り。
  一歩も先に進めない。
  望みがないんだから。


  『霊的成長』
  私達の教会でも、前にいた母教会でもよく聞く言葉。
  神様に何か願っても聞き入れられないのは、
  利己的な動機で願うから聞き入れられないのだと
  教えられた。
  或いは、
  神様がその人に小さな願いよりももっと
  それ以上に大きなものを与えたいのだと
  教えられてきた。
  それが神の望みであり、
  神が自分に何を望んでおられるかを考えろと。
  神が望んでおられる事。
  たった1枚の短冊にはこう書けばいいのだ。


  「私の望みはありません。
   神様のお望みのようになりますように。」


  駄々をこねて甘える事とは対極だ。
  これでは『霊的成長』は望めないのだ。
  どうすれぱいい?(2006.7.25『ぱんくず日記』)



この文章を書いてから1年近く経とうとしている。
ここで言う『七夕の短冊に何を書くか』は
まだ分からないままになっている。
私だったら書いたであろう短冊、


 「私の望みはありません。
  神様のお望みのようになりますように。」


これは一見模範解答のように見えるが
実はこういう意味である。


 「私の望みなんか、
  どうせ神様がしたい通りになさるんだから
  何願っても無駄。」


英神父様はFEBCの放送の中で
「神様にお願いしたけど聞き入れられない、
 だから神を信じられない」
という人に向けて『願う祈り』を語っておられる。


英神父様によると、
『願う』とはもっと真剣な、
全身全霊で神に向かう事だ。
自分の無力さをどれだけ認めているか。
無力である、それは大事な事だ。
打ちひしがれて自分の力では何も出来ない時に、
私達は本当に『願う祈り』が出来る。
必死で、他に何も頼る事が出来ない、
そんな絶体絶命の時に、
私達は本当に願い求める祈りが出来る。
自分を超えた存在に委ね切った時に、
本当に心の底から願った時に、私達の生活は変わっていく。
神様に本当に願い求めた時に、何かが変わってくる。
自分の出来ること全て100%尽くして
24時間自分の存在を懸けていく、
それが本当の意味で願っているという事。
自分の存在かけて願わなければ、
自分の全力、自分の全てをかけてやらなければ
願っているとは言えない。
それだけの真剣さが私達にあるかという事。
祈るという事は信仰と一つ。
でも、
多くの人が最初から諦めている、
ハナから信じてない。
それでは何も変わらない。


お願いして聞き入れられないどころか
願う前から諦める、
また、
自分が何を願っているのかもわからない、
真剣に神と向き合おうとさえしない。


与えて下さる御手はこちらに向かって
絶えず伸ばされているのに
自分の方から手を伸ばせない自分がここにある。

天国の住人(マタイ5;3)

2006-07-03 20:27:39 | 山上の垂訓
心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです。(マタイ5;3)


何も持たない中から、
なおも与えようとする気持ちはどこから来るのだろう。


母の母
母方の祖母は孤独で、地味で、
子供の喜ぶ物や話題を何も持っていなかった。
幼い者がそばに行くと嬉しそうにして、
何か与える物がないかとあちこち探し回る。
祖母はきな粉ねじりとかモロコシとか桃山のような、
子供受けしない菓子を戸棚から大事そうに出して来て、
私達の掌にくれた。
甘い物に喜ぶ子供らの顔を期待していたのだ。
私達が帰る時には駅まで見送りに出て、目に涙を溜めていた。
祖母と同じ時代を生きてきた人々に出会うと、
今では無人になってしまった小さな田舎の駅が目に浮かぶ。
特急列車が一瞬のうちに通過するちっぽけなプラットホームに、
涙ぐんだ祖母がぽつんとひとり、
今でも立っているような気がする。


Yさん
窓をあければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
この歌を教えてくれたのはYさんだ。
「おねえちゃんいつもありがとうね。お礼に歌うからね。」
Yさんは、本人の話によると戦後の大変な時代を
米軍相手の芸人をして?二人の子供を育てたという。
事務室にいつも突然現れるが、中に入って来ない。
入り口に立ってお辞儀する。
その場の者は全員、盛大に拍手しなければならない。
拍手するとYさんは「サンキューベリマッチ」と一礼して
朗々と歌いだす。
『別れのブルース』『夜来香』。
拍手に応えてもう一曲『蘇州夜曲』。
拍手にお辞儀して何曲でも歌う。
80歳過ぎとは思えない艶のある声だ。
施設長室で一曲、事務室で一曲、相談窓口で一曲、
受付で一曲。
施設中を慰問して歩く。
働く者の労を慰めるのがYさんの日課なのだ。
私が一体誰に見えるのか、もどかしく和服の袂を探る。
キャラメルもあめ玉もないので代わりに歌を歌ってくれる。


Mさん
Mさんは持ち物を何でもくれる。
「何も良い物ないんだけど…こんなのでも取っときなさい。」
ハンカチ。入浴の着替え。失禁用パンツ。
何度も鼻をかんだティッシュペーパー。
たったこれだけのカバンの中の持ち物を全部くれる。
昼食の膳に付いたおかずや果物も、自分は食べずにくれる。
「これ、食べなさい」
ほんの僅かな食糧を真っ先に我が子に与えるように、
Mさんは真剣な表情で私の手に握らせる。
焼きチクワ、肉の切れはし、夏みかん。
「いいから、Mさん食べて」と断わると、
残念そうな悲しそうな顔をするので、
焼きチクワや肉は息を止めて丸呑みした。
夏みかんは後で見つからないようにこっそりカバンに返した。
90年の歳月の間に、
Mさんは心の中のゴミやガラクタを
何処かに置き忘れて来ている。
今は目を離すと徘徊し、
自分の物と他の人の持ち物とを識別出来ず、
話す言葉も脈絡がなくなった。
認識も理解も何処かに消滅したみたいに見えるが、
「与えたい気持ち」だけが残っている。



私は天国の住人にずいぶん慰められ、励まされた。              
身寄りも財産も身体能力も知的能力も失い、
自分の子の顔を忘れ、
子からも忘れられてなおまだ与えようとする人々が大勢いる。
もう何も持っていないのに、
どうしてなおも与えようとするのだろう。
主イエスならどんな風に、どんなお喋りをするだろう。彼らと。