そういえば先々週教会で昼食の時に
聖書好きの求道者の方からカッ飛んだ質問をされた。
求:「神様は何で
パウロを最初からイエスの弟子にしなかったのかな?
何でパウロだけ後から弟子にしたのかな。
12人の弟子達だけでは物足りなかったんだろうか?」
考えた事もなかった。
だって歴史上実在した人だしね。
それこそありのまま書いてある通りに読むしかないからなぁ。
私は返答に困ってこう答えた。
井:「うーーーーん。。。
福音書の時点から既にパウロが登場してたら
話がもっとややこしくなったんじゃないかな。」
福音書の時に
主イエスと12人の弟子達と行動を共にしていた人々の中に
もしパウロがいたら、
或いは12弟子が12人ではなくて13人で、
パウロが既にその中にいたとしたら、どうなっていたか?
昼食を食べながら、隣に座った求道者の方としばらく話した。
パウロの人物像、人柄、性格を思い浮かべてみる。
まず雷の子らと呼ばれたヤコブ、ヨハネ兄弟と
大喧嘩になっていただろうと想像する。
兄弟の母親が「うちの息子達を主の右と左に」などと言ってきた時点で。
他の弟子達が腹を立て舌打ちして呟いた程度の事でも、
パウロであれば知識とぶれない視点と信念を曲げない頑固さで、
ヤコブ、ヨハネ兄弟とその母親を論破して譲らず、大喧嘩になったかも。
弟子達は皆、漁師や取税人や、貧しい一般市民だった。
そんな弟子達の中にパリサイ派のエリートだったパウロがいたら
イエスの弟子になっていたとしてもおそらく浮いてしまっただろう。
他の弟子達との人間関係もまずくなりそうだ。
ゲッセマネでイエスが逮捕された時、
弟子達はイエスを敵の手に置き去りにして逃げた。
パウロならどうだろう。
皆と一緒に逃げるだろうか。
使徒言行録や書簡から読み取れるパウロの人間像は
信念を曲げず妥協を知らない人物のように読み取れる。
もしパウロがイエスの生前のうちに弟子になっていたら。
逃走する他の弟子達を尻目にパウロだけは頑固に主張を曲げず
律法学者達に論戦を挑んでイエスと共に逮捕され、
一緒に十字架にかかってしまったかも知れない。
ペトロが「一緒に命を捨てる」と言いながら果たせず涙した事も、
パウロだと一歩も引かない論戦の挙句、
イエスと一緒に血祭りに上げられてしまうのではないかと思ったりする。
しかしそれでは困る。
ゴルゴタの丘に十字架が四本も立てられては、話がややこし過ぎる。
預言の成就はどうなる?
イエスの十字架の死と復活の後、パウロはどうなるのだ?
パウロも一緒に復活したりしたらますます話がややこしくなって
キリスト教が複雑怪奇になってしまって、甚だ具合が悪い。
それに、パウロがイエスに準じて一緒に十字架で死んでしまったら
異邦人達への宣教はどうなるのだ。
私は個人的に、
パウロだからこそ粘り強く異邦人に
イエスの教えを説く事が出来たのではないかと思ったりする。
律法主義の何が足りないのか、
何が神への信仰のあり方を歪めてしまってきたのか、
神の意図である救いに至るには何をどう改善し軌道修正すべきか、
より具体的に分かり易く噛み砕いて人々に教え導くには
パウロ自身の打ち砕かれた体験が不可欠ではないだろうか。
律法主義が打ち砕かれるには確固たる律法主義の信念を
土台として持っていなければならない。
イエスとの出会いによって
それまでパウロが信じてきたユダヤの伝統的価値観が打ち砕かれ、
ユダヤ社会のエリートとしてのパウロの自意識を木っ端微塵にされた。
パウロはその体験を通して神の慈しみと憐れみに目覚め、
神の救いの意図を知らされた。
その喜びの体験が律法主義に凝り固まったユダヤ人や
全く宗教的土壌の異なる異邦人にイエスの教えを的確に根気よく伝えるための
パウロの原動力になっている気がする。
求:「うーん。
やっぱり適材適所で神が初めから選んで決めていたのかなぁ。」
井:「そう思うよ。
時と場所もちゃんと備えられててさ。」
他の弟子達だってそうだ。
その弟子でなければならない役割をになってると思うんだよね。
求道者の読後感想話は尽きず、面白かった。
聖書好きの求道者の方からカッ飛んだ質問をされた。
求:「神様は何で
パウロを最初からイエスの弟子にしなかったのかな?
何でパウロだけ後から弟子にしたのかな。
12人の弟子達だけでは物足りなかったんだろうか?」
考えた事もなかった。
だって歴史上実在した人だしね。
それこそありのまま書いてある通りに読むしかないからなぁ。
私は返答に困ってこう答えた。
井:「うーーーーん。。。
福音書の時点から既にパウロが登場してたら
話がもっとややこしくなったんじゃないかな。」
福音書の時に
主イエスと12人の弟子達と行動を共にしていた人々の中に
もしパウロがいたら、
或いは12弟子が12人ではなくて13人で、
パウロが既にその中にいたとしたら、どうなっていたか?
昼食を食べながら、隣に座った求道者の方としばらく話した。
パウロの人物像、人柄、性格を思い浮かべてみる。
まず雷の子らと呼ばれたヤコブ、ヨハネ兄弟と
大喧嘩になっていただろうと想像する。
兄弟の母親が「うちの息子達を主の右と左に」などと言ってきた時点で。
他の弟子達が腹を立て舌打ちして呟いた程度の事でも、
パウロであれば知識とぶれない視点と信念を曲げない頑固さで、
ヤコブ、ヨハネ兄弟とその母親を論破して譲らず、大喧嘩になったかも。
弟子達は皆、漁師や取税人や、貧しい一般市民だった。
そんな弟子達の中にパリサイ派のエリートだったパウロがいたら
イエスの弟子になっていたとしてもおそらく浮いてしまっただろう。
他の弟子達との人間関係もまずくなりそうだ。
ゲッセマネでイエスが逮捕された時、
弟子達はイエスを敵の手に置き去りにして逃げた。
パウロならどうだろう。
皆と一緒に逃げるだろうか。
使徒言行録や書簡から読み取れるパウロの人間像は
信念を曲げず妥協を知らない人物のように読み取れる。
もしパウロがイエスの生前のうちに弟子になっていたら。
逃走する他の弟子達を尻目にパウロだけは頑固に主張を曲げず
律法学者達に論戦を挑んでイエスと共に逮捕され、
一緒に十字架にかかってしまったかも知れない。
ペトロが「一緒に命を捨てる」と言いながら果たせず涙した事も、
パウロだと一歩も引かない論戦の挙句、
イエスと一緒に血祭りに上げられてしまうのではないかと思ったりする。
しかしそれでは困る。
ゴルゴタの丘に十字架が四本も立てられては、話がややこし過ぎる。
預言の成就はどうなる?
イエスの十字架の死と復活の後、パウロはどうなるのだ?
パウロも一緒に復活したりしたらますます話がややこしくなって
キリスト教が複雑怪奇になってしまって、甚だ具合が悪い。
それに、パウロがイエスに準じて一緒に十字架で死んでしまったら
異邦人達への宣教はどうなるのだ。
私は個人的に、
パウロだからこそ粘り強く異邦人に
イエスの教えを説く事が出来たのではないかと思ったりする。
律法主義の何が足りないのか、
何が神への信仰のあり方を歪めてしまってきたのか、
神の意図である救いに至るには何をどう改善し軌道修正すべきか、
より具体的に分かり易く噛み砕いて人々に教え導くには
パウロ自身の打ち砕かれた体験が不可欠ではないだろうか。
律法主義が打ち砕かれるには確固たる律法主義の信念を
土台として持っていなければならない。
イエスとの出会いによって
それまでパウロが信じてきたユダヤの伝統的価値観が打ち砕かれ、
ユダヤ社会のエリートとしてのパウロの自意識を木っ端微塵にされた。
パウロはその体験を通して神の慈しみと憐れみに目覚め、
神の救いの意図を知らされた。
その喜びの体験が律法主義に凝り固まったユダヤ人や
全く宗教的土壌の異なる異邦人にイエスの教えを的確に根気よく伝えるための
パウロの原動力になっている気がする。
求:「うーん。
やっぱり適材適所で神が初めから選んで決めていたのかなぁ。」
井:「そう思うよ。
時と場所もちゃんと備えられててさ。」
他の弟子達だってそうだ。
その弟子でなければならない役割をになってると思うんだよね。
求道者の読後感想話は尽きず、面白かった。