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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

もしパウロが

2010-10-29 00:16:32 | 使徒言行録
そういえば先々週教会で昼食の時に
聖書好きの求道者の方からカッ飛んだ質問をされた。


求:「神様は何で
   パウロを最初からイエスの弟子にしなかったのかな?
   何でパウロだけ後から弟子にしたのかな。
   12人の弟子達だけでは物足りなかったんだろうか?」


考えた事もなかった。
だって歴史上実在した人だしね。
それこそありのまま書いてある通りに読むしかないからなぁ。
私は返答に困ってこう答えた。


井:「うーーーーん。。。
   福音書の時点から既にパウロが登場してたら
   話がもっとややこしくなったんじゃないかな。」


福音書の時に
主イエスと12人の弟子達と行動を共にしていた人々の中に
もしパウロがいたら、
或いは12弟子が12人ではなくて13人で、
パウロが既にその中にいたとしたら、どうなっていたか?
昼食を食べながら、隣に座った求道者の方としばらく話した。


パウロの人物像、人柄、性格を思い浮かべてみる。


まず雷の子らと呼ばれたヤコブ、ヨハネ兄弟と
大喧嘩になっていただろうと想像する。
兄弟の母親が「うちの息子達を主の右と左に」などと言ってきた時点で。
他の弟子達が腹を立て舌打ちして呟いた程度の事でも、
パウロであれば知識とぶれない視点と信念を曲げない頑固さで、
ヤコブ、ヨハネ兄弟とその母親を論破して譲らず、大喧嘩になったかも。


弟子達は皆、漁師や取税人や、貧しい一般市民だった。
そんな弟子達の中にパリサイ派のエリートだったパウロがいたら
イエスの弟子になっていたとしてもおそらく浮いてしまっただろう。
他の弟子達との人間関係もまずくなりそうだ。


ゲッセマネでイエスが逮捕された時、
弟子達はイエスを敵の手に置き去りにして逃げた。
パウロならどうだろう。
皆と一緒に逃げるだろうか。
使徒言行録や書簡から読み取れるパウロの人間像は
信念を曲げず妥協を知らない人物のように読み取れる。
もしパウロがイエスの生前のうちに弟子になっていたら。
逃走する他の弟子達を尻目にパウロだけは頑固に主張を曲げず
律法学者達に論戦を挑んでイエスと共に逮捕され、
一緒に十字架にかかってしまったかも知れない。


ペトロが「一緒に命を捨てる」と言いながら果たせず涙した事も、
パウロだと一歩も引かない論戦の挙句、
イエスと一緒に血祭りに上げられてしまうのではないかと思ったりする。
しかしそれでは困る。
ゴルゴタの丘に十字架が四本も立てられては、話がややこし過ぎる。
預言の成就はどうなる?
イエスの十字架の死と復活の後、パウロはどうなるのだ?
パウロも一緒に復活したりしたらますます話がややこしくなって
キリスト教が複雑怪奇になってしまって、甚だ具合が悪い。
それに、パウロがイエスに準じて一緒に十字架で死んでしまったら
異邦人達への宣教はどうなるのだ。


私は個人的に、
パウロだからこそ粘り強く異邦人に
イエスの教えを説く事が出来たのではないかと思ったりする。


律法主義の何が足りないのか、
何が神への信仰のあり方を歪めてしまってきたのか、
神の意図である救いに至るには何をどう改善し軌道修正すべきか、
より具体的に分かり易く噛み砕いて人々に教え導くには
パウロ自身の打ち砕かれた体験が不可欠ではないだろうか。
律法主義が打ち砕かれるには確固たる律法主義の信念を
土台として持っていなければならない。


イエスとの出会いによって
それまでパウロが信じてきたユダヤの伝統的価値観が打ち砕かれ、
ユダヤ社会のエリートとしてのパウロの自意識を木っ端微塵にされた。
パウロはその体験を通して神の慈しみと憐れみに目覚め、
神の救いの意図を知らされた。
その喜びの体験が律法主義に凝り固まったユダヤ人や
全く宗教的土壌の異なる異邦人にイエスの教えを的確に根気よく伝えるための
パウロの原動力になっている気がする。


求:「うーん。
   やっぱり適材適所で神が初めから選んで決めていたのかなぁ。」


井:「そう思うよ。
   時と場所もちゃんと備えられててさ。」


他の弟子達だってそうだ。
その弟子でなければならない役割をになってると思うんだよね。


求道者の読後感想話は尽きず、面白かった。

従う

2010-02-14 02:05:25 | 使徒言行録
「人間よりも、神に従わなくてはなりません」
                    (使徒5;27~32)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第八話 神に従うこと



神に聴く事が出来たら、神に従う事が出来る。
内的な態度としての従順と外的な選びとしての行為。


  内的な従順は何にもまして大切です。
  私たちが神に従っているのは、単に教会に行ったときとか、
  お祈りをするときだけではありません。
  毎日の日々の活動、食事、仕事、勉強、休憩、運動、おしゃべり、
  その他すべてにおいて、神に従っていなければなりません。
  今のこの一瞬において、神に仕えていくことです。
  部屋を掃除するとき、それを単に自分のため、あるいは
  家族のためにしているだけならば、神に仕えていることになりません。
  それを神さまのために、神さまに従ってするならば、
  その掃除を通して神に仕えることができるのです。
  逆にどんなにたくさんのお金を教会に寄付しても、
  もしそれが自分のためにしているならば、
  神に従っていることにはならないのです。
  問題は外的に何をしているかではなく、
  どのような心の態度でそれを行っているかです。
  方向性はたった二つです。
  自分のためか、神のためか。
                             (本文より)


私は誰のためにしているだろう。
自分の全ての行為、行動を。
そもそも誰ために生きているだろう。
神に対して従順な心の態度を持っているかと言えば
持っていない。
自分がする一つ一つの行動を
自分が生きている事そのものを
喜んでいないからだ。


ああでも、
部屋の掃除を神のためにするというのはいいかも知れない。
自分のためと思ったら面倒臭くてやりたくない。
掃除なんかしなくても死なないとか考えるし。


神のため、というのは何かをする時の行動の動機付けとなる。


  第二に、外的な選びと行為としての従順です。
  すなわち、私たちの人生においてどっちにすれば良いか
  迷うことがたびたびあり、しかもどちらかを選んでいかねばなりません。
  ・・・・・
  ある意味で、私たちの人生は
  そのような選びの連続であると言えるでしょう。
  その際、大切なのは
  神のみ旨だと思えることを、選んで、実行していくことです。
  ある場合は容易でしょうし、ある場合はとても辛いでしょう。
  たとえそれがいかに感情的に辛いことであっても、それがみ旨ならば
  果していかねばなりません。
  人間は残念ながら、ほとんどのことを
  自分の好き嫌いで決めていると言えるでしょう。
  神のためと言いながら、自己満足、面子、他人の思惑に
  従っていることがどれだけ多いでしょうか。
  ・・・・・
  問題は自分の望みを優先させるのではなく、
  いかに神の望みを選ぶかです。
  その決断ができるか否かに、従順はかかっています。
                          (本文より)


神に対して従順な態度であるかどうかというと、
私は全くその逆である。
人間にも従わないが、神にも従順ではない。
神に従順な人は、
順境逆境を問わず自分に与えられた人生を喜ぶ。
私はそうではない。


この10年間、親達それぞれの独居生活を確保し整えるため、
まとまった時間がどうしても必要になって転職する事3回。
その度にせっかく就いた今の仕事を辞めるべきかそれとも
自分にだって仕事も生活もある、出来ないものは出来ないと放棄して
じじもばばも何らかの施設入所をさせて貰うべきか迷った。
自分が仕事を選ぶか親の生活を選ぶかで葛藤が起こり、
その度に結局親の生活を優先するのが神のみ旨に違いないと判断した。


この『道しるべ』の著者が以前説教で語っていた。
もしどっちの道を選ぶべきか迷ったら、
自分の身の回りの一番力の無い、立場の弱い人を中心にして選ぶのが良いと。
私もそれが正しいと思った。
信仰者だからだけではなく人間として。
そのようにしてそれまでの仕事を辞め、通勤時間、立地条件など
在宅介護に都合のいい条件を満たす新し仕事を探した。


自分がやりたい仕事かどうかなど念頭に無い。
採用して貰えるか、使って貰えるかどうかだけで精一杯である。
それでも神は次の職を与えて下さった。


それまでの仕事は神から頂いたもの、
親に対してしなければならない色々な事も
神からやれと示されたもの、
それまでの仕事の雇用条件が好待遇で収入が安定していたとしても
仕事の与え主である神からこれは返せ、こっちの仕事をやれと言われたら
返さねばならないと思った。
与えられても返さねばならない時は返して
やれと言われた事を優先しなければならない。
自分の仕事に対する愛着とか自信とか職業意識とか
そんなものへの執着も捨てて次に行かなければならないと思った。


次の職場もやはり神が与えて下さった仕事であり、
介護と両立すべく均衡を取りながら転職のダメージから立ち直り、
やっと自分の生活が安定した時にじじの急激なADL低下が起こった。
また転職し、同じ事を再び繰り返し、また転職した。
そしてまた次の職場が与えられた。
そこでも3年働いて生活の安定を得た時に、
今度はばばの骨折と手術、じじの関節炎悪化が同時に起こった。
また転職したよ。
神はまた仕事を与えて下さった。
時給幾らのパート労働だけどね。
職が無いよりはずっといい。


ただ、こう何度も同じ事を繰り返すと、
自分が自分の人生をどうしたいかとか
自分が何の仕事をやりたいかとか自分がどんな生き方をしたいかとか
そんな事を考える余地など微塵も無くなる。
将来の希望とか展望とか、「望」という文字を見ると吐き気がする。


神はいつも一度与えたものを取り上げる。
いろいろな事を断念したり諦めたり忍耐したりして
新しく覚えなければならない仕事や順応しなければならない職場に
やっと馴染んで自分が戦力の一人になる事が出来て
やっと課題の山を一つ乗り越えたと思うと、
次のもっとバカでかい課題の山が既に用意されている。


じじやばばのせいではない。
じじやばばだって好き好んで老いたのではなく
好き好んで脳梗塞やDMの発病や骨折をした訳でもない。
病気や怪我で助けを必要とするのは本人のせいではない。
不可抗力ではないか。


私はいつも見えない御手に追い立てられるようにして
選ぶべき選択肢を選ぶ。
それを選ぶ以外に道が無いからだ。
そして今来た道が封鎖されている事にも気づく。
後戻りするという選択肢すら無い。
これも神の御旨なんだから仕方ないという選び方だ。
結果、じじもばばも本人の希望を何とか満たす在宅生活が与えられ、
じじは受洗し喜んで教会に通うようにまでなった。
洗礼式の時に思った。
やっぱり神が望んでおられたんだなと。


よかったよかった結構な事ではないか神の望みが実現して、
じじもばばも望んでいた独居生活が維持出来て。
神も親達も望みが叶って幸せで何より。


私自身もあらゆる物事を与えられている。
必要だと思うものは大抵備えられる。
そして
与えられた生活はどうせまた取り上げられる。
今度はこれをやれ、別の場所に行けと追い立てられる。


神の与え給た訓練だとか霊的成長のためだと解釈すべきかも知れない。
しかしあんまり何度も同じ事を繰り返していると
人生の展望とか将来とか自分が何をしたいかとか
そんなものは無くなる。
ゴミ同然、無に帰す。
自分にとって人生などもう何の価値も無くなった。
考える値すら無い。
そこに望みを捨てるなとかいつも喜んでいなさいとか
神様に祝福を求めて下さいなどと言われると
破壊衝動が起こる。


私が生きている間にあとどれくらいあるんだろう。
神にやれと言われ、追い立てられてしなければならない事は。
まだ終わらないんだろうか。
やれと言われた事をやるし何も望まないからさ、
早く全部終らないかな。


自分の人生で何をしたいとかしたくないとか
何を望むとか望まないかとか
天国に行くとか行かないとか幸せか不幸せかとか
どうでもいい。
薬にも毒にもならない事だ。
それこそ神が神の好きなように決めるんだから。
私には神に従うより他に選べる選択肢が無い。


神に従順な信仰者だったら
こんな時でも自分は幸せ者だと喜べるんだろうな。

使徒言行録読了

2007-03-15 12:26:00 | 使徒言行録
綿帽子になったタンポポに
ふーっと息を吹き掛けると
小さい落下傘がそこら中に飛んで
ずっと遠くまでも飛んで
何処でも
土もろくにないコンクリの割れ目からでも
しぶとく芽を出し花を咲かせ
新しい綿帽子を作ってまた落下傘を飛ばす
そんな光景を連想する、
使徒達の働き。

福音書ではからし種に例えられているのに
何故か私はタンポポを連想する。
種が飛ぶ光景を見るからかな。
賛美歌の歌詞にもある。何番だったかな。

昔 主イエスの蒔き給いし
いとも小さき生命の種
芽生え育ちて
地の果てまでその枝を張る
木とはなりぬ