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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

生きる

2010-11-08 00:49:49 | 預言書
生きる。




誕生について言えば、お前の生まれた日に、
お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、
塩でこすり、布でくるんでくれる者もいなかった。
だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、
憐れみをかける者はいなかった。
お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。
しかし、わたしがお前の傍らを通って、
お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、
わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。
血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。
                       (エゼキエル16;4~6)


わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
彼がその道から立ち返ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
                           (エゼキエル18;23)


…わたしはだれの死をも喜ばない。
お前たちは立ち返って、生きよ」と主なる神は言われる。
                       (エゼキエル18;32)




 私達は誰かを赦すために、誰かを愛するために、 
 この世に生まれて来ました。 
 私達は人を赦すために、愛するために、 
 生命を与えられ、生かされています。
                     (L神父)


誰かを赦すために、愛するために、
そのために自分が生かされているとしたら、
生きる事は誰かを赦す事と同じだろうか。
生きる事は誰かを愛する事と同じだろうか。




自分は今、生きているか?

神の愛

2010-01-14 23:47:31 | 預言書
「たとえ、
 女たちが忘れようとも、
 わたしがあなたを忘れることは決してない」
                   (イザヤ49;1~16)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第四話 神の愛について


キリスト教を一言で定義すると
「神は私たちを愛している」という言葉にまとめる事が出来る。
にも関わらず神の愛を実感する事が出来ない。
それは何故か。


1.歪んだ神のイメージにとらわれている場合。
 例えば、厳しい父、冷淡な裁判官、
 いつも叱っている教師などのイメージ。


 聖書の中の神の優しい愛を感じられる箇所を読んで黙想してみる。
 イザヤ43;1~7
 イザヤ49;1~16
 ホセア11;1~16など。


2.自分自身のイメージが歪んでいる場合。
 罪悪感を抱いていて、
 自分は罰を受けるに相応しい、
 自分は神の愛に相応しくないと思っている。


 私達は多くの罪を犯しているが
 神は罪人の私達を見てまず罰するのではなく
 まず赦して下さる、その愛に信頼する。


3.心に大きなこだわりがある場合。
 何か大きな罪を犯していながら見てみぬふりをする、
 或いは誰かをどうしても赦す事が出来ないと思っている。
 心の中の大きなしこりに遮られて神の愛が心の中に入って来ない。


 心の傷を神に、ありのままに見せ、傷を手放して神に預けてしまう。


4.心の中に強い寂しさを感じ、いつも人から愛される事を望む場合。
 実際は人から愛されているのに心のチャンネルが合わないため、
 自分が愛されている事に気づく事が出来ない。


 愛される事に敏感な心を養うと共に、人を愛する事を意識する。


  不思議なことですが、人を愛すれば愛するほど、
  人から愛されている事に気づくからです。
  しかし、人から愛されるために人を愛すると、
  その愛は利己的なものになり、本当の意味で愛を実感できないでしょう。
  報いを求めない愛にだけ、報いが与えられるのです。
                         (本文より)


神の愛を感じるための祈りの方法。


1.過去の体験を振り返る。
  苦しい事から救われた事、嬉しかった事を思い出して味わう。
  神がどれ程寛大に愛して下さったかを。


  ※過ぎ越し(出エジプト) 
   イスラエルの人々は神の愛を忘れそうになると、
   エジプトから脱出させて下さった過去の出来事を思い起こした。
   では、自分自身の出エジプトの体験は何か。


2.毎日の生活でいつ神と人に愛されたかを、夜寝る前に振り返る。
  顔を洗う水が備えられている事、誰かが挨拶してくれる事、
  毎日の何でもない事を
  人からの愛として、神からの愛として、記録し、味わい直す。
  自分が今日一日にどれだけ愛されたか。


私自身の過去の体験を振り返ってみる。
神から愛されていると感じるのはどんな時か。
それは何故か。


自分が神から愛されていたと感じたのは、
物心つくかつかないかの歳でキリストを追い求めるようになった事。
その記憶を辿ると
自分が神から愛された子供だったと感じる事が出来る。
私はほんの5、6歳に過ぎなかったが、
その当時既に同行者イエスの存在を感じていたから。


自分が神から愛されていないと感じるのはどんな時か。
それは何故か。


自分がしたい事とは別に、神がしろと要求される事を私は感じ取り、
その課題を私はいつも追い立てられるようにして乗り越える。
課題を乗り越えた時に、達成感や喜びは、無い。
何故なら私は、神が既に用意している次の課題に気づいてしまうからだ。
必死で何かを乗り越えても、この先には
もっと難易度の高い課題がどっかりと据えられているので
いつも絶望する。
目の前の課題をやっと乗り越えても
得られるのは徒労感と絶望だけである。


何も見ず、考えずにいればいいのだ。
自分の考える事も、自分の祈りも所詮全部無駄事、ゴミに過ぎない。
考えずに一生懸命山を乗り越え、次の山も乗り越え、
それを繰り返しているうちに、多分この世の人生が終わってくれる。


こうして振り返って気づいたが、
自分が神から愛される事は、私の場合、過去形だ。

イエスがろばに乗って(ゼカリヤ9;9)

2008-04-04 21:51:26 | 預言書
見よ、
あなたの王が来る。
彼は神に従い、
勝利を与えられた者
高ぶることなく、
ろばに乗って来る
雌ろばの子である
ろばに乗って。
     (ゼカリヤ9;9 新共同訳)


さっきじじ宅に行くと、
じじが自分から私に話した。


「あのな、
 こないだ牧師先生が来てな、
 聖書の話してさ。」


「ふん。どんな話。」


「あのな、
 イエス・キリストがさ、
 ロバに乗って来るだろ。」


「うん。」


「王様みたいに威張らないで、
 立派な馬に乗って行くべきところをさ、
 小さいロバに乗ってさ、
 エルサレムに入って行くだろ。」


「うんうん。」


「・・・・・・・(^ロ^)」


?・・・じじ、笑っている。
何だかやたらと愉快そうな。


「うん。
 イエスは馬でなくて
 ロバに乗ってエルサレムに行くよ。
 それがどうかした?」


「うん。それがな・・・(>m<)・・・(笑)」


なんじゃー
おいおい大丈夫かい。
壊れたか?


「イ・・・イエスがさ、
 イエスがロバに乗って・・・・(>∀<)」


「うん、イエスがロバに乗って、・・・」


あ・・・何だか
こっちにまで笑いが伝染してきたぞ。
・・・くっ・・・・耐えられねー。。。


「イエスがさ・・・立派な馬でなくて
 ロバに乗ってさ、・・・ ・・・ ・・・・」


「だ・だから、
 イエスがロバに乗ってどうしたのっ・・・」


「エルサレムに、・・・・
 エルサレムに行ったんだ。」


「うんっ、それでっ・・・・」


これ笑う箇所か?
何でツボにはまるかなロバに乗ったキリストが。


「俺はそれが気に入ったんだ、
 牧師先生にそう言ってやった。(^o^)」


「牧師先生何て言ってた?」


「笑ってた。。。。。」


そりゃ笑うわ。
これだけツボにはまった笑いで言われたら
笑いたくなくても笑わせられる。


「キリストがな、・・・」


もういいもういい・・・・・orz・・・ぐ・腹・・・・痛・・・


(何もそこまで笑わなくても。)


じじ、
呼吸を整えながらまだ言ってる。


「俺はそこが気に入ったんだ。
 ロバに乗って来るのが。」


「うん。」


「偉ぶらないで
 ロバに乗って来るところが。」


「・・・わかったわかった
 (ひぃ~やめちくり!o(T□T;)o。。。)」


「変か?」


「いやいや、変でないさ。
 お父さん、
 この箇所を大好きだって言う人は
 他にもいるんだよ。
 私もこの箇所は好きだ。
 有名な牧師先生のニックネームの由来になってるし
 ラジオに出てた神父様は
 キリストを乗せた小さなロバに自分を見立てて
 黙想するらしいよ。
 私も大好きだ、この場面。」


「そうかぁー
 他にもこの場面を好きな人がいるのかぁー(^。^)」


じじにとっては
初めて自分の手で開いた旧約聖書がこの箇所だ。
私が電話で誘導して
時間かかったけど
じじが自分で開いて見つけた、
旧約の中の救い主の到来を預言する箇所、
ゼカリヤ9;9。
受洗前にマルコを読んだ時、
参照したこの箇所に
余程のインパクトを味わったらしい。


じじがこんなに愉快そうに聖書の話をするのは
予想外だ。


「牧師先生は
 イエス・キリストは平和主義だと言ってた。
 それで馬でなくてロバなんだと。」


主義・・・んー・・・σ(-"-)・・・ま、確かにそうだ。


じじ、語る語る。
キリストがロバに乗って
もう3回くらいぐるぐる回ってる。
よほど好きなのだ。
イエス・キリストが。


こういう具合に
じじがキリストに惚れ込んでいるので
近日中にマタイを読み始めよう。
楽しいな。

担われた道程(イザヤ46;3~4)

2006-10-15 10:37:58 | 預言書
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、私は背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
私は背負って、救い出そう。
            (イザヤ46:3~4 新改訳)


担われた者は誰だろう。
自分とイエス・キリストとの関わりが
何時何処から始まったか考える。


何時からといえば、
字もろくに読めなかった5歳の時に見た映画、
『奇跡の丘』の中であり、
それ以前でもある。


教会についても、
数あるキリスト教会の教派の中の
何故メノナイト教会なのか?
私自身が自らの意志で
メノナイトという教派を選んだのでは断じてない。
30歳になった頃、
イエス・キリストに対する懐かしい感情の記憶が
嗅覚のように働いて、
自分の居場所はここだと確信した。


メノナイトの中の白石教会の人々が
私という者を受け入れてくれたので、
私は信仰告白した。
メノナイトが特別に良い訳ではなく、
メノナイトでなければならない理由はどこにもない。
キリスト教の教会ならば何処でも良かったが、
主なる神様の方で決めて
私に居場所を与えて下さったのだと思う。


決められたのは今ではなく私が生まれる前の事だった。
父が独身の時、
旧国鉄の機関士として働くうち機関車に右脚を轢かれた。
機関区で働けなくなったので
父は商業高校の夜学で経理を学んだ。
その時の英語と音楽の教師は夫婦で
二人ともメノナイトの教会員だった。
英語の教師の方は20年の後に
私が大学で学ぶアメリカ現代詩の教授となった。
私は恩師に反目して教会を飛び出す放蕩児だったが、
教授との出会いは教会に関わる最初の機会になった。


母が私を出産した時に
私をこの世に取り上げてくれた産科医も
メノナイトの教会員だった。


私が小学生になって通った英語教室の二人の先生達は、
当時はバプテストの教会員だったが、
二人とも後になってメノナイトの教会員として再会した。
そのうち一方の先生の伴侶となった人は
父の職場で働いていた事がある。


数あるキリスト教会の中で、
メノナイトだけが私達親子と人脈が直接接触している。
理由は分からないが主がお決めになったらしい。
自分で選んでここに来たと思うのは驕りである。
自分が生まれる前から
主は憶えて下さっていたのだと私は確信している。
私の歩みは自らの足で歩いて来たのではなく、
これまでの歩みも、これからの歩みも、
全て主に担われた道程だ。


教会に集っている人々のうち、
招かれていない人は一人もいない。
人は招かれ、運ばれて、教会に集められる。
キリスト者になっても
万事が何もかも安泰という訳ではなく、
むしろ悩みや問題だらけだ。
しかし私達は同じように悩みや問題を抱えており、
お互いにとりなしの祈りを捧げながら支え合っている。
こうして神の国を実現出来ると、私は確信している。


私の信仰の道程は、
例えば父と母それぞれの
道程の途中に転がっている石か足場の
一つに過ぎない。
自分が担われた者である事を私は知っている。

『アシュラ』(イザヤ45;9~10)

2006-07-12 00:06:02 | 預言書
ああ。
陶器が陶器を作る物に抗議するように
自分を作った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、
「あなたの作った物には手がついていない。」
などと言うであろうか。
ああ。
自分の父に「なぜ、子供を産むのか。」と言い、
母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
                (イザヤ45;9~10)


ジョージ秋山著『アシュラ』幻冬舎文庫 平成18年


ジョージ秋山は預言者だ。

小学生の頃近所の同級生の家に行くと、
中学生のお兄ちゃんがいて、
週刊『少年マガジン』を見せて貰った。
その中に連載されていた『アシュラ』は、
当時の教育関係者やバカなPTAのバッシングに遭って
確か発禁だったか連載中止だったか、
とにかく私達の手の届かない「禁書」になってしまった。
といってもその頃の私の頭でどの程度理解できたかは、
あやしい。


私は人肉を食べないけど
アシュラは私の中にいる。
アシュラの台詞、読んでごらん。

 なんでおれを生んだギャ

 どうしておれの母親はあんなんだギャ

 どうして父親はおまえなんだ

 なにに希望をもつんだギャ
 希望なんかないギャ
 幻だギャ
 希望をもつなんて…ごまかしだギャ
 むりに生きるためのごまかしだギャ

 生まれてこないほうがよかったのに
 (ジョージ秋山著『アシュラ』幻冬舎文庫 平成18年より)

これ、私だ。
主人公に共感するのは私だけでなくて、
実は今の世の中にたくさんいるんじゃないだろうか。


当時の教育関係者やPTAには読解力がなかったのだ。
解説の島田雅彦氏が言っているように、
私が週刊『少年マガジン』を読み耽っていた当時は
ベトナム戦争の真っ最中だった。
焼夷弾の雨が降るサイゴン市で
全裸の女の子が泣き叫んで逃げ惑う写真と、
飢餓のビアフラで、
枯れ枝のような手足と
腹がまん丸くぼこんと突き出た子供達の写真を覚えている。
父が毎月買っていた月刊誌『アサヒカメラ』で見て
私も子供ながらにショックを受けた。
当時は世の中全体がその惨状に注目していた。
だから『アシュラ』の連載当時は
物語の背景にある飢饉とか、
追い詰められて人肉までも喰う点ばかりに
注目されてしまったのかも知れない。


主人公アシュラと同じ痛い心理を持つ人にとって、
ジョージ秋山は預言者だ。
30年以上経った今『アシュラ』を読むと、
その先見の明に仰天する。

わからない(イザヤ46;3~4)

2006-07-11 19:23:48 | 預言書
何となく読み返している。


 胎内にいる時からになわれており、
 生まれる前から運ばれた者よ。
 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
 あなたがたがしらがになっても、私は背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 私は背負って、救い出そう。
           (イザヤ46;3~4 新改訳)


担われて、何処に行くんだろう。

母の日(イザヤ45;9~10)

2006-07-11 11:00:26 | 預言書
ああ。
陶器が陶器を作る物に抗議するように
自分を作った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、
「あなたの作った物には手がついていない。」
などと言うであろうか。
ああ。
自分の父に
「なぜ、子供を産むのか。」と言い、
母に
「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
                  (イザヤ45;9~10)


出生時に私を取り上げた産科医はキリスト者で
たまたまメノナイトの教会員だった。
同じ教派の教会で受洗すると聞いて、
私の洗礼式に祝福を下さった。
祝電の電文を読んで申し訳ないと思った。
自分が生まれた事を喜んでいないからだ。


中身が腐って崩壊した家庭、
物心両面整わない不安定な状況下で
母は私を産んだ。
母にとって私は
自分の身から出た物でありながら心身の重荷であり、
得体の知れない生き物だったに違いない。
「もっと子供らしくしなさい!」
これは母の私に対する長年の口癖だった。
自分は母親の八つ当たりの対象に過ぎない、
親子関係とはそういうものだと
私は小学校入学以前から親の理解を得る努力を放棄した。
母の目に私という子供は、
扱いにくい気味の悪い子供だったと思う。
記憶に残る母の人間像は
小学生当時の私よりも子供じみている。
例えば私の描いた絵を目の前で破り捨てる。
クレヨンをばらばらに折って足で踏み付ける。
絵を描く事に熱中していて、
色だらけになった手の汚れが
洗っても落ちない事が制裁の理由だった。
私は隠れて絵を描き、本を読み、書いた物を隠した。


ある日曜日、
朝食の準備をしていた母が突然電話口で泣き出した。
電話は親しい人の訃報だった。
入院中だった知人が、
その日の未明にベッドから転落して死んでいた。
新聞を読んでいた父がそれを嘲笑った。
吐き捨てるように母に投げた父の言葉を私は今も一字一句、
父の表情まではっきり憶えている。
「泣いたからって死んだ者が帰って来るか。馬鹿が。」
母は家計の足しにするために、
私が小学校1年の時から生命保険の外交員を5年間と、
菓子店のケーキ作りのパートを約10年間働いていた。
仕事で帰宅が遅れ、
帰るなり慌てて夕食を作る母に対して、
父は常にソファに座って新聞の横から
侮蔑的な表情を向けていた。
妻がパートで働く事を
家計の助けとして評価せず、感謝する事もなく、
道楽者の小遣い稼ぎだと公言していた。
父は常に私達子供の前で
露骨に母を見下す態度を表していた。
パート帰りで毎日疲れて家事をする母に、
父はもちろん、私も妹も、
家族の中の誰一人として一言でも
ねぎらいの言葉をかけた者はなかった。
私が中学の時、朝突然母が倒れた事がある。
父は母を振り返る事なく無言で出勤した。
「ちょっと立ちくらみがして気分が悪くなった」という母を
横目に見ながら私も登校した。


高校卒業後、
私は札幌の大学に進学、卒業後も札幌に就職した。
父が定年退職して再就職、
単身赴任した時も私は帰省しなかった。
父の定年と同時に妹も横浜に就職して家を出た。
父は自分の荷物だけを先に母に荷造りさせて
地方に引っ越して行った。
13年間住んだ団地からの引越しを、
母は物の整理も荷造りも後片付けも掃除も、
家族が誰一人手伝わない中全て一人で行なった。


その年の母の日、
私は思い付きでコンビニのちっぽけな造花を郵送した。
1週間経った頃母から手紙が来た。
「家の中が片付いて、誰もいない。
新聞受けに封筒が入っていて
中のカーネーションを見たら泣いてしまった。」
家族の中で誰一人母の孤独を思いやらなかった事を思った。
それから私は何度か母に電話して他愛ない会話をした。
しばらくして、母が電話に出なくなった。
何度電話しても留守の状態が続いた。
母の知人が私に告げた。
その人の経営する店で飲んだり
パチンコで気晴らしするうちに、
若い男に熱をあげて金ヅルになり、
家にまで出入りさせていると。
しかしそんな讒言を聞くまでもなく私は勘付いていた。
誰でもいいから、母は誰かから愛されたかったのだと思う。


人格の歪んだ父という人間と
長年付き合ってきた母にしてみれば、
どんな男でも父よりはまともな
人間味のある血の通った人物に見えたに違いない。
私は真っ直ぐ父の赴任先に出向いた。
母に直接事実を確かめるよりも先に父に話をしたのは、
長年押し殺していた家族、家庭に対する破壊衝動が
抑え切れなくなったからだ。
予想通り、父はすでに近所の人から聞いて知っていた。
実際はその時点で既に母は男と関わりが切れていた事や
一方的に母が思い込みで
想いを寄せていただけだという事実など、
私には問題ではなかった。
私は父に離婚を勧め、よく考えて話し合ってみろと言った。
父は札幌に戻る私と同じ列車に途中まで同乗して駅で降りた。
市役所に行くと言って
駅を立ち去った父の後ろ姿を列車のガラス越しに見た。
父の生い立ちを考えると気の毒な人間には違いないと思った。


私は母にも離婚を勧めてよく考えてみろと言った。
母は私の詮索を非難し、自分の不幸をことさら強調した。
「私は25年間もあんた達の為に我慢して来た。
あんたなんか産まなきゃよかった。
我慢して育ててやったのに。」
私も容赦なく返した。
「だらしない女だ。
我慢したのは自分の意志で選んでした事だ。
人のせいにするんじゃない。」
電話でそんな罵りあいをした後、
明け方になって突然胸痛が起こった。
精神的なストレスだろうと思って不貞寝していると、
激痛に変わって目の前がチカチカ光り始めた。
私は自分で救急車を呼んで入院した。
何の事はない、
米粒大の小さな胆石が見つかって開腹手術した。


「切った。」
終わって半月経ってから父と母それぞれに一報した。
半年ほど経って母から札幌に来ていると電話があった。
「今日これから会えない?」と言う母に
私の投げ返した言葉は「忙しいから。じゃ。」
それきり15年以上会わなかった。
母はあの造花のカーネーションを残して出て行った。
私はゴミの日にそれを捨てた。


今から3年前、母が脳腫瘍の手術を受けたと聞いた。
人間関係の摩擦が多く孤独に暮らす母を
心配した従姉から妹に知らせてきた。
私も妹も母の入院先を訪ねる事はしなかった。
いつもボーっと考え事をしに行く近所の聖堂で、
神父様に声をかけられた。フランシスコ会の修道士だ。
「あなたのご両親はお元気ですか?」
何でその時に限ってその人はそこにいて、
何でそれを聞いたのだろう。
脳梗塞で在宅介護を受けている父親は相変わらずだ、
最近母親の方が脳腫瘍を摘出したらしいが絶縁なので
詳しい事は知らないと答えた。
神父様は溜息をついた。
「親子ってそんなものなんですかねぇ。」
「私達にとっては親子であるという事はそんなものです。
生まれた事も今生かされている事も
何かの懲罰を受けている気がします。
キリストを信仰する者としては
間違っているかも知れないけど。」
「あれれ、どうしてそんな風に考えるの。信仰は恵みだよ。」
「ありがとうございます。神父様。」


その年の暮れ、父の古くなったコートを買い換えるのに、
思いつきで母のものも買って送った。
従姉に連絡した。
母には娘が2人もありながら何もせず、
従姉に甘えて母の面倒を見させてきた理不尽を
申し訳ないと謝罪したかった。
母は単純に喜んだ。
私は母親との関わりを回復した。


私の母親という女は、
何か贈ったり食べさせたり、都合のいい時はありがたがるが、
体力低下した父の住環境整備のために私が仕事を辞めると
「いい年して無職、路頭に迷ったごくつぶし」、
手術の直後に身の回りをうろうろされたくないので
退院するまで近寄らないように言うと、
思い通りにならない事でヒステリーを起こす。
「具合が悪い。私の体調不良はあんたのせいだ。」
気に入らない事や思い通りにならない事があると
不定愁訴が起こる。
「精神的なストレスで心臓の具合が悪い」
「胸が苦しくなった」
「動悸がする」
「目眩がする」



電話で何か用件を話そうとしても、
こちらが口を開く間すらないほど喋り続ける。
自分が欲しい物の事、
自分が好きな韓国俳優、
自分がしたい事、
自分がして欲しい事。
ぶっ壊れたラジカセのように延々喋り続ける。
「聞く」という機能が欠落した生き物。
この人は私が子供だった時からずっと、私よりも子供だった。
私よりもずっと子供らしい子供だった。今でも。
こんな女は子供など産むべきではなかったのだ。


結婚という儀式さえ済ませれば
後は何もしなくても女が家庭を作ってくれて
子供が生まれれば
手放しで幸せももれなくついてくると
身勝手な期待をした父親という男も愚かだが、


相手の身勝手な期待を見抜く事もせず、
甘ったるい言葉だけを都合よく鵜呑みにして、
結婚すればあれこれ買ってくれて、
いろんな所に連れて行ってくれて、
あれもしてくれてこれもしてくれて、
手放しで相手が自分を幸せにしてくれると
信じ込んでた母親という女はこちらが絶望するほど愚かだ。


間抜けだね。
愛されて当たり前と思ってるから愛されないって事に
気がつかないのか。
自分が幸せかどうかなんて考えてるから
不幸なんだ。
幸せになりたかったら
自分が幸せかどうかよりも
自分と一緒にいる相手が幸せかどうか考えなよ。
お互いの顔も忘れた今となってはもう遅いけどね。

生きよ(エゼキエル18;32)

2006-07-06 19:01:19 | 預言書
エゼキエル書 18;32
なぜおまえは死のうとするのか。
悔い改めて、生きよ。


これを読んだ時、私に言われた言葉だと思った。
文の前後の脈絡を無視して
勝手な解釈で思い込むのは良くないが、
文脈など考える余裕のない時もある。
エゼキエルを最初に読んだのは洗礼から1年目の頃だ。
読むものがなくて、ただぱらぱらと聖書を捲って眺めていた。
内臓の故障で入院していた20代後半の精神状態を、
私は30歳で洗礼を受けた翌年になってもまだ引き摺っていた。
洗礼は受けたけど
やっぱり死のうと思って荷物を整理していたら、
自分の書いた20歳前後の頃のノートが出てきた。
書かれてあるものを読む限り、自分は死んでいた。
自分で自分の骨を拾う夢ばかり見ている、魂の死んだ自分だ。
生まれて養われて生きてきたが、魂は死んでいた。
洗礼を受けても生きているとは言えない、
まだ死んでいると思った。
その古いノートはゴミ袋に入れて外に出した。


20代後半の数年間、
私は自分でもひどい抑鬱状態にあったと思う。
生死に関わるような重大な疾患でもないのに、
25歳を過ぎてからの2年間に
開腹を2回、足の骨を1回手術して、3年目には急性膵炎。
経過もはっきりせずだらだら長期入院したまま
仕事も辞めてしまっていた。
抑鬱の原因は内臓の故障ではないと私は自覚していた。
何かのちょっとしたきっかけで、
幼児期の頃の自分の人格が甦ってくる気がして、
私は自分自身に危機感を持っていた。
逆上する父と母の幼稚な心理にびくつき翻弄された記憶。
意味も解らず脅かされたり叩かれながら、
怒りの出所を探しておろおろした。
父と母は次第に手を挙げるよりも
言葉を凶器として使うようになった。
私は彼らから人間を軽蔑する術を学んだ。
子供が養う者に対して求める役割は、
共感であり、理解であったはずだ。
しかし彼らは自らの役割を果たさないのに、
私には扱いやすい子供であれと要求した。
外面の整った家族に対する破壊衝動を
押し殺すのには忍耐がいる。

それにしてもお父さん、お母さん、
あなた方は自分達が何を生んで何を育てているか
知ってたんですか?
知らないですよね。
今も。

中学生の頃、
私は眠っている両親の頭を叩き割る妄想に捉われたりしたが、
手近にバットがなかったのは彼らにとっても私にとっても
幸いといえば幸いだったに違いない。
しかしそれを実行する事はあり得なかった。
何故なら愚劣な妄想に捉われている自分自身を
嘲笑しながら冷静に眺めている自分の存在に
目をつぶる事ができなかったからだ。
私は密かに何度か自分の首に紐を巻いては失敗した。


私が26歳の時に父と母は離婚した、
というか私が離婚に追い込んだ。
「二人とも、いい加減にもう別れた方がいい。
自分達でよく考えて。」
25年間の色々な親族の利害と家庭の事情あっての事だったが、
長女の口から吐き出たその言葉によって、
それまで険悪な空気を押し殺してきた夫婦は
具体的な行動を取るように
それぞれ追い立てられた形になった。
父と母がそれぞれ孤独に年老いて、
誰にも看取られず惨めに死ぬ事を、
その時私は心から願っていた。
自意識の中で5歳児の怨霊が勝ち誇っていた。
「ざまあみろ」
キリストから最も遠い所にいた時の私自身の心理である。


こんな自分の思考回路は異常だ。
私は市電に乗って精神科の病院を訪ね、受診した。
「私は鬱病だと思います。違うでしょうか。」
私を診察した医師は副院長だった。
白衣を着た巨大ゆでたまごのような体格をしていて、
眉毛がミミズクみたいに顔の外まではみ出し、
目蓋が垂れ下がっていながら
掛け軸のダルマのようなぎょろ目だった。
診察室で医師は私の話を聞いて愉快そうに笑った。
「自分から病気だと言って来る人は違うんですよ。
あなたの場合、両親の離婚、親類とのトラブル、
それと自分の病気、
手術後の体力低下による日常生活動作に対する自信喪失、
しかも目標達成と食っていかなければならないという
営業職のプレッシャーもある。
これだけ原因があるんだから落ち込むのが正常。
あなたの今のこの状況ではしゃいでいたら病気です。
つまりうちの診療科目の治療の対象ではない、
むしろ精神的に健康な状態だと思います。
眠れないなら、それなりに一応睡眠薬だけ出しときます。
あのね、言っとくけど、
これまとめて全部飲んでも死ねませんからね。」
精神科医の言っていた事は正しいかも知れないが、
圏外か。
見捨てられた気分だった。
(この頃の話をすると、教会の知人は一様に同じ事を言う。
「その時教会の門をくぐって欲しかった。
 何故そうしなかったの?」)


精神病でもなく、生命に関わるほどの大病でもなく、
3度手術を経験した事も大した問題ではない。
ただ、生きるのが嫌で嫌でうんざりしていた。
何もしたくなくて、早く人生が終わらないかと
そんな事ばかり毎日考えていた。
だからといって積極的に死のうとする意欲すらなく
だらだらと心を病み腐らせて
夜昼なく手当たり次第に薬と水ばかり飲んでいだ。
鎮痛剤、消炎剤、鎮咳剤、消化剤、制酸剤、整腸剤、
下剤、利尿剤、鎮暈剤、制吐剤。
馬鹿げた行為だ。
生きていたくないのだから薬も水も必要ないではないか。
全部で8畳程度の広さしかない安アパートの一室を
壁伝いに歩くのがやっとの状態だった20歳代後半。


ほんの数年後、30歳になって洗礼を受けて
キリスト教という安穏とした立場に立って、
かつての自分の醜態を見下ろすのは何故か。
見下ろせるほどに自分が生かされて生きている事を
喜んでいると言えるのか。
5歳児の自分は怨霊になって、
まだ死にきれていないではないか。
油断するとすぐに息を吹き返そうとする。
洗礼を受けて1年過ぎてもまだ
病んだ心理を引き摺っているではないか。
そんな事を自問自答しながら、
ただぱらぱらと聖書を捲って眺めていた。


エゼキエルは
聖書全体の中でも難解で取っ付き難い預言書と思っていた。
敬遠してきたエゼキエルの文面を読むつもりは全然なくて、
ただ時間つぶしのため、
機械的にページを捲って眺めているだけだったが、
何となく
『生きよ』の文字が浮き上がって見えた。
『生きよ』の文字を見ると、
内側に溜め込んで凍ったままの感情が
解けて流れ出て来ようとした。
賜った人生の貴重な時間を無駄にしてきた事を思った。


職探しに困って
追い立てられるように病院で働く事になったのは、
無駄にした分の人生の時間を償う機会を
与えられたのかも知れないと思った。
死にたくなくても死ななければならない人々が
私の残りの時間を使うのだ。
私が生きるのを嫌だと思っていた時間の分だけ、
彼らにこそ使う権利があるはずだ。
私は実りのない枝だから。
『悔い改めて、生きよ。』
『生きよ』の文字を見ると泣きたい気がする。

引かれていく子羊のように(イザヤ53;7)

2006-07-05 15:48:38 | 預言書
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に
引かれていく子羊のように、
毛を刈る者の前で
黙っている
雌羊のように、
彼は口を開かない。(イザヤ53;7)


看護助手という、無資格で曖昧な職種を徐々に排除して
全ての業務を看護師にさせようとする動きがあった。
病棟師長から進学を勧められた。
「あなた、仕事が好きなら準看でいいから資格取りなさいよ。
皆、準看資格取って働きながら正看コースに進学してるよ。」
年取っているし、金ないし、頭悪いし、とぐずぐずしたら、
「そんな心配は学校に合格してからするもんだわ。」
と切り返され。
手足を洗って入浴させて、排泄の世話をして、
休みの日には散歩して、日曜には教会に行き、
学生達やちびっ子達と遊び、
わいわい騒ぎながらいろんな教会行事をする。
ずっとそんな平穏な生活が続くかというと、
やっぱり手に入った瞬間取り上げられるのか。
他の老人病院に転職して看護助手を続けるか、
今の職場にしがみついて進学するか。
ダメモトで受験したら合格した。
奨学金を受けて進学すると
卒業後は悪名高いお礼奉公2年間が待っている。
さらに正看コースに進学したらお礼奉公も3年延びる。
準看、正看卒業に5年、お礼奉公も5年。全部で10年。
奨学金で進学した看護師の身分は女郎みたいなものだ。
女郎の身分の間に、急性期から慢性期、回復期、在宅看護まで
脳神経疾患の全プロセスの業務を習得できるなら、
ありがたいと考えよう。
自分が貪欲に食い付いてさえいけば。
しかし最大の難関は臨床実習・・・。
実習は勤務する脳外科分野だけではないのだ。当たり前だが。


働きながらの通学は
当たり前にきつかったが、それは誰でも同じ。
しかし臨床実習は別の意味でしんどかった。
脱落者が出るのもこの時期。
毎日レポート。
削るものないから睡眠時間を削る他に道はない。
しかし一番きつかったのはそんな事ではなくて、
小児科病棟の実習。
小児癌や白血病の患児と母親への看護実習。
正直もうやめたいと思った。直視できなくて。


小児科の臨床実習の最中、
私は思い立って古い本を引っ張り出した。
『ママ、千華を助けて』
     (井上和枝著・サンケイ新聞出版局・昭和50年版)
千華ちゃんは再生不良性貧血だった。享年8歳。
母親による闘病記が
日本で最初のクロマイ薬害訴訟の始まりだった。
昭和40年頃、
大量に出回っていたクロラムフェニコール(クロマイ)の
副作用に世の中が初めて注目した。
千華ちゃんがいなければ犠牲者は増えたに違いない。
中学生の時に読んだその闘病記を
私はなぜか捨てる気になれず今も持っている。
姓が同じで、早生まれの千華ちゃんは私の妹と年が近いためか
妙な親近感があり、
私自身高熱でチョコ玉状のクロマイ錠を飲んだ事があった。
症状が軽くなると
母は医師の指示を無視して途中で薬を処分した。
ちょうどその頃に、
私は頻繁な鼻出血と貧血症状で2、3年治療した記憶がある。
クロマイとの因果関係は今となっては調べようもないが
この本を読んだ時はまさかと疑った。

千華ちゃんはカーテンを引き、
教会付属の幼稚園で習ったように祈った。
「神様、病気を治して下さい。」

実習で、私は千華ちゃんが生前何度も耐えた
骨髄穿刺や腰椎穿刺の介助をした。
特に骨髄穿刺は骨髄の造血機能を調べるために
どうしても必要な検査だ。
疾患の判定も、化学療法の評価も、
この検査が重要な判定材料になる。
小児科の子供達は
同じ年頃の持つ当たり前の楽しい時間を剥奪されている。
その代わりに1日でも長く、
せめて5年を生き延びるための治療の日々。


本当は走り回って、転んで、おもちゃ取り合ってケンカして、
踊って、コミックの新刊や新しいゲーム買いに行って、
大声でアニメの歌を歌って、買い食いして、オシャレして、
サッカーの真似してボール蹴飛ばして、花火して、
カブトムシの幼虫育てて、ハムスターに餌やって、
犬の散歩して、猫抱いて、キャンプして、泳いで、スキーして、
もっといろんな、
もっともっといろんな事がしたいだろう。


1日は長く辛い。抗癌剤を5、6種類も併用し、
体内の悪性細胞を叩いて叩いて叩きまくる。
副作用で激しい全身症状が起こる。
白血球が減って感染が危険だからと隔離される。
同じ病棟で仲良くなった子と昨日は遊べたけど、
今日は会えない。
思春期なのに頭髪が全部抜ける。
家族との面会も禁止され、会えないまま力尽きる事もある。
そして長い長い闘病の日々に、
骨髄穿刺や腰椎穿刺という痛い検査を受け続ける。
子供達は
マルク(骨髄穿刺)とかルンバール(腰椎穿刺)という
臨床医学用語を会話の中で何気なく普通に口にする。
ベッドサイドのカレンダーに書き込んでいる子もいる。
その日が近づいてくると、不機嫌になったり無口になる。


そんな子供をなす術もなく見守っている親に
どんな言葉をかけろというのだ。


闘病記の中で千華ちゃんが一番嫌いだったのは、
やはり骨髄穿刺だった。
骨髄穿刺用の針は長さ約6~7cm、
外筒の太さはボールペンの芯と同じ位。
私達は母親を締め出した処置室で、
泣き叫ぶ子供の身体に馬乗りになって
2、3人がかりで押さえつける。
医師が穿刺針を子供の腸骨にぐりぐりと垂直に深く刺し込み、
骨髄を吸い上げる。
大人でも絶叫するだろう。
不安の強い子、我慢できない子は暴れる。
危ないとか危険とか理解できるはずもないし、
理解していても恐怖には勝てない。
腰椎穿刺の時は
茹でたエビのように体を丸めて、背骨に刺される。
私が腰椎穿刺の介助についた時、その子は動きが激しかった。
穿刺の瞬間はじっとしていたのに、
脳脊髄液をスピッツに一滴ずつ採取するのが
我慢出来なくて苛立って、
椎骨と椎骨の間に穿刺針が刺さったまま
一瞬ツイストを踊るように身体を捻った。
医師があっと声を洩らしてすぐ針を抜いた。
長いルンバール針が直角に折れ曲がって出て来た。
処置が終わった後、
どうやって自分が廊下に出たか憶えていない。
全身冷や汗でぐっしょり、
顔から血が引いて目の前が真っ白だった。
大人が見ただけでも気絶しかけるような、
あの鋭く長く太い針を、
あの子供達は腰の骨や背骨に刺され続けるのだ。
定期的に毎週、或いは何日か置きに。
あの闘病記の千華ちゃんはこんな思いをしていたのか・・・。
しかし入院の長い子は10歳にもならないのに
無言で黙々と自分から衣服を脱ぎ処置台の上に仰向けに寝る。
その無抵抗な諦めきった姿を、
私は実習の間毎日息のかかるほど間近で何度も見た。
あの子もこの子も皆、
発病以来100回以上もこれらの検査を受けていた。
この世に生きている限りこれからも週単位で
繰り返し刺され続けるのだ。
力尽きるまで。
1年後、あの中の何人がこの世に生き残っているだろう。


実習の中休みの間、文献探しに勤務する病院の図書室に行くと、
あの千華ちゃんの闘病記が棚にあった。
私が持っている初版は既に絶版になっていたが、
図書室にあったのは裁判を終えた後の
装丁も変えて再版されたものだった。
著者である母親の手で付け加えられた一文が突き刺さった。

「私達はこの裁判で何を得たのだろう。」

ヨナの歌(ヨナ1;1~17)

2006-07-02 14:26:53 | 預言書
私が小学生だった頃、
団地近くのバプテスト教会の一室で、
教会員の青年が小学生に英語を教えていた。
月謝が安いからと母が言った。
同級生達の何人かが同じ教会のオルガン教室に通っていた。
私はなぜか途中でやめたいと思わず、
小学校を卒業するまで5年間通った。
その教会は自宅と小学校の中間にあった。
学校からの帰り道教会に寄って、
私は先生や他の子供達と話をして時間を潰した。
窓を開けると
植樹したばかりで背が高くない白樺の若木がざわざわして、
通りに面した窓ガラスに
映画『塩狩峠』のポスターが色褪せたまま貼られていた。


小柄で猫背の牧師さんが
裏の牧師館と礼拝堂を行ったり来たりしていた。
道で行き会うと、
牧師さんは私の名前を呼んで声をかけてきた。
「井上さん、教会にいらっしゃい。」
牧師さんが名前を覚えていてくれたので私は嬉しかった。
私達は団地の仲間同士で学校帰りに牧師館の庭を通り抜け、
「わーっ」「バカ」「アホ」と叫んで垣根の陰に隠れ伏し、
牧師さんが出て来ないかドキドキワクワクしていた。
クソガキ。
そこで買い食いし、仔猫を拾い、捨て犬に給食のパンをやって
近所の主婦に追っ払われては隠れ、
再び集まってたむろしていた。


同級生の一人が教会の日曜学校に行っていた。
お互いの家を行き来して一緒に遊んだりしたこともあって、
自分も日曜学校に行きたいと言ってみたが、
母は宗教団体に対する盲目的な警戒心から反対した。
「あんたは英語だけ習っていればいいの。
余計な事に首突っ込むんじゃないよ。」
日曜学校はあっさり諦めた。
母など無視して行く事も出来たが、
そうしなくて良かったかも知れない。
その時点で教会に入っても、
所詮教会はただ許されただけの罪人の集まりであり、
社会の縮図に過ぎない現実がある。
教会内の人間関係に幻滅して案外早くに躓き、
以後キリスト教と関わりを持つ上で
重大な障壁となったに違いない。
私は野蛮で傲慢な、子供らしくない子供であり、
家庭・家族・その一員の自分という
人間関係の基礎単位が欠落していたからだ。


日曜学校に行かなくても
週3回の英語教室で教会に出入りする生活は5年間続き、
私は毎年英語教室のクリスマスにも参加した。
学校で終業式が済むと、英語教室の先生は私達のために
ケーキやミカンや飲み物と、
一人一人にプレゼントを用意してくれた。
私達も一人300円以内だったか、プレゼントを持ち寄って
「ももたろさん」を歌いながら交換し、ゲームもした。
早くも陽が落ちて
薄暗くなった狭い教室で、先生がケーキの蝋燭に火を点けた。
私達は照らし出されたお互いの顔を神妙に見合わせた。
「きよしこのよる」や「もろびとこぞりて」を歌いながら、
先生は微笑んで子供達一人一人と視線を交わしていた。
私は信仰を持たず、イエスの教えも祈りも知らなかった。


礼拝堂を覗くと、
古い木製のベンチと、足踏みオルガンと、ピアノがあった。
講壇の横の壁には
日曜学校の聖書の授業のために誰かが作ったのだろうか、
大きな年代表に
小学生が学校で聞いたこともない国々の名前が記されていた。
メソポタミア、バビロニア、アッシリア、ローマ。
出入り口の壁には「ヨナの歌」の歌詞が貼り出されていた。

 ヨナ、ニネベにいらっしゃい
 いいえ、いきたくない
 ヨナ、ニネベにいらっしゃい
 いいえ、いきたくない
 おおきなさかな、ヨナをのんだ
 ヨナはおそれて、たすけてたすけて
 ヨナ、ニネベにいらっしゃい
 はい、いきます
 わたしはヨナのようにかみさまからにげて
 さばきのさかなにのまれたくない・・(詩:V.H.Bateman)

「あれなに、変な歌」
「聖書あげようか。
 小学生にも読める子供用のがあるんだよ。」
「いらない。子供用の聖書なんて本物じゃないよ。」
私はキリストの事を知りたかったが、
子供用のものは何でも偽物だと思っていた。
「聖書にはキリストの事が書いてあるはずなのに、
 ヨナなんて聞いた事ない。」
私は『ヨナの歌』の脅迫的な言い回しに不信を抱いただけで、
「三日三晩魚の腹の中」の象徴的意味など知らなかった。
「本物」の意味も知らないくせに、
「本物の聖書を読むんじゃなきゃ嫌だ」と思っていた。
玄関の左脇には聖書と賛美歌の棚があった。
私は人に見られないように隠れて、何度も聖書を手に取った。
聖書は今でいう口語訳聖書だった。
辞書のように字が小さく漢字だらけで、
小学生が読めるような代物ではなかった。
咎められもしないのに隠れて物陰で盗み見るほどの執着心は、
一体何処から来るものだったのか、今もわからない。
私に与えられたこの世の時間は後どの位だろう。
その間に私は何度聖書を読み、一字一句に何を考えるだろう。


聖書の棚の上に菓子折の空き箱があって、
使用済みの切手がたくさん入っていた。
先生は「欲しいのがあったらあげるよ」と分けてくれた。


あのバプテスト教会の会堂は今もそこにある。
多少改築してはいるが、
牧師館も、屋根の十字架も、礼拝堂も、講壇も、聖句の額縁も
当時のままだ。
あの復活したキリストみたいな
雑品屋のおじさんをよく目撃したカトリック教会も、
今もそこにある。
鐘楼も、聖母マリアの像も、花壇も、幼稚園も当時のまま。
私は成人してから札幌のメノナイト教会で洗礼を受けた。
この地に移って来て
今でもメノナイト教会の教会員である私は
日曜日には礼拝も奉仕も自分の所属する教会で捧げる。
懐かしい二つの教会のために何か奉仕する事もなく、
一方的に恩恵を受けるだけ受けて、ゴミ一つ拾わない。
人が札幌や東京にどんどん流出し、
皆出て行ってしまうこの過疎地で
今日まで何十年もの長い年月の間に、
これらの教会はどれだけの危機や困難に耐え、
乗り越えてきたことだろう。
キリストの体である教会を支え守ってきた司祭や牧師、
信徒達の祈りと労苦を思う。
私はそこからどれ程慰められ、励まされてきたことだろう。
私達が子供の頃に遊んだ空き地と団地と長屋の集落は、
今は高層住宅と病院と葬儀場になっている。
原形を留めないまでに姿を変えた街に、
教会だけが昔の姿のまま生き残っている。
その古い一画は失いたくない記憶の源泉だ。

復活したキリスト(イザヤ53;2)

2006-07-01 16:51:29 | 預言書
彼には、
私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53;2)


小学校に入学して間もなく、図書室で伝記シリーズの棚に
『キュリー夫人』や『ベートーベン』と並んで
『キリスト』を見つけた。
映画『奇跡の丘』ではイエスが十字架の上で
がっくりと頭を垂れるところまでしか覚えていないが、
本にはその続きがあって、イエスは復活していた。
最後まで読んだ時、私は漠然と期待した。
どこかに甦ったイエスがいていつか出会うかも知れない。
単純にそう考えて読み耽った。


その頃両親はよく癇癪を起こした。
その根本的な原因は今思えば
両親の理解の範疇を超える行動ばかりする私にあり、
そして実に彼ら自身の幼稚さにもあったが、
私は彼らにとって都合よく手近な八つ当たりの対象だった。
親が子供に八つ当たりする理由などいくらでもある。
精神疾患の入り口にいたかも知れない、
荒廃した子供の心理を私は未だに忘れていない。
もしイエスの復活を疑っていたら、
破綻しかけていた小学生はどうやって
身の置き場のない日常をやり過ごしただろう。


その頃、道でよく雑品屋のおじさんを見かけた。
おじさんは背が高かった。
夏も冬も一年中同じ服。
煤けた紺のジャンパーと朽ち葉色のズボンはしみだらけで
小さな穴がいくつか開いていた。
つぶれた帽子の後ろから伸びた髪の毛がはみ出ていた。
真っ黒に汚れた軍手をはめ、
泥のこびり付いたボコボコの黒いゴム長靴を履いていた。
黒縁の壜底メガネをかけ、
髭は黒ゴマみたいに剃り残されていた。
笑うと前歯が2本しかなくて、
オロナミンCの看板のメガネの俳優によく似ていた。
真っ黒に油っぽく日焼けしていて、
スープを取った後の鶏のガラみたいに痩せていながら、
いつも崩れそうな廃品の山を前のめりになって引いていた。


おじさんはA子ちゃんの父親だった。
A子ちゃんは私よりも5歳年上で、
身体が大人のように大きく、頭は赤ん坊のように小さかった。
施設の送迎バスを降りるA子ちゃんを見かけると、
小学校から帰る途中の私達は身構えた。
油断しているとA子ちゃんはすぐ叩くのだ。
私も一度知らずにA子ちゃんとすれ違って、
カバンでしたたか腹を叩かれて半泣きになった事がある。
A子ちゃんは私達のような学校帰りの小学生を見ると
追いかけて来て叩こうとする。
ある日、学校帰りに同級生の何人かが囃し立てた。
「わあ、雑品屋のA子だぁ」「逃げろぉ」
私達はきゃあきゃあ騒ぎながら逃げ回って誰も捕まらない。
A子ちゃんは不意に立ち止まってわあわあ泣き出した。
救急車のサイレンみたいにけたたましくて、
皆でびっくりしてポカンと眺めていると、
知らないおばさんが突然現れた。
私達はこっぴどく叱られた。
「アンタ達何やってるの!
A子ちゃんを苛めたら承知しないよっ!」
雑品屋のおじさんを思い出すと、今でもその事で胸が痛む。
カトリック幼稚園の前から赤十字病院の裏、公園の横、
団地の周囲、中学校の横、商店街、
どこでもおじさんを見かけた。
リヤカーを引いて、いつも車道の端っこを歩いていた。
リヤカーは一軒一軒集めて回った不用品で一杯だった。
古新聞、古雑誌、青緑や茶色のガラスの空き壜の山が
今にもおじさんの上に崩れ落ちそうだった。
タクシーや巨大なダンプカーが何台も、
猛スピードでおじさんを追い抜いて行く。
当時まだ舗装されていなかった道路は
真夏には前が見えなくなるほど土埃が舞い上がり、
春先には雪どけ水でぐちゃぐちゃの泥濘となった。
それでも車道の端っこを歩き、
おじさんは車が通る度に頭から泥水をぶっかけられていた。
でも顔を背けもしない。
もの凄い吹雪の時も、土砂降りの時も、
団地の上まで一軒一軒、階段を上って来た。
「こんちはぁ、雑品なかったでしょうかぁ」
母は見もしないで答えた。「なかったですぅ」
「どうもぉ、またよろしくどうぞぉ」
バタンと閉めたドアの外で、
隣の奥さんが同じ応答をしていた。
団地の主婦達は何でおじさんを相手にしないのか。
私は雑品屋のおじさんが気になって仕方がなかった。


A子ちゃんの重荷を背負い、家族の生活を背負って、
崩れそうな廃品の山でリヤカーをゆさゆささせながら、
轟音をたてて通過する車の群れを恐れもせず、
車道の端を黙々と進む。
そんなおじさんの姿が、
群集の怒号を浴びながら
重い十字架を背負って進むイエスの姿と重なる。
私はあの雑品屋のおじさんを、
実は復活したキリストかも知れないと真剣に考えた。
信仰を知らない小学生の目の前で、
復活したキリストは雑品の山を引いて働いていた。