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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

復活の朝のマリア

2011-01-08 19:11:18 | ヨハネ
  「婦人よ、なぜ泣いているのか」

  
  「わたしの主が取り去られました。
   どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」


  「婦人よ、なぜ泣いているのか。
   だれを捜しているのか。」


  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。
   わたしが、あの方を引き取ります。」


  「マリア」


  「先生」

                (ヨハネ20;13~16)


ヨハネ11;1~44、ラザロの復活の場面で、
イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう?


イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築いている。
イエスに厳しい指摘をされてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。
しかしマリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。


成熟した信仰者として教会を支え、
人を招き、もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、
マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。


ラザロが死んだ時、マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、
言葉にならない感情の中で神にどんな思いを抱いていたのだろうか。


自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみる。


マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。


この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐くような苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまう。


  “ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
   神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
   この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
   所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
   本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”(2010.02.11)


ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。


イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。


  あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
  あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
  命の道を教えてくださいます。
  わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
  右の手から永遠の喜びをいただきます。
                  (詩篇16;10)


  私は道であり、真理であり、命である。
                   (ヨハネ14;6)


私は死人ラザロが復活した奇跡よりも、
イエスがこの時マリアに何を伝えようとしたかに注目する。
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
死んだ人間を生き返らせてまでも。


マリアは、
イエスがパンをくれたからとか病気を癒してくれたからという理由で
イエスに付いて行った大勢の人々とは違っていた。


  わたしの信頼していた仲間
  わたしのパンを食べる者が
  威張ってわたしを足げにします。                (詩篇41;10)


  わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
  しかし、
  『わたしのパンを食べている者が、
   わたしに逆らった』
  という聖書の言葉は実現しなければならない。
  事の起こる前に、今、言っておく。
  事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
  あなたがたが信じるようになるためである。
                   (ヨハネ13;18~19)


弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。


  パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
  受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
  多くの人はその奇跡に感嘆する、
  しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
  多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
  慰めを受けている限り彼を祝する。
  しかしイエスが姿を隠し、
  暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
  ひどく落胆する。
  しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
  イエスをイエスとして愛している人は、
  患難や苦しみの時にも
  慰めの時と同様に、
  彼を賛美する。
            (De imitatione Christi)


マリアも
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。
イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。


  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。
   わたしが、あの方を引き取ります。」


マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、私達はこの時のマリアの気持ちが理解出来る。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を共有している。


そんなマリアに、イエスは
「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと言っている。


それまでマリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者となれと、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと
望んでそう言われたのではないか。
マルタのように。
マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れ、教会を支える者である。


弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなく
イエスをイエスとして心底愛した人々が
マリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。
無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに。


2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。

マリア

2010-08-23 15:25:56 | ヨハネ
ヨハネ11;1~44


イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。


イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。


マリアはそうではない。
出迎えにも出ず、自分の思いを表現する言葉も持たず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては
何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼ぶ。


成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮をするマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字で、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。


自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いを僅かに推測したりする。


信じていくら祈っても、病人は結局助からなかった。


“「病気を治して下さい」という血反吐を吐く願いは聞かれない。
 所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎない、
 本当の神の望みとずれているという事か。”(2010.02.11)


イエスは、
この幼稚で未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
死んだ者を生き返らせてまで。

七の七十倍

2010-04-03 18:12:00 | ヨハネ
今日はこれから夕方じじ宅に行って、
福音書の復活の箇所を朗読するつもりでいるのであるが。


前日のルカ22;31~32のイエスの言葉を
鶏の鳴いた後で回想し涙したであろうペトロに
どうしても感情移入してしまう。
その余韻をまだ引き摺っていて、
今日読むヨハネ21章の箇所に来ると泣けてくる。
これではじじもびっくり仰天だ。


復活されたイエスは岸辺で炭火を起こし、
夜通しの漁から疲れて戻ってきた弟子達のためにパンを用意し、
魚を焼いている。
その魚を焼くイエスを、ヨハネの眼を通して私は
弟子達の一人一人に感情移入しながら読んでいる。


イスカリオテのユダは自分の罪を認めて言い表し、
後悔して首を吊って自殺した。


シモン・ペトロは自分がイエスの見聞きしている所で
三度知らないと言った。


他の弟子達も、土壇場でイエスを見捨てて逃げ、
物陰に隠れて息を潜めていた。
12人いた弟子達は誰一人イエスの傍に居残る事無く
一人残らずイエスを見捨てて逃亡した。


復活して目の前に現れたイエスに対峙する弟子達の
ばつの悪い気まずい思い、自責、自己嫌悪、
言葉で表現しようの無い惨めさはどれほどだった事だろう。


弟子達の、文字に描かれていない苦しい思い、
喉元につかえたまま言葉に言い表せない感情が伝わってくる。


「主よ、私はあなたが一番辛い時にあなたを見捨てました。
 あなたを敵の手に渡されるまま見放し、
 あなたが足蹴にされ鞭打たれ十字架を背負わされ歩かされ、
 十字架の重さに耐え切れず下敷きになって倒れた時も、
 あなたの手と足に釘が打ち込まれ、
 あなたが十字架に磔けられて何時間も太陽に焼かれ晒されて
 渇きに苦しんでいるのを、
 私は人々に混じって遠巻きに傍観し、物陰に隠れていました。

 主よ、私は侮辱と暴行の苦しみの中にあなたを置き去りにしました。
 私はあなたに対して罪を犯しました。
 もうあなたの弟子と呼ばれる資格はありません。
 この弱く愚かな、惨めな私を憐れんで下さい。
 主よどうか卑怯者の私をお赦し下さい。」


復活したイエスは弟子達の裏切りを責めない。
夜通し漁に出ても何も獲れなかった弟子達の疲れと空腹を労い、
何処に網を打てば魚が獲れるかを告げ、岸辺で朝食の用意をしていた。
弟子達のために。
裏切りを責める事無く、
ただ「おいで、朝の食事をしなさい。」と言って
パンと魚を取って弟子達に与えられた。
イエスから与えられたパンと魚はどんな味がしただろう。
この箇所を読むと胸が詰まる。


福音記者ヨハネは
息遣いを感じるほど間近で接した者だけが描き得るイエスであり、
細部まで克明に、見たまま触って感じたままのイエスの姿を
生き生きと浮かび上がらせる。
まるで魚を焼くイエスの息遣いや体温がこちらに伝わるような、
横顔が眼に見えるような克明な描き方をしている。


イエスは弟子達を責める事無く、
無条件で赦しておられた事が読者に伝わってくる。
弟子達が後悔したから赦すのではなく
弟子達が謝罪したから赦すのではなく
弟子達が償いをしたから赦すのではなく
ただ、無条件でご自分を裏切った弟子達を赦している。


ルカ福音書の放蕩息子の譬えや七の七十倍までも赦せという訓戒を通して
教えの中で一貫してイエスが語り続けられた無条件の赦しが、
火を起こし、魚を焼き、食事を勧めて与える行為に込められている。


それに気づいてからこの箇所を読むと、
泣けてきてダメだ。
ペトロや他の弟子達にどうしても感情移入してしまう。






個人的な解釈であるが、
もしユダが自殺せずにその時まだ生きていたら。
もしイスカリオテのユダが自殺せずに
失意と自己嫌悪に打ちひしがれて生き残り、弟子達の群れの隅で
小さくなっていたとしたら、イエスはユダを赦しただろうか。
私は赦したであろうと思う。
ペトロと同様に。
裏切りも後悔も、ユダと他の弟子達との間に差は無い。
イエスの赦しは無条件の赦しだから。


ユダは自殺さえしなければ
悔い改めと和解の機会が無条件に与えられ、
イエスの方から手を差し伸べ
迎えに来てくれたかも知れないのに
自ら死ぬ事でその道を封じてしまった。






主の祈りの祈りの中で、
私達が自らしなければならない唯一の事は、人を赦す事である。
イエスは福音書の中で七の七十倍までも赦せと私達に教えられた。
イエスがご自分を裏切った弟子達を無条件で赦されたように、
私達も同じように無条件で人を赦しなさいと教えている。
それが主の祈りの中で私達に神から要求されている唯一の事。
それが出来なくて私達はいつも苦しんでいる。

聴く

2010-02-13 01:05:36 | ヨハネ
「羊はその声を聞き分ける」
            (ヨハネ10;1~5)



読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第七話 神に聴くこと


  私たちがもっとキリスト教的な祈り、
  キリストに従っていく生き方をしようとするならば、
  神にお願いする前に、もっと大切な態度があるはずです。
  それは、神に聴くことと、従うことです。
  もし私たちにこの態度がなければ、
  いくら私たちが自分の望みに従って
  生きがいのある充実した毎日を生きていたとしても、
  キリスト者にとってほとんど意味もない人生だと言えるでしょう。
  神を信じていない人と、
  キリストを信じている私たちの違いというのは、
  まさに神が自分に何を望んでいるかをよく聴き、
  それに従って生きているという点にあると思います。
                      (本文より) 


10年くらい前、
聖書を読んでいて神に要求ばかりする者ではなく
神に聴き、神の御旨を受け入れ、神に従う者であれたらと思った。
いつだったか忘れた。
この土地に移って来て間もなくの頃だ。
読んでいた聖書の箇所はヨハネ2;23~25だった。


  多くの人がイエスの行なった奇跡を見て信じたが
  イエス御自身は彼らを信用されなかった。
                      (ヨハネ2;24)


イエスを信じたのに、イエスからは信用されなかった人々。
一方通行な虚しい信仰の在り方を、ヨハネは厳しく言い表わしている。


  イエスは
  何が人間の心の中にあるかを
  よく知っておられたのである。
          (ヨハネ2;25)


ヨハネの視線は信仰者に対して厳しい。
信仰の動機、信仰する心の態度を吟味し、評価選別されている気がする。


福音書の時代の一部の人はイエスを担ぎ揚げ、政治的に利用しようとした。
また、
奇跡にばかり注目して自分の願いを盲目的に訴える人も大勢いただろう。
癒されたから信じるとか。
癒されるなら信じるとか。
癒されるように信じるとか。
癒されるまで信じるとか。


彼らのイエスを信じる信仰は不真面目か?デタラメか?
誰もが、彼らだって例外なく癒されたかった筈だ。
病、貧困、抑圧、あらゆる悩み苦しみから癒されたい一心で
イエスを取り巻いて、
ある人はイエスを政治的指導者として、
ある人はイエスを癒し主として、
信じていたのではないだろうか。
彼らなりの信じ方で。
その彼らの信仰のあり方は現世御利益的で自己都合的で一方通行だ。
彼らが熱心であればあるほど、主イエスからは信用されない。
何という悲劇。


批判する資格は私にはない。
何故なら、ヨハネを読んでその事を考えていた10年前、
私は神に要求する者ではなく神に聴く者になりたいと思っていたが
10年経って今この現実の自分はどうだ。
神に聴くどころか要求する事さえ放棄しそうになっている。
一方通行どころか通行止め状態だ。


10年前にも自覚していた。
悩みを抱えたり痛み苦しみがあると
自分の苦痛だけにしか目を向けられない。
苦痛の中で十字架を背負ってよろめきながら
丘を進む御方に目を向ける事が出来なくなる。
イエスを信じたのにイエスからは信用されなかった人々と
私自身とどんな違いがあるだろう。
同じ。
同じじゃないか。
キリストを信じているつもりで
キリストからは信用されない自分がいる。
自己都合的で虚しい、一方通行な信仰の在り方。


 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           (De imitatione Christi)



一方通行ではなく
イエスから頂く慰めのためではなく
イエスをイエスとして愛する信仰を持ちたいと思った。
イエスをイエスとして愛するなら、
優等生の空々しい模範解答のようにではなく
取って付けた不自然な予定調和のようにでもなく
苦行のようにでもなく、
自然に聴きたくて自ら望んで、神に聴けるのではないか。
イエスをイエスとして愛する事は神に聴く祈りの動機だ。


  祈りとは、
  神が何を私に望んでいるかを聴くことだと定義することができます。
  神に聴くことなしに、神に従うことはできないからです。
  問題は神のみ旨をいかに聴くか、いかに知るかです。
  ・・・・・
  実際のところ、
  神はさまざまな形で私たちに語りかけているのですが、
  心の受信機を使わないので、錆びついてしまっているのです。
  自然を通して、聖書のみことばを通して、毎日の些細な出来事を通して、
  神はつねに私たちに語りかけているのです。
  ・・・・・
  毎日の出来事を通して、神は何を私に伝えようとしたのでしょうか。
  ふりかえることによって、
  自然と神に感謝したいこと、逆に神に謝りたいことが出てくるでしょう。
  そのよう感謝や痛悔の心から、神に必要なものを願うことができるのです。
                               (本文より)


そうか。
神に何かを願う願いも、神との応答あっての願いか。
応答が無ければ願いも無意味。
しかし神の声は聴こえない。


  もし神の声が聴こえないなら、直接、神に尋ねてみましょう。
  直接尋ねるのが一番です。
  なぜそのことが私に起こったんですかと。
  良いことにせよ、悪いことにせよ、
  神がそれをあなたの人生に送られたのは、何かの意図があるからです。
  それが分からないなら聞きましょう。
  尋ねれば、必ず何らかの形で教えてくれます。
  また、これから何をすべきなのか、それもまず神に尋ねましょう。
  ・・・・・
  「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7;7)
  という聖書のことばは真実です。
  道に迷ってどちらに行けばよいか分からないとき、まず主に聞きましょう。
  必ず何らかの方法で答えてくださいます。
                             (本文より)


尋ねれば神は必ず何らかの形で教えてくれる。
これは案外本当だ。
私自身何度も体験してきた。
ただ自分が鈍くて気づかず後になって気づかされたりした事も多かった。
神はいる。


  私たちには、神の声も直接聞けないし、その姿も見えません。
  しかしその神に私たちが近づくことができるように、
  イエス・キリストが私たちに与えられたのです。
  まずイエス・キリストが何を語り、
  どのように行動したかを黙想してみましょう。
  その中に必ず神の姿を見いだし、神の声を聴くことができるでしょう。
  その意味で聖書はとても大切です。


神の働きをどのような時に感じるか。


  途絶えていた意思の疎通が回復する時。
  長い時間経って過去を振り返った時。


神が自分に直接話しかけてくるとしたら、今の自分に何を言うと思うか。


  お前にはがっかりだ。


神に教えて貰いたい事は。


  いつまでですか?
  まだ終わりませんか?  

望み

2010-02-11 20:51:45 | ヨハネ
「何を求めているのか」
           (ヨハネ1;35~39)


読書メモ。


『道しるべ―霊的生活入門―』(英隆一朗著 新世社 2005年)
第五話 望みについて


小さなお願いと、大きな望みの区別。


毎日の具体的な小さな願いを、神は聞き入れて下さらない。
(病気を治してほしいとか、頭がよくなりたいとか。)
聞き入れられない理由は、
神がその人に小さな願い以上の、
もっと大切なものをプレゼントしたいからだそうだ。


  そのもっと大切なものが、望みです。
  神はあなたにより深く、より大きなことをいつも望まれています。
  ・・・・
  小さな願いはしばしば自己中心的な満足とか、
  自分だけの狭い幸せに関係していて、
  本当の神の望みとしばしば(あるいは、いつも)ずれているからです。
  小さな願いに縛られていて、
  神の大きな望みが分からないところに私達の不幸があるのでしょう。
  だからこそ、一度自分の小さな願いを置いて、
  本当の神の望みは何かを祈りにおいて省みる事が大切です。
                           (本文より)


ここまで読んで思う。
要するに、
何か願っても神は聞き入れてはくれない。
願った事は聞き入れてはくれないが、
神はご自分が与えたいと思うものを私達に与えられる。
たとえどんなに迷惑なものであっても、
神が与えたいと思われるならそれは与えられるという事だ。
作者不詳のこの詩のように。


  大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった


  より偉大なことができるように健康を求めたのに
  よりよきことができるようにと病弱を与えられた


  幸せになろうとして富を求めたのに
  賢明であるようにと貧困を授かった


  世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
  神の前にひざまづくようにと弱さを授かった


  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
  あらゆることを喜べるようにと生命を授かった


  求めたものは一つとして与えられなかったが
  願いはすべて聞き届けられた
  神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


どうよ。
この詩の作者は幸せか?
力と健康と富と権力と人生を享楽するためのあらゆるものを求めたのに
弱さと病弱と貧困と、何でも喜べと生命を与えられた。
詩の最後は優等生的模範解答、「私は祝福されました」で結んでいる。
この詩の作者は幸せか?
この詩の作者に成り代わりたいと人が思うほどに幸せか?
違うでしょう。
望みが叶って幸せなのはこの詩の作者ではなく、
与えたいものを与え満足する神ご自身である。
この人ではない。


「私は祝福されました」と言えるのか?
この詩の作者が詩人ではなく
例えば癌の末期でぼろぼろの患者だったら?
毎日毎日採血、点滴、注射で静脈はぼろぼろ、皮膚は穴だらけ、
抗癌剤で全身火脹れの激痛、高熱、下痢、呼吸苦、骨転移の激痛、
もう幾ら駆血帯で縛ってもどの静脈も浮かないのに針を刺され、
肉体の苦痛に加えて精神的な苦痛に責め苛まれる。
高額の治療費と検査費と入院費の支払いに追い詰められ、
職を失い、紙オムツや毎日通って来る家族の交通費、生活費、
あらゆるものを剥ぎ取られ、何もかも取り上げられ奪い取られて、
最後に力尽きる。
傍らで為す術無く立ち尽くす疲れ切った家族も同様だ。
どれ程切実に「治して下さい、助けて下さい」と祈る事か。
そしてそんな祈りも蹴散らすほどの苦痛に四転八倒しながら
ずたずたになって誰もが死んでいく。
私は目の前で毎日見ている。
私もいつか同じようにして死ぬだろう。
「病気を治して下さい」という血反吐を吐く願いは聞かれない。
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎない、
本当の神の望みとずれているという事か。


私はこの章について神に言いたい事がたくさんある。


  皆さんは本当に心の底からやりたいことをして生きているでしょうか。
  神様があなたにまず第一に望んでいることは、
  心の底から望んでいることを実現してほしいということだと思います。
  人間が生きているのは、義理とか人情ではなく、
  自分がしたいことをするためです。
  自分の本当の望みに生きていくことです。
  自分の本当の望みに生きている人だけが、
  本当に幸せな人であると言えるでしょう。
                     (本文より)


私には、心の底からやりたい事など無い。
子供の時から今に至るまで、そして将来やりたい事も無い。
自分には望みが無い、と思う。


  望みの特徴は、
  そのためなら自分の命を賭けても惜しくない。
  また、そのことを実現しようと思うと心の底から充実感が湧いてくる。
  たとえどんなに困難であっても、
  それに立ち向かっていく勇気と忍耐が与えられるものです。
                           (本文より)


真の望みの要素。


1.自分が本当に幸せであると言える、
  自分がより謙虚に素直になっていくような喜び。


2.自分のまわりの人々に幸せがもたらされること。


3.確かに神もそれを望んでおられるということ。


  自分が望んだ事をするのではなく神から望まれた事をする。
  モーセ。
  イエス・キリストの母マリア。
  マリアの夫ヨセフ。


  モーセがユダヤの民をエジプトから解放したのは、
  自分が望んだからではなく、燃える柴の中から神に命じられたからです。
  マリアが神の母になったのは、
  自分が希望したのではなく、ガブリエルからお告げがあったからです。
  ヨセフもまた、マリアを妻にしたのは
  主の天使に夢の中で命じられたからです。
  次のように言えるでしょう。
  神の望みこそが本当の自分の望みであると。
  そして、神の望みを自分の望みにできる人こそが本当に幸せな人であると。
                               (本文より)


ちょっと待った。
ここに挙げられている聖書の登場人物モーセ、マリア、ヨセフは
確かに自分のしたい事や望みではなく、神に望まれた事をした。
従順に従う事によって神のご計画が実現した。
神の望みを自分の望みとしたというのも
マリアの言葉(ルカ1;38)からも分かる。


しかし、モーセ、マリア、ヨセフが本当に幸せだったかどうか、
その心の内を誰が知るだろう?


モーセは終始イスラエルの民族の内外に悩みを抱え、
最後までその重圧に苦しんだ。
そして荒野で死んだ。
モーセは幸せだったか?


幾ら行間を読み取っても、
マリアは夫に先立たれ、極貧の寡婦生活、
宣教のために仕事を置いて家を出てしまった息子イエスのために
どれだけ苦労した事か、
それにイエスに対するユダヤ人からの迫害は
息子本人以上に母親であるマリアをも攻撃したと思われる。
そしてわが子が裏切られ逮捕され十字架の上で惨たらしく死んでいくのを
このマリアは間近で黙って見ていなければならなかった。
この人が本当に幸せだったと誰が言えるのだろう?


ヨセフも、
婚前に腹が膨れてしまった女マリアを妻に迎えろと天使に言われ、
言われたままにした後はエジプトに落ち延びて難民生活、
言葉も通じない外国での極貧生活だった事であろう。
そして天使にまたイスラエルに戻れと言われてナザレに戻ったが
間もなく死んでしまった。
ヨセフが幸せであったと誰が言えるだろう。


彼らは神の望まれる事をした。
神の望みを実現するために
信仰者として従順に動き、働いて、貧しく世を去った。
幸せなのは望みを実現した神であって、彼らではないではないか。
彼らは苦難に満ちた人生を全うし満足して死んだかも知れないが
「神の望みを自分の望みとして幸せであった」
という評価は誰がするべきものだろう。




自分自身に対して問う。


今までの人生で何を望んでいたか。


 何も望んでこなかった。
 ただ目の前の課題をやり過ごす事だけ。


今、自分は本当に何を望んでいるのか。


 やらなければならない事を早く終わらせたい。


残りの人生で、死ぬ前に是非しておきたい事は何か。


 何も無い。


自分の人生において、
本当にしたい事、本当に望んでいる事をしているか。


 私はしていない。
 したい事など何も無いからだ。


望みの観点から自分の人生をどのように評価するか。


 ただのゴミ。

盲人の癒し

2009-08-19 15:11:00 | ヨハネ
ヨハネ9;1~12


イエスが彼の目に唾と泥を混ぜて塗り、
シロアムの池で洗うと目が見えるようになった、
その人について。


目が見えるようになってただ万々歳ではなかった。
盲人の目が見えるようになった奇跡よりも、
むしろ目が見えるようになってからの出来事の方に
注目しなければならない。


律法学者達はどうして彼の目が見えるようになったかを
詳しく調べ、彼を問い質した。
彼はイエスが自分にしてくれた事を告白した。
律法学者達は彼を会堂から追い出した。
彼はユダヤ人社会から追放されてしまった。
ユダヤ人達はその時既に
イエスを救い主と信じる者を
自分達の社会から締め出す事に決めていたからだ。


その時代、
民族の共同体から締め出されて生きる術は無かった。
目が見えるようになったかつて盲人だった人は
どうやってその時代を生き延びたのだろうか。


彼にとっての本当の癒しは
ただ目が見えるようになった奇跡ではなくて
イエスを自分の目で見る事が出来た事であり、
そのイエスを自分の救い主だと
自分の口で告白する事が出来た事だった。
神を自分の目で見て信仰を告白し、
癒された人はその後どんな生涯を送ったのだろう。

ΙΧΘΥΣ

2007-12-25 21:29:06 | ヨハネ
ししゃも、御免。


夕食に魚を焼いて食べた。
魚は今日もししゃも。


写真.7匹焼いた、皿に残った最後の1匹。


マルコ6;30~44、マタイ14;13~21、
ルカ9;10~17、ヨハネ6;1~14。
5個のパンと2匹の魚。
人々にパンと魚を分け与えるイエスの姿を思い浮べてみる。
福音書で人々が食べていた魚は
どんな魚だったのかな。


ルカ24;41~43。
魚を食べるイエス。
焼いた魚を食べているイエスの姿を思い浮べてみる。
福音書でイエスが食べた魚はどんな魚だったのだろう。
魚を食べている時、
イエスはどんな表情をしていたかな。


ヨハネ21;9~14。
魚を焼くイエス。
岸辺で炭火を起こし、
魚を焼くイエスの姿を思い浮べてみる。
弟子達が漁から戻って来るのを
魚を焼きながら待つイエスの眼差しを思い浮べてみる。







魚・・・σ(;-_-)σ・・・・ししゃもでなかった事は、


多分間違いない。

強くなりたい(ヨハネ19;25)

2007-10-07 10:28:41 | ヨハネ
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


この放送は10月1日で最終回を迎えた。


この半年、
放送を聴きながらいろいろな事を考えた。
自分自身について考えるところもあり、
聞き書きでノートを取ったりもした。
ノートは溜まっておりまとまらないが
近々自分の中で整理してここにも書こうと思う。
最終回の放送で考えた事を先に書こう。


  イエスの十字架のそばには、
  その母と母の姉妹、
  クロパの妻マリアと
  マグダラのマリアとが
  立っていた。
           (ヨハネ19;25 新共同訳)


 ・・・
 マリアは我が子が十字架にかかる姿をご覧になって、
 ここに立っていた。
 心理的にはそれに耐えられる人は誰もいない訳です。
 ただ、聖書で“立つ”というのは復活を表わす
 良い言葉なんです。
 この時マリアに
 「どうしてそんな事があり得ましょうか」(※1.)
 という苦しみがあった事は間違いない。
 でも、イエスの十字架にこそ救いが成就する。
 だからこそマリアはここで
 「仰せの如く我になれかし」(※2.)
 そういう最大の選びが出来たという事ですね。


 参照
 ※1.「どうしてそんな事があり得ましょうか」
  マリアは天使に言った。
  「どうして、
   そのようなことがありえましょうか。・・」
            (ルカ1;34 新共同訳)


 ※2.「仰せの如く我になれかし」
  マリアは言った。
  「わたしは主のはしためです。
  お言葉どおり、この身になりますように。」
            (ルカ1;34 新共同訳)


 この世に私達が解決出来ない苦しみは
 たくさんあると思います。
 その時、
 マリアのように十字架のそばに立つ事しか実際は出来ない。
 それが最終的に私達に問われると思うんですね。
 この十字架の下に立ち続ける事が出来るかどうか。
 普通は巻き込まれてぐちゃぐちゃになってしまう。
 12人の弟子は皆逃げてしまった。巻き込まれたからです。
 私達は人間だから、
 巻き込まれてぐちゃぐちゃになっていく事も
 度々あると思いますけど、
 マリアのように立ち続け、苦しみと共に歩んで行く。
 それが私達人間に出来る最高の生き方かも知れません。
 いつ苦しみが喜びに変わるか、
 その最中はわからない訳です。
 イエスは復活されて、
 その苦しみは喜びに、罪の結果は恵みに変わる訳ですけど、
 私達はその過ぎ越しの神秘を生きるように
 呼ばれているのだと思うんですね。
 自分に降りかかってくる十字架、苦しみを、
 マリアのように、それと共に歩んで、
 復活まで歩み続ける事が出来るかどうか。
 それが私達一人一人に与えられている最大の
 “選び”、“選び直し”、
 そして私達の祈りの一番深いところだろうと思います。


最終回の放送は
今の自分にとって一層心に響くものがあった。
イエスの母は
「幸いな人」(マタイ5章山上の垂訓)の中の
「柔和な人」だと私は思う。
神様から頂いた自分の人生に対して
不平を言わずに受け入れたから。

しかし
私は与えられた人生に不平ばかり言っている。


柔和な人は強い。
自分も強くなりたいと思う。
今抱える苦しみの中で立ち続ける事が出来るよう強く。

ヨハネによる福音書読了

2007-03-27 14:38:00 | ヨハネ
マルコ伝のイエスは砂埃の向こうに霞んでいる。
マタイ伝のイエスは不機嫌な改革者。
ルカ伝のイエスは慈愛に満ちて優しい。
ヨハネ伝のイエスは・・・


ヨハネ伝のイエスは不思議だ。
ヨハネの目を通して
イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
身近に接触し、
共に行動した者にしかできない描き方だ。
あまりにも至近距離で
どんな・・と言い表わす事が出来ない。


復活という信じがたい超自然的な事でさえ
そうか、甦られたのだなと
あっさり納得してしまう。
復活に様々な解釈や理屈を付け加えたり、
否定する事の方が不自然に思えてくる。


甦られたイエスは
生き生きと気さくに話しかけてくるのだ。


 「やあみんな、
  何か魚(魚は直訳ではおかず)はないのか?」


 「船の右側に網を打ってごらん。
  そうすれば捕れるから。」


 「今捕った魚を何匹か持っておいで」


 「さあ、朝飯にしよう。」


自ら火を起こして
岸に上がって来た弟子達を労おうとするイエスの姿が
ありありと浮かんでくる。


 「わたしの羊の世話をしなさい。」


イエスはペテロの弱さも後悔も
全てご存知でなお見放さず
御業のために働かせてくれると告げられた。
ペテロの中に深い確信と
命を捨てるほどの強い使命感が生まれた事を、
私は容易に想像でき、共感する。


これがヨハネの不思議だ。
ヨハネの福音書や手紙を読むと、
イエスの横顔が間近に親しげに見えてくる。


そして、
若かった頃の自分が
イエスと仲間達と共に歩いた日々を、
ペテロ達の死後、
晩年に一人回想する筆者ヨハネ自身の姿が目に浮かぶ。


イエスの横顔を間近で見たくなったら、
ヨハネ伝を開くといい。

パン(ヨハネ6;48~51)

2007-03-25 02:49:00 | ヨハネ
釧路に来たばかりの頃、
私は近所のカトリック教会の夜ミサに行った。
その時のイタリア人司祭の説教を
私は今でも一時一句はっきり覚えている。


感銘を受けた、素晴らしい説教だったと
隣にいた信徒の方に話すとそっけなく。


「あー、そりゃよかったね。
 うちの教会の神父様いつもあんな感じの話するよね。」


「そうそう。
 感動したのはきっとあなただけに
 神様からの特別なプレゼントがあったのよ。」


そんなぁ。
もったいないなぁ。


『わたしは命のパンである。』
この言葉を読んで思い出した、あの説教。


 「主イエスは十字架にかけられて
  私達に御自分の全てをお与えになりました。
  私達も人々に自分を与えなければなりません。
  与えるものを何も持っていないと
  言う人もいますが
  私達は誰一人何も持たない人はいないのです。
  私達は誰でも必ず何か持っています。
  人々に与える事の出来る何かを。
  よく考えて下さい。
  何か持っている筈です。
  物やお金が無くても、
  労力、時間、微笑み、
  まだ他にもたくさんあるでしょう。
  主イエスが惜しまずに
  御自分の全てを私達にお与えになったように、
  私達も惜しまずに自分を人々に与えましょう。」


この説教を聞いた後、
私はそれまでの7年間の
自分の信仰生活の在り方を考えた。
自分がどれ程惜しんできたかを
問わずにいられなかった。
労力も時間も微笑みも
他の物も何もかも惜しんできた。
実際惜しいんだ。
だから苛立つ。


あれからさらに8年経って
またあの時の説教を思い出している。
計15年だよ。
やっぱり自分を惜しむ自分がここにいる。

一方通行(ヨハネ2;23~25)

2007-03-25 00:09:00 | ヨハネ
多くの人がイエスの行なった奇跡を見て信じたが
イエス御自身は彼らを信用されなかった。


どんな人々だろう。
イエスを信じたのに
イエスからは信用されなかった人々。


そんな一方通行な虚しい信仰の在り方を
ヨハネは厳しく言い表わしている。


イエスは
何が人間の心の中にあるかを
よく知っておられたのである。
          (ヨハネ2;25)


ヨハネの視線は信仰者に対して厳しい。
信仰の動機、信仰する心の態度を
吟味し評価選別されるかのような気分になる。


一部の人はイエスを担ぎ揚げ
政治的に利用しようとした。
また、
奇跡にばかり注目して
自分の願いを盲目的に訴える人もいただろう。
癒されたから信じるとか。
癒されるなら信じるとか。
癒されるように信じるとか。
癒されるまで信じるとか。


彼らのイエスを信じる信仰は
不真面目か?デタラメか?
彼らも癒されたかった筈だ。
病、貧困、抑圧、あらゆる悩み苦しみから
癒されたい一心でイエスを取り巻いて、
ある人はイエスを政治的指導者として、
ある人はイエスを癒し主として、
信じていたのではないだろうか。
彼らなりの信じ方で。
批判する資格は私にはない。


私自身について言えば
悩みを抱えたり痛み苦しみがあると
自分の苦痛だけにしか目を向けられない。
苦痛の中で十字架を背負ってよろめきながら
丘を進む御方に目を向ける事が出来なくなる。
イエスを信じたのに
イエスからは信用されなかった人々と
私自身とどんな違いがあるだろう。
同じ。
同じじゃないか。
キリストを信じているつもりで
キリストからは信用されない自分を考える。
虚しい、
一方通行な信仰の在り方。


 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           (De imitatione Christi)



一方通行ではなく
イエスから頂く慰めのためではなく
イエスをイエスとして愛する信仰を。

福音書記者ヨハネ

2007-03-24 16:10:00 | ヨハネ
ヨハネを読むにはいつも
共観福音書を読む所要時間の倍かかる。


立ち止まって考える箇所が多いから。
主イエスの語られた言葉の一字一句に
直撃されながら読み進むから。


直撃される気がするのは
書き手が辛辣だからかも知れない。


キツイんだよ見方も表現も。
他の福音書記者達とは
全然気質が違う。
他の弟子達の心理描写も
意地が悪いほどに克明だ。


主イエスがヨハネと兄弟ヤコブを
『ボアネルゲス』と呼んだのがわかる気がする。
漁師だから荒っぽいのかな。
釧路でいう『浜の人』なんだわ。
何でもない事喋っても喧嘩になる。

腰が痛い(ヨハネ2;23~25)

2007-02-13 23:37:00 | ヨハネ
えっと・・・
今、
ヨハネ福音書の2章のところを
ブログにアップしようとしてるけど
パソの前に座ってると腰椎が悲鳴上げて
長期戦になっている。
書くのはあっと言う間でも
推敲と削り落としに3倍は時間がかかる。
でも
聖書研究会に出られないと
無性に読みたくなったり書きたくなったりする。
魂が飢えるんだろうか。
そんな衝動が起こる。

アニメ『銀河鉄道の夜』(ヨハネ15;13)

2006-12-28 11:22:53 | ヨハネ
昨夜は
じじ宅でアニメ『銀河鉄道の夜』を見た。
じじが某国営放送の子供番組やアニメを
喜んで見ているので。


『銀河鉄道の夜』は
かれこれ20年以上も昔に作られたアニメだが、
これが世に出た頃は
私の身の回りで賛否両論があった。
原作のイメージを壊したと怒る賢治マニアもいたし
いや、
アニメにしては賢治の描いた文章のイメージを
よく出してるという人もいた。
いずれも画像で賢治の『銀河鉄道』は表現しきれない、
アニメの限界があるという点だけは一致していた。


私は絵も音楽も
とってもいいと思うよ。
アニメ嫌いな私でも
この『銀河鉄道の夜』だけは好きだ。
何作っても原作にはかなわない。
アニメはあの画像と音楽の美しさで充分。


共産主義者だったパゾリーニの『奇跡の丘』にしろ
仏教徒だった宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にしろ
私はこの二つの、
キリスト者でない人の表現するキリスト観に
もの凄く魅かれる。
変な下心を感じないから。


「この作品を見て教会にいらっしゃい」とか
「この作品を見て聖書をこんな風に読みなさい」とか
「キリスト教をこのように理解しなさい」とか
そういう福音伝道目的の下心がない分、
見た側は
「何でこうなるのだ?」とか
「あれはどういう事だ?」とか
「キリストの教えとはどんなんだ?」とか
見終えた後も自分で考えたり思い巡らす事が出来る。
見る側にとって不完全に見える結末に
疑問を持つ事が大切なのだ。
疑問を感じて納得できずにあれこれ考える、
思考の自由が見る者には一番大切なのだ。


 「あんな事があってこんな事があって
  私は苦しかった悩んで死のうとまで思った、
  でもふとそこにあった聖書を開くと
  こんな言葉があって
  私はこれで救われました。
  今は私は喜びに満ち溢れて幸せです、
  さあ、
  そこのまだ救われていないあなた、
  あなたも早く救われて下さい、
  私と一緒に天国に行きましょう♪」


この脳天気で傲慢で
いかにも尻上り寿な
予定調和的観点で作られたキリスト教作品は
多いと思う。
セロリみたいに不快な臭いがする。
下心を含んだものは何でもクサいんだよ。


クサいのは
受け止める側に疑問を抱かせる余地を与えないから。
その疑問こそが生きた祈りの源泉なのに
それを殺してしまうから。


疑問を持つ事が出来なければ
心の中で神に呼びかけたり
求めたり委ねたりする事は出来ない。
疑問を抱いて試行錯誤をする中に御業はあるし、
その時には気づかなくても
神が一緒にいて共に歩んで下さっていた事は
後でわかる。


私は『奇跡の丘』を見て納得できなかった。
何で「あの人」が何も悪い事をしていないのに
手のひらに釘を打たれて殺されたのか
ずっと考えていた。
キリストのキの字も知らない幼稚園児だった時から。
後に『銀河鉄道の夜』を読んで納得できなかった。
「本当の幸い」って何なのか考えた。
今も考える。
「ああ、そんなんでなく本当の本物の・・・」
ジョバンニを納得させなかったものが何か、
私は今も考えている。


以前、ブログ『ぱんくず日記』にその事を書いた。
今年の7月23日。
遡っていちいち開くのもめんどくさいから
そっくり引用して持って来た。


(2006.7.23『ぱんくず日記』)
 『銀河鉄道の夜』(新潮文庫 昭和36年)


 キリスト者になってから
 『銀河鉄道の夜』の見方が変わった。


 ジョバンニは
 友達の代わりに溺死したカムパネルラと一緒に、
 死者達の汽車に乗る。
 本当の幸いを探しに。
 本当の幸いとは、
 全ての人の一番の幸福のために
 自分の生命を捨てる事だ。
 この命題を、
 受洗以前の私はお話の中の誇大妄想と思っていた。


 イエスご自身がヨハネ伝の中で述べられている。
  「人がその友のためにいのちを捨てるという、
   これよりも大きな愛は誰も持っていません。」
            (ヨハネの福音書15;13)


 ヨハネは言っている。
  「キリストは、
   私たちのために
   ご自分のいのちをお捨てになりました。
   それによって私たちに愛がわかったのです。
   ですから私たちは、
   兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」
             (ヨハネの手紙Ⅰ3;16)


 幼い姉と弟を連れた家庭教師が登場する。
 船が難破し、家庭教師は悩む。
 救命ボートに全員は乗り切れない。
 皆が道を開けてくれてももっと大勢の子供や親がいる。
 家庭教師には彼らを押し退ける勇気がない。
 他の子供を押し退ける罪を
 自分一人が背負ってでも姉弟を助けるか。
 他の子供を押し退けてまで助けるよりは
 皆一緒に神の御前に行くか。
 どちらがこの子達の本当の幸いだろう。
 親達は我が子を子供ばかりのボートに放す。
 「主よみもとに近づかん」を歌いながら
 乗客と船は水没した。
 家庭教師も二人の子供と手をつないだまま沈んだ。
 ここに登場する家庭教師の信仰は一途だと思う。


 「ハレルヤ。」
 3人は南十字星で汽車を降り、
 十字架への行進に加わる。
 ジョバンニは名残惜しくて彼らを引き止める。
 「そんなのうその神さまだい。」
 引き止めても彼らは聞かない。
 家庭教師がジョバンニに問う。


 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
 ジョバンニは答える。
 「そんなんでなしに、
 ほんとうのたった一人の神さまです。」
 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
 「ああ、そんなんでなしに、
 たった一人のほんとうの神さまです。」


 賢治も宣教師とそんな問答を交わしたのだろうか。
 本当の神は主なる神一人だけ。
 家庭教師の信仰告白が、ジョバンニの耳には
 自己満足的に矮小化されてしまうのは何故だろう。
 ジョバンニを
 「ああ、そんなんでなしに・・・」
 と失望させるものは何だろう。


 「宗教の事は知らないが、
 唯一の本当の神を探す」という人はたくさんいる。
 探すからこそ色々な宗教や思想を転々とする。
 人前で福音を語る時、
 私の語っているキリストが
 自分本位に歪められていないか気になる。
 私は自分の信仰を
 そこまで吟味した事があったろうろか。
 信仰を告白し唯一の救い主を証ししても、
 「ああ、そんなんでなしに、
 本当のたった一人の神をさがしてるんです。」
 と失望の嘆息が返ってきたら・・・。



私自身にとって
予定調和は信仰の敵。