goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

本当の自由(マルコ6;17~29)

2008-10-04 06:32:44 | マルコ
マルコ6;17~29


『福音の味わい』英隆一朗


日々の生活の中で自分がどんな選択をするか。


神からの呼びかけに対して
自由に選択を出来ているか。


自由。


自分自身の囚われからの
神無しに生きられるという傲慢からの
努力で何でも成し得るという強迫観念からの


御父の愛に自分を懸けて貫く自由。


神の愛を語る事は虚しい。


どんな愛でも
愛する時には必ず自己犠牲がある。
痛みを伴わない愛はあり得ない。
愛に困難があるのは当たり前。
その困難から逃げないで
痛みを覚悟で愛する事に本当の自由がある。


イエス・キリストが示した愛は
そのような愛。

文字起しと詩篇と雷おこし

2008-03-25 15:50:00 | マルコ
近況報告。


実は、ここ数日
空き時間と休日はパソに向かいっ放しだ。
自分がじじに話した復活についての説明を
文字起ししている。


じじの授洗までの期間、
一緒に読んだマルコの福音書を、
私がどんな表現でどんな解釈で
求道者だったじじに話したか、
その記録はずっとワードに溜めていた。


それを毎日別口のブログに起こして
牧師先生にチェックとダメ出しして頂こうとした。
自分が求道者に変な解釈を押し付けていないか、
それをチェックして頂こうと思った。


受難週に牧師先生が入院された頃に
マルコの復活の箇所に到達した。
しかし
マルコの復活記事は求道者にとって
あまりにもそっけない。
復活こそが私達の信仰にとって最も重要な箇所であり、
復活を信じるか信じないかが信仰告白を決定的にする。
それで、
他の難しい箇所を読んだ時のような
一礼して通過という訳にいかなかった。


マルコ16章の短い箇所を読んで
キリストの復活をじじが受け入れるために、
マタイ、ルカ、ヨハネの復活記事を
その場で一つ一つ輪読して
自分の信じる復活を出来る限りじじに語った。
結果的にじじは無事に受洗したが、
果たして自分の説明でよかったのかどうか、
井上自身の曲解や不十分な事はなかったか、
自分の話した事を吟味したいと思う。


それで
マルコ最後の復活記事について
自分がじじに話した事を
今もまだ文字起ししているが、


・・・・・・・(="=;)o=3


・・・井上、話長過ぎ。。。。。orz


じじと話した時間は約1時間半だったけど
文字起しすると
ブログ記事で普段の3日分に相当する。
文字に起こすと肘が痛くなったけど
これは読む方もやっきりこくわ。
やっと三分の一まで起こしたので
インスタントラーメンに
1年前の茹でたまご入れて朝飯にした後、
朝寝して、再び起きたら
郵便屋のおにっちゃんが。


目と肩と肘の疲れを一掃する、
さるマイミクのお方から素晴らしい贈り物が。


詩篇19編と雷おこし。
雷おこしが井上の好物だからと
わざわざ日本橋から浅草に寄って
買い求めて送って下さった。
浅草は大変な人出で
今は人力車で一杯だったそうな。


では、
感謝して、頂きます。


・・・・・・・ウマー・・・w(T▽T)w


日本人でよかった、
雷おこしウマくて。

枝(マルコ11;8~11)

2008-03-21 15:42:00 | マルコ
多くの人が自分の服を道に敷き、
また、ほかの人々は
野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた。
そして、
前を行く者も後に従う者も叫んだ。


「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」(マルコ11;8~11)


外に出て、
ふらりと近所のカトリック教会の聖堂に行って、
しばらく黙想した。
牧師先生が無事退院して復活の主日礼拝も
じじの洗礼式も予定通りに行なえそうだ。
祈りを聞いて下さった事について
感謝の祈りを捧げたかった。


10年前、
札幌から来て初めてこの聖堂にお邪魔した時、
じじが洗礼を受ける日が来るなど
考えもしていなかった。
ましてじじが私と一緒にテーブルを囲んで
主の祈りを唱え聖書を読むなど
想像の範疇になかった。


大いなるお方の御手の業を思う。


人気の無い聖堂に
西日が差し込んでいた。
しばらく考え事をした。
自分の事とか
じじの事とか
仕事の事とか
教会の事とか
いろんな事を。


今年の聖週間、
この聖堂では行事を行なわず
市内のもう一つの教会で
合同で聖週間の行事をすると聞いた。
10年前は
この聖堂にもたくさん人が集まっていた。
私達の教派の少人数の教会から見れば盛大だった。
こうして週日に
この聖堂で黙想する信徒の方達をよく見かけた。
10年間の間に
幼稚園で働いていた修道女達も何処かに移転して
この地を去って行った。
ご近所で顔見知りだった信徒の方達も
この頃は行き会う事も無い。
この街全体が人の流出で寂れた。
私達の教会同様、
教会を支え維持するのは大変な事だ。


厳しい環境にあっても
この教会は
私が子供の頃に見ていたままの姿で存続し
今も黙想の場を与えてくれる。
その恩恵に私は預かってきた。
与えて下さるお方に
感謝の祈りを捧げたかった。


帰ろうとしていると、
神父様に声をかけられた。
父が洗礼を受けるというと、
おめでとうと言って
何か下さろうとしたので辞退すると
おみやげに棕櫚の葉を一つ下さった。


葉はつやつやとして硬く、
陽を浴びて光る。


見よ、
あなたの王が来る。
彼は神に従い、
勝利を与えられた者
高ぶることなく、
ろばに乗って来る
雌ろばの子である
ろばに乗って。
     (ゼカリヤ9;9)


寝室のキリストの額縁の上に飾った。
また来年の灰の水曜日、
燃やして灰にして貰おう。

じじと読む一日一章(マルコ16;14)

2008-03-20 23:59:55 | マルコ
3月20日(木)マルコ16;14


福音書には、
食事をする場面がたくさん出てくる。
復活された後、
イエスは御自分を見捨てて逃げた弟子達を責めずに
一緒に食卓を囲んでいる。


マルコに出て来ない、
他の福音書の復活記事を読んでみた。


「お父さん。
 一緒に何かを食べるってさ、
 生きている証拠を示す行為でもあるけど、
 イエスと弟子達との和解そのものだったんだよ。」


「へぇ。」


「復活したイエスが現れて、
 一緒に食卓を囲んで何か食べるまでの
 弟子達の心を考えるとさ、
 イエスの復活を認めたくなかったのは、
 誰よりも弟子達だったんじゃないかと思うよ。」


「そうか?」


「だって弟子達は皆、
 窮地の土壇場でイエスを見捨てて逃げたからね。
 見殺しにしたんだもの。
 後ろめたいでしょ。
 ばつ悪いよきっと。
 イエスが二人の弟子達の所に現れたのを聞いて、
 弟子達は恐ろしかったと思わない?
 イエスが復活したら自分は仕返しされるって
 弟子達は怯えてたんじゃないかな。」


「そうだな。
 亡霊が仕返しに来ると思っただろうな。」


しかし、
弟子達の目の前に現れたイエスは


「あなたがたに平和があるように。」(ルカ24;36)


と言って彼らと一緒に食事をする。


 イエスは、
 「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
 イエスはそれを取って、
 彼らの前で食べられた。
            (ルカ24;41~43)


「焼き魚食べたんだって。」


「そうだな。」


許せない相手と一緒に食事が出来るだろうか。
自分を裏切って見捨てて見殺しにした相手と
一緒に何か物を食べて、
それで果たして喉を通るだろうか。


「イエスは一緒に食事をして、
 弟子達を恨んでない事を示したんだよ。」


「そういう事か。」


「そうだよ。」


ルカの福音書の中では、
和解を求めたのは弟子達ではなく、
イエスの方からだった。


「イエスは自分の方から
 相手を受け入れる姿勢を貫いているよね。」


「うむ。」


今度はヨハネを開いてみる。
ヨハネの中で
復活したイエスは岸辺で弟子達のために
朝食の魚を焼いていた。
気さくに弟子達に話しかけてくる。


「今捕った魚を何匹か持っておいで」


「さあ、朝飯にしよう。」


自ら火を起こして
岸に上がった弟子達を労うイエス。


「わたしの羊の世話をしなさい。」


「お父さん、
 こっちの、ヨハネの福音書でも
 イエスは弟子達の裏切りを責めない。
 許す許さないも言ってない。
 イエスはペテロの弱さも後悔も知ってたんだよ。
 全て知ってて、見放さないで
 これから御業のために働いてくれと
 ペトロに仕事をくれたんだ。」


自分が見捨てて裏切ったために処刑された相手が、
まさに自分が見殺しにした相手が
自分の目の前に現実に現れて
裏切りを責める事もなく一緒に食事をしてくれた。
さらに
自分にするべき仕事を与えくれて、
働かせてくれると告げた。


「この時のペトロの気持ちって
 どうだったろうね。」


「生き返った心持ちだったんじゃないか。」


「うん。
 私もそう思うよ。
 ペトロはこの時自分の心が息を吹き返して
 生き返ったと思う。」


私達はペトロに共感できないだろうか。
赦されたペトロの喜びの涙は容易に想像出来る。
卑怯にイエスを裏切った自分自身の
弱さ、醜さ、惨めさに絶望して
失意のどん底にいたであろうペトロが
自分自身を見直して再び立ち上がるためには
和解の事実が必要不可欠だと私は思う。
夢や幻想ではない現実の体験が。
甦った生身のイエスと再開して
本当に赦して頂いた現実の体験がなければ
ペトロは心理的に立ち直れなかった筈だ。


「イエスと現実に再開して赦して頂いたからこそ、
 ペテロは迫害に負けないで
 宣教の働きをする事が出来たと思わないかい?」


「そうだな。」


「この新約聖書のもっと後の方に
 ペトロが信徒達の信仰を励ました手紙もある。」


「ほぉ。」


「確固たる信仰の上で
 命を捨てるほどの強い使命感が滲み出てるよ。
 このマルコの後にマタイを読み終わったら、
 ペトロの手紙を読んでみようか。」


「そうだな。」


復活は、
主イエス・キリストが
死者の中から甦られた復活であり、
失意と自己嫌悪のどん底で
死に掛けていたペトロと弟子達の心が
イエスとの和解によって息を吹き返した、
魂の復活。
甘い幻想や作り話で誤魔化せない、
イエスの復活が現実のものでなければ起こり得ない、
弟子達の魂の復活。


じじ、鼻で笑わなくなったな。

じじと読む一日一章(マルコ16;14)

2008-03-20 23:40:37 | マルコ
3月20日(木)マルコ16;14


マルコ伝のイエスは砂埃の向こうに霞んでいる。
マタイ伝のイエスは不機嫌な改革者。
ルカ伝のイエスは慈愛に満ちて優しい。
ヨハネ伝のイエスは・・・


ヨハネ伝のイエスは不思議だ。
ヨハネの目を通して
イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
身近に接触し、
共に行動した者にしかできない描き方だ。
あまりにも至近距離で
どんな・・と言い表わす事が出来ない。


ヨハネの視点を通すと
復活という信じがたい超自然的な事でさえも
そうか、甦られたのだなと
あっさり納得してしまう。
復活に様々な解釈や理屈を付け加えたり、
否定する事の方が不自然に思えてくる。


ヨハネの中の
甦られたイエスは
生き生きと気さくに話しかけてくる。
自ら火を起こして
岸に上がった弟子達のために
魚を焼くイエスの姿が見えてくる。


マルコの復活記事を読んで、
陳腐な作り話を嘲笑うかの表情を見せたじじに、
或いはじじと同じ反応をする求道者に、
私達の信じるイエスの復活を
どう伝えたらいいのか。


イエスの教え、
山上の垂訓や黄金律、譬え話に納得しても
イエスの愛と平和に感銘しても
十字架で私達に
ご自分の全てを捧げて下さった事に涙しても
復活でどん引きしてしまったのでは、
求道も信仰告白に至る事が出来ない。
道は中断し、そこまで。


私は、
私自身はイエスの復活をどう受け止めて
どう受け入れたのか。
じじには自分の思うままを率直に話す事にした。


「お父さん。
 ヨハネの福音書は不思議なんだよ。
 私はヨハネを読むと、
 イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
 身近で直接接触して、
 イエスと親しく行動した人にしか
 書けない表現だと思わない?」


「む・・・・」


「死んだ人が甦るという事なのに、
 私はこのヨハネの福音書を読んで
 そうか、甦られたんだなと
 あっさり納得してしまったよ。
 何でかは分からないけど。
 何でだろうね。」


「わからんな。」


「復活っていうあり得ない事が
 いかにもあり得る事のように
 色んな解釈や理屈を考え出して
 強引に解釈して辻褄合わせる人はたくさんいる。
 逆に、
 死んだ者が甦る筈が無いと
 頭から否定する人もたくさんいる。
 このヨハネの福音書を読むと、
 辻褄合わせまでして肯定するのも
 頭ごなしに否定するのも
 どっちも不自然に思えてくるから不思議なんだよ。」


「しかし簡単には信じられないだろう。」


「お父さん。
 私はね、このヨハネを読んで、
 もしイエスが復活しなかったらと考えた。」


「ふーん。」


「もしイエスの復活が事実でなかったら。」


「ふん。」


「逮捕されたイエスの目の前で3回も
 そんな人知らないと言って裏切ったペテロがさ、
 イエスの教えを宣べ伝えて、
 ユダヤ教指導者達やローマの弾圧に耐えて、
 厳しい迫害の中で各地を伝道して回って、
 信徒達の信仰を育てて励まして、
 初代教会を誕生させて育てて、
 ローマでイエスのように十字架刑で
 それも頭を下に、逆さまに磔にされて、
 苦しみながら殉教したんだよ。
 一体どうして、
 何のためにそんな事をしたと思う?
 もしイエスの復活がでっち上げの作り話なら
 ペトロは何のために
 そんな事をする必要があったのかな。」


「うむ。
 意味の無い事だ。
 無駄だな。」


「イエスを見捨てて裏切ってから、
 ローマで殉教するまでの間に、
 ペトロや弟子達に何が起こったか、だよ。
 イエスが復活しなかったら、
 ペトロと弟子達の心理的な変化が、
 それこそ全く辻褄合わなくなるよ。
 誰にも帳尻合わせ出来ない心理的な矛盾がさ、
 起こって来ると思わないかい?
 もしイエスの復活が無かったら。」


「そうだな。
 そんな事のために
 何で苦労して死刑になったのか、
 訳が分からないな。」


「でしょう。
 ペトロは土壇場でイエスを裏切った。
 そういう自分の弱さをどう感じていたかな。
 自分がイエスを裏切った、
 自分が見殺しにした、
 そういう意識って誤魔化せるのかな。
 自己嫌悪に陥ったのは間違いないと思わない?
 鶏が鳴いた時に後悔して泣いた事が
 周りの人達に既に知られててさ、
 もう自分も他人も誤魔化せないほど
 精神的に追い詰められて、
 参っていたんじゃないかな。
 人間の心理って
 そういうものじゃないのかな。」


「うーーーーむ。(-"-)・・・・」


イスカリオテのユダは自殺した。
イエスを3回も否認したペテロの後悔は、
ユダの良心の呵責と同じか
或いはそれ以上だったのではないだろうか。
イエスが十字架の上で息を引き取られた後、
ペテロが失意と自己嫌悪のどん底にいたのは
間違いない。


もしイエスの復活が作り事だったら…?


「例えペトロや弟子達がイエスの復活を
 でっち上げたとしても、
 その当時の社会でさ、
 世の中の人々を誤魔化す事なんて
 出来たと思うかい?
 イエスが十字架で殺された時には
 まだキリスト教なんて確立してなかった。
 新興宗教程度にしか認められてないイエスの仲間の、
 それも当のイエスを裏切って四散した残党がさ、
 復活したとか何とか噂を流したとしても、
 誰が耳貸したんだろうか。」


「そんな話は誰も信用しなかっただろう。」


「イエスの前で、
 人々の前でイエスを知らないと言ったペトロは、
 ただでさえ裏切り者のレッテルを貼られて
 軽蔑されてたんじゃないのかな。
 ペトロが何喋ったって
 誰も聞かなかった筈だよね。」


「そうだな。」


「イエスを裏切ったペトロが
 どんな立場に立たされていたか、
 想像するのは簡単だよね。
 教祖のいない新興宗教の残党がでっちあげた復活に
 耳を貸すほど世の中は甘かった筈がないよ。
 ペトロがイエスを3度知らないと言った事は、
 広く知れ渡っていて、伝説だけどさ、
 ペテロがやって来ると
 人々が鶏の鳴き真似をして囃し立てたんだって。
 そういう伝説が残っているらしいよ。
 この伝説は、所詮伝説だけど、
 私は案外事実だと思うよ。」


「そうだな。
 それは今の世の中と同じだ。」


そう。
この伝説は、
群集心理の残酷さが2000年前の昔も今も
全く変わっていない事を示す、
私達にとっては珍しくない
身近なエピソードだ。


「もしイエスの復活が作り事だったら。」


「うん。」


「自分で捏造した幻想のために、
 ペトロは心血を注いだかな。
 自分ででっち上げた復活のために、
 ペトロは迫害にも拷問にも負けずに宣教して、
 まして命まで差し出せただろうか。
 どう思う?
 出来るだろうか、そんな事が。」


「うーん・・・」


「そこまで自分で自分を騙す事が
 人間には出来るものだろうか。」


「・・・・・・」


「自分で自分を騙す者の語る言葉がさ、
 2000年もの長い時間の間に
 無数の大勢の人々に、
 救いの希望を与えて、
 回心に導く事なんてあり得るだろうか。
 作り事の嘘の復活なんて、
 どんなに誤魔化したって
 2000年の間に無数の人間の中の誰かが
 見破った筈だと思わない?」


「そうだな。」


イエスの死後、
ペトロ達を取り巻く現実は、
私が想像する以上に過酷なものだった筈だ。
もし復活が現実に起こった事実でなかったならば、
ペトロや他の弟子達のその後の行動の上に
考えようのない心理的な矛盾が次々と生じてくる。


「ペトロがね、
 イエスを裏切ったペトロが
 甦られたイエスと出会って、
 裏切った事を赦して貰ったという"事実"が無ければ、
 その後のペトロの行動が何もかも、
 心理的に矛盾してくるでしょう?」


「うん。
 そうだな。」


もしイエスの復活が作り事だったら。


「もしイエスの復活が嘘だったら、
 大勢の罪人の処刑の一つに過ぎない十字架なんか、
 すぐに忘れられたよきっと。」


「皆忘れるだろうな。」


もしイエスの復活が作り事だったら。


「その後には大きな戦争も起こってるし、
 2000年もの間、
 歴史のいろんな大きな出来事が起こるうちに
 世の中から忘れ去られてさ、
 十字架の史実は風化して、
 ペトロは失意のしがない漁師のまま、
 日の目も見ずに歳とって惨めに死んでさ、
 初代キリスト教会が生まれる事はなく、
 ペトロや弟子達や信徒達は殉教せず、
 お父さんや私が今読んでるこの新約聖書なんて
 書き残される事もなくて、
 キリスト教自体が
 今日まで存続出来なかったんじゃないかな。
 私はそう思うのさ。
 イエスは本当に甦ったんだよ。」


「うん。そうだな。」


理屈ではない。
心理的な矛盾を孕んだ信仰が
2000年もの長い間矛盾を暴かれる事もなく
人々の共感を呼び、
苦しみ悩む者の心を癒し、
慰めでいられる事などあり得ないと
私は思う。


私達は2000年後の今、
現実に聖書を手に取って読んでいる。
その中で
甦られたイエスはあまりにも生き生きと
気さくに話しかけてくる。


「やあみんな、
 何か魚(魚は直訳ではおかず)はないのか?」


「船の右側に網を打ってごらん。
 そうすれば捕れるから。」


「今捕った魚を何匹か持っておいで」


「さあ、朝飯にしよう。」


自ら火を起こして
岸に上がって来た弟子達を労うイエスの姿が
ありありと浮かんでくるではないか。


「お父さん。
 イエス・キリストを信じて洗礼を受ける時に、
 信仰告白をするのさ。
 牧師先生がお父さんに"信じますか?"って
 質問するんだけど、
 お父さんはイエスが死んで甦った事を
 信じるかい?
 イエスの復活を、
 イエスが本当に甦られたと信じるかい?
 何て答える?」


「はい。
 信じます。」


ハレルヤ。

じじと読む一日一章(マルコ16;1~19)

2008-03-20 23:12:26 | マルコ
3月20日(木)マルコ16;1~19


安息日が終わって女達は
イエスの遺体に油と香料を塗るために墓に行った。


「これはね、
 当時の埋葬の習慣だよ。
 遺体に防腐作用のある香料や油を塗るのさ。」


「ほぉ。」


彼女達の心配は入り口を塞いでいる大きな石を
誰か転がしてくれる人がいないか。
だれも石を転がしてくれなければ
彼女達は墓穴に入る事が出来ない。
せっかく買って持って来た油も香料も
イエスの遺体に塗ることが出来ないからだった。


「洞穴を塞ぐほどの石だから、
 石というよりは岩だったんだよねきっと。
 とても女2、3人の力でどける事は
 出来ないでしょう。」


「そうだな。
 しかし岩をどけないと油を塗れないなぁ。」


「うん。
 彼女達はそれを心配してたんだよ。」


しかし、行ってみると
入り口の石はわきへ転がしてあり、
墓の中に遺体はなかった。
白い長い衣を着た若者が座っていた。


 あの方は復活なさって、
 ここにはおられない。(16;6)


 あの方は、あなたがたより先に
 ガリラヤに行かれる。
 かねて言われたとおり、
 そこでお目にかかれる。(16;7)


「天使だよ。」


「・・・・ふっ( ̄ー ̄)=3」


むっ・・じじめ、鼻で笑ったな。
子供騙しのお話だと思っているだろう。
福音書の復活記事は、
今の段階ではじじにとってまだ陳腐な不思議物語に過ぎないのだ。
しかし、
この復活がただの不思議なお話であるうちは
キリストの救いを信じる事は無理、信仰告白が出来ない。


イエスは週の初めの日の早朝、
マグダラのマリアに御自身を現されたが、
誰も彼女の話を信じなかった。


「信じなかったんだって。」


「そうだろうな。」


イエスは田舎に向かって歩いていた二人の弟子達にも
御自身を現されたが、
だれも彼ら二人の話を信じなかった。


「この二人の話も信じなかったんだって。」


「そうだな。」


弟子達11人が食事をしている時、
イエスが現れて、
復活したイエスを見た人の話を
信じなかった彼らを咎めた。


そして大宣教命令。
天に昇られた。


じじ、
どん引きして首を傾げ、鼻で笑った。
無理もないか。
これでは信じろと言われても取り付く島がない。
マルコの復活記事はそっけない。
そっけなさ過ぎ。
それで、
他の福音書の復活記事に飛ぶ。


マタイの復活記事。
大体マルコと共通している。


女達が墓を見に行くと、
大きな地震が起こって
天使が入り口を塞いでいた大きな石を
わきへ転がして上に座り、
イエスが復活して先にガリラヤに行くと告げた。
それを女達が弟子達に知らせに行く途中、
イエスが現れて「おはよう」と言った。
そしてガリラヤで会えると告げる。


 恐れることはない。
 行って、わたしの兄弟達に
 ガリラヤに行くように言いなさい。
 そこでわたしに会うことになる。(マタイ28;10)


「それまでは師匠と弟子達だったのが
 ここで初めてイエスは弟子達を兄弟達と呼んでる。
 イエスは復活した後、彼らを
 弟子ではなくて兄弟と同等の立場に置いて呼んでいる。」


「ほぉー」


イエスの遺体が無い事を番兵達から聞いた祭司長達は
番兵達を買収して、
イエスの弟子達がイエスの死体を盗んだと証言させた。


「買収したんだな。」


「ローマ帝国時代に墓の番人が居眠りして
 もし死刑囚の死体を盗まれたら、
 その番兵が代わりに死刑にされて
 吊るされてた話を聞いた事がある。
 案外ほんとかもよ。
 だからイエスの死体が無いとか盗まれたとか、
 そんな事になったら番兵の首が危なかったから、
 祭司長達は番兵達に金払って
 弟子が盗んだ事にして偽証させたんだね。」


「なるほどなぁ。」


ルカの復活記事。
墓穴でのエピソードはマルコ、マタイと同様。


 なぜ、
 生きておられる方を死者の中に探すのか。
 あの方は、ここにはおられない。
 復活なさったのだ。
 まだガリラヤにおられたころ、
 お話になったことを思い出しなさい。
 人の子は必ず、
 罪びとの手に渡され、十字架につけられ、
 三日目に復活することになっている、
 と言われたではないか。(ルカ24;5~7)


天使に言われて、
女達はやっとイエスの言葉を思い出した。


「弟子達は、
 ルカの福音書でも女達の言う事を
 戯言だと思って信用してないね。」


「そりゃ信じられないだろう。」


じじだって、
まだ戯言だと思ってるでしょう。
今の時点では。


「ペトロも墓穴に見に行ったけど、
 亜麻布しかなかったんだよ。」


「ふん。」


イエスは、
エマオの村に向かって歩いていた二人の弟子達に現れた。
二人の弟子達はイエスだと気付かずに、
イエスの十字架刑の事件を語り合っていた。


「二人は、イエスが十字架で処刑されて
 もう既に死んだ、
 この世にいないと思い込んでいたんだよね。」


「そうだな。」


二人が気付かないままに、
イエスが近づいて来て会話に参加して来ていた。
二人はイエスと気付かないままに
一緒に泊まろうと引き止めた。
夕食の席で、
イエスがパンを取り、
賛美の祈りを唱え、
パンを裂いて渡した時、
二人はその人がイエスであると分かった。


「どうしてそれまで二人の弟子達が
 イエスだと気付かなかったか。
 二人がイエスは死んでもういないと
 思い込んでいたからだよ。」


「ふぅん。」


「思い込みは人間の目を塞ぐんだ。」


「それは仕方ないだろう。
 死んだんだから。」


「うん。
 でも二人が目の前の人を見てイエスだと気付いたのが、
 パンを取ったときの動作だって事がさ、
 これ、大事なんだけど。
 パンを取って、祈って、裂いて、渡した。
 この動作でイエスだと気付いたんだよ。
 キリストを信じる者は、
 パンを取って、祈って、裂いて、渡して、
 仲間と分かち合う事で
 イエスを思い出すんだよ。」


「・・・・・σ(?_?)」


今は分からないけど、
じじもそのうちに分かるよきっと。
近いうちに。


弟子達の集まっている所にイエスが現れた。


「弟子達は皆、亡霊だと思ったんだ。
 でもイエスは、手と足を見せた。
 十字架に釘で打ち付けられた穴の残った手と足をね。」


「・・・・・・(-“-;)」


「そしたらイエスは何か食べる物あるかと言って、
 弟子達の見ている目の前で焼いた魚を食べた。
 食べるという事は、生きている証拠。
 死んだ人間は物なんか食べないよ。」


「・・・・そうだな。」


さて、
ヨハネの復活記事。


「ヨハネの福音書は、今まで読んできた三つの福音書とは
 見る角度が違ってるのさ。
 十字架でイエスが死んだ事もその後の事も、
 見る角度が他と違ってるのさ。」


ちょっと長いけど、
じじと私と交代でヨハネの復活記事を輪読した。


「違ってるでしょう。
 お父さん、この福音書を書いた筆者ヨハネは、
 イエスの弟子のヨハネだよ。
 ヤコブとヨハネの二人の漁師の兄弟で、
 イエスから”雷の子ら”というあだ名で呼ばれた、
 エルサレムに向かう時、
 これから十字架で殺されるイエスの話を
 全然理解してなくて
 自分達兄弟二人を右大臣と左大臣にしてくれと言った、
 あの二人の漁師の兄弟の、一人だよ。
 あの人がこの福音書を書いてんのさ。」


「ほぉー」


「ヨハネの書いた福音書が他の三つの福音書と
 どう違うかというと、
 見た人にしか書けない書き方をしてるのさ。
 見た人にしか書けない具体的な描写だと思わない?」


「うん。そうだな。」


「ペトロと筆者である自分(もう一人の弟子)と
 二人で墓穴を見に走って行って
 どっちが先に墓に辿り着いたかとか。
 ペトロよりも自分が墓穴に着いたけど、
 自分は最初は中には入らなくて
 ペトロが後から追い付いて先に墓の中に入ったとか。
 墓穴の中を覗くと、
 イエスの顔を覆っていた布がどんな具合で
 どっち側に丸めてあったとかさ、
 見た人の立場で、
 その時の状況を見た時のままに描写してる表現でしょ。
 自分達がこの時はまだ
 復活の事実を理解出来てなかった事も、
 弟子達がイエスの復活を信じる事が出来なかった事実も、
 克明に詳しく、ちゃんと書いてある。
 これがヨハネの福音書の、
 他の三つの福音書と違うところだよ。」


「そうだな。
 見て来たように書いてあるな。」


「この時、
 女の弟子マリアが墓の外で泣いていた。
 何で泣いてたかというと、
 イエスの遺体を誰かに持って行かれたと思ってるから、
 それで泣いてた。
 弟子達にとってもこの時点ではまだ
 イエスの復活は全く信じられない事だったんだよ。」


「そうだな。
 そりゃ簡単には信じられる筈がない。」


イエスは弟子達の前に現れて、
彼らに息を吹きかけた。


 聖霊を受けなさい。(ヨハネ20;22)


「聖霊は、
 福音書読み始めた最初の場面で
 イエスが洗礼を受けた時に下って来た神の霊だよ。
 イエスは弟子達に神の霊を受けなさいって。」


「・・・・ううむ。」


イエスが弟子達に現れた時、
その場に居合わせなかったトマスは
皆の話を信じなかった。


 あの方の手に釘の跡を見、
 この指を釘跡に入れてみなければ、
 また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
 わたしは決して信じない。(ヨハネ20;25)


 わたしを見たから信じたのか。
 見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20;29)


「うーーーーーーん・・・・(-“-;)」


じじ、
感心しているけど、どうよ。

じじと読む一日一章(マルコ15;34)

2008-03-15 23:56:01 | マルコ
3月15日(土)十字架の上のイエスの言葉(マルコ15;34)


イエスが十字架につけられたのは朝の9時。
息を引き取ったのは午後の3時。
この6時間の間、
イエスは何を思っておられたか。


「手と足を釘で打ちつけられて
 十字架に下げられて、
 エルサレムの炎天下に晒されてさ、
 痛かったろうし苦しかったと思うよ。」


「そうだな。」


 わが神、わが神、
 なぜわたしをお見捨てになったのですか。(15;34)


「お父さん。
 ここ読んでどう思う。」


「・・・・・(` ´)=3
 どうって・・・・どう思うって事もない。」


「イエスは
 神様から見捨てられて死んだと思うかい。」


「・・・・」


「この言葉だけを読むと
 神様から見捨てられたと言ってる。
 絶望してるんだよね。
 十字架の周りで野次飛ばしていた群集や
 律法学者達の言った通りなんだよ。」


 おやおや、
 神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
 十字架から降りて自分を救ってみろ。(15;29~30)


 他人は救ったのに、自分は救えない。
 メシア、イスラエルの王、
 今すぐ十字架から降りるがいい。
 それを見たら信じてやろう。(15;31~32) 


「・・・・・・(-"-)」


「信者でなかった頃にこの箇所を読んだ時、
 私はイエスが神から見捨てられて
 絶望して死んだと本気で思った。
 復活とか昇天とかそういうのは
 いくらでもでっち上げれると考えたし。
 どう思う?」


「・・・・どうって・・・わからんな。」


「イエスは神様から見捨てられて
 絶望して死んだと思うかい?」


「いや・・・・どうかな。
 違うだろう。」


そう。
じじ、
自分の言葉で表現出来ないでいるけど
私の質問に「違う」と答えたのはヒットだぜ。


「私が洗礼受けてからさ、
 1年くらい経ってから
 初めて新約旧約、
 聖書一冊全部を読み通したのさね。
 そしたら見方が変わった。
 というか変えられた。」


「ほう。」


「福音書って四つあってさ、
 十字架の上のイエスの言葉がそれぞれ違ってるのさ。
 今読んでるマルコと、マタイでは
 『わが神、わが神、
  なぜわたしをお見捨てになったのですか。』
           (マタイ27;46、マルコ15;34)
 ルカでは
 『父よ、
  わたしの霊を御手にゆだねます。』(ルカ23;46)
 ヨハネでは『成し遂げられた』(ヨハネ19;30)
 イエスの十字架の上の言葉は
 実は旧約聖書の詩篇に出てるのさ。」


「へーぇ。」


詩篇22編を開く。
しばらくじじと交互に輪読する。


 わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見捨てになるのか。
 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
 呻きも言葉も聞いて下さらないのか。
 わたしの神よ
 昼は、呼び求めても答えてくださらない。
 夜も、黙ることをお許しにならない。(詩篇22;1~3)


 わたしを見る者は皆、わたしを嘲笑い
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
  主が愛しておられるなら
    助けてくださるだろう。」(詩篇22;8~9)
 

 主よ、あなただけは
     わたしを遠く離れないでください。
 わたしの力の神よ
     今すぐにわたしを助けてください。(詩篇22;20)


 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
 集会の中であなたを賛美します。(詩篇22;23~24)


 わたしの魂は必ず命を得
  子孫は神に仕え
 主のことを来るべき代に語り伝え
 成し遂げてくださった恵みの御業を
   民の末に告げ知らせるでしょう。(詩篇22;30~32)


「ほら、この詩篇22篇、
 十字架のイエスの言葉と同じでしょ。
 "わが神、わが神、
 なぜわたしをお見捨てになったのですか。"
 という絶望に始まって、
 "わたしの魂は必ず命を得・・・"
 という希望、神への信頼と賛美で終わってる。
 イエスは神様に失望して死んだのではなくて
 十字架で苦しみながら詩篇を暗誦してたのかも。
 息を引き取るまでずっと。」


「おおーーー!(`・o・´)=3」


「そういう見方もあるって事さ。」


「なるほどなー」


「でも、十字架の上で
 ただ詩篇を暗誦していたというよりも
 この詩篇の絶望は私達人類の苦しみの叫びだから
 イエスが私達と同じ絶望の淵まで
 降りて来て下さったと考えられるのさ。
 私達が自分はもうダメだ自分は神に見捨てられたと
 絶望するところまでもイエスは付き合って下さって
 私達と一緒に苦しんで下さったって事だよ。
 人間は一度絶望しても
 信仰によってまた立ち上がれるから。
 だからこの詩篇の最後は
 神への信頼で終わってるんじゃないかな。」


「うーーーん・・・・」


あ、じじごめん。
ちょっと熱く語り過ぎたであるよ。
次行こ。
詩篇31編。


 あなたはわたしの砦。
 まことの神、主よ、
 御手にわたしの霊をゆだねます。
 わたしを贖ってください。(詩篇31;5~6)


「これはルカの福音書の
 十字架のイエスの言葉と同じでしょ。」


「ほぉー同じだー。」


「この十字架のイエスの言葉は、
 確かに詩篇なんだけど、
 子供の"おやすみ"のお祈りの言葉なんだって。
 私の持ってる本に書いてあった。」


「へぇ。」


…これはユダヤ人の母親が子供に教えた
おやすみの祈りの最初の部分なのです。
ちょうど私たちが「今晩もよく眠れますように…」
と教えられたように、
イエスは子供の祈りを口にして、死んだのです。
 (ウィリアム・バークレー著『戦うキリスト』新教出版社)


「私はこの本読んだ時泣いたよ。
 十字架の上で極限まで苦しみながらさ、
 イエスが子供のお祈りを呟いて死んだと思うと
 私は泣けてきたさ。
 それ以来この言葉に対して見方が変わった。」


「・・・・・(;_;)」


ありゃりゃりゃ・・・・・
じじが鼻をかみ終わるまで
しばし中断。


では、
ヨハネでは。


「成し遂げられた」(ヨハネ19;30)


「成し遂げられたというのは、
 預言が成就されたという意味だよ。
 そしてこれも詩篇の中の言葉なのさ。」


詩篇22篇再び。


 成し遂げてくださった恵みの御業を
   民の末に告げ知らせるでしょう。(詩篇22;32)



「おおー」


「ねー。
 不思議でしょう。」


「そうだなぁ。
 同じだぁ。」


「イエスによって預言が成就されたというのは
 本当だと思うよ。」


「いやぁーこれはなかなか。」


「面白い?」


「面白いとかそういう事でなくて
 いやーなかなか。」


じじ、
しきりに感心しているけど、
明日私は夜勤入り。
今日はこれにてお開き。

じじと読む一日一章(15;1~47)

2008-03-15 22:59:39 | マルコ
3月15日(土)マルコ(15;1~47)


ピラトの尋問。


「ピラトはローマ人だし
 ユダヤ人達の宗教問題なんか
 どうでもよかったんだよ。
 でも地方の一中堅管理職に過ぎないから
 暴動が起きたりしたら自分が責任を問われるし
 自分の保身というか、
 自分の立場とか面子を守るために
 祭司長達の言うままになったのさ。
 騒ぎが起こると面倒だからね。」


「そうだな。
 役人というのはそういうものだ。」


「祭司長達は群集を扇動してさ、
 イエスを十字架につけるように
 おそらく買収もしたろうし
 自分達の思う通りに群集を騒がせたんだよね。
 死刑だ十字架だって。」


「群集の力というのは凄いからな。」


「うん。
 そうだよ。
 イエスを十字架につけたのは群集だよ。
 祭司長や律法学者達では権限が無くて
 ローマ総督のピラトは
 大した犯罪人でもないイエスを死刑にしたくない、
 なのにどうしてイエスが死刑にされたかというと、
 群集が殺せ殺せ死刑だ死刑だと騒いだからさ。
 イエスを十字架に磔にして殺したのは
 群集なんだよ。」


「今の世の中も同じ事があるだろう。」


「2000年前も今も
 群集心理は同じなんだよ。」


「そうだな。」


「群集というのは、
 お父さんや私なんだよ。
 私達も殺せ殺せと叫んでイエスを十字架につけた、
 イエスを死刑に追いやった群集の一人なんだよ。」


「・・・・」


兵士達から侮辱され、
殴ったり唾を吐きかけられた後、
イエスは十字架を背負わされた。


「夜中から朝までずっと引き回されて
 殴ったり蹴ったり鞭打ちされて、
 へとへとのよれよれの状態で
 自分の身長の倍もある頑丈な十字架をさ、
 担がされて
 街中からゴルゴタの丘まで歩かされたんだ。
 イエスは途中でへたって
 十字架の下敷きになってしまった。」


「・・・・・」


クレネ人シモン。


「弟子達は全員イエスを見捨てて逃げた。
 このクレネ人シモンは通りがかりの人だった。
 イエスの十字架を一緒に背負ったのは
 史上たった一人、
 このクレネのシモンだけだよ。」


「ほー。」


「このクレネのシモンには
 息子が二人いて、アレクサンドロとルフォス。
 この息子達は
 キリスト教初代教会の指導者になった。」


「ほほぉー(゜O゜)」


「クレネのシモンは
 後々のキリスト教徒の憧れだよ。
 自分もその場にいてイエスの十字架を
 一緒に担わせて頂けたらと思って
 憧れる気持ちはあるよ。
 初代教会の信者達は皆
 クレネのシモンに憧れたと思うよ。」


「なるほどな。」


「だけどさ、
 イエスの十字架を愛する人は少ないんだよ。」


「σ(?_?)」


「『キリストにならう』という本に書いてあるのさ。」


じじに、
『キリストにならう』の中の一文を紹介する。


11.イエズスの十字架を愛する人は少ない

  イエズスの天の国を愛する人は多いが、
  その十字架をになおうとする人は少ない。
  慰めを望む人は多いが、
  苦しみをのぞむ人は少ない。
  イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
  イエズスと共に断食する人は少ない。
  キリストと共に楽しむことをのぞむが、
  キリストのために、
  何ごとかを忍ぼうとする人は、
  すくない。
  多くの人はその奇跡に驚嘆する、
  しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、
  すくない。
  多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、
  慰めを受けている限り彼を祝する。
  しかしイエズスが姿をかくし、
  暫くの間でも、彼らから離されると、
  不平をいい、ひどく落胆する。
  しかし、
  イエズスから受ける慰めのためではなく、
  イエズスをイエズスとして愛している人は、
  患難や苦しみのときにも、
  慰めのときと同様に、かれを賛美する。
  そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、
  かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
      (『キリストにならう』バルバロ訳
            ドン・ボスコ社 1967年より)


「イエスがさ、
 病人を癒して悪霊を追い払って
 パンを増やして魚増やして
 目を治して耳を直して手も足も直して
 奇跡を起こして腹一杯に満たしてくれる間は
 皆イエスと一緒にいたがるけど
 十字架を背負って
 罵声を浴びたり鞭で打たれたり石投げられたり
 十字架の苦しみまでイエスに付き合いたがる人は
 少ないって事を言ってるのさ。」


「・・・・・(-"-;)」


じじ、腕組みして考え込んだぞ。


「でもこれは本当の事だよ。
 私達の事を言ってるのさ。」


「・・・・・・」


「イエスは朝の9時に十字架に磔にされた。
 昔の絵画みたいに
 手のひらに釘を打ったんではなかったと思うよ。
 人間の手のひらって
 薄い筋肉と細い骨と皮しかないから
 釘を打っても十字架を立てて全体重がかかったら
 重みで手のひらが負けて裂けてしまって
 下に落っこちちゃったと思う。
 だからさ、
 釘を打ったのは手首の付け根の、
 この手根骨のあたりじゃないかと思うんだ。
 足首は右と左交差させて一本でがちっと。
 それだけでも惨たらしいよね。
 そして
 十字架に吊るしたまま死ぬまで炎天下に放置して
 脱水で苦しんで苦しんで死ぬのを
 さらし者にした。
 一番残酷な死刑のやり方だよ。」


「そうだな。」


「詩篇の22編に書いてあるのさ。」


 苦難が近づき、
 助けてくれる者はいないのです。(詩篇22;12)


 口は渇いて素焼きのかけらとなり
 舌は上顎にはり付く。(詩篇22;16)


「イエスを十字架につける時、
 ローマ兵達がイエスの着ていたものを
 山分けして、くじ引きしてるでしょ。
 これも書いてあるんだよ。」


 骨が数えられる程になったわたしのからだを
 かれらはさらしものにして眺め
 わたしの着物を分け
 衣を取ろうとしてくじを引く。(詩篇22;18~19)


「本当だなぁ。
 書いてあるなぁ。」


「旧約聖書の詩篇や預言書のいろんな所に
 私達が読んだらすぐに、
 あ、これイエス様の事だって分かる事が
 出てるのさ。
 預言が成就するとか預言の通りにって
 イエスが何度も言うでしょう。
 イエスの生まれる何百年も前から
 旧約聖書に預言されていた事なのさ。
 だけど、
 今の私達はこの聖書という本に
 読み易くまとまって書いてあるから分かるけど、
 イエスの時代の人達は誰一人分からなかったのさ。」


「そうだろうな。
 わからないだろうな。」


「うん。
 皆、自分達が何やってるのか
 分かってなかったんだよ。
 わからないまま、
 預言の通りイエスを十字架につけた。」


 ある者が十字架の上で苦しむイエスに
 酸っぱくなったぶどう酒を海綿に含ませて
 飲ませようとした。(15;36)


「これもさ、
 こんな事まで詩篇に書いてあるんだよ。」


 わたしが受けている嘲りを
 恥を、屈辱を、
 あなたはよくご存知です。
 わたしを苦しめる者は、全て御前にいます。
 嘲りに心を打ち砕かれ
 わたしは無力になりました。
 望んでいた同情は得られず
 慰めてくれる人も見いだせません。
 人は私に苦いものを食べさせようとし
 渇く私に酢を飲ませようとします。(詩篇69;21~22)


「酢というのは
 ぶどう酒が古くなって酸っぱくなったものさ。
 喉が渇いた人にこれを飲ませるってどうよ。
 嫌がらせとか虐待だよね。」


「なるほどなぁ。」


イエスは午後3時に息を引き取られた。
神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
夕方になって、
アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を
引き取って亜麻布で包み、
墓に納めて入り口を石で塞いだ。


「イエスが逮捕されて十字架で死んだ時、
 弟子達は皆逃げて誰もいなかった。
 でも、
 ローマ兵の百人隊長や、
 アリマタヤの議員ヨセフや、
 女の信者達がぞろぞろと
 イエスの後を付いて来ていたんだよ。
 そして十字架の上で死ぬところまで見届けた。
 女の信者達は目立たなくて弱いけど
 しぶとくて強かったんだ。
 逃げないでイエスの後を追って来たんだね。」


「そうだなぁ。」


じじ、
感慨に浸っている。
この後しばらく、
じじに十字架の上のイエスの言葉の事を話す。

じじと読む一日一章(マルコ14;32~72)

2008-03-14 23:54:40 | マルコ
3月14日(金)マルコ14;32~72


ゲッセマネで祈るイエス。


「お父さん。
 これから十字架に架けられて殺される時、
 やっぱりイエスだって恐ろしかったんだよ。
 十字架の死刑は一番残酷な方法で殺す死刑だからね。
 出来れば避けたい、
 やっぱり怖かったんだろうね。」


「そうだな。」


「この時にイエスの傍にいた弟子達は
 皆寝てしまっててさ、孤独だったよね。
 これから十字架で殺されるのに
 誰も励まさないし理解もしない、祈りもしない、
 起きて傍にいる事すらしない、
 イエスはたった一人で孤独だったね。」


「皆、疲れて寝てたんだろうな。」


「"この杯を取りのけてください"の"杯"って
 苦しみの事だよ。
 こないだも出て来たけど。」


「そうか。」


「そうだよ。」


ユダは接吻を以ってイエスを裏切り、
イエスは逮捕された。
残りの弟子達は全員散り散りばらばらに
イエスを見捨てて逃げ去った。


裸で逃げた若者。


「お父さん、
 この裸で逃げた若者って、
 この福音書を書いた筆者マルコなんだってさ。」


「へぇぇ。」


「捕まりそうになって、
 着てるもの脱ぎ捨てて裸で逃げたんだよ。
 イエスを見捨てて。」


「そうだな。」


最高法院の裁判。


「裁判と言ったって
 でっち上げの言いがかりでさ、
 買収して偽証させた証人達と大勢の野次馬とさ、
 金ばら撒いてそこいらから掻き集めた群集達に
 イエスが不利になるような証言をさせてさ、
 それで冒瀆罪って事にした。
 でたらめの裁判さ。
 もう予めイエスを殺す事に決めていて
 死刑の口実として
 でっち上げの罪状を挙げたんだ。」


「そうだな。
 しかしこういう事はよくあるだろう。」


「ああ。
 そこんとこは昔も今も
 あまり変わらないよね。」


ペトロの否認。


「たとえ一緒に死ななければ
 ならなくなったとしても
 あなたの事を知らないなどとは言わないって
 言い張ってたけど、
 やっぱりイエスの予告通りに
 "そんな人知らない"って言ったんだ。
 3回も。」


「そうだな。
 言おうと思わなくても言ってしまったんだな。」


「弱いんだよね。
 人間てさ。」


「そうだな。」


ここでこのペトロの否認の場面を
もう少し詳しく、ルカに飛ぶ。(ルカ22;54~62)


「ペトロが"そんな人は知らない"と言った時、
 イエスが振り向いてペトロを見たって書いてある。
 イエスに聞こえてたんだよ。」


「あああ。
 そうか。
 それはなぁ。
 いやぁーそれはあんまりだなぁ。」


じじ、しきりに頭を振って嘆息している。


「イエスとペトロは目が合ったんだね。
 イエスは振り向いてペトロを見つめたんだ。」


「あああ。
 なんだかなぁ。。。。orz
 やりきれない。」


「想像するしかないんだけどさ、
 イエスはペトロを見た時、
 どんな顔してたと思う?」


「それは、
 キリストだから、
 怒ったり恨んだりはしていないだろう。」


「私もそう思うよ。
 イエスはペトロが裏切った事を
 恨んだり責めたり怒ったりはしてなかったと思う。
 推測だけどさ。
 だからペトロは後悔して泣いたんだと思うよ。」


「そうだな。」


「もしイエスがこう言ったらどうだろう。
 "何だペトロお前裏切りやがってこの嘘つき野郎"って、
 もしペトロにそう言って罵ったら、
 ペトロは後悔したり泣いたりしないで
 もう2、3回くらい"けっ知らん知らん知らん"って
 とっとと逃げたんじゃないかな。」


「いや、
 キリストはそんな事は言わない。」


「だから言わないって。
 もしそうだったらの話だよ。
 イエスはペトロを責めてない。
 ペトロと目が合った時、
 イエスはきっと許しと憐れみの目で
 ペトロを見たよねきっと。
 ペトロ、辛いよねぇ。
 後悔して苦しかったろうなぁ。」


「そうだなぁ。
 やりきれないなぁ。」


「この少し前の所を読むとさ、
 イエスはペトロが自分を裏切ると知りながら
 ペトロを励ましてるのさ。」


シモン、シモン、
サタンはあなたがたを、
小麦のようにふるいにかけることを
神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、
信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、
兄弟達を力づけてやりなさい。(ルカ22;31~32)


「"わたしはあなたのために、
 信仰が無くならないように祈った。"って、
 胸が痛くなるよ。
 こんなに
 自分のために祈ってくれた師匠なんだよ。
 その師匠を
 本人の目の前で、聞こえる所で
 知らないと言ってしまったんだもの。
 しかもそれを責めたりしないんだから
 ペトロの気持ちになってみたらさぁ。
 これは辛いよねぇ。」


「いやぁーこりゃあ辛いなぁ。
 後悔するなぁ。」


「泣けてくるよね。
 ペトロはイエスのこの言葉を
 後々何度も何度も繰り返し、
 反芻してたんじゃないかな。」


ペトロが見たであろう、
イエスの許しと慈愛の眼差し。
心臓を刺し貫くような後悔をもたらす。
私はこのルカ22;31~32の箇所に弱い。
自分で読む度に泣けてくる。
毎度毎度、
何度読んでも泣けてくる。
しかし
ここで私が泣いてどうする。


見れば
じじ、うるうるしている。


泣きながら福音書に入り込んだ
いい年のあほだら親子。


はー。
やっきりこいた。


今日はこれにてお開き。

じじと読む一日一章(マルコ14;1~31)

2008-03-13 23:18:39 | マルコ
3月13日(木)マルコ14;1~31


祭司長達や律法学者達は
イエスを殺す計略を練っていた。


「過ぎ越しの祭りの間は避けたんだ。
 群集が暴動を起こすから。
 人目の無い時を狙ってた。」


「闇討ちにしようとしたんだな。」


「そう。
 汚いやり方だよね。」


「そうだな。」


イエスに香油を注ぐ女の話。


「香油というのは高価なものだったらしいよ。
 女を咎めた人達は、
 香油をイエスの頭にかけた事を
 無駄遣いだと言ってる。
 香油を高く売れば
 貧しい人達に施してやる事が出来たのにと言うんだよね。
 この人達の言う事は、
 一見事前のように聞こえるけど違うと思わない?」


「そうだな。
 無駄遣いと言ってるが。」


「貧しい人々に施しをするならば
 この女の持っている香油を売るとかどうとか
 言ってる事自体が変だよ。
 貧しい人に施しをするなら
 人の持っている物を当てにしないで
 自分が自分の物を売るか
 自分の手で稼ぐかするべきだよね。
 この女を責めている人達の言ってる事は
 慈善のようでいて何か薄汚いまやかしのような、
 偽善を感じないかい。」


「そうだな。
 しかし埋葬の準備をしたと書いてあるな。」


「そう。
 施しをしたいなら、
 貧しい人々はいつもすぐ身近にいるけど
 イエスはもう間もなく自分が殺されると言ってる。
 その埋葬の準備をしてくれたと。
 でも弟子達には今ひとつ危機感が無いよね。
 イエスが殺されるという危機感がさ。」


「何が起こるかわからなかったんだろう。」


「この女がイエスに油を注いだ事は
 イエスが予告した通り、
 世界中何処でも知られている。
 こうして福音書に書かれて、
 2000年経った今でも語り継がれている。」


「そうだな。」


イスカリオテのユダ。


「イエスを裏切って
 祭司長達に売り渡したイスカリオテのユダは、
 イエスと弟子達の
 一行の財布を任されていたんだって。」


「へぇ。」


「このユダがどうして
 イエスを裏切ろうと思うようになったかは、
 想像するしかないけど、
 この時点でイエスの弟子達は
 まだイエスの言っている神の国の意味とか
 全然理解してなかった。
 だから自分達の中で誰が一番偉いかとか
 自分達を右大臣と左大臣にしてくれとか
 暢気な事言ってるね。
 皆、財産も仕事も捨ててイエスに従って来てた。
 それだけ救い主としてイエスに期待してたと思う。
 でも
 ユダにとっては、
 イエスはユダの思い描いていた救い主像、
 軍事的政治的リーダーとは違うって事が分かって
 失望してたんではないかと思う。
 せっかく何もかも捨てて
 期待してついて来たのにってね。」


「う~ん。
 そうかも知れないなあ。」


「他の福音書では、
 ユダは銀貨30枚と引き換えに
 イエスを祭司長達に売り渡したと書いてあるよ。
 銀貨30枚というのはさ、
 奴隷一人の値段に相当するんだって。」


「ほぉー。」


「それと、銀30というのは
 旧約の預言書にも出て来る。(ゼカリヤ11;10~13)
 ユダはイエスが死刑の宣告をされた時に後悔して
 銀貨を祭司長達に返しに行ったけど相手にされなくて
 その銀貨30枚を神殿に投げ入れて自殺した。
 祭司長達はその銀貨30枚は血の代価だから
 汚れてるって事で神殿の献金には入れないで
 陶器師の畑を買い取って
 外国人の墓場にしたんだよ。」


「・・・・・(-"-)」


じじ、渋い表情で考え込んだ。
次行こう。
裏切る者について。


「はっきり言っておくが、
 あなたがたのうちの一人で、
 私と一緒に食事をしている者が、
 わたしを裏切ろうとしている。」(14;18)


「弟子達は皆それぞれ、
 まさか自分の事か!?ってうろたえたけど。
 一般的に、
 ここで言うイエスを裏切る者は
 イスカリオテのユダだよね。
 イエスを銀貨30枚で売ったんだから。」


「そうだな。」


「だけどさ、
 裏切り者はユダだけじゃないのさ。」


「・・・・」


「裏切り者は
 イエスを売ったユダも含めて、
 12人全員だよ。
 だってイエスが逮捕された時、
 土壇場で全員がイエスを見捨てて逃げた。」


「う~ん。
 そうか。そうだなぁ。」


「そうなんだよ。
 ユダだけじゃない。
 皆、全員がイエスを裏切った。」


主の晩餐。(14;22~26)


イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
弟子達に与えて言われた。
「取りなさい。
 これは私の体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを捧げて、
彼らにお渡しになった。
・・・・・
「これは、
 多くの人のために流されるわたしの血、
 契約の血である。・・・・」


「最後の晩餐て、聞いた事あるっしょ。
 ここの場面がその最後の晩餐だよ。
 イエスが十字架で死ぬ前の、最後の食事。」


「そうだな。
 飲む事はもう決して無いと言ってるなぁ。」


「この最後の晩餐は、
 聖餐式と言って
 キリスト教徒にとって一番大事な儀式だよ。
 イエスがここでした事を記念して、
 私達の教会でも毎月同じ事をするのさ。
 お父さんも洗礼を受けて正式に教会員になったら
 この聖餐式に参加出来るよ。」


ここで、
一時中断して私達の教会の聖餐式について
じじにさらっと説明した。
(後ほど記事にアップします。)


ペトロの離反の予告。(14;27~31)


「お父さん、ここに引用されている言葉も
 旧約の預言書に出てるんだよ。」


「ほぉ。」


『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊は散ってしまう。』(ゼカリヤ13;7)


「たとえ、
 みんながつまずいても、
 わたしはつまずきません。」(14;29)


「たとえ、
 御一緒に死なねばならなくなっても、
 あなたのことを知らないなどとは
 決して申しません。」(14;31)


「ペトロはこう言って心は熱かったけど
 やっぱり土壇場で裏切ってしまう。」


「そうだな。
 鶏が鳴く前に知らないと言ったんだな。」


「そう。
 他の弟子達も同じ。
 結局は皆逃げた。」


では、次回は
主イエスの受難に進むよ。

じじと読む一日一章(マルコ13;1~37)

2008-03-08 23:57:54 | マルコ
3月8日(土)マルコ13;1~37


西暦70年。
ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊され、
イエスの予告通り、
神殿の崩壊は現実のものとなる。


「2000年後の今
 こうやって聖書を読んでる私達は
 キリスト教徒が迫害を受けた事を知っていて
 弟子達の苦難も殉教も分かってるけど、
 イエスからこの話を聞いた時の弟子達は
 イエスが一体何の話をしてるのか、
 何が起こると言っているのか、
 全然現実感無かっただろうね。」


「そうだなぁ。
 分からないだろうなぁ。」


「うん。
 イエスが十字架で死なれて
 復活して、
 でもその後エルサレムがローマに攻め落とされて
 神殿も何もかも壊滅するからね。
 戦争が起こってもまだ世の終わりじゃないって。
 戦争に加えて地震や飢饉が起こるって。
 そして弟子達は官憲に引き渡されて
 拷問を受けて、
 権力者の前に立たされて
 自分の信仰を言い表さなければならなくなると。」


「うーむ。」


「その時に何喋ったらいいか
 心配しなくても、
 聖霊が言葉を与えてくれるから大丈夫だって。」


「へぇぇ。」


「ここにさ、副題がついてるでしょ。
 『大きな苦難を予告する』って。
 ローマ皇帝だったネロがさ、
 ローマ市内に放火して
 それをキリスト教徒がやったと言って
 キリスト教徒狩りしてさ、
 火炙りにしたり車裂きにしたり猛獣に食わせたり
 そりゃあ凄惨なやり方で殺したんだよ。
 有名な話だけど。」


「そうだな。」


「でもネロの迫害は
 あくまでローマ市内だけだったらしいけど
 ドミティアヌス帝の時は
 もっと酷い迫害だったんだよ。
 そして西暦250年には
 迫害がローマ帝国全土に広がっていったのさ。」


「切支丹の迫害と同じだな。」


あああ。
じじ、
今そういえば遠藤周作『切支丹の里』を
読んでいるのであった。


「お父さん。
 何も安土桃山とか江戸時代まで遡らなくても
 お父さんと同じ年で
 キリスト教徒弾圧を体験した人はいるんだよ。」


「?・・・・そうか?」


私はここで
ブログ『ぱんくず日記』にも書き、
礼拝のメッセージ奉仕でも紹介した、
故・辻宣道牧師の事をじじに話した。
(↓ぱんくず日記2006.7.8)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/66529cabfa89781771006f6315c757a4


そうだ。
辻宣道牧師とじじは同じ昭和5年生まれ。


じじが父親に引き取られて
置戸の山奥から釧路に引っ越して来て、
継母から苛められていた時、
辻宣道少年の父親は逮捕されて教会籍を剥奪され、
教会は解散させられた。
家族は路頭に迷い、
母親は軍隊の残飯を得るために並んでいた。


昭和20年1月、
じじは父親の家を出て鉄道学校にいた。
同じ時、辻宣道少年は父を獄中で失った。
翌昭和21年のペンテコステに、
辻宣道少年は信仰を告白し、洗礼を受けた。
そして父親と同じ牧師の道を歩んだ。


「お父さん。
 迫害は何百年も何千年も昔の
 歴史の本の中の話じゃないのさ。
 つい最近、
 お父さんが小学生だった頃にもあった。
 同じ迫害を体験した人の話を
 朝祷会でお父さんと同年代の人から聞いた事あるし。」


「ほぉー」


「イエスの名のために、
 人々から憎まれる、
 でも最後まで耐え忍ぶ者は救われるって。」


「・・・・・・・。」


じじが考え込んだところでお開き。

じじと読む一日一章(マルコ12;1~34)

2008-03-02 22:27:57 | マルコ
3月2日(日)マルコ12;1~34


ぶどう園と農夫の譬え話。


「お父さん。
 ここは昨日の続きでさ、
 神殿で祭司長や律法学者達や長老達が
 イエスに難問をしかけて
 揚げ足を取ろうとしている所さ。
 イエスはそれらの宗教指導者達に対して
 譬え話で批判してる。」


「そうだな。」


「ぶどう園を預かって収穫を渡さない農夫達は
 祭司長や律法学者達や長老達、ファリサイ派など
 宗教指導者達の事だよ。」


「うん。そうだな。」


「ぶどう園の主人は天の父なる神。」


「うん。」


「主人に遣わされて収穫を受け取りに行ったけど
 空手で追い返されたり
 袋叩きにしたり殺された僕達は預言者達だよ。
 預言者達は昔から神様の言葉を預かって、託されて
 人々に悔い改めを呼びかけたけど
 殆どがその時その時の権力者や宗教指導者達に
 弾圧されて殺された。
 この福音書ではほら、洗礼者ヨハネが
 ヘロデに首切られて盆に生首を乗せられたりしたっしょ。」


「そうだな。
 迫害されたんだな。」


「うん。
 で、預言者の言う事を聞かないなら
 天の父なる神様は
 息子なら敬ってくれるかも知れないと言って
 一人息子を送った。
 この一人息子がイエス・キリストだよ。」


「そうだな。
 それで殺されてしまうんだな。」


「うん。
 イエスは十字架に架けられて
 殺されてしまうからね。」


「ひどい話だ。」


「イエスはぶどう園の話でその事を言ってるのさ。」


「うむ。」


「『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。』
 これは、旧約聖書に書いてあるのさ。(詩篇118;22)
 家を建てる専門家が要らないと言って捨てた石が、
 実は神様に選ばれて
 その家を建てるための定礎、土台になったって事。」


「ふん。」


「旧約の詩篇は長いお祈りで、
 祭司長や律法学者達や長老達やファリサイ派にしてみれば
 自分達こそが専門家でよく知ってた。
 誰よりも一番良くわかってるつもりでいたから、
 イエスの言う事なんか
 聞けるかと思ってたんじゃないかな。
 だからイエスは彼らの一番よくわかっている詩篇で
 彼らを批判したんだよ。
 家を作る専門家が土台になる石を見抜けずに捨ても、
 神様が御手でその石を家の土台に据えられる、
 そういう意味だよ。」


「それで頭に来て殺したんだな。」


「そう。
 プライド高い人達だったんだろうね。
 そして陰湿に議論を仕掛けて言葉尻を捉えたり
 人の目を気にして
 姑息なやり方でイエスを闇討ちしようとした。」


「ううーむ。」


皇帝への税金。
皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかいないか。


「当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあったから
 ローマから税金を取られても歯向かえなかった。
 そういう時代背景があるからね。
 ローマ皇帝に税金を納める事を、
 もしイエスが律法に適ってると答えたら
 同胞を裏切る売国奴呼ばわりするだろうし、
 イエスについて来た群衆をがっかりさせる事になる。
 だからと言って
 もしイエスがローマに税金を納める事を
 律法に適っていないと言ったら、
 議論を仕掛けた人々はイエスをローマに告発する。
 さあ、どうする。」


「いやぁー
 これはなかなか難しい問題だなぁ。」


「ローマの貨幣には皇帝の肖像が彫ってあって
 皇帝の名前が入ってた。
 イエスは、その貨幣を皆の前に出させて
 皇帝のものは皇帝に、
 神のものは神に返せと答えたのさ。」


「大したもんだなぁ。
 いやあ、大したもんだ。」


じじ、
水戸黄門の葵の御紋の場面みたいに
興奮している。


「この当時の、
 律法学者達に頭を抑えられていた人々は
 そりゃあスカッとしたさねぇ。」


「そうだなぁ。
 いやぁ、立派なもんだ。」


復活についてのサドカイ派との問答。


「イスラエルの指導者達同士でも
 死んだ人の復活を認めるか認めないかで
 立場が違ってさ、
 意見が分かれて対立してたのさ。」


「ほぉ。」


「それと、イスラエルのしきたりは
 家とか血筋を重んじて、
 長男が子供を残さないで死んだら
 次男が長男の嫁と子供を作らなければならない、
 そういう背景があった。
 でも、サドカイ派の人は
 もし死者の復活があるなら全員死んだ後、
 誰が誰の妻なのかって。」


「訳わからんな。」


「イエスはこの人達に対して、
 復活の時には婚姻なんか無い、
 神様は死んだ者の神ではなくて
 生きている者の神だときっぱり答えてる。
 生きてる者が分かりもしないで
 死んだ人の中の誰が誰の夫で妻か、
 議論しても仕方ない。
 そういう事は全然重要じゃないよね。」


「ふん。
 そうだな。」


最も重要な掟。


わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。


「お父さん。
 この掟は大事なところだよ。
 心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
 神と人とを愛する。
 私達が大切にするのはこの掟。」


「うん。」

悪霊の働き

2008-03-01 23:59:59 | マルコ
わたしの後に従いたい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。(マルコ8;34)


受洗を決意して洗礼準備に入った時、
母教会の教会員の複数の誰彼から異口同音に
同じ事を言われた事がある。


「洗礼式の日を迎えるまでに
 悪魔がいろいろな抵抗や邪魔をするから
 気をつけてね。
 健康上の問題、
 事故やケガ、
 人間関係の躓き、
 生活面の問題、
 心の迷いや恐れ、
 どんな邪魔をしてくるかはわからない。
 だから
 イエス・キリストだけをしっかり見つめて、
 決して目を外さないように、
 十字架を見上げててね。」


それは、
本人だけにではなく
身近の者にも及び、襲ってくる。
今、それを感じる。


父が迷うとか躓くとかではない。
私がどうあろうと父の決心は動かない。
父と一緒のテーブルで聖書を開き、
一緒に主の祈りを唱えながら
この毎日、
御手の力強い事を実感している。


先日、
マルコの8章を父と一緒に読むと、
奇跡の箇所ではいつも一歩退く父が
"わたしの後に従いたい者は、
 自分を捨て、自分の十字架を背負って、
 わたしに従いなさい。・・・"
の箇所で身を乗り出し、
真剣に聞き入っていたかと思ったら
本人にも理由のわからない涙を流した。
それを見た時、私は
父の信仰が
言葉に表わせないながらも本物であると確信した。
その瞬間、
それまでずっと忘れていた、
何年も前の、
ある人がたまたま私に言った言葉が突然
私の脳裏に甦った。


数年前、
私達の教会の納骨堂を古い墓地から
新しい霊園に移転し、完成した時。
その日私は仕事で行かなかった。
その人は新しく完成した納骨堂の様子を
私に知らせてくれた。


「綺麗で、明るくて、とってもいい所だった。
 お墓なのに何だかずっとそこにいたい気がする、
 素敵な納骨堂だったわ。
 トモちゃん、私、
 あなたのお父さんがあそこに入ったらいいと思うの。」


今の今まで
思い出しもしなかったその人の言葉を
どうして今頃になって
聖書を読み涙する父の顔を見て思い出すのか。


教会の納骨堂が完成した時点では
私は父を教会に連れて行く事など
考えもしなかった。
それから1年経って
父を初めて教会の礼拝に連れて行ったのが始まりで
以来、父は一回も休む事なく毎週日曜日には
主日礼拝に通っている。
父は私の勤務に左右される事なく
ヘルパーの介助を受けて教会通いを続けている。
私の知らない間に
父は自分から牧師先生に受洗の希望を申し出て
今こうして決意を確固たるものとしている。


その人のあの言葉を思い出した。
その人のあの言葉通り現実になろうとしている。
父は親と縁の薄い生い立ちだった。
親族の墓との関わりも今はない。
父が受洗したら
いずれ父がこの世を去った時
遺骨は教会の墓所に入れて貰う事になるだろう。


"トモちゃん、私、
 あなたのお父さんがあそこに入ったらいいと思うの。"


あの人の言った言葉の通りになる。
そんな考えが頭を過ぎった時、
本来はこの上なく喜ばしいはずの
父の受洗の日が
根拠なく禍々しいもののような気がして来た。


くだらない事だ。
くだらない事に囚われている。
くだらない事に囚われて
一番大事な事から目を外そうとしている。
私は
あの人が悪意で言ったのではない事を知っている。
あの言葉を
あの人に言わせたのは悪霊。
私に思い出させたのも悪霊。


受洗前に母教会の人々から言われた事は本当だ。
自分の受洗だけでなく
自分以外の受洗の時にも当てはまる事だ。

キリストを運んだ子ろば(マルコ11;7、ゼカリヤ9;9)

2008-03-01 23:59:57 | マルコ
3月1日(土)キリストを運んだ子ろばについて。


じじ宅から帰宅して、
私は旧約を開いた。
ロバに乗った救い主の記述はイザヤではなくて
ゼカリヤだった。
早速じじに電話する。


「お父さん、
 さっき話した預言書の、
 救い主がロバに乗って来る所あったよ。」


「おー」


イエスは子ろばに乗って
エルサレムに入って来た。
預言では、
救い主はロバに乗って来るのだ。
電話口で、
じじに旧約のページを開かせた。
これがまた難儀で。
礼拝ではヘルパーが開いてくれるし、
私と一緒に読む時は
予め読むページに紐を通してある。


「開いたぞ。」


じじ、電話口で
私が知らせたゼカリヤ9;9を読み上げる。


 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者。
 高ぶることなく、ろばに乗って来る。
 雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9;9)


「ほらね。
 書いてあったっしょ。」


「そうだな。」


「ここを読んだらすぐに
 あ、これはイエス様の事だって
 わかるよね。
 誰でもそう思うよきっと。
 イエスは預言書通りにエルサレムに入ったのさ。
 預言通りだから、
 馬でも戦車でもなくて、
 ろばだったんだよ。」


「なるほどなぁ。」


マルコ11章の冒頭を一緒に読んだ時、
私は少し前のFEBCの放送で
英隆一朗神父様が語られた話を少しじじに話した。


私達がイエスの弟子となって
イエスに従って行くという事は
この子ろばのような存在になっていく事ではないか。
目立たないがイエスをエルサレムに連れて行く、
重要な仕事を担う。
馬のように格好良くなる必要は無く、
黙々とイエスから言われた通りにするだけ。


「主がお入り用なのです。」(マルコ11:3)


主イエスが必要とされたから
この子ろばが連れて行かれた。
主イエスが働かれるために
私達は一人一人必要とされ、招かれて
キリスト者の道を歩くように呼ばれている。
    (FEBC『イエスの生涯を黙想する』より)


「お父さんも、私も、
 必要とされて、招かれたんだよ。」


「そうか。」