<安倍首相等の押しつけ憲法論に反論>
新憲法制定時に発揮された日本の良識
①、はじめに、マッカーサーメモの背景
一般に、日本国憲法の策定は、終戦の翌年1946年のマッカーサーメモに端を発している。押し付け憲法論者は、このマッカーサーメモが押し付け憲法の始まりだと主張している。
マッカーサーメモとは、次の3項目から成り立っている。
1.「天皇は、国家の元首の地位にある」
2.「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
3.「日本の封建制度は、廃止される
しかし、このメモがマッカーサー自身の個人的な思いつきかというとそうではなく、下記の歴史的事実が示すように、それまでに日本の主要人物や各界から意見を聴取した上で、まとめたものであることが歴史的事実である。
②、新憲法制定に大きな影響を与えた「憲法研究会による憲法草案要綱」
1945年12月27日、民間憲法研究会による「憲法草案要綱」が発表された。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成され、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、研究会内での討議をもとに、12月27日に「憲法草案要綱」として、内閣そしてGHQに届けられたものである。同憲法草案は冒頭の根本原則で「統治権は国民より発す」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼を司る」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、具体的な社会権、生存権が規定されている。この要綱に対し、GHQが強い関心を示し、マッカーサーメモの3項目にも、この草案が強く影響されている
③、マッカーサーに「戦争放棄条項」を提案した当時の日本の総理大臣・幣原喜重郎
最近入手した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という平野三郎氏の手記(国会図書館内にある憲法調査会資料)を読み、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけられたというより、当時の日本の総理大臣幣原喜重郎氏が、天皇制維持とセットでマッカーサー元帥に進言し、盛り込まれたものであるいう事情を知ることができた。
一般に、戦争放棄条項は1946年2月3日のマッカーサーメモに含まれ、2月12日のマッカーサー憲法草案で公開されたことになっているが、手記によると、マッカーサーメモが出される前の1月24日、幣原・マッカーサー会談が行われ、戦争放棄条項が幣原氏より提案されたとのことである。
ポツダム宣言では、降伏の条件として軍国主義の一掃、軍隊の武装解除・解体等はうたっているが、戦争放棄とまでは言っていない。9月2日の降伏文書も又しかりである。マッカーサー元帥もそれまでどのように日本軍国主義を押さえ込むか思いあぐねていたに違いない。日本軍国主義を上手く押さえ込まなければ、天皇の戦争責任が追及されるのは必至な情勢が迫っていた。敗戦から6ヶ月、日本の戦後を決める憲法はなかなか決まらない。マッカーサーと言えども軍人である、敗戦国に対し、武力不保持・戦争放棄までなかなか要求しにくかったに違いない。そんな中で、これを言い出したのが、敗戦国の総理大臣・幣原喜重郎その人だったのだから、渡りに舟とばかりに、マッカーサーもこの提案に乗ってきたのであろう。
手記には、何故,このような提案をしたのかが詳しく書いてある。将来の戦争のことを考え、敗戦国の立場で初めて言えることだと考え、死中に活を見いだす決意で提案したのだと幣原は述べている。この会談の結果が、その後の憲法制定に活かされ、象徴天皇制も、戦争放棄もすんなり国会をとおり、11月3日の憲法公布、翌1947年5月3日の憲法施行へと繋がっていったのである。
幣原提案は、戦前の軍国主義が天皇制と結びつき戦争を引き起こしたとする見方が戦勝国に多い中で、軍国主義的絶対天皇制から戦争放棄・象徴天皇制へと平和な日本を目指すことを世界に示す上で、実に大きな功績があった。単に天皇制を維持するための方策として戦争放棄を提案しただけと言うものではなく、日本の将来を見据えた実に大胆な提案であったということができる。
また、天皇制のあり方についても、幣原喜重郎は、天皇が権力を持っていたら、日本の歴史上、こんなに長く天皇制が続くことはなかったろう。権力を持たない象徴天皇制が一番良い、とも言っている。天皇が、軍国主義者に政治的に利用され、太平洋戦争を引き起こし、敗戦によって危うく天皇制崩壊の危機に追い込まれたことへの反省だろう。
しかし、戦争直後、まだ日本には、このような先を見据える政治家がいたと言うことは驚きである。
④、天皇自らが象徴天皇制への移行を宣言した「天皇人間宣言」
マッカーサーメモの天皇条項の中で、1946(昭和21)年1月1日に発せられた「天皇人間宣言」が新憲法制定にあたって大きな影響を与えている。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。新憲法の下で、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。宣言文は「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない」と述べている。この宣言文を起草したのも、時の総理大臣・幣原喜重郎だと言われている。マッカーサーはこの宣言に対し、「天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たした」と高く評価したとされている
こうした「憲法研究会が発表した憲法草案要綱」、「天皇の人間宣言」と幣原喜重郎の提案した「戦争放棄条項」がベースとなって、その後「主権在民を基礎とした民主的条項」が加えられ新憲法が制定されていったのである。
彼らは、日本が敗戦によって受け入れたポツダム宣言を忠実に履行しようと努めたものであり、ここからは押しつけ憲法と言った概念は何処からも出てこない。
押し付け憲法論者が言わんとする事は、、日本が敗戦を受け入れたこと、、ポツダム宣言を受け入れたことを問題にしている好戦論者の論理だけである。だから、彼らは「先の戦争は侵略戦争ではない」、「米英の経済断行から国を守るための自存自衛の戦争であった」、「いつまでも自虐史観にとらわれてはならない」、「ポツダム宣言に拘束されない自主憲法を持たなければならない」等という戯言をいつまでも言い続けるのである。
⑤、マッカーサーは、連合国の助言を受け、憲法施行後1~2年内の見直しを認めていたが、当時の吉田首相は、これを拒否
現行憲法の公布は1946年11月3日であるが、その翌年1947年1月3日、当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから次のような書簡を受け取っていた。
書簡の内容は「昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度(1948年)と第二年度(1949年)の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。」理由は「連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考える。」からと言うもの。 言い換えれば、連合国が将来、日本国民に憲法を押しつけたと言われないようにするために、憲法施行後1~2年以内に再検討しても良い、という書簡である。
これに対して、日本の吉田首相は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁で「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁している。
こうした経過は、当時、吉田首相は、日本国憲法が押しつけ憲法だとの認識に立っておらず、日本人自らが制定したものであり、新憲法を圧倒的に支持する日本国民の前で、新憲法を変えるなどと言うことは毛頭考えていなかったということを物語るものである。
戦後の憲法制定に係わった当時の政治家は、自らが憲法制定に係わり、日本憲法の柱である、象徴天皇制、主権在民、戦争放棄、封建制を脱し民主日本を目指す憲法にいささかも疑問を持っておらず、押しつけ憲法などと言う認識は持っていなかったのに、何故、あれから60年以上経った後の安倍首相などが、今更、押しつけ憲法等と言って憲法改正を声高に叫ぶのか、全く不可解である。
⑥、おわりに、その後のアメリカの新憲法問題に対する対応の変化
以上、安倍首相等の押し付け憲法論にたいし、制定当時の歴史的事実を踏まえ反論してみた。ここで取り上げている資料については膨大なので、割愛させて頂くが、すべて原典にあたった上で記述していることを申し添える。
なお、その後のアメリカの憲法問題の対応については、憲法が施行された翌年1948年から、アメリカの外交軍事路線が冷戦構造に変わり、この頃からアメリカの日本に対する9条改憲要求が始まったとされている。こうした要求は、すぐには実現しなかったが、1950年、朝鮮戦争が始まると、連合軍総司令官マッカーサーの指令によって、日本に自衛隊の前身である「警察予備隊」がつくられるようになった経過は、別途、稿を起こして論じる予定である。
新憲法制定時に発揮された日本の良識
①、はじめに、マッカーサーメモの背景
一般に、日本国憲法の策定は、終戦の翌年1946年のマッカーサーメモに端を発している。押し付け憲法論者は、このマッカーサーメモが押し付け憲法の始まりだと主張している。
マッカーサーメモとは、次の3項目から成り立っている。
1.「天皇は、国家の元首の地位にある」
2.「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
3.「日本の封建制度は、廃止される
しかし、このメモがマッカーサー自身の個人的な思いつきかというとそうではなく、下記の歴史的事実が示すように、それまでに日本の主要人物や各界から意見を聴取した上で、まとめたものであることが歴史的事実である。
②、新憲法制定に大きな影響を与えた「憲法研究会による憲法草案要綱」
1945年12月27日、民間憲法研究会による「憲法草案要綱」が発表された。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成され、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、研究会内での討議をもとに、12月27日に「憲法草案要綱」として、内閣そしてGHQに届けられたものである。同憲法草案は冒頭の根本原則で「統治権は国民より発す」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼を司る」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、具体的な社会権、生存権が規定されている。この要綱に対し、GHQが強い関心を示し、マッカーサーメモの3項目にも、この草案が強く影響されている
③、マッカーサーに「戦争放棄条項」を提案した当時の日本の総理大臣・幣原喜重郎
最近入手した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という平野三郎氏の手記(国会図書館内にある憲法調査会資料)を読み、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけられたというより、当時の日本の総理大臣幣原喜重郎氏が、天皇制維持とセットでマッカーサー元帥に進言し、盛り込まれたものであるいう事情を知ることができた。
一般に、戦争放棄条項は1946年2月3日のマッカーサーメモに含まれ、2月12日のマッカーサー憲法草案で公開されたことになっているが、手記によると、マッカーサーメモが出される前の1月24日、幣原・マッカーサー会談が行われ、戦争放棄条項が幣原氏より提案されたとのことである。
ポツダム宣言では、降伏の条件として軍国主義の一掃、軍隊の武装解除・解体等はうたっているが、戦争放棄とまでは言っていない。9月2日の降伏文書も又しかりである。マッカーサー元帥もそれまでどのように日本軍国主義を押さえ込むか思いあぐねていたに違いない。日本軍国主義を上手く押さえ込まなければ、天皇の戦争責任が追及されるのは必至な情勢が迫っていた。敗戦から6ヶ月、日本の戦後を決める憲法はなかなか決まらない。マッカーサーと言えども軍人である、敗戦国に対し、武力不保持・戦争放棄までなかなか要求しにくかったに違いない。そんな中で、これを言い出したのが、敗戦国の総理大臣・幣原喜重郎その人だったのだから、渡りに舟とばかりに、マッカーサーもこの提案に乗ってきたのであろう。
手記には、何故,このような提案をしたのかが詳しく書いてある。将来の戦争のことを考え、敗戦国の立場で初めて言えることだと考え、死中に活を見いだす決意で提案したのだと幣原は述べている。この会談の結果が、その後の憲法制定に活かされ、象徴天皇制も、戦争放棄もすんなり国会をとおり、11月3日の憲法公布、翌1947年5月3日の憲法施行へと繋がっていったのである。
幣原提案は、戦前の軍国主義が天皇制と結びつき戦争を引き起こしたとする見方が戦勝国に多い中で、軍国主義的絶対天皇制から戦争放棄・象徴天皇制へと平和な日本を目指すことを世界に示す上で、実に大きな功績があった。単に天皇制を維持するための方策として戦争放棄を提案しただけと言うものではなく、日本の将来を見据えた実に大胆な提案であったということができる。
また、天皇制のあり方についても、幣原喜重郎は、天皇が権力を持っていたら、日本の歴史上、こんなに長く天皇制が続くことはなかったろう。権力を持たない象徴天皇制が一番良い、とも言っている。天皇が、軍国主義者に政治的に利用され、太平洋戦争を引き起こし、敗戦によって危うく天皇制崩壊の危機に追い込まれたことへの反省だろう。
しかし、戦争直後、まだ日本には、このような先を見据える政治家がいたと言うことは驚きである。
④、天皇自らが象徴天皇制への移行を宣言した「天皇人間宣言」
マッカーサーメモの天皇条項の中で、1946(昭和21)年1月1日に発せられた「天皇人間宣言」が新憲法制定にあたって大きな影響を与えている。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。新憲法の下で、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。宣言文は「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない」と述べている。この宣言文を起草したのも、時の総理大臣・幣原喜重郎だと言われている。マッカーサーはこの宣言に対し、「天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たした」と高く評価したとされている
こうした「憲法研究会が発表した憲法草案要綱」、「天皇の人間宣言」と幣原喜重郎の提案した「戦争放棄条項」がベースとなって、その後「主権在民を基礎とした民主的条項」が加えられ新憲法が制定されていったのである。
彼らは、日本が敗戦によって受け入れたポツダム宣言を忠実に履行しようと努めたものであり、ここからは押しつけ憲法と言った概念は何処からも出てこない。
押し付け憲法論者が言わんとする事は、、日本が敗戦を受け入れたこと、、ポツダム宣言を受け入れたことを問題にしている好戦論者の論理だけである。だから、彼らは「先の戦争は侵略戦争ではない」、「米英の経済断行から国を守るための自存自衛の戦争であった」、「いつまでも自虐史観にとらわれてはならない」、「ポツダム宣言に拘束されない自主憲法を持たなければならない」等という戯言をいつまでも言い続けるのである。
⑤、マッカーサーは、連合国の助言を受け、憲法施行後1~2年内の見直しを認めていたが、当時の吉田首相は、これを拒否
現行憲法の公布は1946年11月3日であるが、その翌年1947年1月3日、当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから次のような書簡を受け取っていた。
書簡の内容は「昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度(1948年)と第二年度(1949年)の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。」理由は「連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考える。」からと言うもの。 言い換えれば、連合国が将来、日本国民に憲法を押しつけたと言われないようにするために、憲法施行後1~2年以内に再検討しても良い、という書簡である。
これに対して、日本の吉田首相は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁で「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁している。
こうした経過は、当時、吉田首相は、日本国憲法が押しつけ憲法だとの認識に立っておらず、日本人自らが制定したものであり、新憲法を圧倒的に支持する日本国民の前で、新憲法を変えるなどと言うことは毛頭考えていなかったということを物語るものである。
戦後の憲法制定に係わった当時の政治家は、自らが憲法制定に係わり、日本憲法の柱である、象徴天皇制、主権在民、戦争放棄、封建制を脱し民主日本を目指す憲法にいささかも疑問を持っておらず、押しつけ憲法などと言う認識は持っていなかったのに、何故、あれから60年以上経った後の安倍首相などが、今更、押しつけ憲法等と言って憲法改正を声高に叫ぶのか、全く不可解である。
⑥、おわりに、その後のアメリカの新憲法問題に対する対応の変化
以上、安倍首相等の押し付け憲法論にたいし、制定当時の歴史的事実を踏まえ反論してみた。ここで取り上げている資料については膨大なので、割愛させて頂くが、すべて原典にあたった上で記述していることを申し添える。
なお、その後のアメリカの憲法問題の対応については、憲法が施行された翌年1948年から、アメリカの外交軍事路線が冷戦構造に変わり、この頃からアメリカの日本に対する9条改憲要求が始まったとされている。こうした要求は、すぐには実現しなかったが、1950年、朝鮮戦争が始まると、連合軍総司令官マッカーサーの指令によって、日本に自衛隊の前身である「警察予備隊」がつくられるようになった経過は、別途、稿を起こして論じる予定である。
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