ー追悼― 川崎攻氏(気工社労組元委員長 長野県木村村議)
組合委員長として倒産した中小企業を再建させ、定年後長野県木村村議となって在職中に急死
わが友 川崎攻君(長野県木村村議)が8月31日在職中に急死した。享年71歳
川崎君は15歳で富山県の氷見の中学を卒業後上京し、20才から63歳の定年まで気工社につとめました。気工社という会社は、川の砂利や砕石を造る建設機械メーカーで、気工社に入社した当時は、川崎さんは唄うことが好きで、歌声サークルを作り活躍しました。「唇に唄を持て」とほんとに長い間唄い続け、今回 彼が死の直前まで唄いながら倒れたのは まさに唄好きの彼の真骨頂の現れだったと思う。
気工社在職中は、川崎君は組合の委員長として気工社に働く者の生活と権利、働く者の職場と雇用を守るために闘ってきました。気工社は、創業者が退陣して以降、日本鋼管、日本鋳造の系列下に入りました。しかし、大企業の系列下に入って良いことは何も無く、日鋳・鋼管の系列下で、気工社の労働者は、数々の不当労働行為や解雇の攻撃を受け、13年目にはとうとう気工社そのものも倒産させられてしまいました。
倒産攻撃を受け、組合は川崎君も労働組合の書記長・委員長として先頭に立って闘った結果、厳しい闘いでしたが、日鋳・鋼管から企業再建に必要な工場、土地、運転資金を闘い取ることができました。しかし、工場、土地、運転資金を勝ち取っただけでは企業再建はできません。ものを作り、売り、採算のとれる会社にしなければ再建はできません。ここで組合の委員長として川崎君を先頭に、会社を潰してなるものか、残されたプロパー経営者と労使協議会と作り、協力して新製品を開発し、組合役員も先頭になって営業し、労使一体となって、企業再建に成功したのです。
再建闘争以降、気工社では経営問題について毎月労使協議会が開かれるようになりました。そして、会社に利益が出た時には労働者にも還元することが取り決められ、ハイメッシュセパレーターという新しい機械を開発した時には、売れに売れ、3月の期末決算の後で、通常の一時金の他、4ヶ月もの特別賞与もだされた年もありました。今、会社がもうけなければ景気は良くならないと言って、大企業減税や大企業優遇政策がとられていますが、内部留保が増やすだけでは景気は良くなるものではありません。昔から金は天下の回りものと言って、お金の循環が良くなって初めて景気はよくなるものです。大企業が400兆円もの内部留保をため込むだけで、有効に活用しないから景気は良くならないのです。
気工社では川崎委員長時代に、企業利益3分法といって期末決算で利益が出たら、①従業員への還元、②新製品の開発や設備投資、③将来に備えた資金の備蓄をおこなうという労使合意ができました。働いて利益が出たら十分労働者にも還元されるという制度です。聞くところによると、今でも気工社では、こうした利益還元の制度が続き、今年も3月には0.5ヶ月の特別賞与が出たとのことです。
こうして、川崎君は、中小企業に於ける新しい労使のあり方を構築し、定年で辞めるまで、組合の委員長として気工社に働く者の生活と権利、働く者の職場と雇用を守るために闘い、いったん倒産した会社を建て直し存続させるというという、並の組合の委員長にはできない立派な業績を残したのです。
気工社退職後、川崎君はそれまですんでいた神奈川県の藤沢を引き払って、自然と共に暮らすんだと言って長野県青木村に移りすみました。ところが、青木村で静かに暮らすのかと思いきや、村会議員になったと聞いてびっくりしました。とにかくじっとしておられない性格ですから、キット何かをやるなあと思っていたら村会議員になったと言うわけです。しかし、私は、この話を聞いて、彼の性格からしてさもあらんと思いました。とにかく人の為に働くことが好きなのです。議員になってからこの方、彼は青木村の議員活動について、藤沢に住む私達に都度、便りをくれました。つい先日も大きな角封筒に入れて、青木村議会たよりや広報青木村、青木村の観光パンフレット、九条の会通信などを送ってくれました。本当に青木村の状況が手に取るようにわかる便りでした。そして、藤沢に帰ってくるたびに、青木村がどんなにすばらしいか、どんなにすばらしい歴史を持った村か、彼は熱っぽく語りました。彼が青木村の人々を心から愛している心情に私は心を打たれました。
しかし、長年の気工社の闘い、そして青木村での議員活動動が、何時しか彼の体をむしばみ、今回の不帰の人となったのかと思うと残念でなりません。常日頃 死ぬまで現役で闘い続けたいと彼は言っていましたが、その言葉どおり川崎君は死ぬまで現役で闘いとうしました。
歌手の、横井久美子さんの「風の中のリクイエム」という唄の一節に、次のようなフレイズがあります。
涙は止めて 拍手を送ろう
人生は まるで舞台のようなもの
誰だって命がけさ 幕が下りるまで
風のように生きたあの人に 涙の別れは似合わない
ひとつの長い夢をみて ひたすらに生きた
そうさ人生は まるで舞台のようなもの
夢を求め続け そして幕は下りる
だから涙はやめて 拍手をおくろう
風のように生きたあの人に 拍手をおくろう
55年前、15の歳に富山県氷見から東京に出てきて以来、東京、藤沢で活動し、青木村で倒れましたが、戦後の日本の平和と民主主義、働く者の生活と権利、経済的繁栄の為に闘い続け、そして今倒れた川崎君、その壮絶な生き方に 心から敬意を表したいと思います。そして 私もあなたの人生に、涙でなく拍手をおくりたいと思います。川崎君 あなたの長い闘いの人生、本当にご苦労さまでした。
友人 気工社労組元委員長 MK生
組合委員長として倒産した中小企業を再建させ、定年後長野県木村村議となって在職中に急死
わが友 川崎攻君(長野県木村村議)が8月31日在職中に急死した。享年71歳
川崎君は15歳で富山県の氷見の中学を卒業後上京し、20才から63歳の定年まで気工社につとめました。気工社という会社は、川の砂利や砕石を造る建設機械メーカーで、気工社に入社した当時は、川崎さんは唄うことが好きで、歌声サークルを作り活躍しました。「唇に唄を持て」とほんとに長い間唄い続け、今回 彼が死の直前まで唄いながら倒れたのは まさに唄好きの彼の真骨頂の現れだったと思う。
気工社在職中は、川崎君は組合の委員長として気工社に働く者の生活と権利、働く者の職場と雇用を守るために闘ってきました。気工社は、創業者が退陣して以降、日本鋼管、日本鋳造の系列下に入りました。しかし、大企業の系列下に入って良いことは何も無く、日鋳・鋼管の系列下で、気工社の労働者は、数々の不当労働行為や解雇の攻撃を受け、13年目にはとうとう気工社そのものも倒産させられてしまいました。
倒産攻撃を受け、組合は川崎君も労働組合の書記長・委員長として先頭に立って闘った結果、厳しい闘いでしたが、日鋳・鋼管から企業再建に必要な工場、土地、運転資金を闘い取ることができました。しかし、工場、土地、運転資金を勝ち取っただけでは企業再建はできません。ものを作り、売り、採算のとれる会社にしなければ再建はできません。ここで組合の委員長として川崎君を先頭に、会社を潰してなるものか、残されたプロパー経営者と労使協議会と作り、協力して新製品を開発し、組合役員も先頭になって営業し、労使一体となって、企業再建に成功したのです。
再建闘争以降、気工社では経営問題について毎月労使協議会が開かれるようになりました。そして、会社に利益が出た時には労働者にも還元することが取り決められ、ハイメッシュセパレーターという新しい機械を開発した時には、売れに売れ、3月の期末決算の後で、通常の一時金の他、4ヶ月もの特別賞与もだされた年もありました。今、会社がもうけなければ景気は良くならないと言って、大企業減税や大企業優遇政策がとられていますが、内部留保が増やすだけでは景気は良くなるものではありません。昔から金は天下の回りものと言って、お金の循環が良くなって初めて景気はよくなるものです。大企業が400兆円もの内部留保をため込むだけで、有効に活用しないから景気は良くならないのです。
気工社では川崎委員長時代に、企業利益3分法といって期末決算で利益が出たら、①従業員への還元、②新製品の開発や設備投資、③将来に備えた資金の備蓄をおこなうという労使合意ができました。働いて利益が出たら十分労働者にも還元されるという制度です。聞くところによると、今でも気工社では、こうした利益還元の制度が続き、今年も3月には0.5ヶ月の特別賞与が出たとのことです。
こうして、川崎君は、中小企業に於ける新しい労使のあり方を構築し、定年で辞めるまで、組合の委員長として気工社に働く者の生活と権利、働く者の職場と雇用を守るために闘い、いったん倒産した会社を建て直し存続させるというという、並の組合の委員長にはできない立派な業績を残したのです。
気工社退職後、川崎君はそれまですんでいた神奈川県の藤沢を引き払って、自然と共に暮らすんだと言って長野県青木村に移りすみました。ところが、青木村で静かに暮らすのかと思いきや、村会議員になったと聞いてびっくりしました。とにかくじっとしておられない性格ですから、キット何かをやるなあと思っていたら村会議員になったと言うわけです。しかし、私は、この話を聞いて、彼の性格からしてさもあらんと思いました。とにかく人の為に働くことが好きなのです。議員になってからこの方、彼は青木村の議員活動について、藤沢に住む私達に都度、便りをくれました。つい先日も大きな角封筒に入れて、青木村議会たよりや広報青木村、青木村の観光パンフレット、九条の会通信などを送ってくれました。本当に青木村の状況が手に取るようにわかる便りでした。そして、藤沢に帰ってくるたびに、青木村がどんなにすばらしいか、どんなにすばらしい歴史を持った村か、彼は熱っぽく語りました。彼が青木村の人々を心から愛している心情に私は心を打たれました。
しかし、長年の気工社の闘い、そして青木村での議員活動動が、何時しか彼の体をむしばみ、今回の不帰の人となったのかと思うと残念でなりません。常日頃 死ぬまで現役で闘い続けたいと彼は言っていましたが、その言葉どおり川崎君は死ぬまで現役で闘いとうしました。
歌手の、横井久美子さんの「風の中のリクイエム」という唄の一節に、次のようなフレイズがあります。
涙は止めて 拍手を送ろう
人生は まるで舞台のようなもの
誰だって命がけさ 幕が下りるまで
風のように生きたあの人に 涙の別れは似合わない
ひとつの長い夢をみて ひたすらに生きた
そうさ人生は まるで舞台のようなもの
夢を求め続け そして幕は下りる
だから涙はやめて 拍手をおくろう
風のように生きたあの人に 拍手をおくろう
55年前、15の歳に富山県氷見から東京に出てきて以来、東京、藤沢で活動し、青木村で倒れましたが、戦後の日本の平和と民主主義、働く者の生活と権利、経済的繁栄の為に闘い続け、そして今倒れた川崎君、その壮絶な生き方に 心から敬意を表したいと思います。そして 私もあなたの人生に、涙でなく拍手をおくりたいと思います。川崎君 あなたの長い闘いの人生、本当にご苦労さまでした。
友人 気工社労組元委員長 MK生
表現して頂き、本当にありがとうございます。
1999年に私が逗子に引っ越した時には引っ越し祝いも
頂いた優しい叔父さんでした。