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湘南ファイブ通信

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北方領土返還交渉の進め方 その2

2013-01-12 09:34:39 | 北方領土問題
<北方領土返還交渉の進め方 その2>

  サンフランシスコ講和条約は
        北方領土の最終的帰属先を定めたものでは無い


1、日ソ領土交渉の経過


1956年の日ソ共同宣言締結時、ソ連から歯舞、色丹の2島返還で平和条約の締結が提案されたが、アメリカのダレス国務長官から「2島返還で、平和条約が結ばれるようなら、沖縄は永久に日本に返さない」という言明を受け、以降、日本政府は、クナシリ、エトロフも北海道の一部で在り、4島返還を求めるとの立場で返還交渉を行っている。
一方、ソ連は、クナシリ、エトロフは南千島で在り、全千島をソ連に割譲するというのが米英ソのヤルタ協定の取りきめであり、サンフランシスコ講和条約でも謳われている。こうした国際条約に照らし4島返還には応じられないとの立場を譲らず、北方領土返還交渉は膠着し、55年経っても何ら進展をみせず今日に至っている。


2、サンフランシスコ講和条約に於ける沖縄条項、千島条項の位置づけ

サンフランシスコ講和条約は、アメリカの沖縄占領、ソ連の千島占領を、終戦処理としてアメリカに寄る沖縄信託統治、ソ連の千島列島に対する日本の権限放棄という形で、それぞれの実効支配を認めたものであるが、領土を確定的に認めた条約とはなっていない。アメリカの信託統治解消時、並びにソ連との平和条約締結時に初めて日本の戦後の領土が確定されるものである。サンフランシスコ講和条約第2条C項に於いても、千島の権限放棄は謳われているがソ連への帰属は明記されておらず、ましてやソ連自身サンフランシスコ講和条約に署名していない状況の下では、占領状態の継続としての実効支配は認められるとしても、領土の確定を主張する根拠とはならない。サンフランシスコ講和条約は北方領土の最終的帰属先を定めたものでは無い、と理解すべきである。

3、ダレス発言と日本政府の北方領土返還交渉の問題点

ソ連との交渉過程で、当初日本は、サンフランシスコ講和条約の千島放棄の規定に則り、歯舞、色丹は千島では無く北海道の一部だから返還を求めるという立場で平和条約の交渉を進めていたが、先にふれたようにアメリカのダレス長官から「2島返還だけで平和条約を結べば、沖縄は返さない」という横やりが入り、4島返還要求に転じた。
ダレス発言を受け、日本政府は、クナシリ、エトロフは千島で無く北海道の一部=北方領土と解釈を変え返還交渉を進めて来た。しかし、こうした返還理由の変更が、その後の領土返還交渉に役だったかと言えば、そうとはならず、千島列島返還交渉の本質を曖昧にし、クナシリ・エトロフは千島列島の一部か、北海道の一部かの論争に終始し、逆に交渉が進まない要因になった。日本政府は、ダレス長官の発言を受け、北方領土の返還などと言わず、サンフランシスコ講和条約によって、ソ連に実効支配されている千島列島の返還をもとめるという原則的立場で交渉すべきであった。
そもそも、アメリカのダレス長官の発言は、平和条約の締結で日ソの友好関係ができるのを嫌ったものであるが、同時に、彼の発言には、サンフランシスコ講和条約での米国の沖縄信託統治とソ連の千島領有を同列に置き、ソ連の千島4島の返還が無ければ米国の沖縄返還もない、といっているのだから、日本政府は、ソ連に対し、アメリカが沖縄返還を行った時には、ソ連の実効支配しているクナシリ、エトロフも返還すべきであると主張すべきであった。アメリカのダレス長官の発言は沖縄、千島の日本への返還時の米ソの最低条件を示したものであり、サンフランシスコ講和条約の規定がすべてでは無いことを示唆する発言となっている。


4、北方領土問題解決には、ロシヤばかりで無くアメリカを含めた三者会談が必要

現在、日ロ間の北方領土返還交渉に於いて、千島割譲を決めたヤルタ協定、千島の権限放棄を決めたサンフランシスコ講和条約の解釈が争点になっている。しかし、両条約ともいずれもアメリカが交渉の当事者となっており、交渉を進める上でアメリカの動向が決定的な役割を果たすものと言わなければならない。ヤルタ会談に於いては、アメリカは日本の領土である千島列島のソ連への割譲を決め、サンフランシスコ講和条約に於いては千島列島の日本の権限放棄を盛り込みながら、その四年後にはダレス長官が、クナシリ・エトロフなどの4島の返還交渉をしなければ沖縄は返さないと横やりを入れるなど、北方領土問題は、アメリカの政策に終始、翻弄されてきた所に問題がある。その意味で、北方領土問題の解決にあたっては、ロシアとの交渉だけで無くアメリカも含めた三者会談が不可欠であると言わなければならない。

北方領土返還交渉の進め方

2012-12-23 11:07:39 | 北方領土問題
<北方領土返還交渉の進め方>
北方領土問題解決には、
     アメリカも含めヤルタ協定まで遡った論議が不可欠


1、北方領土問題をめぐる 日・ロ(ソ)交渉の経過と国際的取り決め

日本とロシアの北方領土返還問題を論ずるとき、
ア、日ロ間の歴史領土交渉でどのような取りきめが行なわれてきたのか、
イ、日本の敗戦時に北方領土は国際条約でどのような取りきめが行なわれてきたのか、
を整理しておく必要がある。

1、江戸時代 安政元年(1855年下田条約では
南千島(クナシリ、エトロフ以南は日本領
  北千島(ウルップ島以北)ロシア領
  樺太は日本とロシアとの雑居地 と取りきめ
2、明治時代初期
  明治8年(1875年)千島樺太交換条約では
樺太全島をロシア領とする
  北千島(シュムシュ島からウルップ島までの18島)を日本に譲る と取りきめ
3、日露戦争講和条約 明治35年(1905年)ポーツマス条約では
  ロシアは、樺太の南半分を日本に割譲と取りきめ
4、日ソ中立条約 1941年締結
5、カイロ宣言 1943年 米ルーズベルト、英チャーチル 中国蒋介石
        領土不拡大を宣言
6、ヤルタ会談 1945年2月、米ルーズベルト、ソ連スターリン、英チャーチル
  ソ連の対日参戦の条件として
    日露戦争で失った南樺太の返還
    千島全島をソ連に割譲を約束
7、ポツダム宣言
   1945年7月26日、米英中調印、日本の領土~本州、北海道、四国、九州、連合軍が認める 小島  
8、ソ連の対日参戦 ソ連は日ソ中立条約を破棄して、1945年8月9日~9月2日にかけ、満州侵攻、全千島占領
9、サンフランシスコ講和条約  1951年9月調印、
ソ連に対し、第2条C項で「日本国は千島列島並びに樺太ののすべての権利、権限、及び請 権を放棄する」
米国に対し、第3条で、「沖縄、小笠原諸島を米国の信託統治下におく」
10、日ソ共同宣言 1956年締結~国交回復、平和条約締結されれば、歯舞、色丹のみ日本に返 還と約束


2、戦後の日本の領土の枠組みを決めた、
ヤルタ協定、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約の問題点


1、ヤルタ会談の問題点
本来、日・ロの国境は、歴史的な交渉で取り決められた、①の下田条約もしくは②の千島樺太交換条約等の二国間の取りきめで決められるべきものである。しかし、第二次世界大戦の末期に於いて、日本は、ソ連に対して何ら侵略行為を行っていないにも係わらず、アメリカが、ヤルタ会談に於いてソ連の対日参戦を促す条件として千島割譲を提示したことがそもそもの問題の発端である。ソ連は、アメリカの要請に応え日ソ中立条約を破棄して8月9日、対日参戦に踏み切ったわけであるが、領土不拡大のカイロ宣言に反し、ヤルタ会談で領土問題に対するスターリンの不当な要求に応えたことが間違いの元であると言わなければならない。

2、ポツダム宣言の問題点
ポツダム宣言では、カイロ宣言にのっとりと謳いながら、日本の主権のおよぶ領土を、北海道、本州、四国、九州と連合軍が認める小島と規定し、何故か、千島、沖縄諸島が外されていることである。ここにもヤルタ協定に寄るソ連への千島割譲が反映され、更に、戦後のアメリカによる沖縄統治が予定されていることが伺い知れる。沖縄も千島も日本が戦争で奪った領土では無いにもかかわらず、戦後、アメリカやソ連が占領した島々を、それぞれ領有する意図が、宣言の中に秘められていたものと言わなければならない。

3、サンフランシスコ講和条約の問題点
戦後7年経って、1952年、戦後処理のための講和条約が結ばれた訳だが、本来ならばアメリカやソ連が占領した島々は日本に返還されるべきであるが、講和条約に於いて
、ソ連に対し、第2条C項で「日本国は千島列島並びに樺太のすべての権利、権限、及び請求権を放棄する」、
、米国に対し、第3条で、「沖縄、小笠原諸島を米国の信託統治下におく」
と規定されてしまったのである。つまり、米ソによって日本の南北の島が分割統治が行われてしまったことを意味する。カイロ宣言に於いて、領土不拡大方針が謳われていたにも係わらず、講和条約で実質的に領土割譲条項が押しつけられ、これに対し、日本政府は異議を差し挟まず調印してしまったことが国際的に見て日本の領土問題に対する主張を弱くしている。一端認めてしまったものを、後で覆すことは容易でないということである。


3、北方領土問題に於ける日本政府の対応の問題点

1、サンフランシスコ平和条約で日本政府が千島割譲、沖縄信託統治を認めた問題
アメリカの沖縄信託統治は、戦後27年間続けられ、1972年に日本に返還されたが、この間沖縄は、アメリカの広大な軍事基地の島に変えられ、アメリカの世界戦略の重要な拠点とされた。千島は、信託統治では無く割譲とされたため、ロシヤからは1島も帰って来ていない。本来、沖縄も千島も第2次世界大戦に寄ってアメリカ・ソ連に占領されたものであり、かかる戦争によって占領された領土はカイロ宣言で謳われているように、講和条約以降は、元の国(日本)に還されてしかるべきである。つまり敗戦に寄って占領された日本の領土、すなわち、ロシアに占領された千島全島並びに、アメリカの信託統治化で作られた沖縄の米軍基地は返還されてしかるべきである。しかるに、講和を急ぐあまり、当時の日本政府は、千島の割譲、沖縄の信託統治を認めてしまった所に問題がある。

2、現在の日本政府の北方領土返還交渉の問題点
現在、日本政府は、日・ロの正しい国境として、前記①の安政元年の下田条約のクナシリ・エトロフ以南の南千島を日本領とする立場に立っている。そしてサンフランシスコ平和条約で放棄したのは北千島だけで、南千島は含まれない、という主張になっている。
しかし、国境というものは、自国の主張と併せて国際的認知が必要とされるものであるが、サンフランシスコ平和条約で日本は南千島も含め全千島を放棄したものと国際的には受け止められている所に問題がある。つまり、アメリカも含め、連合国は、、ソ連の対日参戦を引き出すために、全千島の割譲を約束したこと、そして、、それがサンフランシスコ講和条約に盛り込まれたこと、さらに、、その条約に日本政府か調印してしまったのである。現在、日本政府は、講和条約で放棄したのは北千島だけで南千島は含まれないと主張しているが、こうした解釈論だけでは、国際的支持がなかなか得られない。
1956年の日ソ共同宣言では、領土問題では、平和条約が締結されれば、歯舞、色丹は日本に返還するとの約束は取り付けたが、クナシリ、エトロフは北海道の一部との日本政府の主張は受け入れられず交渉の進展はほとんど見られていない。


4、北方領土問題解決には、
アメリカも含めヤルタ協定まで遡った論議が不可欠


日本は、南千島はサンフランシスコ講和条約に言う千島ではない、との言い分でロシアとの返還交渉を行っているわけだが、ロシアによって占領され、うばわれた全千島を返還して欲しいと、ヤルタ協定の見直しまで踏み込んだ本格的返還交渉は行われていない。
ヤルタ協定では、樺太は返還、千島は割譲と言葉を使い分けているように、千島割譲というのは元々ロシヤの領土でなかった日本の領土をロシアに譲るということであり、そしてこのような千島のロシヤへの割譲が、日本を抜きにアメリカとソ連のヤルタ会談によって決められたことに問題がある。(樺太返還はやむを得ない)日本は、第2次大戦に於いてソ連に戦争を仕掛けたわけでもなく、領土に侵入したわけでもなく、日ソ中立条約を守っていたのに、米ソの話合いだけで、ソ連への千島割譲を決めたアメリカにも重大な責任があるといわなければならない。
アメリカは1972の沖縄返還に寄って、サンフランシスコ講和条約で規定された沖縄の信託統治は解消したが、沖縄を還せばそれでアメリカの責任がはたせたというものでは無く、北方問題での解決の責任は残されているといわなければならない。何となれば、アメリカがソ連に千島割譲を約束したもので在り、こうした約束は、ブッシュ元大統領も言っていたように領土不拡大を謳ったカイロ宣言に照らし、間違った措置であったということをアメリカ側からもロシヤ側に働きかけて貰うべきである。そして、対日参戦の条件に千島をロシアに割譲するよう求めたスターリンの要求に同意を与えたのは、アメリカなのだから、北方領土問題解決には、アメリカも交渉のテーブルに着き、解決に向け、一端の責任を負って貰う必要がある。
日本は、このように交渉のスタンスをしっかり整え、国際的取りきめを見直させるような本格的な交渉を進めるべきであり、「父祖の地を返せ」、「クナシリ・エトロフは千島では無い」と言っているだけでは、相手には歯牙にもかけられず、また巾広い国際世論を引きつけることもできない、不毛な交渉をいつまでも続けることになるのではないか。こうした原則的な観点に立って交渉して初めて、ロシアに2島返還だけでなく、4島返還、更には全千島返還まで譲歩させることができると言わなければならない。