<憲法改正をめぐる戦後史概観>
何故、自衛隊はできても、憲法改正はできなかったのか
①、新憲法制定以降のアメリカの対日政策の変化
1947年、新憲法の施行によって、日本は軍備を持たない平和国家として再出発した。これはポツダム宣言が日本に求めたレールで在り、日本国民もGHQもその方向で戦争放棄の新しい日本国憲法を作り上げた。ところが、憲法施行1年後の1948年頃から米ソの冷戦対立が生まれる中で、アメリカの対日政策の転換が始まったのである。具体的には、1949年に毛沢東の率いる中華人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮戦争が起こる中で、米軍の朝鮮出兵の下で日本の治安を守る為と言うことで1950年、GHQのマッカーサーの指令によって日本に警察予備隊を作らせたことが,ことの始まりになったと言える。
しかし、マッカーサーは日本の平和憲法との兼ね合いから、当初、あくまでも警察予備隊は日本国内の治安を守る組織とし、旧軍人の警察予備隊への採用は実施しなかったが、やがて、公職追放されていた旧軍人らも多数採用されるようになり、装備もアメリカから重火器まで支給され、警察予備隊は、実質的には軍隊に近い組織となった。平和憲法制定直後に始まった逆コースの第1弾と言って良いものであったが、警察予備隊はあくまでも警察組織であり、憲法9条に規定する軍隊では無いとの位置づけであった。
警察予備隊は、その後、日本が独立したことによって、GHQ指令が効力を失ったため、1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、保安隊に改組されたがあくまでも警察の補完組織という位置づけであった。
②、旧安保条約締結とともに発足した自衛隊
1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本は独立することになったが、沖縄がアメリカの信託統治下に置かれ島全体が巨大な米軍基地化され、また、本土も旧安保条約によって米軍に引き続き駐留されることになった。日本を守るという名目で旧安保条約が締結され米軍の日本駐留が継続される中で、1954年、自衛隊が創設された。これまでの警察予備隊、保安隊は日本国内の治安維持が主目的であったが、自衛隊は国を防衛すると言う任務を明確にした軍隊に近い組織であった。これはサンフランシスコ講和条約と共に締結された旧安保条約が、日本を守るためと言う目的で締結された以上、それに対応する組織が日本になければならないということで自衛隊が生まれたものである。
しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約以降も政権を担った吉田内閣は、1954年に退陣したが、退陣まで自衛隊を認める改憲の政策を打ち出すことはなかった。こうした吉田政治の系譜を嗣ぐ人々が、現在自民党内でハト派と言われる人々である。
③、自民党結党による自主憲法制定、改憲の動き
こうした中で、自主憲法、自主軍備を掲げ政界に復帰したのが安倍首相の祖父にあたる岸信介であった。岸信介は、サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除され、1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ政界に復帰した。そして、1953年自由党に入党し、衆議院選挙に当選したが、1954年吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
吉田茂退陣以降、1955年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導し自民党を発足させた。自民党は発足時より自主憲法制定、再軍備を等綱領に掲げた。憲法制定に係わった吉田茂は、憲法改正に消極的であったが、戦犯として戦争責任を問われ、新憲法に係われなかった岸信介等が、積極的に、押し付け憲法、自主憲法制定、9条改正などを自民党綱領に掲げ、アメリカの逆コースの政策に呼応する政策を掲げたものである。現在進められている安倍首相等の憲法改定の政策も、こうした祖父にあたる岸信介などの戦犯政治家の掲げた、押し付け憲法反対、自主憲法制定政策を受け継いだものである。
④、60年安保条約改定をめぐり繰り広げられた憲法改正の攻防
吉田内閣退陣以降登場した鳩山・岸内閣は、アメリカのダレス国務大臣より日米安保条約の現状は双務的ではなく、公平にするなら日本は海外派兵と遠征能力を持った再軍備、軍事力強化をして貰いたいと言われ、日米関係の対等化をはかるためには、日本の憲法を改正する必要があると、小選挙制導入などに全力を挙げたが、憲法改正に必要な2/3の議席を得ることができなかった。
そして、国民的大運動となった安保闘争以降、自民党は2/3の議席を獲得することができず、また社会党の1/3の議席確保によって、その後の憲法改正運動は進展しなかった。
⑤、戦後の改憲圧力を跳ね返した日本の良識・国民の力
世界の英知と日本国民の力によって作り上げてきた日本憲法は、その後、GHQの指令によって警察予備隊が創設され、サンフランシスコ講和条約以降自衛隊が作られ、安保条約によって沖縄と日本全土に米軍基地が置かれ、自民党結成によって何度となく憲法改正が企てられてきたが、ことごとく打ち破られてきた。それは、戦後の憲法改正運動が、国民の中から生まれたものではなく、アメリカの意向、戦前の政治を美化する為政者の思惑によって打ち出されて来たためである。こうした為政者による改憲策動を跳ね返した力は、①自衛隊はあくまでも防衛的なもので在り憲法まで変える必要は無いと認識していた政治家が為政者の一部にあり、又、②戦争によって身にしみた日本国民の平和への強い願いと良識によるものであった。戦後の憲法改正をめぐる日本政治は、アメリカの対日政策も絡んで複雑な様相を呈しているが、こうした国民の民主的力に依拠すれば、今後も、世界に誇る平和憲法を維持し、次の世代に引き継ぐことは可能だろう。
以上、今回は、憲法制定以降、安保闘争までの改憲の動きを追ってみたが、安保以降の改憲の動きについては、別途、稿を起こして考察することとしたい。
何故、自衛隊はできても、憲法改正はできなかったのか
①、新憲法制定以降のアメリカの対日政策の変化
1947年、新憲法の施行によって、日本は軍備を持たない平和国家として再出発した。これはポツダム宣言が日本に求めたレールで在り、日本国民もGHQもその方向で戦争放棄の新しい日本国憲法を作り上げた。ところが、憲法施行1年後の1948年頃から米ソの冷戦対立が生まれる中で、アメリカの対日政策の転換が始まったのである。具体的には、1949年に毛沢東の率いる中華人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮戦争が起こる中で、米軍の朝鮮出兵の下で日本の治安を守る為と言うことで1950年、GHQのマッカーサーの指令によって日本に警察予備隊を作らせたことが,ことの始まりになったと言える。
しかし、マッカーサーは日本の平和憲法との兼ね合いから、当初、あくまでも警察予備隊は日本国内の治安を守る組織とし、旧軍人の警察予備隊への採用は実施しなかったが、やがて、公職追放されていた旧軍人らも多数採用されるようになり、装備もアメリカから重火器まで支給され、警察予備隊は、実質的には軍隊に近い組織となった。平和憲法制定直後に始まった逆コースの第1弾と言って良いものであったが、警察予備隊はあくまでも警察組織であり、憲法9条に規定する軍隊では無いとの位置づけであった。
警察予備隊は、その後、日本が独立したことによって、GHQ指令が効力を失ったため、1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、保安隊に改組されたがあくまでも警察の補完組織という位置づけであった。
②、旧安保条約締結とともに発足した自衛隊
1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本は独立することになったが、沖縄がアメリカの信託統治下に置かれ島全体が巨大な米軍基地化され、また、本土も旧安保条約によって米軍に引き続き駐留されることになった。日本を守るという名目で旧安保条約が締結され米軍の日本駐留が継続される中で、1954年、自衛隊が創設された。これまでの警察予備隊、保安隊は日本国内の治安維持が主目的であったが、自衛隊は国を防衛すると言う任務を明確にした軍隊に近い組織であった。これはサンフランシスコ講和条約と共に締結された旧安保条約が、日本を守るためと言う目的で締結された以上、それに対応する組織が日本になければならないということで自衛隊が生まれたものである。
しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約以降も政権を担った吉田内閣は、1954年に退陣したが、退陣まで自衛隊を認める改憲の政策を打ち出すことはなかった。こうした吉田政治の系譜を嗣ぐ人々が、現在自民党内でハト派と言われる人々である。
③、自民党結党による自主憲法制定、改憲の動き
こうした中で、自主憲法、自主軍備を掲げ政界に復帰したのが安倍首相の祖父にあたる岸信介であった。岸信介は、サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除され、1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ政界に復帰した。そして、1953年自由党に入党し、衆議院選挙に当選したが、1954年吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
吉田茂退陣以降、1955年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導し自民党を発足させた。自民党は発足時より自主憲法制定、再軍備を等綱領に掲げた。憲法制定に係わった吉田茂は、憲法改正に消極的であったが、戦犯として戦争責任を問われ、新憲法に係われなかった岸信介等が、積極的に、押し付け憲法、自主憲法制定、9条改正などを自民党綱領に掲げ、アメリカの逆コースの政策に呼応する政策を掲げたものである。現在進められている安倍首相等の憲法改定の政策も、こうした祖父にあたる岸信介などの戦犯政治家の掲げた、押し付け憲法反対、自主憲法制定政策を受け継いだものである。
④、60年安保条約改定をめぐり繰り広げられた憲法改正の攻防
吉田内閣退陣以降登場した鳩山・岸内閣は、アメリカのダレス国務大臣より日米安保条約の現状は双務的ではなく、公平にするなら日本は海外派兵と遠征能力を持った再軍備、軍事力強化をして貰いたいと言われ、日米関係の対等化をはかるためには、日本の憲法を改正する必要があると、小選挙制導入などに全力を挙げたが、憲法改正に必要な2/3の議席を得ることができなかった。
そして、国民的大運動となった安保闘争以降、自民党は2/3の議席を獲得することができず、また社会党の1/3の議席確保によって、その後の憲法改正運動は進展しなかった。
⑤、戦後の改憲圧力を跳ね返した日本の良識・国民の力
世界の英知と日本国民の力によって作り上げてきた日本憲法は、その後、GHQの指令によって警察予備隊が創設され、サンフランシスコ講和条約以降自衛隊が作られ、安保条約によって沖縄と日本全土に米軍基地が置かれ、自民党結成によって何度となく憲法改正が企てられてきたが、ことごとく打ち破られてきた。それは、戦後の憲法改正運動が、国民の中から生まれたものではなく、アメリカの意向、戦前の政治を美化する為政者の思惑によって打ち出されて来たためである。こうした為政者による改憲策動を跳ね返した力は、①自衛隊はあくまでも防衛的なもので在り憲法まで変える必要は無いと認識していた政治家が為政者の一部にあり、又、②戦争によって身にしみた日本国民の平和への強い願いと良識によるものであった。戦後の憲法改正をめぐる日本政治は、アメリカの対日政策も絡んで複雑な様相を呈しているが、こうした国民の民主的力に依拠すれば、今後も、世界に誇る平和憲法を維持し、次の世代に引き継ぐことは可能だろう。
以上、今回は、憲法制定以降、安保闘争までの改憲の動きを追ってみたが、安保以降の改憲の動きについては、別途、稿を起こして考察することとしたい。