湘南ファイブ通信

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ー憲法改正をめぐる戦後史概観ー 何故、自衛隊はできても、憲法改正はできなかったのか

2013-05-22 13:10:57 | 憲法問題
<憲法改正をめぐる戦後史概観>

    何故、自衛隊はできても、憲法改正はできなかったのか     


①、新憲法制定以降のアメリカの対日政策の変化

1947年、新憲法の施行によって、日本は軍備を持たない平和国家として再出発した。これはポツダム宣言が日本に求めたレールで在り、日本国民もGHQもその方向で戦争放棄の新しい日本国憲法を作り上げた。ところが、憲法施行1年後の1948年頃から米ソの冷戦対立が生まれる中で、アメリカの対日政策の転換が始まったのである。具体的には、1949年に毛沢東の率いる中華人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮戦争が起こる中で、米軍の朝鮮出兵の下で日本の治安を守る為と言うことで1950年、GHQのマッカーサーの指令によって日本に警察予備隊を作らせたことが,ことの始まりになったと言える。
しかし、マッカーサーは日本の平和憲法との兼ね合いから、当初、あくまでも警察予備隊は日本国内の治安を守る組織とし、旧軍人の警察予備隊への採用は実施しなかったが、やがて、公職追放されていた旧軍人らも多数採用されるようになり、装備もアメリカから重火器まで支給され、警察予備隊は、実質的には軍隊に近い組織となった。平和憲法制定直後に始まった逆コースの第1弾と言って良いものであったが、警察予備隊はあくまでも警察組織であり、憲法9条に規定する軍隊では無いとの位置づけであった。
警察予備隊は、その後、日本が独立したことによって、GHQ指令が効力を失ったため、1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、保安隊に改組されたがあくまでも警察の補完組織という位置づけであった。


②、旧安保条約締結とともに発足した自衛隊

1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本は独立することになったが、沖縄がアメリカの信託統治下に置かれ島全体が巨大な米軍基地化され、また、本土も旧安保条約によって米軍に引き続き駐留されることになった。日本を守るという名目で旧安保条約が締結され米軍の日本駐留が継続される中で、1954年、自衛隊が創設された。これまでの警察予備隊、保安隊は日本国内の治安維持が主目的であったが、自衛隊は国を防衛すると言う任務を明確にした軍隊に近い組織であった。これはサンフランシスコ講和条約と共に締結された旧安保条約が、日本を守るためと言う目的で締結された以上、それに対応する組織が日本になければならないということで自衛隊が生まれたものである。
しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約以降も政権を担った吉田内閣は、1954年に退陣したが、退陣まで自衛隊を認める改憲の政策を打ち出すことはなかった。こうした吉田政治の系譜を嗣ぐ人々が、現在自民党内でハト派と言われる人々である。


③、自民党結党による自主憲法制定、改憲の動き

こうした中で、自主憲法、自主軍備を掲げ政界に復帰したのが安倍首相の祖父にあたる岸信介であった。岸信介は、サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除され、1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ政界に復帰した。そして、1953年自由党に入党し、衆議院選挙に当選したが、1954年吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
吉田茂退陣以降、1955年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導し自民党を発足させた。自民党は発足時より自主憲法制定、再軍備を等綱領に掲げた。憲法制定に係わった吉田茂は、憲法改正に消極的であったが、戦犯として戦争責任を問われ、新憲法に係われなかった岸信介等が、積極的に、押し付け憲法、自主憲法制定、9条改正などを自民党綱領に掲げ、アメリカの逆コースの政策に呼応する政策を掲げたものである。現在進められている安倍首相等の憲法改定の政策も、こうした祖父にあたる岸信介などの戦犯政治家の掲げた、押し付け憲法反対、自主憲法制定政策を受け継いだものである。


④、60年安保条約改定をめぐり繰り広げられた憲法改正の攻防

吉田内閣退陣以降登場した鳩山・岸内閣は、アメリカのダレス国務大臣より日米安保条約の現状は双務的ではなく、公平にするなら日本は海外派兵と遠征能力を持った再軍備、軍事力強化をして貰いたいと言われ、日米関係の対等化をはかるためには、日本の憲法を改正する必要があると、小選挙制導入などに全力を挙げたが、憲法改正に必要な2/3の議席を得ることができなかった。
そして、国民的大運動となった安保闘争以降、自民党は2/3の議席を獲得することができず、また社会党の1/3の議席確保によって、その後の憲法改正運動は進展しなかった。


⑤、戦後の改憲圧力を跳ね返した日本の良識・国民の力

世界の英知と日本国民の力によって作り上げてきた日本憲法は、その後、GHQの指令によって警察予備隊が創設され、サンフランシスコ講和条約以降自衛隊が作られ、安保条約によって沖縄と日本全土に米軍基地が置かれ、自民党結成によって何度となく憲法改正が企てられてきたが、ことごとく打ち破られてきた。それは、戦後の憲法改正運動が、国民の中から生まれたものではなく、アメリカの意向、戦前の政治を美化する為政者の思惑によって打ち出されて来たためである。こうした為政者による改憲策動を跳ね返した力は、①自衛隊はあくまでも防衛的なもので在り憲法まで変える必要は無いと認識していた政治家が為政者の一部にあり、又、②戦争によって身にしみた日本国民の平和への強い願いと良識によるものであった。戦後の憲法改正をめぐる日本政治は、アメリカの対日政策も絡んで複雑な様相を呈しているが、こうした国民の民主的力に依拠すれば、今後も、世界に誇る平和憲法を維持し、次の世代に引き継ぐことは可能だろう。

以上、今回は、憲法制定以降、安保闘争までの改憲の動きを追ってみたが、安保以降の改憲の動きについては、別途、稿を起こして考察することとしたい。

<安倍首相等の押しつけ憲法論に反論>新憲法制定時に発揮された日本の良識

2013-05-09 13:20:08 | 憲法問題
<安倍首相等の押しつけ憲法論に反論>

      新憲法制定時に発揮された日本の良識

①、はじめに、マッカーサーメモの背景

一般に、日本国憲法の策定は、終戦の翌年1946年のマッカーサーメモに端を発している。押し付け憲法論者は、このマッカーサーメモが押し付け憲法の始まりだと主張している。
マッカーサーメモとは、次の3項目から成り立っている。
1.「天皇は、国家の元首の地位にある」
2.「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
3.「日本の封建制度は、廃止される
しかし、このメモがマッカーサー自身の個人的な思いつきかというとそうではなく、下記の歴史的事実が示すように、それまでに日本の主要人物や各界から意見を聴取した上で、まとめたものであることが歴史的事実である。

②、新憲法制定に大きな影響を与えた「憲法研究会による憲法草案要綱」

1945年12月27日、民間憲法研究会による「憲法草案要綱」が発表された。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成され、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、研究会内での討議をもとに、12月27日に「憲法草案要綱」として、内閣そしてGHQに届けられたものである。同憲法草案は冒頭の根本原則で「統治権は国民より発す」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼を司る」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、具体的な社会権、生存権が規定されている。この要綱に対し、GHQが強い関心を示し、マッカーサーメモの3項目にも、この草案が強く影響されている

③、マッカーサーに「戦争放棄条項」を提案した当時の日本の総理大臣・幣原喜重郎

最近入手した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という平野三郎氏の手記(国会図書館内にある憲法調査会資料)を読み、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけられたというより、当時の日本の総理大臣幣原喜重郎氏が、天皇制維持とセットでマッカーサー元帥に進言し、盛り込まれたものであるいう事情を知ることができた。
一般に、戦争放棄条項は1946年2月3日のマッカーサーメモに含まれ、2月12日のマッカーサー憲法草案で公開されたことになっているが、手記によると、マッカーサーメモが出される前の1月24日、幣原・マッカーサー会談が行われ、戦争放棄条項が幣原氏より提案されたとのことである。
ポツダム宣言では、降伏の条件として軍国主義の一掃、軍隊の武装解除・解体等はうたっているが、戦争放棄とまでは言っていない。9月2日の降伏文書も又しかりである。マッカーサー元帥もそれまでどのように日本軍国主義を押さえ込むか思いあぐねていたに違いない。日本軍国主義を上手く押さえ込まなければ、天皇の戦争責任が追及されるのは必至な情勢が迫っていた。敗戦から6ヶ月、日本の戦後を決める憲法はなかなか決まらない。マッカーサーと言えども軍人である、敗戦国に対し、武力不保持・戦争放棄までなかなか要求しにくかったに違いない。そんな中で、これを言い出したのが、敗戦国の総理大臣・幣原喜重郎その人だったのだから、渡りに舟とばかりに、マッカーサーもこの提案に乗ってきたのであろう。
手記には、何故,このような提案をしたのかが詳しく書いてある。将来の戦争のことを考え、敗戦国の立場で初めて言えることだと考え、死中に活を見いだす決意で提案したのだと幣原は述べている。この会談の結果が、その後の憲法制定に活かされ、象徴天皇制も、戦争放棄もすんなり国会をとおり、11月3日の憲法公布、翌1947年5月3日の憲法施行へと繋がっていったのである。
幣原提案は、戦前の軍国主義が天皇制と結びつき戦争を引き起こしたとする見方が戦勝国に多い中で、軍国主義的絶対天皇制から戦争放棄・象徴天皇制へと平和な日本を目指すことを世界に示す上で、実に大きな功績があった。単に天皇制を維持するための方策として戦争放棄を提案しただけと言うものではなく、日本の将来を見据えた実に大胆な提案であったということができる。
また、天皇制のあり方についても、幣原喜重郎は、天皇が権力を持っていたら、日本の歴史上、こんなに長く天皇制が続くことはなかったろう。権力を持たない象徴天皇制が一番良い、とも言っている。天皇が、軍国主義者に政治的に利用され、太平洋戦争を引き起こし、敗戦によって危うく天皇制崩壊の危機に追い込まれたことへの反省だろう。
しかし、戦争直後、まだ日本には、このような先を見据える政治家がいたと言うことは驚きである。

④、天皇自らが象徴天皇制への移行を宣言した「天皇人間宣言」

マッカーサーメモの天皇条項の中で、1946(昭和21)年1月1日に発せられた「天皇人間宣言」が新憲法制定にあたって大きな影響を与えている。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。新憲法の下で、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。宣言文は「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない」と述べている。この宣言文を起草したのも、時の総理大臣・幣原喜重郎だと言われている。マッカーサーはこの宣言に対し、「天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たした」と高く評価したとされている
こうした「憲法研究会が発表した憲法草案要綱」、「天皇の人間宣言」と幣原喜重郎の提案した「戦争放棄条項」がベースとなって、その後「主権在民を基礎とした民主的条項」が加えられ新憲法が制定されていったのである。
彼らは、日本が敗戦によって受け入れたポツダム宣言を忠実に履行しようと努めたものであり、ここからは押しつけ憲法と言った概念は何処からも出てこない。
押し付け憲法論者が言わんとする事は、、日本が敗戦を受け入れたこと、、ポツダム宣言を受け入れたことを問題にしている好戦論者の論理だけである。だから、彼らは「先の戦争は侵略戦争ではない」、「米英の経済断行から国を守るための自存自衛の戦争であった」、「いつまでも自虐史観にとらわれてはならない」、「ポツダム宣言に拘束されない自主憲法を持たなければならない」等という戯言をいつまでも言い続けるのである。

⑤、マッカーサーは、連合国の助言を受け、憲法施行後1~2年内の見直しを認めていたが、当時の吉田首相は、これを拒否

現行憲法の公布は1946年11月3日であるが、その翌年1947年1月3日、当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから次のような書簡を受け取っていた。
書簡の内容は「昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度(1948年)と第二年度(1949年)の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。」理由は「連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考える。」からと言うもの。 言い換えれば、連合国が将来、日本国民に憲法を押しつけたと言われないようにするために、憲法施行後1~2年以内に再検討しても良い、という書簡である。
これに対して、日本の吉田首相は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁で「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁している。
こうした経過は、当時、吉田首相は、日本国憲法が押しつけ憲法だとの認識に立っておらず、日本人自らが制定したものであり、新憲法を圧倒的に支持する日本国民の前で、新憲法を変えるなどと言うことは毛頭考えていなかったということを物語るものである。
戦後の憲法制定に係わった当時の政治家は、自らが憲法制定に係わり、日本憲法の柱である、象徴天皇制、主権在民、戦争放棄、封建制を脱し民主日本を目指す憲法にいささかも疑問を持っておらず、押しつけ憲法などと言う認識は持っていなかったのに、何故、あれから60年以上経った後の安倍首相などが、今更、押しつけ憲法等と言って憲法改正を声高に叫ぶのか、全く不可解である。

⑥、おわりに、その後のアメリカの新憲法問題に対する対応の変化

以上、安倍首相等の押し付け憲法論にたいし、制定当時の歴史的事実を踏まえ反論してみた。ここで取り上げている資料については膨大なので、割愛させて頂くが、すべて原典にあたった上で記述していることを申し添える。
なお、その後のアメリカの憲法問題の対応については、憲法が施行された翌年1948年から、アメリカの外交軍事路線が冷戦構造に変わり、この頃からアメリカの日本に対する9条改憲要求が始まったとされている。こうした要求は、すぐには実現しなかったが、1950年、朝鮮戦争が始まると、連合軍総司令官マッカーサーの指令によって、日本に自衛隊の前身である「警察予備隊」がつくられるようになった経過は、別途、稿を起こして論じる予定である。

家庭でできる・プランターを使った生ゴミ堆肥化システム ー家庭の生ゴミが、1ヶ月でさらさら堆肥にー

2013-05-06 13:55:39 | 環境問題
<定年おやじの生ゴミ堆肥化実践記>
    家庭でできる・プランターを使った生ゴミ堆肥化システム
         ー家庭の生ゴミが、1ヶ月でさらさら堆肥にー


<はじめに>

今回、ご紹介する家庭用生ゴミ堆肥化システムというのは、プランターを使った都市型のホームコンポストシステムです。各家庭の軒下でできるので広い庭も入りません。できあがり製品はさらさらに乾き、ふるいで振るえば製品は、5mm以下の顆粒状になりますので、長期保存もできます。堆肥にするための発効酵母は、最初だけ市販の発酵菌を使いますが、2回目以降はヨーグルトなどと同じで、できた堆肥を繰り返し使いますので、お金もかかりません。又、狭い住宅地では隣と接近している家屋が多く臭気が気になりますが、強力な発酵菌である「生ゴミ食いしん坊菌」を使えば、ほとんど匂いはありません。(とにかく、この「生ゴミ食いしん坊菌」の発酵能力の大きさにはビックリしました。)
これまで、コンポスターなどを使って地中に埋め込んでいた方も、この方式を使えば地中に埋め込む必要も無く、プランターの中で全部堆肥化が進みますので、後の始末もよく、匂いや環境汚染で近所に迷惑をかけることもありません。一度始めたら、面白いようの良質の堆肥が次々と生まれますので、これから始める人も、これまで何らかの方法で生ゴミ堆肥化をやって来られた方も一度この方式を試してみて下さい。ちょっと凝ったやり方だと思われる向きもあろうかと存知ますが、生ゴミ堆肥化をやるからには、製品が中途半端な物で無く、キチンのした物になるかどうかが肝要です。
私も定年以降、生ゴミ堆肥化を始めた素人ですが、ごみ減量、環境保全、庭木や植木鉢に入れてやって地域の美化等に少しは貢献できたかなと思い、いささか満足しているところです。時間の余った定年おやじの家庭奉仕、社会貢献に最適です。ちなみに、3年前、藤沢市の環境フェスティバルで、個人部門の環境大賞に選ばれることができました。


2、プランターを使った生ごみ堆肥の作り方

<用意するもの>
①、1次発酵用プランター20L(生ゴミ埋込み用)~ 3箱
②、2次発酵用プランター40L(製品化・戻し堆肥用)~ 1箱
③、発酵菌(生ゴミ食いしん坊菌 10L×3袋(1袋680円)~初回のみ
④、その他~発酵促進用米ぬか、 小型鍬、植木用シャベル

<生ゴミ堆肥化の作業工程>

① 3箱の小型プランターを使って1次発酵、
 毎日、サンドイッチ状に生ゴミを埋め込むプランターを3箱用意。(標準5人家庭の場合)毎日1箱に生ゴミを埋め込みます。 埋め込み方は生ゴミをプランターの中に広げて敷き、その上に米ぬかをまぶし、生ゴミ食いしん坊発酵菌を被せます。翌日もサ ンドイッチ状に生ゴミを埋め込みます。

                 写真1 生ゴミを毎日プランタ-に埋める   写真2、生ゴミの上に米ぬかをかぶせる
           

    写真3、その上に戻し堆肥を被せる     写真4、3箱のプランターに順次埋める

 10日くらいで1箱目のプランターが一杯になるので、2箱目のプランターに同じように埋め込みます。2箱目が一杯になった ら3箱目のプランターに埋め込みます。3箱目のプランターが一杯になるときは、1箱目に埋め込んだ生ゴミは1ヶ月埋め込ん だことになりほとんど堆肥化が完了しています。

② 大型プランターに移し、発酵用戻し堆肥として再使用
 そこで、1箱目に埋め込んで堆肥化された製品を、全部大きなプランターに移します。ここで鍬を使ってよくほぐし、空気を入 れて2次発酵させながら、生ゴミの発酵促進戻し堆肥として再利用します。(2巡目は生ゴミ食いしん坊菌使わず、大型プラン ターでできた製品を、ヨーグルトを作るときと同じように戻し堆肥菌として使います)こうして循環再利用できるので全く無駄 なことはありません。

③ 大型プランターに残った製品が、最終完成堆肥
 最後に大型プランターに残った堆肥が製品となります。最初にプランターに埋め込んだ時から1ヶ月以上埋め込み発酵させたこ とになります。出来上がった堆肥は、乾燥してボロボロになっているので、鍬等で更に細かくほぐしてやると顆粒状のさらさら 堆肥になります。製品の粒度を整える為にふるいでふるい、5mm以下は製品として使い、オーバーは、戻し堆肥として発酵菌に 使います。

             
        写真5 大型プランターに移し発酵堆肥として再使用   写真6、残りは振って製品堆肥

④ 空になったプランターは、20Lの小型プランターは1次埋め込み用として再利用し、40Lの大型プランターには1次発酵 が終わった次に小型プランターの製品を入れ2次発酵させます。こうして3箱の小型プランター、1個の大型プランターを、順 次再利用しますので、家庭用生ゴミ堆肥化に使う用具はこれだけで済みます。


3 製品は、良質な乾燥堆肥 小袋に入れて保管

① 出来た乾燥堆肥をよく解砕し6ミリ網で篩うと上の写真のように細めの製品が出来上がります。この堆肥は、下図の ようにビニール袋などに入れて保管します。
② 他の生ゴミ堆肥化方式と違って、地中に埋めておくのではなく、袋に入れて保管できるのでどんなにたくさん堆肥が出来て  も、どこにでも積んでおくことが出来、小袋に入れて生ゴミ堆肥として商品化することも出来ます。 
③、完成完成成堆肥は、顆粒状のサラサラ堆肥なので、花壇に、植木鉢に、ガーデニングに、植木栽培に、家庭菜園に最適な堆肥 として施す事が出来ます。
 

         
           写真7、小袋に入れた乾燥堆肥


         連絡先  藤沢エコネット 小林麻須男藤沢市亀井野1371-5 090-6317-5547
                「生ゴミ食いしん坊」製造・発売元  (株)みのり建設
                  長野県諏訪郡富士見町富士見11693-7  ℡0266-62-2990

―季節のたよりー 我が家の端午の節句・郷土玩具の五月人形

2013-05-02 20:52:44 | 季節の風物詩
―季節のたよりー

我が家の端午の節句・郷土玩具の五月人形

五月になるとタンゴの節句がやってくる。我が家には男の子の孫はいないので、毎年、息子のためにタンゴの節句・五月人形を飾る。武者人形や鎧甲のきらびやかな人形が飾られるのだが、我が家に於いては旅先であちこちから買ってきた郷土玩具を並べて飾ることにしている。男の子が生まれたときに、死んだおばあちゃんが「幟立て1式」、「こいのぼり・吹き流し1対」、「弓・太刀1対」を買ってくれたので、それをメインに郷土玩具を飾りたてるのである。下記の写真がそれである。

幟立て1式、~おばあちゃん
こいのぼり・吹き流し1対~おばあちゃん
弓・太刀1対~おばあちゃん
武者人形~奈良
火消し人形~金沢
なまはげ~秋田
帯奴~島田
加藤清正の兜~高岡
でんでん太鼓~高松
金魚台輪~新発田
御用材~伊勢神宮
でんでん太鼓を背負った犬張り子~浅草
ちょうさ~高松
鬼の面~高松
赤べこ~福島
千両箱を背負った金べこ~盛岡
雉くるま~福岡

40年近く、毎年飾り続けて来たのだが、箱に入れてしまって来たので、余り色あせもせず、きれいな色を見させてくれている。飾る毎に之は何処で買った物だということが思い出されて実にたのしい。いつまでも飾り続けたいと思っている。


我が家の端午の節句・郷土玩具の五月人形