平安時代の陰陽師、安倍晴明に仮託された書物は幾多あるものの、《占事略决》だけは著者が晴明であることが確実視されている。現存最古の陰陽道関係の書物として、鎌倉期の安倍泰統による写本がある。しかし奥書の年記に曖昧なところがあり、誤写かどうかは定かではない。
本書は〈四課三伝法〉を巻頭に、〈課用九法〉、〈天一治法〉とつづき、都合三十六種の六壬占法が述べられている。しかしその内容を完全に理解することは不可能とされ、詳細な注釈書も見あたらないのが現状である。
前半は総論的であるが、後半に〈一人間五事法〉、〈知男女行年法〉、〈知吉凶期法〉など、日常生活に直結した関心事がつづく。第二十六にある三十六卦の〈大例法〉は、かなりまとまった記述内容となっている。そののち第二十七〈占病崇法〉には、病気による死期についての記述があり、第二十八に〈占病死生法〉がある。
〈占病死生法第二十八〉の全文は以下のごとくである。
《 大概云、傅用人死虚實正日時日上有氣傅木是白虎者不死日上
无氣見白虎者必死有實也、又云、日辰陰陽有白虎用秘爲死氣所勝亦死也
辰上尅日上皆信日上刻辰上爲虚之辰上與日上相可信明与日上
相生爲和合可信也、若刻罡三日辰及年其言不可信也、又云、正日上時勝日
上爲信時勝從上不可信之、大陰天主之日辰所言无任也、物類昆者不信也。
謂日爲身辰爲病君病尅身重(シ)身尅病輕白虎
尅日重日尅白虎輕文云常以月將加時若大吉小吉
天魁從(ヒ)魁徴明与白虎并(テ)加病者行年及日辰皆死
又以大吉加(ハヘテ)初(メテ)得(タル)病日(ニ)視(ヨ)行年上(ヲ)得天罡天十死
一生也、囙死之各騰蛇白虎魁罡加得病之日
是爲三死加病者行年又死也》
四柱推命の神殺と同じものがふたつみられる。白虎と魁罡である。六壬占では四柱推命よりも神殺の扱いが重く、それだけに前近代的である。しかしたとえば〈白虎は日上の氣なくば死せずして白虎者は必ず死ぬとはまことである〉の箇所は、神殺の効能を過大に評価しているというよりも、この神殺に陰陽と五行の消息をみて経験的にのべているように感じられる。その次の〈日辰陰陽に白虎あり、よろしくを用いて死氣として、勝つところはまた死〉というのも、四柱推命の古法――星家の法そのものの論法とは直接的に関係がないように考えられる。ここにはもっと別のロジックがはたらいていると思える。
陰陽道のスーパースターである安倍晴明には、占術に関するエピソードにも信じがたい伝説的なものが多く伝えられている。ここでいちいちそれらを検討しないが、しかし「だまって座れば.ぴたりとあたる」というのは、まさに六壬神課によって――易の八卦もそうだが――こそ可能であるとさえいわれる。それどころか晴明などは、被占者がやって来る前から、どの方角から来て、どんな相談をするかが予知できたという。
先述したように、晴明が駆使した六壬占――六壬神課は、修得者が少なく、詳細な注釈書も流布していないが、わたしはさきごろ調べものをしていて、そういえば阿部泰山が昭和の初期に六壬占について著述していたことを思い出した。そこで泰山全集全二十二巻をあたってみると、なんと全体の三割ちかい七巻が六壬占の解説と占断法にあてられている。それらは六壬占の古典書を根拠にしての〈天文易学六壬神課〉である。
一九八六年に京都書院より出された第十一巻『天文易学六壬神課 實践鑑定法』を手にして、何気なくページを繰っていると、どんな偶然か、まず最初に次のような記述がわたしの目に飛び込んできた。
《怪異事件は地盤子の上を見て日辰と相生すれば凶害はなく、之に反し六凶が乘じ日辰と相尅なす時は怪事が起ります》
この見出しは〈怪異正斷〉である。怪異の有無は〈貪狼〉と称する后をもってその類神とするというのである。そして怪異の疑いがあるときは、造式して三伝をうかがい、騰蛇なければ怪異なしと知る。
この論法は、既述の〈占病死生法第二十八〉と酷似している。さらに〈鬼崇惡夢正斷〉なる次のような記述に出会った。以下はこの項の全文である。
《崇り叉は惡夢等を正斷なすには、其人の年命上の天將と旺相休氣と上下相生により知るのです。上が旺相休となり天地上下が相生ず時は崇りは我身邊には起りません。上が死絶囚氣となり辰、戌、蛇、虎が集するのは身邊は凶怪で崇りがあります。又単に鬼崇を占斷なすには、日干上は我とし、日支上は家庭とします。初傳が陽二課なれば外事の崇りで、初傳が陰二課なれば家庭内に崇りがあり、天地盤中天盤辰の字の地陽は男で陰支は女子であります。天目と蛇又は虎が子に乘じ、日干又は日支上或は年命上に乘じて日干を尅す時は家宅に崇りがあります。》
――さらに次の項は〈殺人正斷〉であり、その被害の可能性については〈鬼崇惡夢正斷〉よりもさらに詳細をきわめているが、もちろん書き出すことにはさし障りがあるだろう。
また、格をとって占断するさいに〈殃咎格〉ともなれば、次のような暗示を得ることとなる。
《内外凌辱に逢ふの象で、病勢は危く訴訟は永引きます。官事は弾劾に逢ひ、遞尅なす時は人の爲に欺むかれます。來尅すれば身は自由を得ません。他人の策動に乘じられ、家庭は正しからずして醜聞が廣がり、病及び訴は極めて凶です。墓が乘ずれば人宅に滞りがあり且災禍が發生致します。》
さらに〈冬蛇掩目格〉には《進退據處なき象で、萬事に曖昧にして明らかでなく、來客は見へず事を作すも效なく、待人は來らず、逃亡失走の事が起ります、蛇虎が三傳に入るは怪夢が多く、申が卯に加はれば車輪の凶害を招きます。三傳に玄武が乘ず時は凶が甚だしいのです。午卯が三傳中にある時は明堂と稱して凶は化して吉となります。》とある。
これらの論法に形式化したパラダイムをみてとることができるのは、背後に陰陽五行の考えが浸透しているからである。もちろん、凶事ばかりでなく、吉象もみられるが、比率からすると凶象の暗示のほうが多いように感じられる。
《吉凶が内外何れに發するかを豫測なすには天地盤を以て之を豫知出來ます。天盤辰の宇の下が、四季に加はるは凶は内にあつて吉は外にあり、四孟に加はれば吉は内にあつて凶は外にあり、四仲に加はる時は吉は家庭にあつて凶は身邊に起るのであります。》(〈吉凶内外法正斷〉)
――余談だが、ふとアメリカ映画《ファイナル・デスティネーション》や《ファイナル・デッドコースター》《ファイナル・デッドサーキット》《ファイナル・デッドブリッジ》などが思い出させる。
人間関係のなかに潜む悪意ではなく、出来事の生起をつかさどる人生や運命の深奥に秘蔵されている、不気味で不可解な何かは、確実に存在する。それが視える人の恩寵は、輝かしい祝福の光に射られるような陶酔のうちにあるのではなく、まず最初に不幸なかたちでやって来るのではないのだろうか。それだからこそ、幸福は秘匿されなければならないのである――。
六壬神課をめぐって ―― 1〉____1
六壬神課をめぐって ―― 1〉____2
本書は〈四課三伝法〉を巻頭に、〈課用九法〉、〈天一治法〉とつづき、都合三十六種の六壬占法が述べられている。しかしその内容を完全に理解することは不可能とされ、詳細な注釈書も見あたらないのが現状である。
前半は総論的であるが、後半に〈一人間五事法〉、〈知男女行年法〉、〈知吉凶期法〉など、日常生活に直結した関心事がつづく。第二十六にある三十六卦の〈大例法〉は、かなりまとまった記述内容となっている。そののち第二十七〈占病崇法〉には、病気による死期についての記述があり、第二十八に〈占病死生法〉がある。
〈占病死生法第二十八〉の全文は以下のごとくである。
《 大概云、傅用人死虚實正日時日上有氣傅木是白虎者不死日上
无氣見白虎者必死有實也、又云、日辰陰陽有白虎用秘爲死氣所勝亦死也
辰上尅日上皆信日上刻辰上爲虚之辰上與日上相可信明与日上
相生爲和合可信也、若刻罡三日辰及年其言不可信也、又云、正日上時勝日
上爲信時勝從上不可信之、大陰天主之日辰所言无任也、物類昆者不信也。
謂日爲身辰爲病君病尅身重(シ)身尅病輕白虎
尅日重日尅白虎輕文云常以月將加時若大吉小吉
天魁從(ヒ)魁徴明与白虎并(テ)加病者行年及日辰皆死
又以大吉加(ハヘテ)初(メテ)得(タル)病日(ニ)視(ヨ)行年上(ヲ)得天罡天十死
一生也、囙死之各騰蛇白虎魁罡加得病之日
是爲三死加病者行年又死也》
四柱推命の神殺と同じものがふたつみられる。白虎と魁罡である。六壬占では四柱推命よりも神殺の扱いが重く、それだけに前近代的である。しかしたとえば〈白虎は日上の氣なくば死せずして白虎者は必ず死ぬとはまことである〉の箇所は、神殺の効能を過大に評価しているというよりも、この神殺に陰陽と五行の消息をみて経験的にのべているように感じられる。その次の〈日辰陰陽に白虎あり、よろしくを用いて死氣として、勝つところはまた死〉というのも、四柱推命の古法――星家の法そのものの論法とは直接的に関係がないように考えられる。ここにはもっと別のロジックがはたらいていると思える。
陰陽道のスーパースターである安倍晴明には、占術に関するエピソードにも信じがたい伝説的なものが多く伝えられている。ここでいちいちそれらを検討しないが、しかし「だまって座れば.ぴたりとあたる」というのは、まさに六壬神課によって――易の八卦もそうだが――こそ可能であるとさえいわれる。それどころか晴明などは、被占者がやって来る前から、どの方角から来て、どんな相談をするかが予知できたという。
先述したように、晴明が駆使した六壬占――六壬神課は、修得者が少なく、詳細な注釈書も流布していないが、わたしはさきごろ調べものをしていて、そういえば阿部泰山が昭和の初期に六壬占について著述していたことを思い出した。そこで泰山全集全二十二巻をあたってみると、なんと全体の三割ちかい七巻が六壬占の解説と占断法にあてられている。それらは六壬占の古典書を根拠にしての〈天文易学六壬神課〉である。
一九八六年に京都書院より出された第十一巻『天文易学六壬神課 實践鑑定法』を手にして、何気なくページを繰っていると、どんな偶然か、まず最初に次のような記述がわたしの目に飛び込んできた。
《怪異事件は地盤子の上を見て日辰と相生すれば凶害はなく、之に反し六凶が乘じ日辰と相尅なす時は怪事が起ります》
この見出しは〈怪異正斷〉である。怪異の有無は〈貪狼〉と称する后をもってその類神とするというのである。そして怪異の疑いがあるときは、造式して三伝をうかがい、騰蛇なければ怪異なしと知る。
この論法は、既述の〈占病死生法第二十八〉と酷似している。さらに〈鬼崇惡夢正斷〉なる次のような記述に出会った。以下はこの項の全文である。
《崇り叉は惡夢等を正斷なすには、其人の年命上の天將と旺相休氣と上下相生により知るのです。上が旺相休となり天地上下が相生ず時は崇りは我身邊には起りません。上が死絶囚氣となり辰、戌、蛇、虎が集するのは身邊は凶怪で崇りがあります。又単に鬼崇を占斷なすには、日干上は我とし、日支上は家庭とします。初傳が陽二課なれば外事の崇りで、初傳が陰二課なれば家庭内に崇りがあり、天地盤中天盤辰の字の地陽は男で陰支は女子であります。天目と蛇又は虎が子に乘じ、日干又は日支上或は年命上に乘じて日干を尅す時は家宅に崇りがあります。》
――さらに次の項は〈殺人正斷〉であり、その被害の可能性については〈鬼崇惡夢正斷〉よりもさらに詳細をきわめているが、もちろん書き出すことにはさし障りがあるだろう。
また、格をとって占断するさいに〈殃咎格〉ともなれば、次のような暗示を得ることとなる。
《内外凌辱に逢ふの象で、病勢は危く訴訟は永引きます。官事は弾劾に逢ひ、遞尅なす時は人の爲に欺むかれます。來尅すれば身は自由を得ません。他人の策動に乘じられ、家庭は正しからずして醜聞が廣がり、病及び訴は極めて凶です。墓が乘ずれば人宅に滞りがあり且災禍が發生致します。》
さらに〈冬蛇掩目格〉には《進退據處なき象で、萬事に曖昧にして明らかでなく、來客は見へず事を作すも效なく、待人は來らず、逃亡失走の事が起ります、蛇虎が三傳に入るは怪夢が多く、申が卯に加はれば車輪の凶害を招きます。三傳に玄武が乘ず時は凶が甚だしいのです。午卯が三傳中にある時は明堂と稱して凶は化して吉となります。》とある。
これらの論法に形式化したパラダイムをみてとることができるのは、背後に陰陽五行の考えが浸透しているからである。もちろん、凶事ばかりでなく、吉象もみられるが、比率からすると凶象の暗示のほうが多いように感じられる。
《吉凶が内外何れに發するかを豫測なすには天地盤を以て之を豫知出來ます。天盤辰の宇の下が、四季に加はるは凶は内にあつて吉は外にあり、四孟に加はれば吉は内にあつて凶は外にあり、四仲に加はる時は吉は家庭にあつて凶は身邊に起るのであります。》(〈吉凶内外法正斷〉)
――余談だが、ふとアメリカ映画《ファイナル・デスティネーション》や《ファイナル・デッドコースター》《ファイナル・デッドサーキット》《ファイナル・デッドブリッジ》などが思い出させる。
人間関係のなかに潜む悪意ではなく、出来事の生起をつかさどる人生や運命の深奥に秘蔵されている、不気味で不可解な何かは、確実に存在する。それが視える人の恩寵は、輝かしい祝福の光に射られるような陶酔のうちにあるのではなく、まず最初に不幸なかたちでやって来るのではないのだろうか。それだからこそ、幸福は秘匿されなければならないのである――。
六壬神課をめぐって ―― 1〉____1
六壬神課をめぐって ―― 1〉____2