車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

全日空賃下げ 社員の本音

2009年02月18日 | 経済一般

これはある意味ネタなのではないかと思ってしまうような記事の内容だ。AERAの「全日空賃下げ 社員の本音」という記事より。

――こんな時世だから賃金カットはやむをえない。
リストラされないだけ、まだましだ。
経営陣が示した人件費削減方針に対し、
全日空社員は案外、ものわかりがいい。
ただ、それも嵐はやがて収まると思えばこそ。
就職人気トップ企業ですら視界は不良だ。
編集部 鈴木琢磨、土屋 亮――

・・・

全日空は1月30日の第3四半期決算発表で、2009年3月期の業績予想を大幅に下方修正したのだ。本業のもうけを示す営業利益は前回発表の550億円から80億円に、純損益は170億円の黒字から90億円の赤字に変更した。・・・

役員はすでに1月から報酬の1~3割カットに踏み切っていた。経営陣は2月に入って、グループ3万人の賃下げ方針を打ち出した。先陣を切って全日空本体が、これまで月給の4~5カ月分あった年間ボーナスを1カ月分カットすると労働組合に伝えたのだ。これで09年度のグループ人件費を前年度より140億円、6%減らす。09年度に限った時限措置と説明している。・・・

08年3月期の有価証券報告書によると、全日空社員の平均賃金は902万円(39歳)。国税庁の調査によれば、民間企業従業員の平均賃金は437万円(07年)だったから、高給社員の類といえるだろう。・・・

ただし、賃金の社内格差は大きい。客室乗務員の489万円(31歳)、本社・支店や空港カウンターなどで働く地上職の846万円(43歳)に対し、様々な手当が付くパイロットは2200万円(45歳)と別格だ。
「一般常識として、もらいすぎじゃないでしょうか」・・・

 これに対し、ある男性パイロット(45)は今回の賃下げを、「経営側の約束違反」と切って捨てた。・・・

もっとも、地上職・客室乗務員らでつくる全日空労働組合は、「会社の提案を受けたばかりなので、組合員の意見を聞いて対応を考える」と態度を保留している。社員の多くは「賃下げ容認」に傾いているようだ。賃下げ方針を組合に伝えた席上、担当役員が、「雇用は守る」と強調したと伝えられている。ある30代の課長補佐の男性は、「『派遣切り』が問題になっている今、この程度の賃下げは受け入れざるを得ない」と話した。

びっくり仰天の高賃金、いったい飛行機を運行するのにどんなに高度な知識と技術がいるんだと思ってしまうような給料だ。受付や事務経理なんて誰でも出来るだろうし、客室乗務員なんてファミレスの店員と大して変わらないだろう。整備にはある程度、知識熟練が必要かもしれないが飛びぬけて高給が必要というほどではないだろう。パイロットも視力がいい、身体能力の高い高校生でも訓練すればいいだけの話だろう。みんなありえないほど貰いすぎだ。

それでも、一番貰っているパイロット(45歳で2200万)が賃下げに断固反対しているところがもうほとんどネタの領域に入っているとしかいえない。これは楽して超高収入のテレビ局社員の操り人形古館伊知郎がワーキングプアを語るのと同じレベルの話だ。

しかしまあ、こんなに能力も知識もいらない仕事がこんなに高年収だったら日本も経済が停滞するに決まっているという話だ。優秀な人材がこのような大して能力の要らない仕事に就職するたびに日本の人的資産が浪費されていく。これは公務員なんかもまったく同じ話だが、生産性の低い仕事が高給であるために人材を浪費する状況は大変な問題だ。まず、このような分野の徹底的な賃下げによって人材の経済的に効率的な分配を追求していく必要があるだろう。

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パレート最適

2009年02月18日 | 経済学

近頃経済学の本を読んでいてパレート最適が出てきたときに思わず笑ってしまった。パレート最適というのはある集団が、1つの社会状態(資源配分)を選択するとき、集団の内誰かの効用(満足度)を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態をいい、また誰の効用も悪化させることなく、少なくとも一人の効用を高めることができるとき、新しい社会状態は前の社会状態のパレート改善とも言う。

しかし、これは現実的にはなかなか難しい問題である。パレート改善は効用が減少する人がいないのですべての人にとって望ましいものではあるが、そのため誰の効用も減少させてはならないという厳しい制約条件が付くことになる。また、資源のすべてを一人の人が手に要れ、他の人は何もなしという状況であってもパレート最適といえるので社会的公平性という面で好ましいというわけでもない。

つまり、パレート改善というのは最初の状態に比べて後の状態がすべての人にとって望ましいということに過ぎない。初期の資源の分配がどれだけ不平等であってもそこから誰の効用も減少させずに誰かの効用が増えればパレート改善だからである。

しかし最大の問題は、部分的な市場の効率性を目指して失敗するということがよくあるということだ。全体として完全に自由で競争的な市場を目指さなくても部分的な自由化や競争の促進がパレート改善であればそれは明らかに優れたものである。だが、影響がその部分のパレート最適化する部分にのみに限定されていれば良いが、その政策によって初期の資源分配に影響が出るような変化が起こってしまうと。パレート最適化したとしても結果としては歪んでしまうことになるかもしれない。

これは、現在の正社員と非正社員の格差問題を考えてみればわかることであるが、規制を緩和し非正社員の労働市場を弾力化したことは市場を活性化しパレート改善をもたらしたかのように思えたが、正社員と非正社員との賃金分配の部分に決定的な影響を与える変化を同時に引き起こしてしまったために全体として大きく歪んでしまった。だから、部分的に自由化すると初期の資源分配が歪むことによってパレート改善が無意味なものになってしまうことがあるので、初期の資源分配の悪化が起こらないような方向でパレート最適化を図るような政策を模索することによって、未来を完全に予言する能力がなかった結果起こる失敗を避けていく必要があるだろう。

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テレビや新聞のどこがネットより民主的なのか

2009年02月18日 | 政治

雑種路線で行こうの「テレビや新聞のどこがネットより民主的なのか」より。楠正憲氏はダイヤモンドオンラインの岸博幸氏のかんぽ騒動に関してネットの非民主制を批判する記事に反論している。

日本の民主主義が貧困なのは、戦争に負けても新聞統制の影響を引きずったままテレビにまで敷衍したことにあるんじゃないか。恐らく明治大正の日本には、もっと多様な言論があった。電波利権を論難する池田信夫氏や、痴漢事件で社会的地位を失った植草一秀氏が自由に情報発信でき、政治家が強引な司会に遮られることもなく長文を発表でき、かかる多様な言論に対する罵詈雑言も簡単に参照できるネットは、未成熟ながらもテレビや新聞よりずっと民主的だ。

少し、このことに関して意見を述べる。知識人やマスコミ関係者はいつも多様な考え方を尊重すべきだといつも述べる。しかし、そのように主張しつつ常に極めて特殊な考えを他人に押し付けようとする。この人たちの多様な考えを言うのは私達一般人が考えているようなものとはかなり違ったものなのである。

どのようなものであるかというと、多様な考えを尊重したたった一つの正しいものがあると言うのだ。例を挙げれば、日本を愛したり、国家を大事だと考えることは、日本や国家を重要視しない人もいる状況においては多様な考えを尊重したものではないために問題があるのだ。そのため、他の考え方を尊重した結果、日本や国家を否定することになるのだ。しかし、問題はこのようにすると国家や日本を大事だと思っている人の意見を実はまったく尊重していないし、採用された意見は現在の日本のように中国や韓国といった一部の多様な意見だけを過剰に尊重したものとなっているということだ。

この問題は、現在の日本において顕著に見られるが、それは日本の後進性、非民主制を意味するものではない。むしろ、このような問題はヨーロッパ社会において連綿と受け継がれてきた問題であるといえる。カントが王政等の上からの支配に反対し、それを専制的として全否定し、民主制の絶対的な正しさを主張した後、知識人は他よりも優れているのだからその幸福を優先しなければならないと主張したのは有名である。このようにヨーロッパ社会においては、多様な意見を尊重するために王のような上のものによる支配に反対しされには国家のようなものにも反対しつつ、一部の人間による民主制を支持するということを繰り返してきた。

つまり、このような歴史を考えれば、日本を非民主的後進的と非難するのは本当に正しいのだろうかと思えてくる。実際、本当の意味で民主的な社会を全世界に創出する過程において日本が果たした役割は見逃せない。第二次大戦前に、ヨーロッパによる植民地支配に反対し人種の平等を主張し、真に民主的な世界を推進しようとしたのは日本人だった。つまり、日本は歴史的に見てある意味民主的な思想において中心的な役割を果たしてきたといえる。その中で、知識人やマスコミは逆にこのような日本の民主的な資質に憎しみを抱いているのではないだろうかとさえ思えてくるのである。

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爆笑の奥野禮子

2009年02月18日 | 経済一般

奥野禮子氏(人材派遣会社ザ・アール社長)の「派遣切り・社会が悪いは本末転倒」というのがgooの特集記事で出ていた。内容は、この人を知っている人には読まなくてもわかると思うが、お約束の自己責任論、派遣社員批判である。

このような主張の最大の問題は、経済学的な理論にまったく基づいていないということだ。だから当然評論家や労働組合関係者、政治家の中にはこのような発言に賛意を示す人がいるが学者はそのようなものを支持したりはしない。経済学的には、資源の分配がどのようにしたら効率的になるかを考える。そして、所得の分配がどのようにしたら公平になるかを考える。どちらの議論においても、労働市場が分断されて流動性がないという状態は資源の分配・所得の分配いずれにおいても、まったくもって望ましくないので問題外だ。

唯一この人の発言で正しいとしたら小泉改革を非難するのはおかしいという点だろう。確かに、小泉改革に現在の問題の責任を求めることはおかしく、最大の原因は正社員の保護が強化されすぎその保護を緩和することが出来なかったことである。しかし問題は、現在のような正社員と非正社員との身分制社会が発生した原因は、奥野禮子氏のような人物が労働組合にとって都合のいい労働制度を容認し、正社員と特権を剥奪するような改革を断行しようとしなかったことになる。その意味で、奥野禮子氏には間接的に労働組合が求めるような労働市場改革を支援したという責任があるといえるだろう。

これは、結局のところ新自由主義を唱えているつまりになっていた人が実はそれからかけ離れた非自由競争的な制度を間接的に支援してしまったということに過ぎない。その点で、労働組合ともども奥野禮子氏には非常に大きな責任があるといえるだろう。

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中川財務相辞任

2009年02月18日 | 政治

なんとも不可解な、意味不明な出来事がまた起こった。先進7カ国財務省・中央銀行総裁会議後の記者会見において、体調不良・疲労のためか調子が優れずちゃんと明瞭に発言できなかったことを、「泥酔疑惑」とも報道された中川財務相が辞任した。この事件は中山氏の辞任のときと同じような極めて恣意的な臭いがする。

また起こったか。これが私の最初の反応である。野党とマスコミが勝手に過剰反応し、自ら暴走しエスカレートしていく。ほんの些細なことや、自分達がただ単に不適切と勝手に思っただけで、狂ったように叫びだし相手を非難し、辞任と謝罪、徹底的な責任を求める。これは「言葉狩り」のときの典型的なパターンであるが、一部の人間が物事や発言をそのように解釈できるというだけで、都合の悪い者は抹殺されていくのである。博士の独り言氏の言を借りると「今般の出来事の本質は「人間狩り」であり、政治の名を借り、且つメディア報道を大々的に政治利用した暴力である。」と言えるだろう。

ここでは何度の言っていることであるが、勝手な解釈による暴走がまた起こったかという思いだ。何でもないような発言や、一面の真理を付いたような言動であったとしても、一部の人間が気に入らなければ徹底的に弾劾され糾弾される。一方で、一定の客観的な事実や、理論的合理性に基づいた発言が、他の理由や相手にも責任があると言う論法によって、発言した側が罵倒される。物事の解釈が多くのことを決めてしまう社会においては、何が正しいかではなく、誰が正しいかということによって物事が決まらざるを得ないだろう。このような恣意性に断固として反対していかなければならないだろう。

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