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パレート最適

2009年02月18日 | 経済学

近頃経済学の本を読んでいてパレート最適が出てきたときに思わず笑ってしまった。パレート最適というのはある集団が、1つの社会状態(資源配分)を選択するとき、集団の内誰かの効用(満足度)を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態をいい、また誰の効用も悪化させることなく、少なくとも一人の効用を高めることができるとき、新しい社会状態は前の社会状態のパレート改善とも言う。

しかし、これは現実的にはなかなか難しい問題である。パレート改善は効用が減少する人がいないのですべての人にとって望ましいものではあるが、そのため誰の効用も減少させてはならないという厳しい制約条件が付くことになる。また、資源のすべてを一人の人が手に要れ、他の人は何もなしという状況であってもパレート最適といえるので社会的公平性という面で好ましいというわけでもない。

つまり、パレート改善というのは最初の状態に比べて後の状態がすべての人にとって望ましいということに過ぎない。初期の資源の分配がどれだけ不平等であってもそこから誰の効用も減少させずに誰かの効用が増えればパレート改善だからである。

しかし最大の問題は、部分的な市場の効率性を目指して失敗するということがよくあるということだ。全体として完全に自由で競争的な市場を目指さなくても部分的な自由化や競争の促進がパレート改善であればそれは明らかに優れたものである。だが、影響がその部分のパレート最適化する部分にのみに限定されていれば良いが、その政策によって初期の資源分配に影響が出るような変化が起こってしまうと。パレート最適化したとしても結果としては歪んでしまうことになるかもしれない。

これは、現在の正社員と非正社員の格差問題を考えてみればわかることであるが、規制を緩和し非正社員の労働市場を弾力化したことは市場を活性化しパレート改善をもたらしたかのように思えたが、正社員と非正社員との賃金分配の部分に決定的な影響を与える変化を同時に引き起こしてしまったために全体として大きく歪んでしまった。だから、部分的に自由化すると初期の資源分配が歪むことによってパレート改善が無意味なものになってしまうことがあるので、初期の資源分配の悪化が起こらないような方向でパレート最適化を図るような政策を模索することによって、未来を完全に予言する能力がなかった結果起こる失敗を避けていく必要があるだろう。

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