議論していると考え方は人それぞれで、どれか一つに決められないというようなことを言われることがよくある。確かにそうなのだが、いつも困ってしまう。極論を述べれば、理想を述べたり考えたりしても意味がない。社会には不合理はつき物だからどんな不平等や格差、差別であったとしてもそれに責任をすべて押し付けるのはおかしいという意見も可能だ。一方で、理想を徹底的に求めほんの少しの不平等や差別も許せない。努力や能力の差も無視してすべて平等にすべきだという主張も出来る。しかし、そのような主張も可能だとしても多くの人が納得できる基準というのもあるのではないだろうか。
労働と賃金の関係で言えば、労働によって上げた成果に応じて賃金が払われることが公正で公平な基準の基本になるのではないだろうか。ここでは評価の平等としよう。最終的に完全に平等な社会を目指している人もいるかも知れないが、とりあえず同じ労働に対しては、同じだけの成果に対しては同じ賃金を払うというのは平等への第一歩ではないだろうか。
日本を始め多くの先進国で起こっている問題は、評価の平等のような基本となる平等が無視される一方で、過剰な平等主義が起こっていることである。多くの組織において労働組合の影響で結果の平等が推し進められてきた。一方で、組織間や産業間の平等が無視されてきたために、組織間・産業間においては基本的な評価の平等さえ達成されてこなかった。その結果、社会が労働組合による身分制社会化してしまった。
こうなってしまった大きな原因は、いろいろな主張や考え方は認めてしまったために、一方では組織内では過激な結果の平等主義が蔓延し、他方では組織間では評価の平等のような基本的な平等性さえ否定する言論が蔓延ってしまったからである。つまりは、ある部分では最も極端な平等主義が取られ、別の部分では極端な不平等のあからさまな肯定が見られた。そのため、このような状態によってもたらされた身分制社会を否定し平等な社会に近づけていくためには、評価の平等をまず第一の基本に据える必要があるのではないだろうか。