車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

結果の平等の前に評価の平等を

2009年02月12日 | 経済学

議論していると考え方は人それぞれで、どれか一つに決められないというようなことを言われることがよくある。確かにそうなのだが、いつも困ってしまう。極論を述べれば、理想を述べたり考えたりしても意味がない。社会には不合理はつき物だからどんな不平等や格差、差別であったとしてもそれに責任をすべて押し付けるのはおかしいという意見も可能だ。一方で、理想を徹底的に求めほんの少しの不平等や差別も許せない。努力や能力の差も無視してすべて平等にすべきだという主張も出来る。しかし、そのような主張も可能だとしても多くの人が納得できる基準というのもあるのではないだろうか。

労働と賃金の関係で言えば、労働によって上げた成果に応じて賃金が払われることが公正で公平な基準の基本になるのではないだろうか。ここでは評価の平等としよう。最終的に完全に平等な社会を目指している人もいるかも知れないが、とりあえず同じ労働に対しては、同じだけの成果に対しては同じ賃金を払うというのは平等への第一歩ではないだろうか。

日本を始め多くの先進国で起こっている問題は、評価の平等のような基本となる平等が無視される一方で、過剰な平等主義が起こっていることである。多くの組織において労働組合の影響で結果の平等が推し進められてきた。一方で、組織間や産業間の平等が無視されてきたために、組織間・産業間においては基本的な評価の平等さえ達成されてこなかった。その結果、社会が労働組合による身分制社会化してしまった。

こうなってしまった大きな原因は、いろいろな主張や考え方は認めてしまったために、一方では組織内では過激な結果の平等主義が蔓延し、他方では組織間では評価の平等のような基本的な平等性さえ否定する言論が蔓延ってしまったからである。つまりは、ある部分では最も極端な平等主義が取られ、別の部分では極端な不平等のあからさまな肯定が見られた。そのため、このような状態によってもたらされた身分制社会を否定し平等な社会に近づけていくためには、評価の平等をまず第一の基本に据える必要があるのではないだろうか。

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不平等と能力

2009年02月12日 | 経済学

正社員・非正社員の問題や貧困問題が相変わらず話題になっているので出来る限りわかりやすく説明してみる。ここでも何度も主張してきたが、現在問題になっているのは正社員と非正社員との間に非常に大きな格差が存在しそれが身分制のようになってしまっていることである。こう言うと、能力差や努力の差もあるから、非正社員にも責任があるという反論が決まって返ってくるのだが、これは単なる論理的誤謬だ。

ここに非正社員と正社員の集団がいたとして、それぞれが上げた成果を比べてみるとしよう。能力差や経験、その他の差があるから同じであるとは限らない。そこで、図ってみたら正社員は150で非正社員は100という平均値が出たとしよう。つまり、比べると正社員の方が生産性は高いがその差は1、5倍であるとわかる。このとき賃金はどうあるべきであるだろうか?当然、1、5倍であるべきであろう。もし、1、5倍よりも格差が広ければ、それは差別的な待遇だといえるだろうし、1、5倍よりも格差が小さければ平等主義的な賃金体系であるといえるだろう。

つまり、今現在問題になっているのは、正社員と非正社員との賃金格差が本来の生産性の格差よりも広いことが問題なのである。能力差や、努力の問題があるとか言う話はまったく無関係である。公平に考えたら、どれだけ社会に貢献したかで賃金水準が決まるべきである。しかし、それが多く貢献しているにもかかわらず賃金が安い労働者がいると同時に、正社員は高賃金が保障されているために、努力や能力に対する賃金に格差が生じてしまっているのである。つまり、非正社員は能力や努力の割りに低賃金で搾取されているのだ。つまり、問題は能力や努力といった要因が関係しているかどうかではなく、能力や努力に応じた賃金かどうかである。

ここの部分をちゃんと論理的に理解して考えないために意味不明な結論に行き着くことになる。努力や能力に応じた賃金というごくごくまともな主張をしているのに、完全な努力をしてきたのかどうかを問い詰められたらどんなに努力してきた人でさえ返答しようがない。論理的に無茶苦茶だからである。とりあえず続く。

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