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テレビや新聞のどこがネットより民主的なのか

2009年02月18日 | 政治

雑種路線で行こうの「テレビや新聞のどこがネットより民主的なのか」より。楠正憲氏はダイヤモンドオンラインの岸博幸氏のかんぽ騒動に関してネットの非民主制を批判する記事に反論している。

日本の民主主義が貧困なのは、戦争に負けても新聞統制の影響を引きずったままテレビにまで敷衍したことにあるんじゃないか。恐らく明治大正の日本には、もっと多様な言論があった。電波利権を論難する池田信夫氏や、痴漢事件で社会的地位を失った植草一秀氏が自由に情報発信でき、政治家が強引な司会に遮られることもなく長文を発表でき、かかる多様な言論に対する罵詈雑言も簡単に参照できるネットは、未成熟ながらもテレビや新聞よりずっと民主的だ。

少し、このことに関して意見を述べる。知識人やマスコミ関係者はいつも多様な考え方を尊重すべきだといつも述べる。しかし、そのように主張しつつ常に極めて特殊な考えを他人に押し付けようとする。この人たちの多様な考えを言うのは私達一般人が考えているようなものとはかなり違ったものなのである。

どのようなものであるかというと、多様な考えを尊重したたった一つの正しいものがあると言うのだ。例を挙げれば、日本を愛したり、国家を大事だと考えることは、日本や国家を重要視しない人もいる状況においては多様な考えを尊重したものではないために問題があるのだ。そのため、他の考え方を尊重した結果、日本や国家を否定することになるのだ。しかし、問題はこのようにすると国家や日本を大事だと思っている人の意見を実はまったく尊重していないし、採用された意見は現在の日本のように中国や韓国といった一部の多様な意見だけを過剰に尊重したものとなっているということだ。

この問題は、現在の日本において顕著に見られるが、それは日本の後進性、非民主制を意味するものではない。むしろ、このような問題はヨーロッパ社会において連綿と受け継がれてきた問題であるといえる。カントが王政等の上からの支配に反対し、それを専制的として全否定し、民主制の絶対的な正しさを主張した後、知識人は他よりも優れているのだからその幸福を優先しなければならないと主張したのは有名である。このようにヨーロッパ社会においては、多様な意見を尊重するために王のような上のものによる支配に反対しされには国家のようなものにも反対しつつ、一部の人間による民主制を支持するということを繰り返してきた。

つまり、このような歴史を考えれば、日本を非民主的後進的と非難するのは本当に正しいのだろうかと思えてくる。実際、本当の意味で民主的な社会を全世界に創出する過程において日本が果たした役割は見逃せない。第二次大戦前に、ヨーロッパによる植民地支配に反対し人種の平等を主張し、真に民主的な世界を推進しようとしたのは日本人だった。つまり、日本は歴史的に見てある意味民主的な思想において中心的な役割を果たしてきたといえる。その中で、知識人やマスコミは逆にこのような日本の民主的な資質に憎しみを抱いているのではないだろうかとさえ思えてくるのである。

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