青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

信じる者こそ、救われる。

2013年05月22日 22時40分51秒 | 青裸々日記。
紫蘭の花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「信じる者は、救われる」と言います。
 この言葉、宗教じみていて、聞いただけで嫌悪感を覚える方もいらっしゃるでしょうが、
 厳然とした事実なのです。


 たとえば、誰かから「10日後に、いい内容の手紙を渡します」と言われたとします。
 そこでなんですが、「いやいや、ウソこけ、そんな話なんかあるわけないでしょ」と、
 はじめから疑って、受け渡す場所に行かなかったり、ポストを開けなかったりすれば、
 どんなにいい手紙が用意されていようと、受け取るのは不可能ですよね。
 だから、「約束は守られる」と信じてはじめて、手紙でもなんでも受け取ることができるわけです。



 それでは、どうして信じることが難しいのか。
 それは、一言で言えば「恐れ」です。
 「恐れ」が、信じる気持ちをおかしくさせてしまうのです。


 誰だって、一度や二度は、裏切られたり、傷つけられたことはあるでしょう。
 そうすると、「二度とあんな辛い思いはしたくない」と、信じることを止めてしまうのです。
 これ、以前に裏切られた経験が凄惨なものであればあるほど、うたぐり深くなってしまうのですね。



 でも、気付いていただきたいんです。


 信じれば、幸せは手に入るかもしれませんが、
 信じないことには、幸せは手に入らない
のです。
 信じて傷つくのは不幸なことですが、信じられないことも、実は不幸に代わりはないのですね。
 ここを分かっていただきたいのです。


 わかります。
 たとえば対人関係の場合ですが、
 人に気を持たされたりすれば、気分も良くはなりますが、
 同時に恐れも起きてしまうでしょう。
 期待が大きいということは、リスクを背負うということと、同じ意味でもあるのですよね。


 しかし、ここで立ち戻って考えてみましょう。
 自分が本当に欲しがっている未来があるのなら、その実現を信じ続けるからこそ、
 それだけのものが来た時、受け取ることができるのです

 せっかく明るいものを欲しがっていながら、半信半疑でいては、
 受け取り方はどうなるか

 信じているから、明るい未来、あったかい未来を受け取れるのです



 なんでも信じろとは言いません。
 でも、信じたい気持ちが、未来を明るくするのは、間違いないようですよ。

スカイツリー

2013年05月22日 11時37分40秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 私は東京を歩く時、最後はどうも、スカイツリーに寄ります。


 そんなスカイツリーも、今日で開業一周年。
 上ったことはないのですが、一度は見に行きたいです!!


 またソラマチに行きたいなー。


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一筋の光

2013年05月21日 05時48分45秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 西立川駅からの一枚です。


 おそらく夕陽が雲陰に隠れた後なんですが、
 雲間からの光が、なんとも幻想的でした。



 なんだかご利益がありそうじゃないですか?

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クリスマスローズ

2013年05月20日 06時26分30秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 花としては珍しい、緑色の花です。
 「クリスマスローズ」といいます。
 なんだか新鮮ですよね。


 冬頃から咲いてたらしいですが、つい最近まで気づかなかったなあ・・・。
 日比谷公園で撮ったんですが、また見に行きたいです(*^_^*)

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一緒に笑うということ。

2013年05月19日 23時03分10秒 | 青裸々日記。
ポピーの花(東京都千代田区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人の居心地を良くするには、一にも二にも、相手の意見や存在そのものを認めるに限ります。


 こう言うと、「なんだ、簡単じゃないか!」という気持ちにもなるでしょうが、
 ところがどっこい、実践となると、なかなか一筋縄でいかせるには、訓練が必要になってくる部分もあるのですね。


 たとえば、誰しも理屈だけで動いているわけではありません。
 自分の決断が、気分や体調、環境に左右される部分もあるでしょうし、
 場合によっては、気に入らないことをされる場合もあるでしょう。
 問題なのは、まさにそういう人を相手にした時で、
 「不服を訴えてやろう」とか、「説教のひとつでも」などと、
 こちらがいかに正しくて、相手がいかに間違っているかを、相手をひっ捕まえてでも、言い聞かせてやりたくもなるものですよね。
 まして、こちらに非がないのに不愉快な思いをさせられでもしたら、
 無念を晴らそうとか、仕返しでもしてやろうとか、
 どんなに器が大きい人でも、一度は思うものです。
 (むしろ、それで自分が嫌な思いをしなかったら、人にも平気でやってしまいかねません)。
 そこでまあ、一度や二度は、人につらく当たってしまうのもまた、内容によっては無理のない話ではないかと思うのですね。



 しかし。


 相手の居心地をよくして、仲良くするために大切なのは、果たして正しさを競うことなのだろうかということです。
 正しさを競わせ、戦わせて、それで空気や雰囲気が良くなるのなら、誰だってそうしてますが、現実はどうでしょうか



 本当に望んでいることは、そこにいる相手と仲良くいい関係を育んでいくことではないですか
 あくまで「正しさ」が必要になるなら、それは、例えば「身体に悪い食べ物を口にする」などといった、
 お互いが悪い道に走り、堕落していく時のみです。
 逆に言えば、たいていのことは、相手を突くことに意味はなく、
 むしろ、楽しい時間を減らす結果が出来てしまうだけです。


 論破して仲良くなった例があったら教えてほしいと思いませんか
 人っていうのは、それぐらい、自分の意見というだけで、それが正しいかどうかは関係なく、こよなく大切に思っているものなのです


 自分なら、どんな態度だとホッとできるか。
 そんな考え方をすれば、正しさよりも許すことを選んでいけるはずです。

根津神社から

2013年05月19日 11時25分48秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 先日、根津神社に行ってきました。


 ただ、先日といってもかなり前の話で、つつじまりつの写真を載せる前にシーズンが終わってしまったという大失態・・・。

 とりあえず、神社の空気が伝わるような写真を載せますので、ご覧くださいませm(__)m


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やり取りはやわらかく。

2013年05月18日 23時38分52秒 | 青裸々日記。
金魚草の花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人に優しくしてもらえるかどうかは、自分こそ人に優しいかどうかで決まる側面があります。


 たとえば、自分の意見を言ったとします。
 そうすると、受け入れてくれる人もいれば、浮かない顔をして、ちょっと否定してくる人も出てきます。
 そこでなんですが、この「浮かない顔をした人」に話をわかってもらうには、根気なりなんなりが必要になるわけですが、
 往々にして、話が通じなければ通じないほど、言葉や語気も荒くなります。


 だからこそ、人の言うことややることを、「そんなこともあるよね」とか「絶対に事情があるはずだ」と、
 なるべく認めて、理解してあげる方向で構えていれば、
 相手だって強く出る必要もなくなりますから、優しくしてもらえる可能性だって、本当は上がるのです。



 世の中、理不尽なこともあれば、納得がいかないこともあるでしょう。
 それに、たくさんの考え方や価値観があります。
 そんな中で、いちいち突っ掛かるような真似をすれば、
 我を抑えるだけで、多くの人から攻撃されるリスクを減らせるのです。


 ここで大切なのは、姿勢の問題です。
 相手を理解したかしなかったか、どれくらい完全にわかってあげられたかではなく、
 わかってあげようとする態度があったかなかったか、それだけの話なんですね。
 人に対する態度が優しく受容的だと、「この人ならわかってくれるかも」と、無駄な力みがなくなります。
 しかし、はなから受け入れる態度がないと、どうにかして分からせようと力ずくで来られたり、下手をすれば話すらされないことにもなってしまいかねないのです。


 もちろん、譲れない一線というものがあってもいいと思いますし、
 あまり見下されるようなら、それこそこちらから強く出ていかなければいけないこともあるでしょう。


 しかし。
 基本的に、優しい人は器が大きいがゆえに、人に強く出られにくいというのが、事実であり、盲点なのです
 そんなつもりはなくても、強情で分からず屋の人ほど、やっぱり強くやられやすいのです



 優しさは自分も人も幸せにしますし、無駄な力が掛かりませんから、それだけ強くいられることにも繋がります。
 どうか、意思のやり取りは、思いやりを持ってやってみませんか。

大きなバラ

2013年05月18日 06時33分11秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 いかにも挿し絵や背景、イラストになるような撮り方をしてみました。
 一眼レフでよかったと思う一枚です(*^_^*)



 バラはやっぱり、赤いのがいいですね。
 いかにもって感じかして。



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未来の新幹線

2013年05月17日 06時22分56秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 東京駅の新幹線ホームに行くと、そこには新型新幹線のコラボが。


 強烈で個性的で、でも凛々しい姿に、多くの人がカメラを向けていました。
 いつかは必ず、乗りたいです!


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「癒し」とは、認めること。

2013年05月17日 00時01分28秒 | 青裸々日記。
代々木公園のバラ(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 少しだけ、抽象的な話になります。


 「癒し」という言葉が出て久しいですが、
 それだけに、色々なことを「癒し」と呼べるようになった側面があります。
 逆に言えば、「癒し」とはなんなのかがわかりにくくなってしまった、こういう見方もできると思うのですね。


 しかし。
 「癒し」というのは、本質は簡単です。
 「本来の自分を取り戻す」ということなのです。
 本来の自分というのは、無理をしない自然な自分、
 具体的には、無理のない性格やペース、五感でいられることを言います。

 逆に言えば、いつも無理なく自然体で、本来の自分でいられれば、
 癒しなんて、必要もないわけです。
 ところが、現実には、いつも素のままでいれば、衝突や消耗も激しくなってしまいます。
 「一つの意見を言うこと」だけを例に取り出して考えても、
 言い方や伝え方、タイミング、ケアやフォローにどれだけ工夫を加えるかで、
 起こる現象も、全く違ってきますよね。
 そして、だからこそ、人は、内側の世界を上手く外側に出す、あるいは隠すために、
 色々我慢をしたり、オブラートに包んだりして、その場その場に適応して、生きているわけです。



 しかし、です。
 適応するために色々やっていくうちに、自分の気持ちがわからなくなってしまったり、苦しいには苦しいけど原因がわかりにくくなったり、
 つまり、普通に生きているだけだと、自分の内側がとんな風になっているかが、把握できなくなってしまうのです。

 そこで、自分の中には色々な気持ち、
 特に、人には見せられない気持ちがどこにどれだけ溜まってしまったかを見ることで、
 本来の自分の姿に、蘇っていくわけです。


 ところが、これがなかなか難しくて、やりずらいのです。
 なぜなら、ネガティブな気持ちやエゴ丸出しの本音があるなんて、なかなか認めたくないのが人情だからです。
 まさか自分にそんな卑しい気持ちがあるなんて認めてしまったら、自分のしてきた努力や美点が水の泡になってしまうと考えてしまうからです。


 しかし、ちょっと待ってください。

 自分の卑しさといっても、それを認めたところで、美点が失われるわけでもなければ、苦しみが増えるわけでも、実はないのです。
 自分に蓋をするから、どこか自分をごまかしてしまい、結果的に苦しくなるのです。
 だから、認めてしまいましょう。



 「卑しさがあってもいい」と見つめるのが、癒しの本質の一部です。
 こんなダジャレでも、癒しのヒントになればと思います。

キンギョソウ

2013年05月16日 06時25分51秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 この色とりどりの花、「キンギョソウ」って言うみたいです。


 以前から名前が気になっていたのですが、プクーっとした形を見ると、なんだか納得ですよね。
 カラフルなキンギョソウ、今度はまた、名前を意識して撮ってきたいです。



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余裕を持つ余裕。

2013年05月15日 23時33分21秒 | 青裸々日記。
クロッカスの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 皆さんが「余裕がないなあと思う時」は、どんな時でしょうか?

 時間的、物理的な意味での余裕のなさを挙げる人もいると思いますし、
 精神的、心理的な窮屈さを感じている人も、もちろんいるでしょう。


 しかし。

 余裕を手に入れるには、一個、大切なことがあるんです。
 それは、「余裕は後から勝手についてくる」ということなんですね。


 たしかに、本当のことを言えば、「余裕」は、勝手に出来るものもあれば、意識して作り出せる場合もあるでしょう。
 しかし、ちょっと想像していただきたいのですが、余裕を作ろう作ろうと必死になっている人って、本質的には余裕がないんじゃないかって、思えたりもしませんか?
 「余裕があるかどうかはよくわかんないけど、まあ、だいたいこんなもんかな」と、
 「余裕」をいちいち意識することなくゆるーくやっているくらいが、本当は余裕があるんじゃないかという気が、私にはあるのですね。



 余裕を持つ大切さは、皆さんよくご存じのはずです。
 しかし、なかなか余裕が持てないことそのものがどうしてか、ここが盲点になっているから、
 現実に余裕を持って生きることが難しくなっているわけです。


 余裕を作るなら作るで、労力が要るのです。
 その労力を生み出すために、余裕をなくしてしまうから、「やっぱり余裕なんて難しい」ということになってしまうのです。

 本当の意味でゆったりと構えていたいなら、余裕がどうとか、あまり意識しないことです
 苦労の先に、余裕がある保証はないのです。

 ゆったりゆるーくやる目的についてもそうです。
 「こういう状態でなきゃいけない」という執着が、力みを生み、かえって欲しい状態が遠くなってしまうこともあります。



 いずれにしても。

 輝かしい理想が、そのつもりはなくても、かえって自分を縛ることに繋がる場合があります。
 「余裕」とか「ゆとり」は、その最たるものです。
 むしろ、「ゆとりなんかなくってもいいや」ぐらいに割り切ってしまったほうが、
 気持ち的には、ゆったり構えられるのかもしれません。



 何を目指すのも自由です。
 しかし、目指す気持ちが、はたして自分を本当に幸せにしてくれるのか、
 たまには外から眺めてみることがあっても、いいのではないかと思うのです。

KITTEから

2013年05月15日 05時33分58秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 今日は、東京駅前で再開発されたKITTEからの一部をご紹介します。


 最近ありがちな商用ビルでありながら、随所に「郵便局」らしさがあります。
 なかなか賑わっていましたよ。
 さすがは「KITTE」というだけありますね(笑)



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本日の投稿について

2013年05月14日 23時38分21秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 今日は文章がまとまらず、投稿は明日以降になりそうです。
 お待ちいただいていた皆様、申し訳ありません。


 最近はくたびれてそのまま寝てしまう日もあり、未熟さを痛感しています。
 早く成長した姿を、皆様にお目にかけたいと思います。

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