カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

名古屋城。

2013年03月09日 20時27分59秒 | 日記 / DAIRY
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」
と伊勢音頭にも詠われている。

徳川家の威光を表すためのものとして、
大天守に上げられた金の鯱は名古屋の象徴にもなっており、
通称「金鯱城」や「金城」とも呼ばれる。



1612年当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、
純金にして215.3Kg金が使用され、高さは約2.74m。

その後、藩財政の悪化により、1730年、1827年、1846年に金純度を下げ続けた。
最後には光沢が鈍ってしまったので、金鯱の周りに金網を張りカモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止や鳥避けのためとされ、戦災で焼失するまで取り付けられていた。
復興天守建造の時、一対に使用された金の重量は88Kgであった。

サッカーJリーグの名古屋グランパス、
名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」で、
これは広義でシャチを指している。

このように・・場内にはコスプレの方もおわしていた。
               
 

織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、
徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

大小天守や櫓、御殿の一部は1945年の名古屋大空襲によって焼失した。
戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。
1532年、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。

織田信長はこの城で生まれたと言われている。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、
1555年、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城となった。

大天守の高さは55.6mで18階建ての高層建築に相当する。
高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、
延べ床面積では4,424.5平方mで、
内部には1759畳の大京間畳が敷き詰められていたと言われている。

名古屋城
(PHPムック)
西ヶ谷 恭弘
PHP研究所


 
               
これは加藤清正が運んだと言われる石垣の大石であるが・・
説明書には「単なる伝説であろう。」と書かれていた。

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コメント
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