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Sunset Cafeへようこそ

いつか、夕日の美しい絶景の地にカフェを・・と願う私のバーチャル・カフェ。未知の音楽と人との出会う場所。

冨士の見える海、 少年時代、毎日ここでよく泳いだが・・。

2012-01-30 21:26:42 | 私が少年だった頃

(2012.01.29 静岡県静岡市清水区折戸)

故郷を訪れた折、無性に懐かしい海を見たくなって、法事の席をそっと抜け出し、海へ急ぎました。
この海岸のことを、50年前も今でも、土地の人は海・海岸と言わず、「ハマ」と言っています。

このハマでは実によく遊びました。
波打ち際から急に深くなっており、波も荒く、危険なために、かなり以前から遊泳禁止になっています。
このハマで私は何度溺れ死にかかったことか・・。
波打ち際の強い巻き波にゴロゴロと体を揉まれ意識を失いかけたり、引き波に足をすくわれ背の立たない深み
までさらわれたり・・。
それでも1日過ぎると、溺れ死にかけた恐怖よりも、海で友達と遊ぶ楽しさが勝って、自然に
足が海に向かってしまう毎日でした。
それにあの頃、親も決して「危ないからハマで泳ぐのはやめろ」とは言いませんでした。不思議なくらいに。

冬や春には、このハマで釣りをしたり、広大な砂浜で野球をしたり、凧揚げをしたり。
時にはよその畑のサツマイモを勝手に収穫して、ハマでヤキイモにして食べたり(もう時効だよね)。

あれから50年、いや60年近くか・・。
ハマはうんと変わってしまいました・・・悪い意味で。

かつての美しい白砂青松の海岸線は、テトラポッドだらけ。
ハマへ下りる砂の丘はコンクリートの護岸と化し、広大な砂浜は波で削り取られ海に浸食され、昔日の面影は
ありません。その変貌は経済成長の結果のその代償とも言えるものであることを私は知っています。

少年時代の私を育んでくれ、甘美な思い出に直結する懐かしいハマ。
そのハマが海に沈み、波打ち際はテトラポッドだらけになり、変貌してしまった海岸線を見て、
楽天的な私もかなり暗然とした気持ちになりました。

俺のハマを返してくれぇー。

私の育った方言

2011-02-01 19:13:27 | 私が少年だった頃

(2010.01.30 静岡市清水区・石垣イチゴ)

私の少年時代。
豊かな自然環境に恵まれ、海ではガキの私でも数時間でコアジがバケツ一杯釣れました。
海は透き通っていて、海中で魚が集まってくるのを上から見ながら釣りました。
天然のカキは取り放題、イチゴもミカンも近所の人から断りきれないくらい入ってきます。

夜ともなれば、満点の星空。
まるでプラネタリウムのように、夜空一杯に星がまたたき、天の川(あまのがわ)が降るような迫力で
頭上でまたたいていました。

私達は、家庭でも学校でも「日常公用語」である、この地方独特の方言で生活していました。
(それが方言であり、東京の人には通じない言語だという事は、のちに知りました)。

少年時代の私や私の家族が日常使っていた言葉の一部はこんな感じです。
  。ひどろしい      (眩しい)
  。ぼったってる     (ボーと立っている)
  。・・・ずら      (・・・でしょう)
  。いしゃしい      (久し振り)
  。あの人        (あのやん)
全体的は会話としては、こんな感じになります。
  。おらんちん嫁っこん、東京からきたっけえが、こっちん生活にだいぶ慣れてきたっけよ~。
   (私の嫁は、東京から来たのですが、こちらの生活にだいぶ慣れてきたようです)

日常の会話では、単語と単語がつながることが多く、これはフランス語のリエゾンを彷彿とさせます。
そのため、土地の人たちが早口で話すと、東京から来た人はヒアリングが出来なくなり戸惑うことに
なります。




サザンカの咲いたみち

2011-01-28 20:59:53 | 私が少年だった頃

(2011.01.28 文京区目白台・フォーシーズンズホテル)

神田川沿いの冠木門から、ひょいとフォーシーズンズホテルの庭園に入ると、ロウバイが今が盛りと
沢山咲いていました。
そこからホテルの建物に通じる小道は、片側が見事なヤブツバキとサザンカが咲き乱れています。

「そうか、あの頃、学校の行き帰りに歩いたのも、こんなサザンカの道だったなあ・・」と、
少年時代の1シーンを思い出して、しばし感慨にひたりました。
つい一昨日、東京にいる小学校のクラスメート数名が集まり、一杯飲みながら楽しいひと時を過ごした
のですが、まだその余韻が続いていたのでしょう。

    さざんか さざんか 咲いたみち
    たき火だ たき火だ おちばたき
    「あたろうか」 「あたろうよ」
    しもやけ おててが もうかゆい   

あの頃・・・。
終戦からまだ数年後で、田舎とは言っても食べるものも十分ではなく、そのせいでしょうか、私などは
真冬になると、両足がアカギレやしもやけで、とても「痛かった冬」の記憶があります。
しかし同時に、放課後は、暗くなるまで汗だくで裏山を縦横に駆け回って遊んだ暑い冬の記憶も・・。
ある意味、あの頃は大人も子供も、あらゆる物が欠乏し不足していましたが、逆にほんの些細なことでも
とても大きな喜びに感じられた時代でした。

あのような少年少女時代をおくれたというのは、とてもとても幸せなことだったと思います。


イチゴでおなか一杯!

2010-02-02 21:02:25 | 私が少年だった頃

(2010.01.31 静岡市清水区増村)

駿河湾に面した快適なドライブ道路・「いちごライン」は新幹線静岡駅南口からですとタクシーで約10分。 
駿河湾に突き当たる信号を左折すれば、右手に海を見ながら久能山東照宮(徳川家康の墓所)を経て、沢山のイチゴ農園の並ぶ地区を経てそのまま進めば三保の松原に至ります。

私達は増村(ぞうむら)の「なぎさ園」という看板のイチゴ農園に入りました。
いちご狩りの料金は時間制限なしで一人1,800円也(良い値段なのに一寸ビックリ)。

私の通った小学校はここから800m位離れていますが、放課後にこのあたりまで足を延ばして荒らしまわった記憶がウッスラあります。
それは約55年くらい前のことでした。
もちろん現在のような観光いちご農園はなく、このあたりは寂れた寒村風景でした。
小学生の私は他の悪童たちと旧日本軍が築いた砲台後を探検したり、ミカン山でみかんを盗み食いしたり、戦争ごっこをしたり、大人たちの
目をかすめて資材を集め自分たちの巣窟を作ったりして連日暗くなるまで遊んだものでした。

終戦後間もないあの頃、大人たちも生きていくのに必死で子供にかまうヒマはなかったのでしょう。
まるで「トム・ソーヤーの冒険」みたいに、毎日、海に山に遊びまくって時間を過ごしていた記憶があります。

石垣イチゴはその頃にこの地区で徐々に普及し始めたようです。
もう忘れかけた少年の頃の思い出が、甘いイチゴの味と混じって私を包みました。




ナスの花を見て思うこと

2009-06-22 21:56:53 | 私が少年だった頃

(2009.06.21 静岡市)

そぼ降る梅雨の中を法事で田舎へ行ってきました。
姉たちとの話題は自然に少年少女だった「あの頃」の話題になりました。

「あの頃」・・・。
それは今から50~60年前の、丸いちゃぶ台を囲んで七人家族がつつましく楽しい毎日を過ごしていた頃です。
幼い私の役割はちゃぶ台にお箸や食器を並べることでした。工場から自転車で父親が帰りちゃぶ台につくと、家族全員が「いただきまーす」と食べ始めるあの食事。
時々聞こえなくなる真空管式ラジオからは,海外の戦地から復員した人の消息を気遣う「尋ね人」の放送や、「笛吹き童子」などの放送が流れていました。

あの頃、家族は互いに助け合って必死に生きる努力をしていました。
2才上の姉は食材調達係り(と言っても小学生です)。
独特の嗅覚を持っているらしく、自宅からすぐ近くの海辺へ行って、アサリ、牡蠣などを拾ってきて夕食の立派なおかずとします。
冬には海苔まで作ってしまうほどです。
私もアジ、サバなどの小魚を沢山釣ってきました(透き通った海からごく短時間でバケツ一杯程の魚が釣れたものでした)。
井戸からの水汲み、燃料用の木切れや松葉などの確保(これも近くの造船所や林から拾い集める)も私の大事な役割でした。
お風呂のマキを燃やす番をしながら、「二都物語」や「プルターク英雄伝」を何度も何度も読み耽りました(ちょっとませた小学生でした)。

自宅裏の空き地でサツマイモ、ネギ、枝豆、トマト、ナス、などを栽培しましたがこの農耕作業は母親と私の二人が中心でやり、収穫のときは家族全員で大はしゃぎしながら楽しかった記憶があります。
父親は工場務めで日曜日しか家にいないので、小学生の私が石ころだらけの畑を隅々まで三本歯のクワで耕しました。
私が今でも足腰が丈夫なのは、あの頃の百姓仕事で鍛え上げたその貯金が残って居るからかも知れません。

姉たちとの懐かしい「あの頃の話し」をそっと脱け出して、裏手の畑を覗いてみました。以前に比べるとほんの僅かな面積しかない畑ですが、ナスとトマトが植えられていました。どこにでもある変哲も無いナスの花です。が、ふと、梅雨の合間に可憐な花をつけたナスを見て、「あの頃もこの花を見てナスを育てたりしたんだっけ?」と、過ぎてしまった数十年を思ってとても懐かしいな気持ちがしました。


雨の中、久しぶりに郷里へ。

2008-06-22 23:19:41 | 私が少年だった頃


雨の休日、新幹線と東海道線在来線を乗り継いで郷里を訪ねました。
郷里の家の玄関先に美しい花が雨に打たれて咲いていました。薄紫色の
その花は降る雨をたっぷりと細い花弁に受け、少し頭をかしげていました。
花の名前は・・・? 妹に聞いたのに忘れてしまいました。

私はここで高校を卒業する18歳まで過ごしました。
今では少年時代の記憶はどんどん風化し、町も通りも懐かしさを感じるよりもその変貌の凄まじさには
浦島太郎のように驚くばかりです。
それなのに、雨の中で咲いていた可憐な花を見て無性に郷愁を覚えたのはなぜなのでしょう?
そんな筈はないのに、少年の頃にもこの花を一度見たことがあるような気がしました。

もしかしたらそのときも今日のような雨が降っていたのかも知れません。

あの頃の食生活

2007-02-20 19:24:43 | 私が少年だった頃


昭和20年~25年頃(私の3才~8才頃)、あの頃の我が家での食生活について
考察してみたいと思います(それほど大げさなものではないけど)。

現在と大きく違う点は、日本全体が敗戦直後のため、社会的インフラが壊滅して
やっと再建が始まったばかりだったことです。
バスが通る幹線道路も舗装されておらず穴だらけ。どうにか電気だけは各家庭に
来ていましたが、夜の停電は日常茶飯事でロウソクが必需品でした。
水道も都市ガスも来ておらず、煮炊きやお風呂は拾った薪をくべ、水は井戸から、
冬の暖房は囲炉裏(いろり)の炭から・・(江戸時代と同じだ!)。
スーパーなど日本中に一軒もなく、買い物は近所の個人商店(お米、味噌、醤油
は、マスで量り売りでした)。

そんな中、その頃の我が家では出来るだけ自給自足(ありていに言えば、カネをかけない)が基本でした。

(煮炊き)
燃料の薪は裏の松林で枯れ枝や松ボックリ、松の落ち葉(その頃、コクモーと
言ってました)を連日のように私が拾ってきます。
それを使って、2連式のカマド(又は、へっつい)でお米を炊き味噌汁を
作ります。落ち葉や枯れ枝を燃やし、へっついで炊いたゴハンはふっくらと
炊き上がりオイシイのですよ。私はオコゲのおむすびが大好きでした。

(おかずや副食など)
冬場は私の姉が内海へ行って大量の牡蠣(カキ)を拾ってきます。
養殖の牡蠣のこぼれたのが浅い海辺で繁殖し、食べきれないほど採れるのです。
姉は又、海苔採りとアサリ採りの名手でもありました。
私も連日のように内海でアジなど小魚をワンサカと釣ってきたものです。
また、あの頃はシラス漁もやっていて網を引くのを手伝うと、バケツ一杯の
獲れたてシラス(透明がかって、白くない!)をタダで貰えました。
たまにはその場で釜揚げにしたシラスを酢醤油でドンブリからズズーと
食べたり・・(これを書いていて無性にシラスを食べたくなっちゃいました!)。

春先に自宅に隣接した畑にイモを植え秋に収穫すると、冬も土の中にムロを
作って保存しながら食べます。イモはほぼ毎日のオヤツでした。

その頃の少年時代の体験のせいでしょうか、今になっても私の大好物は
カキフライにアジフライ、シラス、蒸かしイモ、などであります。
収穫に苦労させられた枝豆は今でも嫌いで、飲み屋さんでも絶対注文しません。

あの頃、僕達は生き生きと遊んだ!

2007-02-18 23:32:28 | 私が少年だった頃


私の少年期(昭和20年代)、海辺の田舎町でも、終戦後の混乱と新しい秩序が
共存し面白い時代でしたね。

学校の放課後や休日など、「寸暇を惜しんで」友達と遊びまくっていました。
そして、遊びすぎてつい時のたつのも忘れ自宅へ帰る時間が遅くなり、父親から
バシバシとぶん殴られる事が多かったです。
(あの頃、父親は鬼のようにこわい存在で、戦場から生還したばかりの父親は
気性が荒く、すぐにゲンコツが飛んで来たものでした)。

それでも友達との遊びは、今考えてもスリルと冒険に富み、その時間のために
毎日があるといっても過言ではないほどでした。その遊びは、同年代の数人が
群れるのではなくて、5年生位のワルガキがリーダーシップを発揮し、
ずっと年少の私達も一緒になって20人ぐらいの子供達が全員で遊ぶのでした。

(トロッコ遊び)
休みの日、海辺の造船所跡地へもぐりこみます。
広大な漁船の修理工場には、縦横にはりめぐらされたトロッコの軌道があり、
猛スピードでトロッコを走らせ、追いかけゴッコをします。
カーブのところで曲がりきれず、トコッロもろとも放り出されたり・・・。
危険きわまりない遊びで、小さなケガはしょっちゅうでしたが、不思議に
大きなケガをする子はいませんでした。
(戦争ごっこ)
20人位が二つの敵味方に別れ、本物の戦争のように陣地取りをします。
自宅近くに格好の雑木林があり、竹などで簡単な小屋まで作ったりしました。
夏みかんをぶつけあったり、竹の棒で本格的なチャンバラをしたりと、
かなり荒っぽい遊びでした。
敵につかまり捕虜になったり、敵軍に寝返ったり、と本格的でしたが、たまに
大将同士が素手の殴り合いになって鼻血を出すまでやりました。
もちろん、先に泣き出したほうが負けです。

大きな波に揉まれながらの浜辺の水泳、静かな内海での釣りや小船のスピード
競争(牡蠣の養殖に使う小船を無断で拝借)、人の居ないミカン山で廃材を
利用して遊び小屋を作ったり・・・。

今考えると、あの頃は僕達ワンパクが遊ぶ広大な野山、秘密めいた廃屋や冒険心
をくすぐるネタが身近にワンサカ溢れていた。
あれはきっと終戦直後のエアポケットみたいな、今では二度と戻りたくても
戻れない、素晴らしい数年間だったんだろうなあ・・・。

豊穣の海の思い出

2007-02-14 11:53:53 | 私が少年だった頃

(2007.02.13 葛西臨海公園水族館)


少年時代(昭和23年~30年頃)の私にとって、この世界は未知の可能性に溢れ、心ときめく冒険に出会う毎日でした。
家も学校も、海と山の両方に近く、広い浜辺やみかん山を舞台にアウトドアの遊びに明け暮れていました。

中でも海は生活と密接に結びついていました。
私が育った家は、外海に突き出した細長い砂嘴の付け根部分に当たる所にあり、
その関係で、荒波が打ち寄せる外海(太平洋)の浜辺には徒歩10分、プールの
ように静かな内湾へは徒歩2分、という好立地でした。

静かな内海は私達わんぱく坊主の遊び場だけでなく、終戦後の食糧事情の悪い
我が家の食卓をしっかりと支えてくれた台所みたいな存在でもありました。
私が釣ってくる大量の小アジ、姉が持ち帰る海苔やカキなどが主で、自宅では
食べ切れなくて近所に配る位に大量に収穫がありました。
(アジフライについては、少年時代によく食べた新鮮そのもののその味のせいか、私は今でもアジフライが大好物です。 
居酒屋へ行くとついメニューから
「アジフライ」という字を追ってしまいます)。

波のない海は澄んでいたので、「見釣り」をよくやりました。
牡蠣殻を細かく潰し、「コマセ」としてばら撒くと、やがて何百匹というアジが
狂乱状態になって集まってきます。船上からその様子を肉眼で確認しながら、
集まった群れの中にポトリと仕掛けを降ろすと、アッと言う間に小アジが
釣れます。魚が釣れる瞬間を目で見ながら、その衝撃を手に感じながら釣れた
魚を手繰りよせるのは凄い快感です!

不遜かも知れませんが、今でも水族館で大量のアジやカツオなどの回遊魚が
ガラスの水槽の中を泳いでいるのを見ると、つい、「おいしそう!」と
声がでてしまうのです。


ラジオだけだったあの頃

2007-02-09 23:12:29 | 私が少年だった頃



私の少年時代、日本にはまだテレビというものはありませんでした。
他の家庭と同様、我が家にもオンボロの真空管式のラジオがあり、夜は家族が
お茶の間に集まり、ラジオを聴きながら時間を過ごしました。

今でも記憶に残っているその頃のラジオ番組は、
・尋ね人の時間
・「笛吹き童子」
・「鐘の鳴る丘」
の3つです。

中でも「尋ね人の時間」は毎日夕方、暗くなる頃に始まり、アナウンサーが
尋ね人の情報を延々と読み上げる放送番組で、殆どが終戦の混乱の中で生き別れに
なってしまった親族、友人、などの連絡を求める内容が多かったような
覚えがあります。
「これは何の放送?」と私が母親に尋ね、放送の意味を教えられ、幼心にも
衝撃を受けたのでしょう。
私はいまだに、あのアナウンサーが「元満州・ハルピンで・・・・」と行方不明
の人の情報を読み上げる、その口調を思い出せるくらいですから。

画像がなく、声だけが流れてくるラジオ放送は、否応なしに私達に様々な
イメージをふくらませます。
そのせいか、私は今でもテレビよりもラジオ放送の方が好きです。