独断と偏見による日本無宗教論:かる☆すた

2019-08-04 11:30:26 | 宗教分析

きんどーちゃん=K   トシちゃん=T

 

K
こないだ大島薫の対談集を買ってしまったぜ(●´ω`●)

 

T
おいおい、また本が増えるじゃあないか。直感に任せて動かず、加減というものをだな・・・ 

 

K
これが表紙じゃ

 

 

 

T
あ、これはしょうがねーわ(自己正当化)(●´ω`●)

 

K
やろ~(・∀・)で、この中でも出てくるけどさ、「LGBT」ってひとくくりにすること自体無理があるよな。

 

T
そりゃそうでしょ。「~人」とか「・・・教徒」といった括りでもその中身には幅があるのに、どうして「LGBTだと同じ」ってことになるのか。

 

K
「マイノリティにラベルを貼り付けてわかった気になる」っていうのはよくある思考パターンやな。 

 

T
まあカテゴリーを作ったのも連帯を目的としたマイノリティ側の便宜的側面があるだろうから、どっちもどっちな部分はあるけどね。ただ、俺にとってはLGBTに差別的な眼を向けるのはよくわからんのよな。なるほど、「伝統とかどうでもよくて、とにかく自分は嫌いなんだ」ていうのならまだわかる。だけど、伝統が重要とか言ってる人たちがなんで攻撃するのかは謎だぜ。

 

K
伝統ってことなら、衆道も陰間茶屋もあったし、伊勢参りにはお付きの男装女官もいたわけだしねえ。さらには夜這いに筆おろしも存在していたわけで、なかなかのバーリトゥードっぷりを日本は発揮しておったんだけどなwそれを知ってか知らずか批判するのは、「伝統」とか言いつつ西欧的価値観に飼いならされとるんちゃいまっか~(・∀・)?と聞きたくなるね。まあ思うに、「伝統」を称揚したり日本の固有とかいって賛美するのは、そう言うと不全感を持ってる人たちを糾合できるからでしょ。だから不全感解消の妨げとなるマイノリティは切り捨てる方向に動くって寸法さ。

 

T
そういうベクトルは日本の宗教に関しても思うよ。神仏習合が伝統のように言いながら、明治の神仏分離令は華麗にスルーだしね。また神仏習合が日本の特殊性みたいに言うケースも見られるけど、そもそもインドのヒンドゥー教は仏教なども取り込んだ形で成立しているし、かつ韓国の仏教寺院にもシンクレティズムの要素って見られたりするんだよな。それらを等閑視して日本特殊論をぶつとか、明治期の脱亜入欧的視点が無意識のうちに続いてんだなーとしか思えねーわ。

 

K
ああそうそう、宗教で思い出したんだけどさ。中学の時に見たエヴァンゲリオンに関して、「シンジたちは自分のことだ」みたいなハマり方が理解できなかったというか、ついていけなかったって話したやん。

 

T
お、おう。

 

K
当時は理由がわからんかったけど、これって自分と親(or世間)という風に二項対立的な理解の中で苦しめられている人たちと、宗教や「世間」に距離感を持ち、親・教師にも距離感を持っていた俺のプリズム的な考え方・価値観が影響しているんじゃないか、と今では思うわけよ。

 

T
え、つーか自分の話もう一回やんの!??

 

K
おっ、そうだよ(便乗)

 

T
まずいですよ!・・・ってこういう茶番やってるから先に進まねーんだろダボカス(# ゚Д゚)

 

K
まあまあ。東方で言えば撃ち合い前の準備体操みたいなもんだからさ(・∀・)

 

T
永遠の準備体操・・・輪廻、永劫回帰、ウゴゴゴゴ・・・

 

K
ラリってるうちに話を戻すぜ┐(´∀`)┌意識的だったわけじゃあないが、身近にあった宗教に関して色々な疑問を考えてるうちに、親の言っていることも絶対じゃないし、世間の人間も宗教は否定しながら無根拠でおかしなことを言っているし、学校の教師も言ってることが欺瞞に満ちてるケースもあるし・・・ていうような違和感とか疑問がすでに小学校の頃にあったわけだ。

 

T
要するに宗教の存在が、周囲のものを相対化するきっかけとして機能したってこと?

 

K
正確に言うと、宗教+「自分の頭で考えろ」という親のスタンスの影響だな。たとえば教師に関して、父親とかは「立場があってそう言ってる部分もあるんだから、そこはある程度察した方が、面倒くさくなくていいぞ」みたいなアドバイスをくれてたからねw

 

T
なるほど、「先生の言う事だから守りなさい」ではなく、「先生もある程度ポジショントークで言ってるんだよ」というね。そうやってメタ視点に立つもんだから、色々なものが相対化されていったとwアダルトチルドレン云々で言うなら、親が抑圧的な存在じゃなかった、ていうのもまあ大きそうだね。

 

K
おそらく。というわけで、エヴァを見た頃には「抑圧的な世間や親VS自我の叫び」みたいな二項対立が、自分の中ではあまりなかったんだろう。だから、「シンジやアスカ=自分」みたいな話は響かないんだわ。まーエヴァの展開自体はおもしろいと思うけどね。

 

T
そういや劇場版「まごころを、君に」のラストってさ、他者と溶解することを拒絶したシンジが他者と繋がろうとするけど、それでも「気持ち悪い」って言われて終わる話じゃん。「他者とわかりあえることはない。でも他者がいてもいいじゃないか」って言い換えてもいいけど、あれはどう受け取ったわけ?

 

K
「何がしたいんだろなあ」が最初の感想だが、「他者」云々の絡みで言うと、「一体いつから、他人が理解できるものと錯覚していた?」て感じやな。

 

T
ダニィ?

 

K
喩えて言うなら、他者との交流は野球のマウンドで球種を読んで打つのと同じだ。パターン化したら効率よく打ち返せる。しかしそのことは、相手の内面理解とは関係がない。なるほど閉鎖的社会にいると同じタイプのピッチャーと対戦を繰り返すから適切に打ち返せる確率が上がる結果、「以心伝心」という妄想が生まれる。

 

T
妄想を抱いても、ある程度の有効性を持つので大きな問題になりにくかった、ということかな。

 

K
そういうことや。だけど、総力戦という形で広い世界に出ていったら、将官たちの「心情を読み取って欲しかった」なんてのがただの甘えに過ぎなくて、その結果は無茶な作戦遂行からのカタストロフだったと先の大戦でイヤというほど学んだはずなんだけどねえ。それでも以心伝心とか阿吽の呼吸とかを称揚してるのって、まず悲劇の共有がゼロという時点でその無知さに呆れるし、それが有効に機能した社会がよかったてーんなら、ネットがなくて関所が多数存在した江戸時代の閉鎖社会にでも戻るつもりなんかね?とか皮肉を言いたくなるわ。

 

T
まあアメリカとの戦争については、「悪い軍部に騙されて戦争に突入しました」みたいな話が半ば公然と語られていて、五・一五事件で犯行を行った者たちに世論が同情的であったという話とか、戦争を煽るような論調じゃないと新聞などが売れないからメディアもそっちに引きずられた、といったことは下手すりゃマジで忘却されてるからね。

 

K
まあ「戦争という名のファシズムから平和という名のファシズム」への大転換(笑)に際して、不都合な真実だったわけだよ。話を戻すと、当時そこまで意識して見てたわけじゃないが、劇場版のエンドにも大して心が動かないのは、まあそういうことかなと。

 

T
でもさあ、多くの日本人が今言ったような集団幻想を抱いていたのだとしたら、エヴァの劇場版にはそれなりの意味はあったんじゃないの?まあ1997年は阪神淡路大震災とオウム事件もあってさすがにもう潮目が変わったことをみんな気づいてはいただろうけど。

 

K
ああ、もちろん。だから今の話は全くのところ個人的な話だよ。

 

T
個人的な話と言えばさ、お前アスカとか綾波はどうでもよく、ミサトに魅力を感じたって話してたやん。

 

K
はいはい。

 

T
それって、小5から読み始めたメガストアと、それに付随するエロコンテンツの影響はどうなん?登場するキャラは基本的に十代後半より上だから、少なくともお前にとっては年上だったわけでしょ。加えて、少年誌とかでは見られないダイレクトエロスのオンパレードなわけじゃんwそれを消費してたら、自然と高めを狙い撃ちな人になったとか、そういうオチじゃねーかいw?

 

K
いかにも正しそうに聞こえるが、それは間違いの可能性が高い。例えば小4くらいで見てた「たるルート」で一番エロいと思ってたの伊代奈でも伊地川でもなく、大綾先生だし。胸吸われて悶絶する姿とか、もう理屈を超えたダイレクトアタックすぎて、「こはいかに、かくては勃ちたまへるぞ、ものの憑き給へるか」という勢いであったというねw

 

T
自分に敬語使ってんじゃねーよw

 

K
もっと言うと、高校を舞台にした「さすがの猿飛」を悶々としながら見ていたのは就学前だからな。こうして考えると、さすがの猿飛」も「たるルート」も、反応したキャラは当時の自分と10歳かそれ以上の差があるわけで、小5のメガストアより大分前に護身が完成(©渋川先生)していた可能性がある(・∀・)こうして時系列で並べてみると、メガストアから年上好きが始まったのではなく、せいぜいそれをブーストしたって結論になるのが自然じゃないか?

 

T
なるほど明確な反証があるってわけか・・・ ってそういや何の話してたんだっけ?

 

K
「なにがしかのものを体系化すること、あるいはそうすることへの欲望については、宗教もサブカルチャーもエロスも関係ない。」ってことでしょ。

 

T
いやいやいや、そんな話ミリ単位でもしてねーだろ!

 

K
一体いつから、エロスや属性の話が独立したissueだと錯覚していた?バタイユ先生やフーコー師匠に謝ってキタマエ!(# ゚Д゚)たとえば、エロゲーたる「虜2」のことも何度か話題に挙げているが、あの作品で最も印象的なことは、「機械的にノルマをこなす精神性」だ。

 

T
えーと、確か調教という行為に何の興奮もしなかった結果、「ライフを~まで減らさないと逃亡されるから、あと・・・回鞭で打っておくか」みたいな思考でゲームを進めてたって話だっけ。

 

K
そうそう。展開として、作中のキャラによって攻撃をされたわけでもないし、明確な不利益を被ったわけでもないから最初はメチャメチャ気が引けるわけよ。しかし、それがだんだん麻痺して、パラメーターしか見なくなってくる(シンジがエヴァに登場して死んだ眼で練習してるシーンみたいに)。あの時の心持ちを経験しているから、おそらくアイヒマンという男の心情と行動はこういうものなのだろうと理解する(≠肯定する)わけだ。

 

T
まあお前の場合は自由意思でゲームを購入して、引きながらも自分の意志で続けてるけど、アイヒマンの場合は仕事だし結構なプレッシャーもあっただろうから、同じにはできないんじゃね?

 

K
だからこそさ。自由意思でやっていても、「人の痛みを見たくない」という感情が容易に死ぬのであれば、まして「私がこのように行動するのは仕方ない事情があるからだ」と言いうる状況の人間はなおさらだろうと思う訳でね。

 

T
そういや、「命令されてやっているからしょうがないんだ」という心情に人間は割となりやすい、なんて心理実験があったな。

 

K
その通り。ともあれ、そういう精神性の元にあの異常なユダヤ人などの大量虐殺が行われたのだとすれば、俺とアイヒマンは地続きであり、ゆえにそれを「凡庸なる悪」と呼んだアレントにも同意する。人間の脆弱性というものを正しく見つめた結論だ、という意味でね。

 

T
それが正当化の論理にならないように注意しなければならないけどね。

 

K
それは言うまでもない。ともあれ、今述べた経験ゆえに、『夜と霧』を読んだ時も過酷な環境の描写よりもむしろ、家庭では温かい父親だった人間が冷酷な執行者たりえるという描写の方に俺は重要な意味を見出すわけよ。「人間というものは(あるいは少なくとも俺は)、彼らでありえたし、またありえる」とね。

 

T
ゲームをクリアした達成感とか印象的なイベントよりも、そんな学びをしていたなんてなW

 

K
いやはや金を払って一体何をしてるんだかって話だわなwついでに言っておくと、こういった思考は勧善懲悪への疑念(就学前)、身体性に基づく極限状況における人間の脆弱性(中学時代)、そして自意識こそが自分を縛る檻であるという認識(高校時代)ともある程度連動してるんだろうよ。

 

T
それが「LIVE A LIVE」や「undertale」、「沙耶の唄」の称揚にもつながってるわけか。

 

K
それもそうだし、「終末の過ごし方」についても同様だな。

 

T
ん?あれって善悪の境界線が曖昧とか、そういう話じゃなかった気がするが。

 

K
「無意識に、ある前提の元で世界を捉えていることが曝露されうる作品」という意味では同じだな。 

 

T
もうちょっと具体的に説明してほしいんだが。

 

K
端的に言うと、「一体いつから、人類滅亡の理由はわかるものと錯覚していた?」もう一つ言うと、「その状況で豆粒みてーな個人が、とにかく行動を起こさねばならないと考える理由は何か?」

 

T
あぁ、アルマゲドン的な世界を救う展開を自明のものと思ってる人間が多すぎるってことね。

 

K
そういうことだ。俺はあの作品について、「なぜ主人公たちは行動を起こさないのか?」という主張が散見されるのに驚きを禁じ得ない。もし仮にラジオのDJが伝える「外の世界の話」がなければ、なるほど「終末という舞台設定だけの、雰囲気だけの作品」とか、「終末という舞台にかこつけて学生たちの関係性を描いた自慰行為的私小説」といった批判はある程度妥当だと思う。だけど、DJが主人公たちにとって「外の世界」の話を伝え、その中には暴徒と化した人々の話もきちんと出てくる。その上で、それらが意図的に遠景化されていることをなぜきちんと考慮しないのかね?

 

T
そういう演出や舞台設定をきちんと踏まえられないくらい理解力がお粗末か、あるいはそれを十全に発揮できないくらいアルマゲドンの主人公たちのような振る舞いが無意識のうちに自明化されてるって話だろ。

 

K
おそらくね。これって非常に多くの問題に関わるので極力端的に説明しようと思うんだけど、まず、我々が日々生きていて、原因がはっきりしない病気や症状というのは少なからず存在する。

 

T
脳神経内科の友達は「たとえパーキンソン氏病でも、病名がつくならまだ安心する」って話してたもんな。

 

K
ああ。何かしら明確な原因によって痛みや病気は発生すると思いがちだしもちろんそういうケースもあるが、実はストレスなど含め、複合的な要因があったり原因がはっきりしないことは珍しくない。で、次にスケールの大きな話をすると、今の環境問題、たとえばずっと言及されてきた温暖化でさえ、意見の相違があったりするわけだろ(まあ自分の陣営に有利なポジショントークをしてる連中もいるだろうから、言葉通りには受け取れないがな)。また様々な歴史的事象が今になって新しい評価をされたり、また未だに詳しい経緯が不明な事件もあったりするわけじゃん。何が言いたいかと言うと、世界をつぶさに見渡せば、あまりにも多くの「わからない事」や「様々な評価がありえるもの」で埋め尽くされているのに、繰りすが「一体いつから、人類滅亡の理由はわかるものと錯覚していた?」て話さ。これって、別に量子力学やランダムウォーク理論、ゲーデルやらハイゼンベルクやらの不完全性定理なんてものを知らなくても、虚心に現実世界を考えればわかることじゃないかと思うんだが。それとも「俺にはラプラスの悪魔」が見えるってーんなら話は別だがね。

 

T
まあフェイクニュースだとか当たり前に言われてるしな。

 

K
まあ「終末の過ごし方」は1999年の作品だから、その頃はさすがにオルタナティブファクトとかファクトチェックみたいな話は出てなかったし、その視点がないのはしょうがない。ちなみに、百歩譲って「自分はセム的一神教にコミットしていてその終末論も信じているから、・・・だと考える」といった主張をするならわかるんだけど、およそ「無宗教」であらせられる日本人のあなた方が、一体どのような体系的世界理解をしていて、またどのような理由で本作の設定を否定するのか?と聞きたいね。

 

T
はいはい、嫌味はその辺にしなさいな┐(´∀`)┌批判する人たちに何か明確な根拠や背景があるわけじゃなくて、「終末の過ごし方」に不満を持つ人たちの根源にあるのは、要するに「エンターテイメントとして盛り上がりが欲しい」って、それだけのことでしょ。ただ、評者たちはそういう自分の不満や不快感を構造化・言語化できてないから浅薄な批判を開陳することになるわけで。「君が望む永遠」の主人公に対する不快感の表明の仕方と同じさ。主人公に固有の文脈が付与され「白紙の主人公」でなくなると、インタラクティブ性が低下してプレイヤーにとってはストレスになるのは問題だと感じた、とか言えばいいのに、「孝之=主人公=ヘタレ」の大合唱やったからな。もちろん、主人公の描き方が作品的に必然性を持たないのであれば、そこは「ヘタレ」云々というより単に作品の質の問題として非難すればいいわけでね。

 

K
そうやな。今の「主人公たちが行動しない苛立ち」に関して言うと、俺は「終末の過ごし方」や「君が望む永遠」への評価に見られる「行動すれば何とかなるかもしれないじゃん」という無根拠な思い込みは、実は昨今の自己責任論と通奏低音のようになってるんじゃないか、とも疑っているがね。もっと言えば、世界はわからないしままならないのに、どうにかなるはずだと錯覚してるから、そのギャップが苦しさを生み、しかもそこから逃れられないんじゃないか?それを仏教では「一切皆苦」と呼ぶ訳だが、こういう感覚は仏教だけじゃなく、フランス語の「セラヴィ」、あるいはイスラム圏の「インシャッラー」とかも類似のエートスに基づいてる。要するに、世界は見通し難いから、「なるようになるさ」だし、「神が望み給うなら」なんだ。

 

T
なるほど、ここで宗教に話が戻ってくるわけだな。

 

K
それもそうだし、例えば前回話した「天国・地獄を措定する精神性は何か」・「我々は世界をどう理解しようとする傾向にあるか」・「我々の世界理解の無意識的な前提となっているものは何か」みたいな視点に繋げると、レヴィナスやデリダ、ローティになるね。

 

T
ほえー。しかしまあ無宗教の話のはずなのに、宗教以外の話が多くを占めるというねw

 

K
まあ何某教の偉い人の名前とか重要単語を知ることが宗教の話であると思う人にとっては全然宗教の話じゃないし、逆にそもそも世界をどのように理解するかの一形式を宗教と呼ぶのだと認識する人にとっては非常に宗教的な話だと思いますですハイ。

 

T
そんな適当なことでいいのかよ!

 

K
独断と偏見だからこれでいいのだ(・∀・)

 

T
バーカボンボン!


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