欺瞞の告発

2007-09-25 00:22:11 | 感想など
前回の記事で「正義」に関して書いたので、今回はその「正義」に関する個人的経験について記そう。


以前「世界への失望」で小五だか小六だかの時世界に失望したと書いたが、それは金峰山少年自然の家(小五)だか長崎への修学旅行(小六)の班決めの時である。俺の学校には複式学級というものが存在し、当時のクラスにはそこに時々行く生徒が一人いたが(本人の意思かどうかは知らない)、そいつはちょっとここには書けないような癖を持っていることもあり、クラスの中ではウザがられていた。だが複式学級にも行くような子だったからか、クラスの人間達(特に女子)はそういう感情を隠し、あれやこれやと世話を焼いていた。そんな人間達のことを、男子達と揶揄したり、こそこそ陰口をたたいたりしていたものだ(念のため言っておくが、自分たちがそいつを心から受け入れているから批判しているのではなく、それを隠しているという点に反感を抱いていた)。


さて肝心の班分けだが、その子の入る班が決まらない。みんな遠慮しあっているようで、実は押し付けあっているだけなのは見え見えだった。無為に過ぎていく時間…どんどん上がっていくのは俺の苛立ちのボルテージ。いつまでこんな偽善者どもの茶番は続くのだろう?そしてとうとうキレた(おそらくこんな事を言ったと記憶している)。
「どうせ心の中ではこいつを班に入れたくないって思ってんだろ。いい加減認めろよ」
しんと静まりかえる教室。何を言うべきか迷っている教師…もしこれが生徒だけに対して向けた言葉なら、苛立ち+「チクる」という感覚が近いのかもしれない。だが俺は、教師もまた不快感を隠しているだけだと日常の振舞からわかっていた(※)。その意味では、社会の欺瞞に対する「摘発」だったと言えるかもしれない(「チクる」というのは上の人間[=教師]への期待もしくは媚びがあるが、この「摘発」は上への期待がない)。


なるほど欺瞞・偽善の摘発という観点で言えば、これもまた「正義」なのかもしれない。しかし、本音をさらせばそれで事態はよくなっただろうか?到底そうは思えない。だとすれば、それは単なる俺のエゴ。俺はただ腹に一物隠してへらへらしている虚ろな人間たちとその欺瞞に我慢ならなかっただけだ。今思えばそういうことだが、当時の俺にとってそれは「普通」の馬鹿馬鹿しさを強く認識するきっかけであり、さらにそんなクソ馬鹿馬鹿しいものならどーでもいいやと「普通」に都合のいい虚ろな敬語を身につけつつ、心の中では嘲笑う傾向が生まれたのだろう。


俺のその傾向に拍車がかかって狂気への傾倒が始まりつつあった中2の時、漫画などで見かける「正義の味方」が望ましい立場なんて思う人間は、すでに少数派だったように思える。その中にあって、「正義の味方」みたいな姿勢って大事じゃないかという奴がいたが、俺は正直「おめでたいな」と思った。この発言は、一般の人(中学生)なら、いまだに漫画的な正義を信じてるのかという意味だろうが、俺のそれは「正義」の苛烈さを知らないなんて…という意味だった。和を乱さないのが「正義」か、それとも和を乱しても貫くべき「正義」が存在するのか……それを考えないのなら、いかにもおめでたいではないか。もっとも、問題の横を通り過ぎただけのくせにそれを乗り越えたと勘違いしている人間達に比べれば、もしかすると彼の方が幾分マシだったのかもしれないが…


そして俺は、「普通」が隠蔽している、もしくは「普通」の反対側に位置する狂気こそが正しいのではないかと思うようになり(※2)、それも結局は自分の限界を知っただけに終わったのはすでに述べた通りである。



大学の時、今までに教わった教師について「感謝してる人はいるけど尊敬する人はいない」と言ったことがあるが、上の一件はこうした教師観に多大な影響を与えていると思われる(なお、極限状況への無理解:人肉を食べるか否かも参照のこと)。教師も苦労しているだろうに、容赦のない考え方をするものではある。

※2
まあテーゼがおかしいとわかればアンチテーゼに目が向くのが必然的とは言え、こう極端から極端なのはいかがなものかという感じだ(わかりやすい反応ではあると思うけど)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 片山憲太郎『電波的な彼女』... | トップ | 個性の尊重と説明能力の欠如... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事