ひぐらし賽殺し編再考 結~詩と本編の齟齬が孕む毒~

2009-05-02 19:12:35 | ひぐらし
(はじめに)
ひぐらしと出会っておよそ四年と三ヶ月…その間、251もの記事を書いてきた。皆殺し編批判の際に携帯からのメールを利用していたことも一因であるとはいえ、実に6日に一回はひぐらしの記事を書いていたというのは、今さらながら驚きである(ブログを始めたのはひぐらしの初プレイからおよそ八ヵ月後のため、正確にはそれより早いペースになる)。その意味では、この記事が一つの「終わり」になることに不思議な感慨を覚えるが、また同時に以下の内容がそれに相応しいものとなるよう願うばかりである。さて、ここからは早速本題に入るが、もし不明な点があれば「ひぐらし礼覚書~問題意識の提示~」、「ひぐらし賽殺し編再考~惨劇のない世界の否定など~」「ひぐらし賽殺し編再考~「リアル」とは何か、フレデリカの誕生~」も参照してほしい。


(賽殺し編終盤)
まずは梨花が目を覚ます直前のやり取りの引用から入ろう。
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箱の中に何が入っているかを知ってしまえば、それはもはや選択にはならないのだ。2つの箱に何が入っているかわからないからこそ、開けた方の箱の中に入っていたもので満足できるのだ。
反対の箱の中身を知っていたら、場合によっては失望するかもしれない。何の導きもなく、何のヒントもなく、…岐路に放置されることこそ人生。怠惰に右を選び続けるも良し、棒を倒して適当に決めるも良し。懸命にヒントを探し、右と左でどちらがどれだけ有利かを悩み抜き、いつまでも岐路に立ち尽くすのも、また良し…
ゆえに、最後に待つ結果を、自分の責任として受け入れられるのではないか。まさか、老いて死に、入る棺にまで、親の助言がいるというのか…?悩め、選べ、進め。それこそ、戦い。(中略)
それは誰にとっても神聖なことで、大切なこと。それを千年後の末裔が穢してはならない。その時代を生きた人間が、常に美しい。後世の価値観でその生き様を語ってはならない。 (この後に詩の完全版が続く)
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このようにして、繰り返しのできる世界に慣れきった梨花は、一回的な生であるがゆえに伴う選択の苦悩を再認識し、肯定することとなる。なお、最後の「それは誰にとっても~」から始まる部分は古手家に関する話だが、賽殺し編の「罪の無い世界」という舞台設定などからわかるように祭囃し編とのコントラストを意識していること、またこの部分自体がいささか唐突であることからすれば、今までの戦争関連の描き方にも関連していると思われる(なお、個人的にはひぐらしを始めた時期のズレとバイアスも連想した)。


さてこの後は、「一ヶ月近くも眠っていた」梨花が目覚め、彼女の「今の世界は…みんなの罪や不幸の上に成り立った世界なのだ」といった発言やレナの「苦難を乗り越えたこちらの世界の方が尊い」といった発言によって現在の世界が肯定されるという構造になっている(この意味については、前掲の「惨劇のない世界の否定など」ですでに述べた)。この後さらに「母がいない世界を選ぶという行為がすでに、母殺しなんだ」、「おやすみ梨花。よい夢を」(→元の世界の梨花は母親たちと暮らしていく)といった興味深い発言が続くのだが、とにかくも梨花は(やや誤解を招く表現だが)フレデリカの世界を捨て、繰り返しのできない古手梨花の生を生きることになったと読むことができる(=魔女廃業)。一度目のレビューでは、これを受けて

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「闘って何かを勝ち取ったとして、もし闘っている時と同じ状態がその先も続くならば、それは勝利とは言えない。勝ち取って普通の生活に戻ったとき、始めて勝利と言えるのである」。鷹野たちとの戦いに勝っただけでは終りではない。彼らと戦い続ける状態、すなわち「魔女」の状態を棄てて普通の生活に戻ったとき、始めて「終わり」となり、「勝利」となり、そしてFredericaの言った「幸福の享受」となる…賽殺し編はそんなメッセージをプレイヤーに送っているのではないだろうか
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という結論で終わっている。別の言い方をすれば、これで始めて「祭り」が終わったということであり、最後を飾るに相応しいと評価したわけである。



(詩と本編の齟齬)
もしこれで終わるのなら、何も難しくはない。反復可能な生あるいは祭囃しでのBernkastelの発言[シミュラークル、二次創作の可能性]は否定され、一回的な生[単一性]が肯定されたと理解できるからだ(その場合、他の世界はあくまで「夢」、すなわちこの世界の従属物と解釈される)。しかし、ここで事態を複雑にしているものが、賽殺し編冒頭に表れる詩に他ならない。先ほどはリンクを貼ったが、実は冒頭の詩は

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天よりパンが降ってきた。
ある者はなぜ肉でないかと大いに嘆いた。

天より肉が降ってきた。
ある者はなぜパンでないかと大いに嘆いた。

天より神様が降りてきた。
全員が喜ぶ物がわかるまで、当分は水を降らせます。
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である。この詩の後すぐに祭囃し編との対比を意識した世界を見せていることからすれば、「ある者」が各プレイヤーを指し、「神」が作者、「降らせ」るものが物語であることは論じるまでもないだろう(※)。とするならこの詩は、これから語られる話が(読者の要望に応えた)一つのバリアントだと示している。この詩と冒頭の展開からすればこれを作者の愚痴と解釈する向きもあるだろうが、事はそう単純ではない。というのも、この詩を冠した賽殺し編とは、繰り返しになるが(気に入らなければいくらでも多様な世界を繰り返せるという)反復可能性を否定し、一回的な生(単一性、統合性)とそれにまつわる苦悩を肯定する内容だからだ。要するに、賽殺し編は一回性の否定と肯定が共存しているのだと言える。


これをどのように考えるべきか?
一度目の考察ではあっさり流しているが、賽殺し編のお疲れ様会ではひぐらしの世界の多様性がやや執拗に思えるくらいに強調されており、本編のテーマが単なる一回性の肯定であるとすれば明らかに矛盾している。また分量の問題はあるにせよ、多様な世界を否定するはずの賽殺し編がむしろ原作破壊的な昼壊し編、罪恋し編と並列されているのも示唆的である。さらに突っ込んで考えると、祭囃し編において多用な世界を言祝いだ梨花(正確にはBernkastel)を懲らしめる世界が送り込まれ、むしろそこにおいてBernkastelが生み出されるという捻じれた構造(※2)…これらを総合すると、賽殺し編の主張は明らかである。確かに、賽殺し編は一回性を肯定する内容で終わっている。しかしまた同時に、そのような一回性の肯定もまた一つのバリアントに過ぎないと言っているのだ。


もしこの表現が抽象的に過ぎるなら、「単一の真理があるという考えも一つの思想に過ぎない」と言い換えてもいいが、実にこれほどラディカルな一回性の相対化はない。多様性を認める立場にとっては、様々な世界が増殖しようとも、それは自己の思想と矛盾しない。しかし、単一の世界・生(真理)を求める立場にとっては、それもまた一つの立場(世界)に過ぎないと相対化されることはある種屈辱的でさえあるだろう。多様な世界を肯定した祭囃し編とのコントラストをなす、つまり一回性を肯定する賽殺し編が、結局はひぐらしの多様な世界の一つとして包摂され、最終的には祭囃し編の先にある世界こそが選択されるという構造を見るとき、作者が賽殺し編に仕込んだ罠、そして祭囃し編への批判に対する答えはもはや明らかだ。すなわち、賽殺し編は一回性を認める内容ではなくてむしろその逆なのである、と。



(結論)
さて、以上見てきたように、賽殺し編は単なる一回性の肯定どころか、むしろそのような立場に対する強烈な毒を内包しているのだが、この事実は私の賽殺し編に対する評価を飛躍的に高めることとなった。というのも、ひぐらしは雛身沢症候群と主人公主観、推理劇の自白的所作をあざ笑うかのような綿流し編における魅音(詩音)の振舞、感動シーンへのミスリードの仕込み(暇潰し編)、法則性を見出そうとする心の利用など、人が信じるもの、あるいは信じたいと思うものを逆手に取る、強烈な毒を含む作品であった(これについては「アイロニーの完成としての皆殺し編(仮題)」でより詳しく扱うことになろう)。以上のような特徴を念頭に置くなら、この賽殺し編は、一度目のレビューとは違った意味で、最後に相応しい内容だと言うことができるだろう(作者がどのような意味で書いたのかはわからないが、確かに「こうでなくては」と言える内容である)。


ひぐらしについては、あまりに多くのことを語ってきた。高く評価すべき点(既述)、大きな問題を抱えている点(戦闘力皆殺し編澪尽し編エンドなど)、それぞれ膨大であり、決定的な評価を下せないままここまできた。しかし、最後の最後でこのように構造的な毒を仕込んで見せたことを鑑みれば、やはり殿堂入りさせるのが妥当だろう…と4年越しで評価を確定させたら何だかすっきりした(笑)。「アイロニーの完成としての皆殺し編」「大団円症候群」は確実に書くことになるので全てが終わったわけではないが、ほとんど決着がついたことは確かである。今はその感慨にふけりつつ、ほとんど下書きを完成させていたにもかかわらず朝四時までかかったことに呆れつつ、この論を終えることにしたい。




「ある者」を梨花、賽殺しの世界を望んだ者、「神」を羽入だと考えたとしても、「全員が喜ぶものがわかるまで当分は水を降らせます」の部分が本編のどこにも該当しない。ゆえに、本文のように解すべきだろう。ところで、最後の「全員が喜ぶ物」なるものが本当に作者は存在すると思っているのだろうか?だとしたら、ひぐらしの迷走(特に皆殺し編)はまさにそこに由来すると思われる。


※2
「鷹野が赤坂を篭絡する世界もアリだ」といった、今までの苦悩をあざ笑うかのような発言をしているのは、梨花ではなくBernkastelである(■み■こでの彼女の扱われ方も想起したい)。確かに梨花は繰り返しを前提とした生き方をし、そこには特有の諦念や冷淡さも見られるが、求めるものは一貫しており、鷹野が赤坂を篭絡する世界など望みはしない(というかそもそも幼少の鷹野に会いにいけないわけだが)。ゆえに、そのような世界の多様性を肯定する発言に対する罰を梨花に与えるのはお門違いだと言える。

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