独断と偏見による日本無宗教論:U.N.オーエンは俺なのか?

2019-07-22 12:44:39 | 宗教分析

ヨハンソン=J   阿仏尼=A   

 

J

こないだ『楢山節考』を読み返してたんだけどさ。

 

A

ほう(ニヤリ)

 

J

どうしたの?

 

A

いや、因習と人間の情念に絡めて、今回の名前を採用したんだな~と思ってね。

 

J

え、全然関係ないよ。だって俺が言ってるのは、「白鳥の死」のことだから。

 

A

お、おう。

 

J

「白鳥の死」って「楢山節考」を激賞した正宗白鳥のエピソードなんだけど、元々キリスト教徒だった彼が、死が近づくにあたって洗礼を受けたという話になっている。

 

A

それは死ぬ間際になって不安になったってこと?

 

J

作者の深沢もそういう懐疑的な目は持っているんだけど、そこで描かれているのは、そも信仰の中に懐疑や躊躇も含まれるって話なんだわな。

 

A

ほう、さよか。で、それを取り上げた理由は何だい?

 

J

正宗は「信じるか否か、それが問題だ」みたいなことで悶々とした結果、最後には熱心なキリスト教になったそうだが、俺も「憎悪というものは表に出さなきゃいい。心中に収めておく分には何を考えようと構わない」と考えている際に、ふと「今の自分は神にどう見えているか?」と自問したことが何度かあってねえ。

 

A

表面は取り繕ったとしても、内面は憎悪に満ち満ちしていることを神には見透かされてるって話かい?

 

J

まあ当たらずとも遠からずだ。そして、なるほどこれが「神が見ている」というセム的一神教のメンタリティかと思ったものさ。

 

A

いやいやいや。お前キリスト教徒じゃねーし、むしろ自分のことを無宗教だと認識してるじゃあないか。

 

J

Richtig!しかし日本人では多数派ではない=他者のものとして語られる思考体系が、自己の中でトレースされるのはなかなか興味深いものだよ。ああ、あれってそういうことね(・∀・)!みたいな。

 

A

じゃあその点で言うと、キリスト教の救済に対する正宗の懐疑なんかも「あーそーゆーことね完全に理解した」状態なわけ?

 

J

うーん、正宗と似た思考のプロセスを辿ったことはあるんじゃないかね。「信長は天国に行った!?」「宗教と思索」とかでも書いたけど。ただ、俺の場合は懐疑と信仰の間で揺れ動くんではなく、その次に考えたのは以下のような話なんだな。「なぜ神が人間を救ってくれることが、前提になっているのか?」

 

A

え?でも地獄に落とされることもあるから救ってくれるとは限らないんじゃないの?

 

J

いやそうなんだけど、でも宗教には必ずと言っていいほど救いの話が出てくるじゃあないか。あるいは現世利益でもいいけどね。

 

A

そりゃあメリットがなきゃ信じようと思わないからでしょ。

 

J

そうそう、そこよ。俺が宗教を信じられんと思うのは。なるほど「超越者が存在する可能性がある」、てのはいい。だけどなぜ、「それないしそれらは、我らが生を弄ぶ者かもしれぬ」とは思わないのか。

 

A

というと?

 

J

たとえば「生まれてくることが神の奇跡」みたいな考え方があるが、じゃあ家畜で考えてみようや。我々人間が意図的に繁殖させたそれらは、何のために生かされているか。それは食肉に加工されるのであれ、乳を取られるのであれ、次の繁殖のためであれ、「人間の利益」のためである。間違っても、家畜のためではない。

 

A

いやでも自分の飼っている家畜を大事に思う心はあるだろう。

 

J

そこは同意する。誤解のないように言っておくと、人間が全きの悪意の元で動物を家畜化し、虐げていると見るのは間違っているだろうよ。そこには、「それらを気遣うことが自分たちの利益にも直結する」という利益だけで説明できない愛情を、見て取ることも可能だろう。ならばその情を、「超越者が人間にかける情」と置き換えてみよう。なるほどそれは人間に同情的な面を持っているかもしれない。しかしながらやはり、人間=家畜と考えた場合の行きつく先は・・・

 

A

結局のところ「屠殺場」であるってことか。

 

J

その通りでございます。

 

A

お前本当にいい性格してるよなー(棒)

 

J

お褒めに預り光栄の極み(・∀・)さて、ここは宗教というものについて考える際に重要ポイントなのでちゃんと説明しておくが、俺は「救いなんかあるわけねーじゃん」と言ってるんじゃあないんだよね。正しくは、「なぜ宗教は救いとか利益の話ばっか出てくるのか」てことなのよ。

 

A

Natürlich!さっきも言ったけど、利益がなきゃ信じようなんて思わないじゃんよ(;´Д`)

 

J

その通り。仮に超越者なるものがいたとしても、その在り方が「自分たちを救ってくれる存在であれかし」というバイアスの元に理解・体系化されてる時点で、はじめっから片翼飛行なんだよね。我田引水のギャンブル理論と同じだ。

 

A

都合の悪いデータには目を向けないっていう?

 

J

そうそう。ギャンブルでダメなパターンってさ、「当たるって信じたいから、当たらないということ=自分に都合の悪いことも含めた客観的なデータを見るのじゃなく、都合のよいデータにばかり目を向け、気分的なことばかり話してマッチポンプのように自己暗示をする」ことじゃん。

 

A

あーつまり、宗教では「救われることが始めから決まっている」、もしくは「救われる可能性があることになっている」のどちらかに限定されているのって、「救いは全くありません」という可能性が排除されているという意味でおかしい、って話なのかな?

 

J

そういうことだ。これはカントのアンチノミーの件を前提にして言うけど、なんでお前ら不完全で有限な存在である人間ごときに、その可能性はありえないと断言できるわけ?と聞きたいね。たとえばキリスト教的に「人が神を信仰するのも、信仰しないのも神の御業」だと言うなら、「人が救済があるはずだと信じ込むのは、邪神の御業である」というロジックも同時に成立しうるはずだよね?

 

A

まあ一神教的に見るとそうだけど、「邪神」てのはゾロアスター教のアンリマユとか日本の祟り神みたいな形で登場はするよね。

 

J

もちろんそうだが、メタ視点から見れば全体の構造としては一神教も二神論も多神教も結局同じですよ。つまり、「神の罰」とも繋がるんだが、なんで天国と地獄があるのか。それは救済と反対の奈落を意識させることで、人を不安にして入信させ、入信した暁にはその宗教にとっての正しい信徒たらしめるためだろう。体のいいアメとムチってわけだ。まあヒンドゥー教みたいに「いいことすれば人間として転生できる」、みたいなパターンもあるが、結局その発想の効用も天国&地獄と同じだよね。

 

A

はいはい。まあそういう効果によって人がよりよく生きられんなら別にいーんじゃね?つったのがパスカル師匠だけどね。ああそういや、宗教に関して言うと他にも疑問があってさ。「体系的に説明できると、見えない世界のことを正しく理解できたことになる」って根拠は何なんだろうね?

 

J

ないでしょ、そんなもん。ただ、そう考えてしまう理由説明は簡単だ。宗教は、「偶然性に満ち満ちた世界を体系的に説明し、もって日常に馴致する」役割というか効果を持っているんだよね。先の天国と地獄の話に繋がるけど、たとえば善行を大いに積み皆から慕われる者が時に悲惨な死を遂げ、悪逆の限りを尽くした人間が長生きすることが世の中には起こっている。じゃあ善行は意味がないのか?自己中心的に生きればいいのか?となる時に、「いやいや、死んだら前者は天国に行き、後者は地獄に行ってるんですよ」、と言えば感情的に納得するわけだよ。

 

A

『ヨブ記』とかを見ると、似たような問いというか疑念は太古から存在していたようだね。

 

J

もちろん。極東のおっさん=筆者が片手間に思いつくようなことを、先人たちが思いつかないわけないだろう。話を戻すが、これは「神の罰」も同じで、突如原因不明の病気で人がバタバタと死ぬ。自分の生まれたばかりの子どもも含めて。なぜだ?

 

A

説明がつかないから、超越的な力が働いていると考える?

 

J

有り体に言えばそういうことやな。特に赤ん坊とかだったら、外的に見れば生まれて間もないから罪もへったくれもないわけで、なんでこの子が死ぬのか?いや、「死なねばならなかったのか」。

 

A

あーそれ同じ疑問を小学生の時に抱いたことあるわ。でオヤジが持ってる宗教の本を読んでいたら、「赤ん坊が死んだら灰色の世界に行く」が答えで納得したようなしないような気分になったことを覚えているわ。ともあれ、話がグリーフケアみたくなってきましたな。

 

J

そういう側面は多分にあるよ。だから災害時などは似たような話が惹起するわけでね(空襲≒災害的な捉えられ方をしていたという意味では、『この世界の片隅に』『火の瞳』『あとかたの街』の描写は興味深い)。宗教フォビアの人間が見落としがちなのは、戦争と同じで、その効用を知ることなしに、その肯定も否定もできないってことなんだよ。ともあれ、さっきの問いに答えると、「根拠なし」ですわな(ここで「非合理ゆえに我信ず」という逆の端に振れるのは、愚か者がやりそうなことだが)。補足しておけば、こんな感じだ。超越者がいるかもしれんと考える、なるほどそれはいい。しかし、それである宗教を信仰するか否かという0か100かの話に直結するのもおかしな話だ。超越者がいたとしても、それはキリスト教という体系が全て正しいことには全くならない。イスラム教もヒンドゥー教も仏教も神道も同じ。にもかかわらず、しばしば0か100かの話になる。そういうところも宗教と信仰の欺瞞だと思うね。

 

A

喩えて言うならこんな感じか?
「目には見えない細菌のせいで病気になる」、なるほどそれはいい。しかし、「それを認めるなら病原菌は全てペスト菌だ」と言われたら「んなアホな。」となる。

 

J

まあそれでいいんじゃね?俺はこの世界の理を知るのには強い興味を持っているが、それを別に「~教」という形でパッケージングして教えてもらおうたぁ思うわねーよって話な。じゃあ次の話題は・・・

 

A

やめて!もう読者のライフはゼロよ!!

 

J

うわあ、こんなに書いてしもたんか( ̄▽ ̄;)無宗教のことを外在的に語る前に、汝何者なりや、というわけでunkown状態を脱するためにまずは自分の話をしたつもりだったんだがw結局は見えない世界がunknownだぜという結論にしかならなかったというね( ・∀・)

 

A

つーか最初からネタが重いし絡みづらいわ!つかみはジャブやろ。距離をちゃんと測らんかい。いきなりドラゴンフィッシュブローダメ絶対。

 

J

ジョルトカウンターで迎撃したるでー(゚∀゚)まあこれだけ書けば、ヴィトゲンシュタインておっさんが「沈黙しませう」と言った理由がちっとはわかってもらえるんじゃないかとは思うぜよ(・∀・)結局、「あなたはそう思うんですね」で話が終了してまうしな。だからワイは宗教学とか思想史の方面じゃなくて、宗教社会学とか統計の方で考えていきまっせ、と言ってるんだけどな。

 

A

つーか、この話って信者だけでなく、「人間に生きる意味はない」て話題にも直結するって、どれだけの人が意識してるんだろうーかね?

 

J

さあ、知らね(・∀・)他人のことは批判的に見れても、己のことを鱠のように刻める人ってまあ普通いないからね。ともあれ、次回はもうちょっとストレートに攻めていきますわい。


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