君が望む永遠~ヘタレ、埋没、凡庸~

2010-12-14 18:12:18 | 君が望む永遠

以前「『オタク』カテゴリーの不毛さ」の記事で、「オタク」なる基準は無用の混乱を引き起こすだけだと述べた(それは単なるレッテル貼りとしての「オタク」と、無邪気な党派性ないし自意識の表明としての「オタク」が混在しているのが大きい)。それを頭に置いたもらった上で、「君が望む永遠」(以下君望)のレビューから読み取れるものを明らかにしていきたい。この記事は二部構成からなり、前半は君望レビューの特徴の抽出とその一般化作業であり、後半はその土台となった覚書を載せている(<>で表題をつけているが、必ずしも本文とは関係がない)。後半がかなり毒々しいテイストであることや、分量的なことも考えると、分けて読んだ方が得策だろう。また余談だが、この記事をもって、君望の主人公に対する反感の原因分析、という方向性は終わりにしようと考えている。

 

さて、「オタク」カテゴリー自体にこだわるのが不毛とはいっても、アニメやゲーム、漫画が好きだという人たちにある程度の共通性があるような印象を私は持っている。それは膨大なアーカイブに基づく(受容・創作両面での)ネタへの親和性であり、言いかえれば虚構として割り切り、それをいじくり回す能力が高いということである(ニコニコ動画はその最たるものだが、前掲の記事で引用した「ドラ外伝」やいわゆる「のびハザ」などはその好例。なお、後者はグロ注意)。しかしそれを前提にすると、今度はkanonのような作品に素で感動するという反応が巻き起こったのが非常に不思議に感じられるであろう(なお、私が当該の作品を批判した理由は、「こんなスカスカの作品で数千円も金を取ろうなんて、プレイヤーをなめているとしか思えない」、というものだった)。また「かんなぎ」という作品においては、どのくらいの数かは知らないが、ヒロインが処女でないと判明した折「ファン」が抗議をし、漫画が無期限休止へと追い込まれたという(「痛いニュース」という揶揄に注意。まあ不快で我慢ならないなら、選択肢がいくらでもあるわけだから単に乗り換えればいいだけだと思うのだが)。

 

このような反応が出てきた(正確には目立つようになった)のは、「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」でも述べたような裾野の広がりが関係していると思われるが、それにしてもこの現象はネタとして消費する人たちとベタに消費する人たちの二極分化なのだろうか?あるいは消費者層全体の変質なのだろうか?と色々な疑問を生ぜしめる。しかし私が君望に関する様々なレビューを通じて出した結論は、ベタに受容しようがネタとして受容しようが、結局は同じ穴のムジナにすぎない、ということだった(これは両方とも結局「オタク」だとかいう話ではない)。

 

どういうことか?君望のレビューでは、普段素直に感想を書いている人もかなり突っ込んで考察している記事も、kanonのような作品に感動したと言っている人もネタにして突っ込みまくっている人も、多くのレビューをものしている人もそうでない人も、等しく主人公の鳴海孝之に対しては「不快」「ヘタレ」といった評価の大合唱だったからだ。なぜそれが「同じ穴のムジナ」になるのだろうか。君望の主人公に対する評価はその具体性のなさを特徴としているが、おそらくそのほとんどは主人公がなかなか相手を選べないことに起因すると考えられる。その不快感自体は、「主人公の評価と『選べない』苛立ち」でインタラクティブ性の問題を取り上げたように理解できるものだし、むしろ私自身もかなりイライラしながらプレイした人間の一人だ。しかしそれでも、評者たちのあまりにストレートな不快感の表出を見る時、「この人たちは自分が何をやっているのかわかっているのだろうか?」と訝しく思わずにはいられない。

 

というのは、様々な事情があって選択できない主人公を、虚構の恋愛対象を選ぶ恋愛ADVゲームをだらだらとプレイする者が何の屈託もなく批判するのはいったいどういうわけだ、と思うからだ。詳しくは「『ヘタレ』と自己認識」で述べたので繰り返さないが、そのような行為は援交をやっている人間が援交の相手に「よくないから止めなさい」と言うのに似た間抜けでイタイものではないだろうか。このような見地に立てば、不快の意を表明するにしても、屈折したものにならざるをえないはずだ。たとえば、それを不快と感じる自分をネタにしたり(=まあエロゲやってる俺も同じだけどねw)、あるいは「主人公に感情移入させる工夫が~の点で足りない」というような(論理を偽装したw)からめ手で攻める、といった具合に。

 

しかしどこを見渡しても、そのような偽装を施そうとした痕跡さえ見いだせない。まるで不快なのがさも当然であるか、偽装することさえ煩わしい、とでもいうように。このことからすれば、主人公をただ批判することが何を意味するのか、評者たちは全く理解していなかったと判断してよい(管見の限り、誰一人としてそのおかしさを指摘していないのも自分としては驚きだった)。おそらくこの原因は、自分が恋愛ADVゲームをプレイしているという事実を忘却していることだと考えられる。要するに彼らは、虚構に埋没しているのである(これは現実と虚構を取り違えているという意味では全くない。あしからず)。先に私はベタな反応とネタにする反応を二項対立的に取り上げた。しかし君望の主人公に関する評価は、彼らが一皮むけば同じであることを露呈しているのである。

 

宮台真司は、『「りぼん」の付録と乙女ちっくの時代』の後書きで、次のように述べている。「『男たちの手になる』どこまでも呑気で居心地のいいサブカルチャー回顧やサブカルチャー分析が幅をきかせている中で、大人になった少女たちの『断念』の意味は、今一度キッチリと解読されるべきである」と。読んだ当時、せいぜい「男は現実を見ない呑気な存在だね」くらいの印象しか持たなかったが、君望の主人公に対する屈託のない、いやなさすぎる評価を見る時、この発言の適切さを認めざるをえない。ネタにできるのは準拠枠(に対するズレ)が存在するからであるが、その準拠枠の自明性に埋没しているからこそ、安心していつまでもネタにできるのだから。

 

さて、このことをもって「やっぱりみなが似たようなメンタリティーを持っているんだから、それを『オタク』と呼べばいいんじゃないか」と思う人がいるかもしれない。なるほど確かに、ここから「オタクの保守性」といった話を展開することはできる。しかしそのような括りをしてしまえば、「自明性への埋没」という、より一般的な傾向が隠ぺいされ、無害化されてしまう。ゆえに私はあえてそのような視点をとらない。では、自明性への埋没とは何か?いくつか例をあげよう。

 

たとえば、先ごろ映画化もして話題を読んだ「涼宮ハルヒの消失」だが、先日書いたように、ここには再帰的選択というより自明性に埋没した慣れ合いの共犯関係が見て取れる(それに対する評価の検証はこれからだが、映画化されるくらいなので、涼宮ハルヒシリーズの中でも人気は高いと考えられる。まあ「消失長門」が好きというだけの人が多いのかもしれないがw)。

 

サブカルから離れても、枚挙にいとまがない。今年の5月に福岡で同僚の結婚式に出てきたが、その時共通の友人・同僚である「先生」が結婚を入歯の合う・合わないに喩えていた(「福岡活動日誌2」)。詳細までは覚えていないが、彼は「相手を自分の一部だと思えば、ぞんざいに扱ったりはしないはずであり、そのような関係性が大事だ」という趣旨のことを言っていたと記憶している。言わんとするところはわかるし、すばらしい祝辞だったとも思う。しかし、他者を自己の一部として見なすことこそが他者性を覆い隠し、意識を自明性へと埋没させてしまうのではないか(「『共感』の問題点」も参照)。このような見地に立てば、離婚に伴うマイナスが減り、また価値観の多様性が前面化するに伴い「濡れ落ち葉離婚」などが出てきたのは、極めて必然であったと言える。

 

また後の覚書でも触れているが、江藤淳『成熟と喪失』の解説で上野千鶴子が書いた、『抱擁家族』とそれに対する文芸批評家の評価も興味深い。少し長いが引用しよう。

「実際、『抱擁家族』の三輪俊介ほど、魅力のない家長もめずらしい。この主人公の造型は、『抱擁家族』の初出時に、その評価を大かたの職業的な文芸批評家に見誤らせるほどの力を持った。批評家たち(そのほとんどは男)は、男性主人公に自分を重ね合わせることで、そのあまりに赤裸々な自画像を、「批評」するのではなく、ただ「嫌悪」したのである。(中略)「魅力のない夫」と「魅力のない妻」の組み合わせを、彼ら「文芸批評家」たちは、作品の魅力のなさと等置して、それが作者の批評意識の産物だとは思いもよらない。どんなに自虐的に見える私小説作家も、「自己暴露」という逆説的に英雄的な行為をつうじて、ひそかに自己弁護とナルシズムを作品にしのびこませている。それに比べれば、作者と等身大に見える主人公が、ここまで劇画化されて描かれているのは、作者の明晰な批評意識の表れだと、「批評家」なら見抜くべきなのである。それができないほど、ここに描かれた夫婦のリアリティに、彼らがうろたえていることがわかる。これは彼等が見たくない、聞きたくない現実なのである。作品が「混濁」しているのではない。「混濁したリアリティ」を正確に写しとっているのである。」

この後にくる伊藤整の評価なども興味深いが、今はただ、君望の主人公に対する評価と似通った構造を持つ部分だけにとどめておく(「マチズモ」といったステレオタイプな評価の正しさが、こういう反応からネガの形で明らかになるのは苦笑していいのか微妙なところだ)。まあレビューをものした人間にとっては「そんな日本文学の話など知るか」というところだろうし、あるいは「君が望む永遠は中途半端にヒロイズムが入っていてよろしくない」と反論するかもしれないが、先にも指摘したようにそういうエクスキュースすらレビューに入れていないところが自明性への埋没なのだと改めて強調しておこう(もっとも、露悪趣味の強い穂村シナリオに対して、懲罰的要素や調教ゲームへのアイロニーなどを見出すどころかただ不快感を示しているのを見ると、そのような発言も信用に値しないと私は考える)。

 

以上のような事例から、君望の主人公に対するレビュワーたちのナイーブな評価は、「オタクの~」などと表現されるような特殊なものどころか、むしろ極めて凡庸なものだと言える。 誤解を生みそうなので再度強調しておくが、自明性への埋没とは「オタク」に関して言われる「現実と虚構(=二次元)の混同」というような、ありふれた低レベルな図式を意味しない。そうではなくて、ネタにするという行為は一見すると対象の特権性を剥奪し、相対的なものへと引きずりおろす行為に見えるが、実のところそれは対象とべったりの共犯関係をもとに成立しており、それゆえ歴史的に作り出されたにすぎない制度や慣習を客体化できずに自明の前提として思考・判断してしまうような精神構造と結局は同根なのだと言っているのである。このことは、「戯れている」はずのプレイヤーたちが自明性に埋没する「凡庸さを自覚しないという凡庸さ」とでも表現すべき実態を暴露しているのだが、別の言い方をすれば、自明性への埋没という傾向が一般的であることを示す事例として非常に興味深い反応なのである。

 

 

<ヘタレと自己認識>
率直な疑問だが、何の疑いもなく孝之を「ヘタレ」と言う人たちって、虚構のキャラを誰にしようか迷ったりしている人(つまりエロゲーをプレイしてる自分)についてはどう位置付けているのだろうか?これは、究極的にはプレイヤーに批判の資格がないという批判封じにしかならない(正確には批判封じだと誤解される)からあえて言わないできた。政治のやり方に文句があるなら…文句があるなら自分でやれ…批判封じと思考停止。代議制無視馬鹿げている。とはいえ、あまりに屈託なくヘタレと言える姿には首を傾げる。「まあ虚構のキャラの攻略で悩んでる俺はそれ以下だけどね~w」


<ヘタレと2、援交説教オヤジ程度にはイタい>
などと自分を同時にネタにするなら、筋は通っている(それが正しい態度というわけではないが)。最初に触れたインタラクティブ性の乏しさや共犯関係について全く言及しないことからすれば、構造が全く見えていない(キャラに還元する思考様式だけじゃない)。KANON批判→あんなのに素で感動なんて馬鹿じゃね?ベタとネタの併存。違う。ベタにベタとベタにネタしかない。後者も枠から外れたら何も考えず怒る。見せ掛けの戯れで実は埋没。実は沙耶の唄や終末の話はここと繋がる。無自覚な選択か強迫的なしがみ付きはあっても、再帰性なんてない。エロゲー~には期待できない。


<論理展開→~期待できない>
全面化する気はない。政治のと同じで悪質な批判封じだからだ。しかし、あまりの屈託のなさはやはり疑問だ。考えたとは思えない。いやそれを言ったらおしまいでしょと言うかもしれんが、じゃあ例えば援交オヤジが相手の女子学生をよくないから止めなさいと説教するのはどう?じゃあお前は何やねんと思いません?両者にはそういう眼差しが徹底的に欠落している。今までの書き方から真面目に考えろと主張→違う。例えばヘタレと言った上で「でもまあエロゲーをやってる俺たちって~w」とネタにするなら理解できる。素で語る。しかもその内容がゴミ。だから埋没。馬脚


<無題>
エロゲーというスティグマを避けて虚構キャラ選ぶと言った方がより本質的。無知ではないが恥知らず。サブキャラシナリオの批判性。そこまで読み切った上で、「テメーらそれで飯食ってんだろうふざけんな」と製作者サイドに対して腹を立てるならまだ理解できる。一回的な生の話と通底→同じではありえない。ストレートに言えば、何寝言言ってるの?反論…それでも同じであるかのように擬似体験させることが大事。じゃあ演出的な問題なのね。でもそういう話全くないよね。すべてをキャラに還元して噴き上がってるだけじゃん=アホ。正直俺はむちゃくちゃ簡単な話をしてると思う。レベルが低すぎる。


<君望対話篇>
いままでのあらすじ→新エンドで反転。具体例の集め方次第→ユーノ。レイテスト次第じゃね?狙いを明らかにしたが、反論の余地はある。元元プレイヤーはそんなものを求めてないとか→エロゲー主人公鈍感。不条理と葛藤に苦しむより、予定調和に突っ込みながらキャラと戯れたい。喩→幼稚園児に経済学の話はアホ。その見解は正しいよ。じゃあ…妥当なのにその突っ込みをしない。それを含めてダメ。沙耶では様々な方向から自分の見解の妥当性を示した。使えばいいのに使わない→そういう視点がない=孝之への不快感をキャラにしか還元できない=虚構への埋没。ある種病的な不寛容さ。


<君反発>
「リアリティ」の問題。逃げ場がない→ネタにできない(しづらい)。ヒロイズムへの反発(天の邪鬼的な反応?)。まあ俺はそれを見越した上で「普段余裕ぶってるけどネタにできなきゃそんな幼稚な発言しかできないんだね」と言ってるのだけど。


<郡山を止める>
一見コミュニカティブに見えるかもしれないが、それはネタにすぎず、むしろそのような言動・振る舞いによってより奥底にある(ように思える)ものは温存される。ゆえに、その奥底にあるものに触れた途端、感情的に吹き上がるだけで議論にならない。それがオリジナルで不可侵かのように思ってない?オウム→「崇高」なる体験の人為性、環境管理型・アーキテクチャー→感覚の操作=自由は幻想、認知科学など…「戦争はよくない」「殺人は悪だ」って言ってりゃなくなんのか?違うだろ。だったらそれをただ言うだけのヤツは単なるオナニー野郎だよ。


<初日の予約→5/2に電話>
星座を見たときの話、杉林の歴史性、理論と感情は並列しうるし、雲散霧消するわけでもない。また理論的であるつもりで単に思い込みを理論武装しただけなんてことも多々ある。背景にあるのは、感情が純粋なものであるという信頼、あるいは信じたいという願望。そこに合理性はないから吹き上がることしかできない。


<渋谷、秋葉、中野>
ネタでやってたのにベタなヤツが出てきた、という理解。カノン。君望の孝之の評価を見るとネタでやっているように見えるヤツも「あえて」じゃなくてベタなんだなとわかった。虚淵玄のインタビューを見て共通する思考的閉塞を感じた。宗教戦争とか見て「あいつらバカだよね~w」としか思えない。ディスコミュニケーションのメカニズムに対する理解がまるでない。だから一皮むけば同レベル。いくらうまくやってみせても手の平の上の孫悟空。本質的な部分は信用に値しない。牢獄の中にいる人間が他の牢獄の人間を批判するがごとき愚行。


<抱擁家族の部分は削除>
君望に関する記事が、同族嫌悪であるとか内輪の分断、つまりエリートオタクとダメなオタクというような二項対立による自己肯定感を得る。それは全く違う。もっと一般的な問題を孕んでいると思うからこれだけ執念深く書き続ける。選べない→ヘタレ。自分なら~。自分も同じ立場になるかもとか相手の置かれた環境を慮かるのが共感だとしたら、ここで見られるのは憐れみか嘲笑の二項対立。ベタな自己の押しつけ。昔はあんなに苦労して働いた。夢を持て。だから?環境の変化は考慮されてる?社会的包摂性、高度成長。オタクの保守性は言い過ぎにしても、同類だとはみなせる。


<無題>
成熟と喪失および上野の解説。抱擁家族の俊介に対する生理的嫌悪感の表明、保守性。「オタクの戯言」などと言って済むではなく一般性を持っている。もちろん彼らは批評家ではないし、そう嘯いているわけでもないが。


<マザー百科>
成熟と喪失…抱擁家族の主人公に対して批評を忘れ生理的嫌悪感。


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