宗教と思索:今日的思考の原点

2008-01-24 01:00:05 | 宗教分析
これまで1400近くの記事を書いてきたし、最近自分の特異性を明示してきたことによって、今ようやく俺の思考様式がどのようにして成立し、そして今まで書いてきた記事の根底にどんな概念が流れているかを書くべき段階まで来た。社会に潜むオカルト的な要素、隠蔽の問題などに注意しつつ読んでもらいたいと思う。


駄菓子屋で薄っぺらい発泡スチロール製の戦闘機を見ている自分。隣には父親。しばらくすると、母親と祖母が連れ立ってやってくる…


これは三歳の時長崎に初めて行った時の記憶だが、彼女達が(病気の治療のため?)宗教関連の施設か何かに行っていたのだと間もなく知った。それ以来、誤解を恐れずに言えば、俺にとって宗教は遠いものではなく、むしろ日常に存在していた。しかし同時に、俺の親は宗教やその教えを押し付けるのではなく、むしろ色々な世間の決まりも含めて「なぜそれがいけないのか」を説明し、理解させるという育て方を信条としていた(それゆえ、今もって押し付けがましい人間は嫌いだ)。


この宗教と理由説明の並存は、非常に興味深い結果をもたらした。「なぜダメなのか?」を考える癖がつくと、「人を憎んではいけない」といった規定が細かく明文化されている宗教に対しては疑問に思う機会が非常に多くなる(つまり、「なぜ人を憎んではいけないのだろうか?」といった疑問を抱くようになるのである。社会というものは、それらを暗黙のルールとするため、もし宗教が日常になければ、そういった問いも生まれにくかっただろう)。


この宗教と(疑問、さらには理性へと繋がる)理由説明の関係については、次の例を出すとわかりやすい。かつて、坂本竜馬が早死にしたことに関して、父親と以下のような会話をしたことがある。

私「なあ、悪い人間が早く死ぬなら、何で竜馬は早死にしたんやろか。」
父「う~ん、よくはわからんけど、実は陰で悪いことをしていたんじゃないか?」

この答えは、いかにもこじ付けのように感じて納得がいかなかったことを覚えている(※)。この問いはおそらく竜馬を主人公とした時代劇を見た頃のものなので小学校4年頃と推測されるが、そのおよそ一年後に、以前書いた信長が天国に行った話が本に出てきて、いったい死とか天国・地獄の基準て何やねん、という疑問は決定的なものになった(もっとも、その本自体が何で信長が天国に行ってるのかわからん、と書いてたんだけどw)。これ以降、宗教に関して突っ込んだことを考えた記憶がないので、おそらくこの辺りでかなり距離を取るようになったと推測される。ありていに言えば、理性が信仰を否定したというわけである(もっとも、正確には理性ではなく社会の認識だったことは下の※部分参照)。


ちなみに、この説明がこじ付けに思えたということは、自分の中で「宗教の側の死に関する規定がおかしいんじゃないか」という答えがあらかじめ用意されていたと推測される。それは、「竜馬=善」という証明されざる前提[それは時代劇の書かれ方をそのまま鵜呑みにしたものだ]に基づいていた。要するに上記の疑問は、社会(世間)の竜馬観と宗教の基準が矛盾した結果生じたと言える。この疑問は、「信長⇒天国」への疑問によって完全に社会の側に軍配が上がる形となった。


そんな感じで宗教に関する疑問を抱いていた頃、八代で親戚たち(前出の祖母や母とは無関係)の以下のような話を耳にした。

親戚A「~の娘さん、早死にしたんだって。」
親戚B「名前に雪ってあったのがよくなかったのよ」

ハァ?何言ってるんだ?じゃあ雪って名前に入った人は皆早死にすんのかコラ。あるいは鶴とか亀とか名前に入った人は皆長生きしているとでも言うのか?要するに、早死にした理由を雪という名前でこじ付けているだけじゃねーか(人は偶然を必然だと思いたがる。理由付けへの欲求が強い生き物なのですよ、と)!


はて、こじ付け………。あれ?それって竜馬のと同じじゃねーか。彼女達(親戚)は、別に宗教の話題として雪云々という話をしていたわけではなかった。とすれば、実は宗教と社会って同じじゃねーか?そう考え出したら、子供の名前を決めるとき画数を気にしたりだとか、それまであまり意識しなかった占いとか大安(そう言えばダイアンと読んで大笑いされた記憶があるw)とかが思い浮かんだ。一体、日常でどれだけ人は「縁起が悪い」とか思いながら生きていることだろう!

「なーんだ。社会も立派な宗教じゃねーか。要は隠しているか明示しているかが違うだけなのね」

このようにして、社会は不可解で不合理な基準を隠蔽しながら成立している砂上の楼閣に過ぎないと思うようになった。隠蔽しているから、皆その不合理性を意識しないだけなのだ(小学5年の欺瞞の告発は、そういう隠蔽への嫌悪を元に生まれた)。


そういう人間(つまり俺だ)が、社会に大して価値を求めないのは必然である。だからと言って、宗教に価値を求めるわけではない。なぜなら、「社会=宗教=×」という認識はそもそも宗教への疑問(「宗教=×」という答え)から始まっているのだから。そういう人間はどこに向かうか…その答えが「狂気」という宗教からも社会(=もう一つの宗教)からも外れた領域であった。


中学時代は、なぜ「エロがいけないのか」といった問いはあるにしても、宗教関連の問いをほとんどした記憶がないから、「狂気⇔社会・宗教」という図式が確立していたと言える(あとは剣道とかに意識が向いてたことも関係していると思う)。そしてこの対立の図式が崩壊するには、高校生になって倫理の授業において性善説・性悪説に触れ、人間存在の不合理性を真剣に考え、かつ自分が求めた狂気から拒絶されるまで待たなければならなかったとさ(そしてしばらくは無明を彷徨う肉細工になりました)。


こう見てくると、大学入試の小論文で書いた内容が「生と死に関する報道」であったのはあまりにも必然的だったと言える(※2)。しかし日本人と宗教の問題を真剣に考えるようになるには、さらに5年の歳月が必要であった。

※2
確か殺虫スプレーなどで虫を死滅させようとすることに象徴される極端な潔癖さ(不快なものへの極端な反応)への批判の文章で、それに関する具体例を挙げつつ自分の意見を述べろという問題であった。そこで、「死への恐れは理解できるが、生の素晴らしさを病的なまでに繰り返す報道は疑問を感じる。それは(無意識的にでも)死の抹殺を図ろうとしているのではないか」と書いたのであった(この内容とkanonへの批判を比べてみるのもおもしろい)。とはいえ、この時点では滅びを希求した自分をまだ客体化できていなかったから、俺も批判した対象と同じであったと言える(不合理⇒滅びろ、という極端さ)。


(追記)

俺の内省という視点が特異なものだとしたら、それはこういう特殊な環境が関係していると思われる(西欧的な内省の視点との類似性)。もっとも、このブログが1400件に及ぶ告解だとは思ってないし、そんな意識のもとに記事を書いてもいない。そもそも「告解」という表現には罪の意識が伴っているのであり、俺なら「なぜそれに罪悪感を覚えるのか」とむしろ逆に問いかけるだろう。


以上の記事から、西欧的思考様式を思い浮かべる人もいるだろう。実際、西欧という視点で見ると、満員電車や中元・歳暮(贈与・互酬関係)否定の話とかはわかりやすいのかもしれない。もっとも、これをもって俺に日本的要素がないと考えるのはあまりに環境要因を無視した見解だろう。それはあたかも、Aという気候のもとで長年暮らしながら、BやCという気候の知識を持っていたりそこに暮らす人と類似の特徴を持っているからという理由でAという気候の影響を免れていると考えるに等しい愚考だ。身体のつくりなどを始めとして、生活してきた環境の影響は受けざるをえないのである。


人によっては、滅びの希求≒終末思想の記事を思い出すだろう。でも俺が求めたのは、善悪がどうこうというより純粋な消失だから違うんだな。


日本人はどうも宗教を事大に扱う傾向があるように見受けられる。例えば、宗教に属している人間というものは、戒律をきっちり守るお堅い人だと思いがちだ。その辺りのことは他国を旅行してみれば全くの勘違いであることがわかるのだが、こういうところにも日本人の宗教に対する無知が窺える。


ちなみに、信仰と言う意味ではないが、俺の中に宗教という要素が含まれているのは確かである。まあそれについては機を改めて述べることにしましょう。
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