この前は崇殺し編において殺人への罪悪感が描かれない理由について書いたわけだが、今回はその補足をしておきたい。
まず「友情が生む「奇跡」と惨劇」を引用している部分だが、これは私が沙都子の手料理などの話を「彼女に同情させるための演出」と表現しているのに対して作品への評価を感覚と理論の二元論でしか考えない人が拒否反応を起こし、それを根拠に私の見解を否定するのを防ぐのが目的である。もう少し説明すると、二元論でしか見ない人は、論じ方の部分で断りを入れているにもかかわらず、「そんな理論優先のドライな見方を自分はしたくない」としか考えず、以降の分析記事を拒否する事態が想定される。それに対しては、私が沙都子の暴走シーンの描写が持つ重みに対して非常に感銘を受け、またそのことを二年前に書いてもいるという事実を示すのが有効だろう…と。要するに、感覚論に依拠した退路を断つためのリンクなのである(このような書き方としては、「YU-NOエンディング批評について~それは個人的嗜好によるものか?~」や「YU-NOエンディング批評の過程」も参照)。
リアリティに関連して「人為100%で失望した人へ」を引用したのは、少なくとも目明し編の発表からしばらくは「祟り派」VS「人為派」という二項対立が支配的だったという事情とともに(お疲れ様会で煽っているのでまあ当然だ)、「リアルな作品でなければあまり評価しない人間なのではないか?だから戦闘力の変化を批判しているのではないか?」という誤解を防ぐのが目的である(「「城ノ崎にて」より~極限状況での振舞い~」などに、リアル志向を読み取る人もいるだろう)。これについては、ひぐらしの薬物談義を批判した記事や、前掲のYU-NOの記事における理系的事象の扱いも考慮してもらえれば、リアル志向という私の好みの問題ではなく、全体の連動性とテーマの伝達という観点からの批判であることがよりよく理解されると考えている。
内容に関する話は以上だが、書き方について言えば、具体例の重要視と限界については、「帰納、演繹、バイアス」へ、また具体性・中身がないことへの批判的態度はkanonへの否定的評価や「傑作の周辺:月姫~エンディングの批判性~」へ繋がると共に、「解釈の多様性~続「汝自身を狂人と思え」~」で最後に触れた「大団円症候群」なる批判的記事を近いうちに生み出すであろう。
以上、過度とも思えるほどに文章の裏にある意図を提示してきたが、これは前掲の「解釈の多様性」での内容を受けている。ただ、これをもって説明しきったので問題ない、と考えるほどナイーブではないつもりである。というのも、このように説明することはまた、理解と同時に反発と誤解を招いているからだ(このような「舞台裏」を見せることそのものに反発を覚える人もいると思うので)。
誤解とはどのようなものか?例えば「計算や繋がりを示すことによって、優越感に浸りたいだけなのではないか?」という見解などがそれにあたる。なるほどこのように意図を書き出すことがある種の高揚を生み出すことは否定しないが、最大の目的は、記事が拠って立つものを示し(前掲の感情と理論の二元論の記事などを参照)、またタテの視点だけでは非常にもったいないので、他の(分野と認識されるような)記事と繋がる可能性を開いておくことに他ならない(だから、ブログのテーマなんて提示しないし、むしろ「内容の統一性なんて飾り」とさえ紹介しているわけだ→「自己の統一性という欺瞞」)。
ところで、このような記事の書き方、考え方をパラノイア的と評することも十分に可能である。特に「途中経過」の記事でメモの写真をアップしているのなどを見ると、「一体何がしたいのか」「自分が書いているってそんなに誇示したいのか」と異常さが印象に残る人が多いだろう(あるいは字の汚さから大ざっぱな性格を読み取るかもしれないがw)。その違和感は正しい。というのも、あれは詩音や鷹野を暗示する記号だからだ。そうなると、さらに「褐色症候群」などへと繋がっていくわけだ。そして最後は、「汝自身を狂人と思え」に帰ってくる、と…
まず「友情が生む「奇跡」と惨劇」を引用している部分だが、これは私が沙都子の手料理などの話を「彼女に同情させるための演出」と表現しているのに対して作品への評価を感覚と理論の二元論でしか考えない人が拒否反応を起こし、それを根拠に私の見解を否定するのを防ぐのが目的である。もう少し説明すると、二元論でしか見ない人は、論じ方の部分で断りを入れているにもかかわらず、「そんな理論優先のドライな見方を自分はしたくない」としか考えず、以降の分析記事を拒否する事態が想定される。それに対しては、私が沙都子の暴走シーンの描写が持つ重みに対して非常に感銘を受け、またそのことを二年前に書いてもいるという事実を示すのが有効だろう…と。要するに、感覚論に依拠した退路を断つためのリンクなのである(このような書き方としては、「YU-NOエンディング批評について~それは個人的嗜好によるものか?~」や「YU-NOエンディング批評の過程」も参照)。
リアリティに関連して「人為100%で失望した人へ」を引用したのは、少なくとも目明し編の発表からしばらくは「祟り派」VS「人為派」という二項対立が支配的だったという事情とともに(お疲れ様会で煽っているのでまあ当然だ)、「リアルな作品でなければあまり評価しない人間なのではないか?だから戦闘力の変化を批判しているのではないか?」という誤解を防ぐのが目的である(「「城ノ崎にて」より~極限状況での振舞い~」などに、リアル志向を読み取る人もいるだろう)。これについては、ひぐらしの薬物談義を批判した記事や、前掲のYU-NOの記事における理系的事象の扱いも考慮してもらえれば、リアル志向という私の好みの問題ではなく、全体の連動性とテーマの伝達という観点からの批判であることがよりよく理解されると考えている。
内容に関する話は以上だが、書き方について言えば、具体例の重要視と限界については、「帰納、演繹、バイアス」へ、また具体性・中身がないことへの批判的態度はkanonへの否定的評価や「傑作の周辺:月姫~エンディングの批判性~」へ繋がると共に、「解釈の多様性~続「汝自身を狂人と思え」~」で最後に触れた「大団円症候群」なる批判的記事を近いうちに生み出すであろう。
以上、過度とも思えるほどに文章の裏にある意図を提示してきたが、これは前掲の「解釈の多様性」での内容を受けている。ただ、これをもって説明しきったので問題ない、と考えるほどナイーブではないつもりである。というのも、このように説明することはまた、理解と同時に反発と誤解を招いているからだ(このような「舞台裏」を見せることそのものに反発を覚える人もいると思うので)。
誤解とはどのようなものか?例えば「計算や繋がりを示すことによって、優越感に浸りたいだけなのではないか?」という見解などがそれにあたる。なるほどこのように意図を書き出すことがある種の高揚を生み出すことは否定しないが、最大の目的は、記事が拠って立つものを示し(前掲の感情と理論の二元論の記事などを参照)、またタテの視点だけでは非常にもったいないので、他の(分野と認識されるような)記事と繋がる可能性を開いておくことに他ならない(だから、ブログのテーマなんて提示しないし、むしろ「内容の統一性なんて飾り」とさえ紹介しているわけだ→「自己の統一性という欺瞞」)。
ところで、このような記事の書き方、考え方をパラノイア的と評することも十分に可能である。特に「途中経過」の記事でメモの写真をアップしているのなどを見ると、「一体何がしたいのか」「自分が書いているってそんなに誇示したいのか」と異常さが印象に残る人が多いだろう(あるいは字の汚さから大ざっぱな性格を読み取るかもしれないがw)。その違和感は正しい。というのも、あれは詩音や鷹野を暗示する記号だからだ。そうなると、さらに「褐色症候群」などへと繋がっていくわけだ。そして最後は、「汝自身を狂人と思え」に帰ってくる、と…
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