感覚と理論~二元論的作品理解の危険性~

2008-09-19 00:22:59 | レビュー系
※最初に関連する記事をいくつか挙げておくと、「馬鹿げた命題:感受性と読解力のどちらを重視するか」、「作品・作者、そして自分との向き合い方」、「涼宮ハルヒと傍若無人さへの怒り」、「人は自分の見たいものしか見ないし、また見ようとしない」など。


感覚と理論を別物として考え、前者が個人的で自由意志に基づくような領域であり、後者は一般的・社会的な色合いの強い縛りだと見なすのなら、それは大きな間違いである。そしてその誤りは、とにかく感覚を垂れ流して理論化することを無粋だと信じて疑わないような態度において、最も甚だしいものとなる。


というのも、感覚の領域もまた社会の影響を多大に被っているに他ならないからだ(体型に関する考え方などがそれにあたる。また、「同性愛に対する基準」で言及した生理的嫌悪感などもそうである)。つまり、ただ「おもしろい」「つまらない」と言って疑わないのは、社会が用意した感性を唯々諾々と受け入れているか、あるいは自分は感覚において自由だという無根拠な自立感・全能感に浸っているだけである。その人たちは、もしかすると理論付け、理由付けを行わないことによって「縛られていない」「自由に表現している」つもりかもしれないが、自らが社会から被る影響に気付いていないという意味で、むしろ隷属的で不自由な態度だと言えるのである(これは単に「流行に踊らされる」ということ以上の意味を含んでいる)。


あるいは逆に、自分の読みが純粋に理論のみに拠っている、というような考えについても同じことが指摘できる。物語の構造や登場人物の役割などから理論を構築するつもりで、実はただ自分の感覚を理論化、ないしは正当化するだけになっている可能性は大いにありえる。このことは、自分が「理論的に」批判した内容を実際の作品に代入してみたとき、明らかになるだろう(説明不足ラーメンズと「不条理」などなど)。理論にするといかにもそれらしく聞こえるが、自分の感覚・経験と無関係にそれらは存在しえないのである。


ゆえに必要なのは、感覚を抑圧することも垂れ流すことでもなく、感覚をしっかりと表出させた上で、それが必ずしも論理的に明らかになるとは限らない、という(余裕に近いような)距離感を持ちつつも、「なぜそう感じるのか」を考えることだと言えるだろう。


[蛇足]
例えば、作品に覚えた怒りを、子供っぽいなどと感じてそれを流してしまうかもしれないが、その感覚は大事にした方がいい(視点は違うが、「それは本当に同じなのか」も参照)。そして自分が何に、なぜ怒ったかなどを考えた時、もしかすると自分や作品の新たな輪郭が見えてくるかもしれない。

ちなみに褐色を取り上げてみれば、あれをただ個人的嗜好として終わらせるのは勿体ないし、また逆に一般的であるはずだと考えるのも筋違いである。そこでどう一般化・理論化できるか考えてみると、「褐色→日焼け→日焼け跡→服と服との境界線(スリット、チラリズムなど)→見えるものと見えないもの…」といった具合である。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2008-09-14 00:30:31 | トップ | 娘属性と不可解なADVへの欲求 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

レビュー系」カテゴリの最新記事