自己の統一性という欺瞞

2006-01-16 22:30:57 | 抽象的話題
自己の統一性を知ることは不可能である(ついでに言えば、私は自分の統一性など知りたくもないが)。なぜなら、統一性を把握しようと自己分析した時点で自己が変質してしまうからである。

例えば、あなたが自分のことを「神経質」だとカテゴライズしたとしよう(注)。その瞬間から、あなたは自分の諸々の行動を「神経質」を基準に判断するようになる。それはつまり、今まで自然に行われていたことが「神経質」と受け取られるようになったりするということである。あるいは逆に、「神経質」という自己の性質を嫌って改善しようとするかもしれない。しかしいずれにしても、それは自己の改変に結びつくのである(かように不安定な自己は、観察することによって変容してしまう放射性物質に似ている)。

だから、面白半分で自己の性質を分析したり、あるいは自己の行動様式を分析するのならそれなりに実りもあるだろうが、真面目くさって自己の統一性などというものを規定しようとするなら、それは無益であるばかりか有害でさえあるように思う。自覚的であろうとする姿勢はこのブログにおいてしばしば強調してきたが、それは自己の統一性なるものの分析に向けられるべきものではないということを明記しておきたい。

(注)そもそもこの「神経質」の基準自体が千差万別である。そういった、言語のはらむ恣意的な基準とそれに縛られる人間の模様については「占い、認識、有意差」や「sprachzentrierten Auslegung[言語中心的解釈]」などを参照。
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