「城ノ崎にて」より~極限状況での振舞い~

2008-10-06 02:26:32 | 本関係
高校時代に最も印象に残った小説が漱石の「こころ」なら、中学時代のそれは志賀直哉の「城の崎にて」である。


そこに描かれているのは、死という極限状況に対してどう望むか…についてどう考えるかである。死に対してこう対峙する、というのは様々な作品で描かれている(それを凝縮したものが筒井康隆の「死に方」である)。しかしながら「城の崎にて」では、死に対してどう向かい合うか、について考える姿を中心に描くといういささか少し複雑な構造になっている。


電車にはねられて怪我をした主人公は、療養先で死骸を見て静かな死に親近感を覚えるが、一方で死から逃れようともがく鼠を見て自分もまた死に臨んだのならそのようにもがくのだろうかと陰鬱な気分になる。別の言い方をすれば、主人公は死について達観したいという願望、あるいは達観できるだろうという思いと、死を達観することなどできず、それから逃れようとあがくだろうという思いの狭間に揺れるのである(そしてこの様が、「終末の過ごし方」で描かれる多様な終末への臨み方とリンクする)。


当時の私は、末期ガンだと告知された際の人々の振舞い方の違いに関する話を連想しつつ、死について考え、苦悩するその様子に人間を見た気がして感銘を受けたのだった。極限状況における行動について、どうしてそう簡単に「自分なら~する」などと言うことができるのか。その安易さこそが、今の自分の状況でしか考えていないこと、そしてそのことに気付いてすらいないことの証左ではないか?そのようにある程度明確に考えるようになったのは、おそらくこの時からだと思う。


こような考えを念頭に置けば、「極限状況で人肉を食べるか?」に関する当時の発言は理解しやすくなるだろう。それだけではなく、割と最近で言えば「想像力の欠如:「ひぐらし」主人公への評価より」、「君望:孝之の苦悩を理解するための視点」(双方ともネタバレ注意)などの極限状況にある人間の行動に対しての評価(無理解)を批判した記事も、こういった視点が関係している(※)。また、これは大学生に入ってからのことだが、私の祖父から「戦時中に二度命拾いした」という話を何度か聞かされることがあった。一つは長崎に原爆が落ちる前日だか前々日にそこを離れたこと。そしてもう一つは、青森にいた時敵襲があり、たまたま機銃陣地で応戦していたため搭乗員になっていた飛行機に乗らなかったのだが、その飛行機は出動したまま消息を断ったということ(その結果、実家にまで戦死の通知が来たが、その現場に本人が居合わせたのだとか)。明確には言わないが、その経験は彼の中で「今の自分は生かされているのだ」という不思議な感慨を作りあげているように見受けられる(災害で偶然生き残ったという感覚、古代の疫病、通り魔偶有性、そして神の罰)。そう考えるなら、どうせ拾った命、というような感覚で死に対しても達観した態度を取れるようにも思える。しかし実際のところ、ある時には検査で悪い結果が出て手術しなければならないかもという話になり、しばらくの間ピリピリするということがあった。これに対して、二度も命拾いするという経験をしたのにその生への執着心、神経質さは…という批判もありうるが、要は死について達観するなんてそんな単純でも容易でもないのだろう(達観について)。


あるいはもしこの極限状況に関する話を、状況の変化でいくらでも人間の行動(様式)は変わるという風に考えるなら、それは「自殺の可能性について」へと繋がるし、また文脈が変わっても行動様式が同じであるが如きキャラクターの描き方などに批判的になるような姿勢を生み出すだろう(それは狂気を描く際には非常に有効だろうけど)。だから私は、キャラを文脈から切り離すことやそれによって楽しむことにそこまで意味を感じないし、あるいは「ひぐらし礼」で北条沙都子の行動様式の変化を描いたことに対して評価をしたりもするのである。


以上、「城ノ崎にて」を読んで培った考え方について話してきた。
その考え方について簡潔に言えば、極限状況における振舞いの不確かさの意識と、(その意識から派生して)状況の変化が人の行動を大きく変えるという認識であった。そして最後に、このような認識が、実際の記事や問題にどう反映されてるのかをいくつかの具体例を挙げつつ見てきたのであった。この認識は、逆にそれを所有しない者への侮蔑を生み出すと言うようなネガティブな側面もあり、逆にポジティブな面もあっただろう。それに関しては、機会があれば考えてみたいと思う。



もっとも、そもそも圭一や孝之への批判の多くは、彼らが置かれた状況を評者が分析できてさえいない中で行われており、ゆえに自分の不快感をそれらしく正当化しただけの非常に低レベルなものだと言わざるをえない。それは「城ノ崎にて」で言うなら、主人公が重症を負ったという文脈を考えずに、死に関する主人公の思索をあざ笑うが如き愚行である。端的に言ってそういう批判・評価は、ここで取り上げた以前のレベルに問題がある。
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