片山杜秀『平成精神史』を今こそ読み直す:現在をよりよく理解するために

2020-06-06 13:27:42 | 本関係

こないだ検察庁法案の関係平沼騏一郎(ヨーロッパは複雑怪奇やー!つって内閣解散した人w)の名前を出した。また一昨日には、アメリカの暴動に絡めて今こそ映画「デトロイト」を見るべきだとも述べた。

 

要するに、こういう現象が起こった時、表面的なものだけ見ていてはダメで、それらを規定している者に目を向ける必要があるという話である(もちろん、コロナによる政府への不信や日常生活の鬱屈といった直近の要素を無視するのも、それはそれで違うと思うが)。その意味では、混迷を深める現在の日本について、過去を振り返りつつ今をよりよく理解するという観点で片山杜秀の『平成精神史』をぜひお勧めしたい。

 

これは平成の終焉が確定した2018年11月に書かれているが、「平成」の元号が誰に、あるいはどのような精神に由来するかを紐解くという視点で安岡正篤や山本達雄に触れ、戦前に説かれた天皇と官吏の理想像(「しらす」的な統治の理念であったり、「空気」の読み合いや無責任体制へとも繋がる発想)であったり、高橋是清や井上準之助も含めた戦前の経済政策のあり方について論じている。重要なことは、単に「昔こうだった」ということではなく、そういった発想法が今にも残っていたり、あるいは現在を陰に日向に規定してさえいる点に他ならない(保守なるものの本懐はそういった知見に基づいて漸進主義的立場を取ることにあるはずなのだが、今の「保守」はただのコスプレと同じなので全く期待できない)。

 

私が最近「憲政の常道」に興味を持っているという話は前に書いたが、当時の状況を調べていてわかるのは、「きちんとした政党政治が行われていたのに軍部がそれをグシャグシャにした」といった側面よりむしろ、政党政治なるものが足の引っ張り合い、つまりは相手の粗探しばかりして自分はできもしないことを放言するような態度を取ることに終始し、金融恐慌や世界恐慌といった相次ぐ日本の危機にも上手く対応できなかった結果、実行力があり問題を解決してくれる(ように見える)軍部に期待が集まる、という民衆感情の変化があった(だから、マスメディアの報道も、満州事変を始めとして慎重論ではなくイケイケな報道をしないとそもそも部数が伸びないため、結果としてそういう論調に塗りつぶされていったのである。なお、念のために言っておくと、日本は高橋是清が適切にリフレ政策を行ったため、列強の中では最も早く世界恐慌のダメージから回復はしている。しかし、農村恐慌などの影響は深刻なものがあり、これが農本主義者たちの二・二六事件にも繋がっていき高橋を始めとして多くの人々が凶弾に斃れたのであった)。

 

こういった話を聞くと、平成の政治的混迷で政党政治に嫌気が差した人々が、「断固、決然」を叫んだ小泉純一郎的ポピュリズムに乗っかったことを思い出す人も多いだろう。そして、世界恐慌という危機的状況でナチス(と共産党)が議席を伸ばしたことを連想する人も。そのように見てくると、中間層崩壊の中で排外主義勢力が伸びている今日において、かつて来た道を振り返るのは参考になるどころか、極めて重要だと言えるのではないないだろうか(ただし、当時に比べてグローバル化した状況は不可逆性が強いため、不満・不安を調整し共生できる社会を維持していくのは加速度的に難しくなっているのだが)。なお、片山の著書ではそういった民衆感情の変化については詳しく触れていないが、これについては『戦前日本のポピュリズム』などをお勧めしたい。

 

さて、『平成精神史』に話を戻すと、そこでは災害とニヒリズムというテーマも扱われている。ここで述べられていることを私なりに解釈すると、「何かを打ち立てたとしても、地震大国である日本においては常に全てが灰燼に帰すリスクを負っている。ゆえに、その環境に慣れた我々のマインドには、何かをきちんと構築することが重要だというマインドが希薄になると同時に、壊れてもまた作り直せばいいやというある種の強靭さが兼ね備わっている」というあたりになるだろうか(ここからは、いい意味でも悪い意味でも丸山真男の「つぎつぎとなりゆくいきほひ」が連想される)。

 

地震に限らず、津波・台風・噴火・洪水と日本が災害大国であることは論を待たないが、仮にそうやってガラガラポンになったとしても、日本列島は残っているし、天皇は存在している、というゆるやかな連続性の意識が「またやり直せばいいや」という志向に繋がるのではないかという考察であり、けだし卓見だと感じた(ただ、これが古来からそうなのかは私の浅薄な知識では評価しかねるところなので、これから『日本震災史』などで勉強したい)。

 

非常に興味深いテーマで、まずは先の平成という元号の精神性、そして戦前の社会情勢やシステムを知ることの重要性と同じで、「過去を知ることで現在をよりよく理解し、未来に生かす」という姿勢が必要不可欠であることの再確認である。先に触れたように、日本は災害大国であるのだが、戦後復興の時期に関東大震災のレベルのdisasterが起こらなかったから、単に「忘却」できていただけに過ぎない。そして、阪神淡路大震災や東日本大震災と大津波(そして原発事故)、熊本地震などによって改めて私たちがどんな環境に生きているかを認識させられた、それが平成であるということだ。

 

原発の件は『原発・正力・CIA』のような国内政治とアメリカの思惑も重要であるが、『平成精神史』で描かれているような、「持たざる国がアメリカという大国と戦って敗れナショナリズムが地に堕ちた後、経済復興、すなわち経済ナショナリズムに夢を託して日本という国が邁進していた時、オイルショックという危機に直面し、資源を持たざる国として原発を導入してその夢を追い続けた。そしてその時、災害大国日本の歴史は不都合な真実として意識的・無意識的に忘却されたのである」という見立てはかなり説得力があると私は感じた次第である。

 

ここで読者は、持たざる国の限界を精神力という名の美名(?)で糊塗、ないしは意識的に忘却してアメリカとの精神に突っ込んでいったという過去(失敗学とも繋がるが、リスクの意識的・無意識的な軽視)、あるいは資源不足とABCD包囲網(オイルショックでそれを再度実感する)といった要素が、実に似たような形で繰り返されていることに気付くのではないだろうか。そうして糊塗していた原発という存在が、経済成長の怪しくなってきた(もはや経済ナショナリズムも厳しくなったから旧来のナショナリズムに回帰しようとしている?)平成という時代において、あたかも止めを刺すかのように牙を剥いたと表現するのはいささか情緒的に過ぎるだろうか(まあ自然には人間の都合なんて関係ないからね。コロナ禍の中で南海トラフ地震が仮に起こってたとしても、それは「天罰」でも何でもない)。

 

このように見るだけでも災害とニヒリズムというテーマは興味深いし今後にも深く関わってくるわけだが、これは空襲と「終戦」にも繋がると感じる。つまり、様々な空襲を扱った作品に共通することとして、それは抵抗不可能な天災と同じであり(『あとかたの街』があえて爆弾投下の照準を描いたような、それを意図的に異化した作品を見れば、かえって空襲=天災的理解が浮き彫りになるという印象)、その延長線上に敗戦ならぬ「終戦」という言葉が出てくるわけである(ちなみにこのような精神性を極めて適切に描いたのが、『この世界の片隅に』における枕崎台風の描写である)。

 

というわけで長くなったが、要するに現在は本当に様々な過去に規定されており、それゆえに過去を学ぶ価値というのは非常に高く、その一環として『平成精神史』はぜひお勧めしたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ただよび」の数学授業、数Ⅲ... | トップ | この単語が数えられるかどう... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事