
最近「アラサーちゃん」を読んでいて「女のスピリチュアル戦争」という話がなかなかおもしろかった。
ここでは「盛り塩」・「パワーストーン」がネタとして取り上げられ、しかもそれがある時は「ないわー」と言われ、ある時は「いやありでしょ」となるのだけど、それはともに「数の問題」に左右されている。もっと具体的に言うと、各コマ常に3人登場するんだが、常に2人がマジョリティとなって「空気」を構成し、残った一人は居心地が悪そうに反論を飲み込む・・・といった描き方になっているのだ。
これは、「一言でスピリチュアルと言っても女性によって信じる、あるいは「採用する」カテゴリーやアイテムは違う」という話である。しかし何より興味を引いたのは、(あえてこう書くが)「内的確かさの欠落した日本人の無宗教」をよく表しているところだ。別の言い方をすれば、「誰から何を言われようが、自分は・・・という根拠で~を信じる、あるいは信じないという態度の欠落」とも表現することができるだろう(ついでに言っておくと、「科学で説明できないものはありえない・信じない」という物言いほど馬鹿げたクリシェはない。というのも、その歴史を見ればすぐわかるように、科学とは「わからないものをいかに解明・説明するか」に血道を上げてきたのだから。具体的な例としては「フロギストン」など枚挙に暇がない)。
まあだからこそクリスマスと初詣と仏式の葬式を並列するような状況が生まれるわけだが、それゆえ前に「日本人の『無宗教』に関する覚書」でも書いたように、一つ一つの儀礼や信仰を持ち出して「あなたは無宗教なのではなく~教徒なのだ」などと言ったところで全く無意味なのである。
まあ要するにこういうことだ。
君ら「それってなくね?」て言うけどその根拠こそ大したことなくね?
初詣とかはそうだろうね。単なるイベントにノってるだけなので、別にその理由付けとか気にしてないと思うし、そういうのは別にありだと思う。
ただ、ここで描かれているのは根拠がどーでもいい(とにかく信じたいから信じるんだ)とかではなく、行動様式というか信念の土台の問題だと思うよ。