いやー、相変わらず言葉のチョイスが神懸ってるわw
しかしまあセックスドールのクオリティはこれからどんどん上がっていくだろう。ただ、メンテナンスの問題もあるから、VRの方が重宝されるんじゃね?て気もするけどね。
いずれにしても、前に天然モノと養殖の話をしたが、その二つの間に絶対的な溝は存在しない。たとえばキメセクは無上の快楽だと言うが、それを実際の人間で試すのは色々とリスキーだ。しかし、それをセクサドールやVRに実装できるなら、どうして色々と面倒な手続きのある生身の人間とのセックスにコストをかけるだろうか?正確に言えば、「養殖」のクオリティと多様性がどんどん進化し、かつ一般化することでコストも下がるならば、セックスの選択肢は人間・セクサドール・VRとなり、いわゆる「天然モノ」の相対的価値低下は避けられないものとなるだろう。
もちろん、これに伴って様々な問題が想定できる。その一つが生殖だが、思えば現状では世界人口が急増しており、むしろそこに歯止めがかかる要素は歓迎すべきだろう。仮に子どもを欲しいとしても、性欲についてはセクサドールやVRで満たし、生殖については凍結精子などを使いつつ生理の変化などと合わせ、より確実に妊娠・出産へと繋げるようにすればよいのである(あくまでこれまで通りの生殖行為が正しいと主張する人々もいるだろうが、そういう「原理主義者」たちは、それにそぐわない他者の行為を否定・弾圧しない限りは、好きなようにさせておけばよい)。
その他、これによってセックスワークのパイ(生身のセックス相手を買いたい人の数)が縮小すると、需給の関係から価格の下落が生じてセーフティネットとして機能しなくなる可能性はある。そこの点については一考の余地があるだろう。
また、そもそも他者からの承認欲求とも関係しているから、そう簡単にニーズの移行は生じないのではないか?という見方もできる(実際、童貞云々というのが単に性欲の問題ではなく、承認欲求と絡んでいるからメンドクサイ、という話は「おそ松さん」がらみの「DT松の謎」やインセルに関する話で書いた)。果たしてプログラミングによるVRやセクサドールは承認欲求を満たせるか、という話だ(ちなみにこれは性愛に関するものだけでなく、国や社会が衰退している時に「伝統」とやらにしがみつくのも類似の傾向である)。
しかし、全世界的に観察されるようになっている最近の分断とノイズ排除傾向(見たいものしか見ない)を思えば、複雑な他者を理解したり共生していく悦びよりも、自己に都合よくカスタマイズされたものの方を選ぶ人間は増えていくのではないか、というように思える。この見立てが正しいなら、むしろVRやセクサドールは性的関係から退却した人間たちのむしろ心の拠り所となり、社会の安定化をもたらす可能性もある。
以上のように様々な変化の可能性とリスク・メリットを指摘しうるが、今回は「未知との遭遇、あるいは貧すれば鈍する」で取り上げた落合陽一と宮台真司の対談動画を再度掲載しつつ、稿を終えたい。
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