未知との遭遇、あるいは貧すれば鈍する

2019-04-12 12:39:00 | 生活

 

 

この落合陽一と宮台真司の対談を聞きながら、元旦にアップした「自由意思でAIの『奴隷』になっチャイナよ!」なんて記事を思い出した。

 

限られた時間の対談のためだろう、「ギブスン的」とか様々なタームが連発するので初見で内容がつかみづらい人もいるかもしれないが、要するにプログラミングされたものと異なる、偶然性や越境に誘惑・享楽を感じるのが人間的なのではないか、という話である。

 

思えばこのブログでは越境と偶然性に関する記事を大量に書いてきた。その例としては12世紀ルネサンスの話「私を縛る『私』という名の檻」「もはや『ねるねる的想像力』しかありえない」などを挙げることができるが、そもそも、分量を考えればゲームとか宗教とか本の感想とかを分けた方が便利にもかかわらず、「あえて」整理してこなかったこのブログ自体が、(多少なりとも)越境的な構成を意識したものである(まあその最たるものが「フラグメント」なわけだが。ちなみ最近ハマっている、『BEASTARS』もまさに越境的[かつ身体性に立脚した]作品の一つと言えるだろう)。

 

それはある意味、とても面倒くさいものである。まあだからこそ、一頃話題になった、「キャラ的人間関係」というのが好まれたりするんだろう。ある領域から出ないことを不文律として共有することにより、不透明性≒恐怖をお互いに感じずに済む、というわけだ(島宇宙化の際に話せばいいのにと思ったこととして、ある程度時代を遡ると「野球中継」とか色々な人と共通で話題にできるもの=共通前提があった。しかし今ではコンテンツが多様化してそんなものは期待できず、あるとすれば刹那のニュースくらいのものだ。このような状況で人は共有できるものが極小なので、その枠から越境して新しい要素に触れたり取り入れたりするのではなく、むしろ自陣に引きこもって相手を浸食しないようにすることで窮々としているわけだ。実に勿体ないことである・・・というのの反例として北海道やスープカレーの話をしようと思ったが、これはまた別の機会に)。

 

え?なんかあんましピンと来ない??じゃあ例えばこんなんどうでしょうか。本屋とamazon、雑誌とネットニュース、旅とツアー、ハンチョウのセンサーとぐるなび・・・まあこの対立を極端に言えば、後者はデータの「奴隷」ってことである。もうちょい正確に言うと、前者の方が「自分でゼロから選択してる」・「直感で選んでるから正しい」とか特権化するのはおかしい。そもそも前者は時間に余裕がないと無理だし、経験則がないと失敗も多いからだ(それでもOKというためには金銭的余裕が必要)。かと言って、後者のやり方で「全部データで示されてるし、それで快適なようになってるから別にいいじゃん」と順応しきるのは、もはや自動機械と何が違うのか・・・って話である。

 

というわけで、この対談で話題となっている「ノイズを排除したシステム化とそれに最適化する人々」という構図は、少なくとも日本においては、実はその外に出る余裕のなさ(もちろんコンテンツの豊富さってのもあるけど)と表裏一体であることも重要だと思う。まあこの辺は、機械による生産性の向上で労働時間が短くなり時間的余裕が人々にできた際、どれだけ越境しようとするのか、それともノイズの排除された眉の中で嗜癖的行為を前より長く繰り返すだけなのかで見えてくるだろう(この対談でも出てくるように、皆が一斉にそうなるのじゃなくて、人によってグラデーションが生じると思うが)。まあ今の日本社会のように極端な自己責任論とリスクヘッジ的思考が支配し、かつ経済がシュリンクしているような環境では、後者のような人間が量産されるのではないかな、と書きつつこの稿を終えることとしたい。


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