goo blog サービス終了のお知らせ 

「是々非々」と「どっちもどっち」は似て非なるもの:あるいは後者の立場に引き寄せられてしまう要因について

2025-05-18 16:48:38 | 生活

 

 

 

 

 

 

 

「是々非々」というのは、それぞれの良い点・悪い点を正しく抽出・評価するということで、その割合は1:9であることもあれば、8:2であることもあるし、4.5:5.5ということもあり様々だ。だから例えば、「基本的にAの立場が正しいと考えるが、この部分とこの部分だけはBに分があると思う」といった評価の「軽重」または「傾斜」があっても、ことさら驚くようなことではない(わかりやすい例で言えば、ナチスドイツが生まれた社会的背景は様々な要素を指摘できるが、そのことは彼・彼女らの蛮行を正当化することにはならない。あるいは停戦協議で話題となっているウクライナ戦争などについても同様のことが言える)。

 

一方で「どっちもどっち」というのは、双方に問題があるとしながら、ニュアンス的には「五分五分」というものに近い。で、五分五分なのだから、いかにも不偏不党で偏りがない=公平性がある・客観的に見れているように思われるかもしれないが、その中身は「中立という名の思考停止」であるケースがしばしば見られる。その要因は、どちらにも瑕疵があることを指摘し(そこで瑕疵の軽重はさほど問題視されない)、どちらの側にも自分は傾かないと宣言してしまえば、あとは「中立というポジションでの高みの見物」ができ、それ以上考える必要がないからであろう。

 

しかし実際のところは、双方に問題を抽出できてたしてもそれがイーブンであるとは全く限らないわけで、例えて言うなら、それは車同士の接触事故に際し、片や信号無視、片や無免許であったとして、過失割合が5:5になる訳ではないようなものである。それにもかかわらず、様々な情報が出てくると、その真偽や軽重を吟味して割合を判定するのには大きな思考的負荷がかかるため、「ああはいはい、要するに双方に問題があったってことですね」と「どっちもどっち」のポジションを取り、そこに安住することを選択するわけだ(あるいは旧日本軍で見られた両論併記という玉虫色の対応などもこれに類似する要素がありそうだ。まあこれには「全会一致という病」、あるいは「和を以て尊しとなす、の欺瞞的表出」の方がどちらかと言えば強く影響しているように思われるので、これはこれで別の機会に述べたい)。

 

そしてこような傾向が深刻化すると次のような状態にまで到る。すなわち、事件が起こった時に「被害者の落ち度」というものにフォーカスすることで、結果的に二次被害を引き起こしてしまうような行動である(そしてそれは、被害者の救済や加害者への抑止を妨げるため、次なる事件の防止にむしろ障害となる点で、むしろしばしば社会的害悪となる)。もちろん、「被害者というものにはいかなる瑕疵もなく、いかなる批判はもちろん吟味の余地もない」などと言うつもりはない。そうではなく、被害者の言行に問題があって、それが事件の大きな要素となっているのならば、それを冷静に指摘した上で、次なる事案を防ぐための社会的教訓とするような語り方をすべきであり、そのような発想と振る舞いをできるのが、社会性や公共性というものだろう。

 

というわけで、今回は「どっちもどっち論」という思考の罠になぜハマってしまうのか、ということについて述べてみた。「中立」というのはいかにも正しそうな響きを持っているが、それはあくまで各々の主張やその瑕疵を正確に分析・評価しようとする点で正しいのであって、何事も五分五分であると考えるような発想は、むしろ要素の分析・評価を放棄した、ただの思考停止とその正当化に過ぎない。

 

そのような思考的閉塞に陥ることなく常に「是々非々」の発想を持っておくのが必要であること、そしてそのような判定が難しい場合にはその認識を素直に表明し、沈黙という選択を戦略的に行うのもしばしば賢明であることを述べつつ、この稿を終えたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「この程度」のことすらまと... | トップ | 天狗党関連の史跡を訪ねんと... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

生活」カテゴリの最新記事